第8話
蓮見中学の最寄駅から電車で三十分ほど離れた場所に大型ショッピングモールがある。
今週の日曜日は僕と近江と泉の三人で買い物に行くことになっていた。
当日は生憎の雨予報で近江から雨天決行の連絡がなければダラダラと家で寝ていたい気分だった。
朝に店の品出しを手伝ってから十一時ごろに支度を始めて、ビニール傘を手に十二時発の電車に乗り込んだ。電車の中はがらんとして乗客は僕一人だけだった。一番端の席に座って店から持ち出したスルメイカを噛んだ。
一つ駅を通り過ぎた頃、蓮見岬の教会が見えた。雨が降りかかる教会はドラキュラ伯爵の居城のようにも見えた。
それからしばらくして蓮見中学前で近江と泉が乗り込んできた。
走行音しかなかった車内に人の声が反響する。
「まっちゃん! 俺は西高受けるぜ」
乗り込んできて早々に近江は僕の目の前で言う。
「本当に馬鹿なことばっかり言って……」
泉は僕の隣の席に腰掛けて言った。
僕を挟み込むように近江もシートに腰掛ける。
「何の話?」
「亮太が西校受けるって言い出して」
「おう!」
西高はこの辺りの公立高校の中では最も偏差値の高い高校だった。体力しか取り柄のない近江には確かに難しいかもしれない。
「だってよぉ。泉もまっちゃんも西高志望だろう? それなら俺も一緒のとこ行かなきゃだめじゃね?」
泉の成績は学年でもかなり上位だが、近江は中間よりも少し下くらいの成績だったはず。西高に進学できるのは例年だいたいテストの順位で見れば上位二十名程度とすると近江の成績ではかなり厳しい。
「ハルはまあ勉強できるくらいしか取り柄がないからいいとこ行かなきゃダメだから。わたしは、まだ考え中だけど……」
「そうなのか? でも、まっちゃんが行くなら行きてぇよ。やっぱ西高だわ」
近江は笑みを浮かべて言い放つ。
しかし、泉はむっとして眉根を寄せている。
「勉強以外も取り柄あるし……」
僕が言うと膨れっ面の泉が鼻で笑って、
「何があるの?」
と言った。
「そりゃ、釣りには自信がある。包丁とかも研げる」
「ふっ、全部地味よね」
泉が吹き出した。
「いやいや、まっちゃんはすげぇよ。将来は研究者か学者だぜきっと!」
近江だけが一人うんうん頷いていた。
電車の中で近江は終始笑っていたが、泉は窓の向こうをぼんやりと眺めていることが多かった。心なしかいつもより元気がないように見えた。
それから電車に揺られて気づいたときにはショッピングモールの最寄り駅に着いていた。
空は相変わらずの雨模様で勢いは強まるばかりだった。
白いビニール傘を開いて駅を出ると目の前にバス停がある。休日だというのにバス停に人の姿は全くなかった。
灰色に煙る雨の街、僕と近江と泉以外誰もいないのではないかと思えるほど静かな日曜日だった
「明日も雨だと。やだなあ」
近江がケータイを見ながら言った。
「明日体育だから、僕としては雨のほうがありがたいけど」
「えー、明日プールだぜぇ。絶対やりたいじゃん! 泳ぎたいじゃん!」
「あ、わたしはプール好きだから亮太に一票かな。それにしても亮太とハルって性格とか正反対よねえ」
泉は笑みを浮かべて僕らの顔を交互に見た。
近江が時刻表を見ている間に橙色のバスが目の前で停車した。
紺色のシートが並ぶ車内には運転手以外誰も乗っていなかった。
僕たちは一番後ろの席に横並びに座って見慣れない街の景色を眺めた。
「そうそう、夏休み海に行くって話だけどどんな感じの予定にする?」
バスの屋根に雨が当たる音と泉の声だけが車内に響いた。
「決めてねえよ。まっちゃんどうする?」
近江は何も考えていなかったのか僕に丸投げしてくる。
「やっぱり、白津海岸辺りがいいんじゃない? まあ、僕は釣りがしたいけどね」
「ハルは釣りばっかりね。でもそれ水着いらなくなるから却下」
「好きなんだから別いいだろ」
「いや、釣りもありじゃねぇか?」
近江が真剣な表情で言う。
「まっちゃん、船釣りしたいって言ってたしよ。夏休みに行くのはありだな!」
「ちょっと、水着はどうするのよ!」
「どっちも行こうぜ! そっちのがいいや」
近江がどんどん話を進めていく。そのせいで泉の顔が歪んでいく。
僕は黙っていたけど、内心かなり喜んでいた。
「んじゃ、決まりだな!」
泉は渋々それに頷いた。
三人とも夏休みに予定がないのはいつものことだった。この中の誰もクラブに所属していなかった。僕は人付き合いが苦手だったから中学に入学してもわざわざクラブに所属する気はなかった。ただ、近江や泉がクラブに入らなかったのは意外だった。
近江は学年で一、二を争うほど運動神経が良い。泉も運動はよくできる。背も高くバスケットボールかバレーボールでもやればきっといい成績を残したのではないかと思う。
ショッピングモール前のバス専用のロータリーで僕たちは降車した。雨も強くなっていたのですぐにショッピンモールの入り口に向かった。
大きな格子状の屋根には透明なガラスが嵌め込まれていて灰色の雲がよく見えた。ショッピングモールの入り口付近には木造りのハワイアンなカフェテラスがあった。テラス席の焦げ茶色のテーブルや椅子が雨に濡れてますます暗く見えた。店内には数人の客がいたけど、表情までは見えない。
ショッピングモール内でも人はまばらだった。モール内には巨大なフードコートがあって前に父と来たときは人でごった返していた。でも今日はほとんどが空席で閑古鳥が鳴いていた。
僕はフードコートで醤油ラーメンを頼んで近江と泉はハンバーガーを頼んだ。三人揃って一番端のテーブル席で水を飲みながらブザーが鳴るのを待っていた。
フードコートの中は床や壁が黄色に統一されていて明るい。しかし、空席が多いと逆にその色が物悲しさを際立たせているように思えた。
泉は呆然とテーブルを見つめていた。普段見ないような深刻な表情だ。
「どうかした?」
僕が声を掛けると泉は顔を上げて、首を横に振った。
「ううん、何でもない。ぼーっとしちゃった。それにしても今日、本当に人少ないね」
泉はすぐに話題を変える。
「結構な雨だからなあ」
近江は背もたれにもたれかかり脱力しきっていた。
「雨でもいつもはもっといるように思うけど」
僕が言うと近江も辺りを見回す。
「まあ、あれだよなぁ。夏休み前だから出かける人も少ないんじゃねえか?」
近江は呑気に天井を見ながら鼻歌を歌った。
三人ほぼ同時にブザーが鳴って、注文したものを取りに行った。
僕はフードコートの入り口付近のラーメン屋に向かった。その時入り口のガラス戸の向こうで見知らぬ人がこちらを見ていた。年は三十近いだろうか。無精髭が顔の魔を理を覆っている。目の下には深い隈があって、服装はみすぼらしい。よれた白いシャツに色褪せたジーンズを履いていた。じっとこちらを見る姿が不気味で僕はすぐに目を逸らした。
席に戻って二人にその事を伝えたけど、ほとんど反応せずに別の話に夢中だった。
「水着売ってる店って、何階にあったっけ?」
近江はハンバーガーに齧りついて口の中をモゴモゴさせながら言う。
「二階の東側にあったはず」
泉はポテトを一つ摘んで言った。
それからしばらく黙々と食事を進めていると唐突に泉が話し始めた。
「そういえばね。夏になると蛙が鳴くんだって」
泉は呆然と入口の方を見ていた。
「なんだいきなり? そりゃ、夏には蛙が鳴くぜ。田んぼとかやけにうるさいしな」
「いや、本物の蛙じゃなくて、なんて言ったかな? シラズ蛙?」
「ああ、昔話のほうか」
近江が頷いた。
この町には昔からよく使われる言葉がある。それが「蛙」という言葉。夜の海は「蛙に会うから危ない」とか、思い悩むと「蛙に憑かれる」とか言われることがある。子どもの頃から使われていたから僕は疑問も抱かずに聞いていたのだけど、その言葉が何を指すのかを最近になって知った。
それがシラズ蛙という言い伝えだった。「シラズ」とは誰も知らない「不知」つまり「知らず」を意味しているとも、頭が白い蛙という意味で「白頭」とも言われていて由来は諸説ある。
「泉がそんな話するの珍しいね」
普段、泉は迷信や都市伝説の類には興味を示さないから不思議に思った。
「教会の神父様が教えてくれたの。夏になるとそのシラズ蛙? っていうのが鳴き始めるんだって、それでその蛙が鳴くと人が死ぬって……」
ポテトを口に入れて泉は僕らの顔を交互に見た。
「な、何だよ急に! ホラーかよ! 夏だから怪談したくなっちゃったのかよ」
近江は身を引いて言った。
「人が死ぬってすごく物騒な話だけど」
僕が言うと泉が吹き出した。
「何その反応、怖がってるの? 別に怪談ってわけじゃないけど不思議な話だなって思ってさ」
「そりゃ、変な話ではあるけど」
僕はラーメンを啜った。
「シラズ蛙ってでも、あれだろ。ほら、まっちゃん家の近くにある病院。山内病院だっけか?」
「え、ああ、うん、山のほうに病院はあるけど、それがどうしたの?」
「あそこって結構有名な精神病院じゃん。なんか病人を鉄格子とかで監禁してたとか何とか。閉鎖病棟っていうんだっけか? ばあちゃんから聞いた話なんだが、昔そこから逃げ出してきた患者が言ってたらしいんだ。いたる所に白い蛙が見えるってさ。そん時からシラズ蛙って言葉が騒がれるようになったらしいぜ」
近江はそれから再びハンバーガーに齧りついた。
「つまり、精神病を患った人の幻覚かもしれないってこと?」
「うん、まあ、そうなんじゃねえかな。ばあちゃんが言うには」
「でも、神父様から聞いた話だともっと昔からあるお話だって」
三人して顔を突き合わせ考え込んでいた。
この「シラズ蛙」の話にはいくつかバリエーションがある。人によって話す内容もコロコロと変わる。「シラズ蛙」いう言葉自体は有名なのに話としては全然定まっていない。
「それよりもさ。さっきの病院の話なんだけどよ。うちの学校にもあそこに通ってる奴がいるって聞いたことない?」
「あ、それ私も聞いたことある! でも、あそこ結構重い症状の人が行くところでしょ? うちの学校にそんな人いるとは思えないけど」
僕はそんな噂があることを初めて知った。
「そんな噂があるんだ?」
「そうなんだよな。あんまりいい噂じゃないから気になってよぉ」
「でも、あの辺り住んでるのなんかハルくらいじゃない? 何か知ってないの?」
「いや知らないって、大体、僕以外に近所で蓮見中学に通ってる人なんて見たこと……あ」
「何? 心当たりあるの?」
泉がポテトの最後の一本を手に取って言う。
「いや、特にはないけど」
海に飛び込んだ日、店先で小金井の姿を見たのを思い出したが、それが今の噂と関係があるとは思えなかった。
「ふーん、じゃあ、もしかしてあれかもね。あんな遠くから通ってるハルが勘違いされてるのかもね」
泉は笑顔で言う。確かにそれが一番有力な気がする。しかし、何か他意を感じる。
「だとしたら嫌な勘違いだ」
泉はハンバーガーの包み紙を折り畳んでトレイに乗せた。近江は対照的にグシャグシャに包み紙を丸めてトレイに乗せる。僕はその様子を見ながら最後の麺を啜った。
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