6節:偽物の未来
────どれほど眠っていたのだろうか。
瞼を開けると目の前は血で赤く染まった硬い病院の床。
もう夏だというのに、周りはやけに寒く、とてもじゃないけど寝心地は良くなかった。
私は右手でうつ伏せになってしまっていた体を起こそうとする。
だけど、なぜかうまくいかない。べっとり染みついてしまった自分の血の匂いでむせ返りそうになる。
そうだ、両手を使ってないからだ。
私は左手の方に意識を向けて力を籠める。
その左手には────
硬く、冷たく、離れずに。
動かなくなったおねえちゃんの右手が私の左手を掴んでいた。
「────あ……」
そのせいで私の左手は、赤くなっていて、しびれ切っていた。
どうしてこの一瞬だけでも忘れてしまっていたんだろう。
よく話しかけてくれた。自分からはあまり笑ってくれなかったけど、私が笑えばいっしょに笑ってくれた。
私と違って腕が1本しか無いのに、心細いだろうに、構わず私と手をつないでくれた。
今夜初めて知ったけど右眼が無かった。
なのにいつも私のことを見てくれた。
ずっと
ずっと、支えになりたいなって、思ってた。
おねえちゃんの
「なんで起きてくれないのさ……」
私の左手は硬くて冷たい石に握りしめられているようで。
うんともすんとも言ってくれない。
ずっと待っても、何も変わらない。
「ねぇ………………おねがいだから起きてよ……逃げ遅れちゃうよ」
私の左手だって、いつもならもっと優しく握ってくれてたのに。
話しかけたら必ず答えてくれてたじゃん。
なんで今になって無視するの。
周りのことは無視してでも自分が最優先だって、おねえちゃんが言ったくせに。
早くここから逃げないといけないんでしょ。
だから………早く起きてよ。
────左手が痛いよ。
ふやけた視界に光がささる。
床の非常灯が点滅していて、そこから眼に入る光が痛かった。
ぱちぱち。ぱちぱち。
点いたり消えたりの感覚は少しずつ、長くなっている。
「どうして私を一人ぼっちにしたの………おねえちゃん」
おねえちゃんに唯一残った硬く冷たい左手を離せないまま時間が経つ。
次第に感覚も無くなっていく。
ずっと底を見ていると、血だまりに映った私の泣き顔が見えた。
その顔は今目の前で死んだおねえちゃんと同じ顔をしていた。
「……おねえちゃん?」
縋るように、目の前の血だまりに向かって顔を近づける。
何度見ても私の顔は眼の前のおねえちゃんとそっくりで、まるで私がおねえちゃんになり変わってしまったかのようだった。
何もすることが無いから顔を上げることができないまま座り込む。
「────いつまでそうしている気?」
ため息といっしょに遠くから声が聞こえた。
声の方向を凝視すると、少ない照明に照らされている大人の女の人がいた。
全身真っ赤な人だった。
赤い革ジャンに赤いレザーパンツ。そして腰まで垂れている赤い髪
ここまで散々見てきた血の赤よりも明るく、眩しい、ガーベラのような赤。
この赤い世界で、血に染まらない赤で在り続けている。
そんな人が私の前まで歩いてきた。
「……厳しいことを言えば、無能な人間にとって祈る事はその一瞬、努力を放棄することよ」
女の人は私達のところに腰を下ろし、繋がれた私とおねえちゃんの手に触れる。
「……そういう意味では、この子は最期までがんばったのね」
そして、私達の手をやさしくほどいた。
「あ………あの、どちらさまですか?」
「私はここに忘れ物を探しに来た、ただの魔女」
敵か味方か。
それが重要だった。
私はおねえちゃんの体を抱きしめ思わず警戒を強める。
それを見て、女の人は少しだけ悲しそうに笑った。
「安心して。私はここで殺し合いに興じるような人間じゃないから」
「……どう信用すればいいんですか」
「どう、か。うーん、私的には善意でここまで来たんだけどな」
魔女を名乗った女の人は顎に手を当ててなにやらぶつぶつ言いながら悩んでいる。
こんな非常事態に、随分とのんきな態度だった。
そして、悩み終わったのか、手のひらをぽんと叩く。
「そうだ、手っ取り早くここから出してあげる」
言うが早いか女の人はどこか手近な病室に入って行った。
そして、そのすぐ後に強烈な爆激音が響いた。
静まり返った病院に響き渡る轟音。
何事かと思い、部屋の中を覗くと、
「こっちこっち。案内するよ」
部屋の壁には丸い穴が開いていて、中庭方面の外が丸見えだった。
その前で女の人は私を手招きしている。
「どこに案内するんですか?」
「決まってるでしょ、外の世界までの道。貴女が待ち望んでたはずの出口よ」
*
とにかく疲れていた私は、おねえちゃんの体を抱えてその女の人についていくことにした。
女の人にはおねえちゃんの体を持っていくことについて心配されたが、関係ない。
今の私には何も無いのに、おねえちゃんの遺体すら無くなるなんて耐えきれなかった。
正直、ここまでの出来事だけで吐きそうになるくらい頭はパンクしていた。
このまま、死んだって別にかまわなかった。
結局そのまま黙ってついていくと、女の人は私たちの体を浮かせて中庭にそのまま降ろしてくれた。
魔女を名乗る女の人は、魔女と名乗るだけあって魔術を使えるようだった。
どうやらこの人は本当に魔女で、ただ案内がしたいだけらしい。
それから数分。
いつの間にか静かになっていた病院を、会話も無しにしばらく歩いた。
どうしてこんなに静かなのか。私が首をかしげていたら魔女はなんでもないように言ってのけた。
「既にあらかた済ませておいたから」
周囲には倒れこんでいる顔が似通っている患者に職員や警備員。
ほとんどの人は血にまみれていたが、少ない何人かはまだ息があるようだった。
そんな光景をいくつか通り過ぎて大きな外への扉の前まで来た。
かたく閉ざされていた扉は派手に破壊されていて、これはどうしたのかと聞いてみると、
「えへへ、ちょっとだけ派手にやっちゃった」
こんな状況でのんきに照れ笑いを浮かべて答えてくれた。
気の抜ける態度のまま魔女は出口へと開けた道をそのまま前へ歩いていく。
それから、私はおねえちゃんと二人で出るはずだった外に出た。
病院内とは違う、どこまでも続く広い世界。
せっかくの外だというのに、何の感慨も
黒く澄んだ空。入口からずっと先にある門に向かって敷かれた石畳。
ここは森の中なのだろう。周りは雑木林で埋め尽くされていて街の明かりは感じられない。
およそ何も見えない世界。
抱えているおねえちゃんの冷たさだけが今の私の全て。
────
「すみかはさ、あそこで死ぬつもりだったでしょ」
出口の門までの道の途中。
魔女は私の本名と思いを言い当てた。
顔は見えない。声色も平坦。
私は、できる限り平静を装って答える。
「別に、死ぬつもりなんてありませんよ」
「ふーん。ま、それもそうかもね」
どうでもいいのか、別の答えに行きついたのか。
意味の分からない返答をしたのち、門の前にたどり着く。
錆のついた、古めかしい鉄門。
魔女はそれを容易に開ける。
周囲に響き渡る耳をつんざく金属音と共に道が開かれた。
「ここを通ればこの病院から出ることは出来るわ」
「……まるでそれ以外は出来ない、なんて言い方ですね」
「その通り」
少しだけ意地らしい笑みを浮かべた魔女は私の首根っこを掴み、そのまま私を門の外へと持っていく。
いきなりのことで混乱したまま魔女に文句の一つでも言ってやろうと思い、口を開けた瞬間。
周囲の山の静謐さと青臭い空気から、
《吸えば体内が傷つく極寒の大地に変わっていた》。
「あれ────────なん、で」
その光景の一大変化に私が困惑して口をぱくぱくした瞬間、私は再度病院側に戻された。
また門の内側に戻る。
周囲の光景からは先ほどの黒い満点の星空と白い大地の気配など微塵もなく、最初に見た風景のまま。
不思議と私の体にも何も変化はなかった。
「ね? わかったでしょ。ここからは簡単には出られないって」
「いったい、これってなんなんですか!? わけわかんないですよ!」
体に異常こそ無かったものの、先ほどの衝撃が体から抜けない。
どうして?
さっきまでの世界は幻……?
「強いて言うなら幻なのはこっちのほうよ」
魔女は私の体を降ろした後、目の前の門の奥に右手を突っ込んだ。
突っ込まれた右手は、門を境にして真っ二つに切れていた。
いや、見えなくなっていた。
「夜光精神病院がどこにあるか。外を見せられず、外の世界を知らない貴女達には分からない事よね」
境界線から魔女は右手をこちら側に戻す。
戻された手の皮膚は凍り付いて傷ついていた。
「ここは世界から隠された絶対零度の大地のどこか。つまり、南極よ」
凍傷の右手は大したこと無いかのように治し、魔女は私に向き直る。
「どこから話をするべきなのかね……まぁここを出ることに関しては安心していいわ。私の力ならどうとでもなるから」
魔女はそういって再度右手を突っ込みこちらに戻して、今度は一切傷ついていない右手を見せつけた。
「────じゃあ、私は……ここから出られるんですか?」
外に出れる。
ここから外には何があるか。それについて必死に考える。
まず、家族。
そして、学校の友達。
確か借りてたゲームがあったはずで……というかペットもいたはず。しかも結構おじいちゃんの。たぶん、早くいかないともう会えなくなっちゃう。
他にいろいろあったはずで……。
つまり、ここから出れば平和な世界で。
会いたかった人達に会える。
だけど。
ようやく見えた希望に、私の心は全く揺れ動かなかった。
「……そりゃそうよね。じゃあけじめをつける方向にしよっか」
魔女はそんな私の様子を見かねたのか、門を後にして再度病院に戻っていった。
「あの、ここから出なくていいんですか?」
「それができるならそっちの方が良かったんだけどね」
何か覚悟したような顔で魔女はつぶやいた。
そして、私の方を振り返る。
「貴女にはまだ早いってことが分かった。だから、まずはここから出るのに必要なことを済ませる。今言った通り、けじめをつけさせてあげる」
*
もう一度怖い世界に戻る。
魔女が私の前を歩き、私がおねえちゃん抱きながらその後ろについていく。
その様子を見て魔女は私に尋ねた。
「ねぇ、すみか。その子、別に門の前で降ろしてきても良かったんじゃないの?」
「嫌です。あんな寒いところにおねえちゃんを置いてけないです」
「……そ。貴女がそれでいいなら文句は言わない」
少しの間だけ会話が途切れる。
病院内部は相変わらず暗く、匂いも酷く、正直一人だったら歩けないほど怖かった。
どこを見渡してもやはり私と同じ顔を持った人間ばかり。他の種類の人たちもいたが、やはり結果は同じだった。
こうしてみると職員の人たちがこの場では異質のように思えた。
「そういえば、その……魔女さん」
「なに?」
ちょうど4号棟から3号棟への道がある扉に差し掛かった頃。
色々知っていそうな魔女に気になっていたことを訊くことにした。
「ここっていったいなんなんですか? ただの病院じゃないのは分かりましたけど……どうしておねえちゃんと同じ顔の人間がこんなにいるんですか?」
「当然の疑問ね。貴女が正しく受け止められるか分からないけど、順を追ってその質問に答えるわ」
4号棟を出て、間をつなぐ渡り廊下を抜けて、3号棟にたどり着く。
そこも4号棟とおおむね同じ惨状だった。
ただ違うのは、そこで見た患者の顔は新しい顔ばかりだった。
私達を襲った桃色髪の女の子と同じ種類の顔もあった。
「端的に言えば研究所。それも人生についての実験の為のね」
「じっけん……?」
「そ。実験」
平然とおぞましい現実が示された。
「同じ人間の赤ちゃんから、100歳までを同じ場所に閉じ込めたらどうなるのかっていう、取るに足らない子供みたいな思い付きよ……さながら、人生の博物館ね」
皮肉気に答えを言う。
「貴女達被験者はずっと同じ棟で、変な被り物を着けての生活を強いられていたから知らないでしょうけど、ここは一つの棟に2種類の患者がいるの」
「2種類って……その言い方じゃまるで、見分けのつかない動物みたいじゃないですか」
「見分けのつかない動物じゃなくて、同じ人間なのよ。4号棟なら貴女ともう一人、白い髪の男ね」
ちょうどここでもおおむね2種類の顔。
白い髪の男と、桃色髪の女。
そして、おねえちゃんと同じ種類もいれば、他の人のもちらほらとある。
棟を出て殺し合っていたのだろうか。
「何人も見たでしょ? 自分やその子と同じ顔を持った多種多様な年齢の人たち。それらはね、みんな貴女が抱えている夏咲すみかや他の数人の人間を原型にして作られたクローンなのよ」
クローン。
映画とか漫画でしか聞かないはずの突拍子の無い言葉に脳が理解を拒んだ。
だって、それはありえないじゃないか。
それじゃ、まるで私達は────本当に生きている人間なのか、分からなくなってくる。
「……ごめんなさい。話の流れがよく理解できないです。というか、信じたくないです」
まるで、私の人生もしくは、存在意義が壊されて行くような感覚。
何のために生き残ったのか。
おねえちゃんが死んだのは。
全部────無駄みたいな言い方じゃないか。
「だって、私にはちゃんと記憶があるんですよ?」
「もしも、自分に在るのが記憶だけだったら?」
「……………………なんですか、それ」
記憶があるなら、それでいいんじゃないのか。
「気持ちは分かるけどね。受け止めなきゃ外の世界で生きていけないわよ」
混乱している私をよそに病院内を進んでいく。
そして、4号棟にはなかった地下への道を通ることになった。
当然頑丈な扉に阻まれていて、魔女はそれを容易く壊す。
地下は上よりかはきれいで、暗い廊下を歩いていく。
やがてたどり着いた扉の前で魔女は私にこう言った。
「ここから先の物を見せる前に────少し、人生についての話をしよっか」
やけに厳重な扉の前で立ち話をする。
「すみかはさ、他人のことをよく知りたいって思ったことはある?」
「……知りたいって、何考えてるのかなくらいは考えたことはありますけど」
「そうそう。人と少しでも関わるなら避けては通れない思考方法。道徳の授業がしたいわけじゃ無いけど……要は思いやりってことね」
ここではそもそも話す必要とか仲良くなることとかほとんどない。
だから、そうした思いやりはおねえちゃんと話して得た経験がほとんどだった。
「その人の考えていることを知るならその人のことを深堀する。どういう家族構成か、何を見て何に感化されたのか。どんなゲームをしてるのか、とかね。つまるところ、人と人との豊かな会話って言うのはそうした相手の人生を無意識にでも知ろうとするところから始まる。逆に言えば、何も見えてこない私は一切信用できないでしょ?」
魔女は私に向かってほほ笑む。
この空間において場違いな笑顔ではあったけど、私を槍で突き刺した女の子と違って暖かいものだと感じた。
「その瞬間、その年齢の人と話せるのはその時だけ。そういう個々人の舞台背景バックボーンを人生というなら、ここはその舞台背景の寄せ集め。本来は一人の人間にとって単一であるはずの人生が一堂に会していて、どこか全然違う方向へ無数に散会していく可能性が、貴女たちクローンによって生まれている。つまり、ここは特定の誰かを深く知り、深く解明するための場所なのよ」
なんとなくだけ、分かった。
いや、正直頭は混乱してばかりだった。
今の話がここから先とどう関係してるというのだろうか。
「ここで質問。その人と話したい。その人の才能が欲しい。その人に会いたい。その人を生き返らせたい────────なら、どうすればいいと思う?」
「………それが、クローンってことですか?」
「そういうこと。そして、ここがその実験場なら……作る場所もここにあるでしょ?」
扉が開かれて、見えなかった世界が眼に飛び込む。
そこには、大量の私達の似た者同士が琥珀色の液体に漬かっていた。
「ここは工場兼、予備のクローンの倉庫ってところね」
「………これ全部生きてるんですか」
「この状態ならまだ稼働はしてないわ。ここから出して仮想の記憶を埋め込み、そしてここの人間に何らかの要因で空きが出来たら補充する」
奥に入り込み、魔女は私……一つほど上の……を指さして話す。
「仮想の記憶って言うのは、貴女の場合ならおねえちゃんの12年間の中で経験してきた記憶を埋め込むの」
私の場合は10歳だから、10歳の時のおねえちゃんの記憶が頭の中にあるってことか。
それが本当なら。
「つまり貴女の記憶は全部貰い物。ついでに言えば、情報としての記憶しか無いから経験も無い。スポーツをやってたんならたぶん技術は継承されてないわね」
「………………ほんとなんですか?」
「残念ながらね。ちなみに、この子や、オリジナル以上に歳を重ねていた個体のように記憶が存在しない場合は、あくまで再現としての記憶を埋め込まれるはず。つまり、職員の方々はもしこの年まで生きていたらっていう想定ってわけね」
じゃあ、私は貰った物ばかりじゃないか。
自分では何も手に入れられてない。
「クローンの寿命は大体1年。職員も患者も例外なく1年で交代。だから、こうして定期的に作って入れ替えないといけない」
自分の存在意義が何も無いように感じて、すごく罪悪感で押し潰れそうになって。
魔女の説明が頭に入らなかった。
「どうして──────どうして私なんかが生き残っちゃったんですか」
「オリジナルの夏咲すみかは現実を改変する力を持っていた。貴女がこうして五体満足で、なおかつ12歳のオリジナルと同じ体で立っているのは、貴女のおねえちゃんがそう願ったからよ」
「だからっ!なんで私なんですか?!なんでおねえちゃんだけはだめだったんですか……」
気づけば、私は魔女に頭を押し付けていた。
枯れそうになるくらいに、涙が出てしまっていた。
「………なんでも叶えられる力だったけど、その力は本人の資質によるもの。きっと、生き返らせることなんてできなくて、けがを治すのも難しかった」
魔女は私の背中に手を回し、優しく受け止めた。
「だから自分という、飽きるくらいには見知った顔を想像して、貴女をその姿に変えて人生を明け渡した。………貴女が笑っている姿しか、彼女には想像できなかったのよ」
それから用は終わったのか。
地下を出て再度地上に戻る。
魔女は私に聞いた。
「すみか、ここでの生活で大事だったことを思い出してみて」
「大事だったこと……」
復唱しながら思い出す。
1年間のほとんどは楽しくなかった。
顔を隠しての1年間。
視界を狭くする得体のしれない装置に頭を乗っ取られていくような錯覚。
部屋にはあまりにも何も無くて、何も送られてこなかったから何も手に入れることができなくて。
それが嫌でせめて外の中庭に入り浸っていたんだ。
しかも毎晩嫌な夢に悩まされた。
痛い目に遭ったような、悲しい目に遭ったような。
男のお医者さんの顔を見るだけで吐いてしまったこともあったっけ。
そんな時。
右眼の調子が悪くなってきた後におねえちゃんがやってきた。
たまに患者が入れ替わることくらいはあったけど、私に話しかけてくれた人は初めてだった。
そういえば、そのちょっと前くらいに右目を誰かからもらったんだ。
誰かに優しくしてもらって、それだけのちっぽけな人生に思えた。
今も私が抱えている熱を喪った体が、そんな日常とはあまりにも対照的で。 ここまでのことが全部嘘だったんじゃないかって────心が折れそうになった。
「……大事なことを思い出して泣けるなら、それは嘘じゃない。こんな狭い定められた生活以外認められないような世界だからこそ敢えて言うなら、すみか。貴女はここの人たちの中ではとっても幸福だったのよ?」
「────────何も知らないくせに、私たちのどこが幸福だっていうんですか」
最後の一か月は楽しかった。
友達が、おねえちゃんが居たからだ。
同じことの繰り返しでも価値があるって思えた。
会いたい人がいるから生きている実感が持てた。
未来の話がたくさん浮かんだ。
過去の繰り返しが人生じゃないって思えた。
でも、こうして今。その日常が全て壊れた。
私とおねえちゃんが幸福だと魔女は言った。
そんなの、
「顔を隠して生活するっていうのはね。自分を殺し続けるってことなの。誰も本当の自分を認めてくれないし、そのまま隠し通せば自信が持てなくなる。加えて誰も外から顔という最大の個人が観測されず、眼に入る視界は全て装置越し。生の眼に写し取られるものは何も無く、まるでゲームの中を生きているかのような。そんな現実に認識されず、現実を正しく傍受できない生活。……鏡を見ないでずっと生活することに近いかな」
魔女は、冷淡に言い放つ。
「ここのクローンは何も経験できなかった。感動や下してきた選択を積み重ねることが人生なら、こうなるより前からみんな、とっくのとうに死んでたとも言える。それも自殺。飛び降りるでもなく寄り添うでもなく。独りで粛々と死んでいく完璧な自殺」
そんな魔女の言葉に、少しだけイラついた自分が居た。
「でも、私達だってお医者さんたちと話したり、日々の中で考えることとか。歳を重ねたりとかありますよ。その話が本当なら、病院そのものが大変なことになるじゃないですか」
「そうね。それだけだったら世界は大変ね。仮にパンデミックでも起こってみんなが外に出れなくなったらそれだけで社会は終わりね」
「じゃあ、私たちの問題ってなんなんですか」
「一言でいえば、決められすぎている事。すみかはさっきの質問のときさ、無意識のうちにここでの思い出を語ったでしょ?」
「……大事なことについてですよね? それがどうしたんです?」
「ここで生きていくうえで大事だったのは、規則でしょ?」
「あ……」
そうだった。
『夜光精神病院では以下の4つの禁止事項を犯さぬよう生活をしてください』
1.病室の外で生活する際は必ずこの装置を離さずにつけてください。
2.自身の生活領域を越えて、他の病棟に行かないでください。
3.他の患者の方にご自身の話をしないでください。
4.当院の外の人間と会わないでください
『もし、上記の規則が守られなければ罰則が与えられます』
『あなた達はこの装置によって監視されています』
『どうか、穏やかな生活の為にも、何卒ご理解の程よろしくお願いします』
────うんざりするほど聞かされてきた言葉を思い出した。
「ただ空っぽなだけだったら良かったんだけどね。心の問題は何も無い事よりも、余計なナニカであふれている方がずっと深刻なのよ。しかも、貴女達はそれを選べない」
そう言い放つ魔女の顔は見えなかったが、ここに来て一番悲しそうに話す。
まるで、共感しているかのように。
「この病院の運営方針は単なる実験。そして、この惨劇が引き起こされたのはその実験が悪い方向に左右したから」
長く遠回りした話の結論を魔女は口にする。
「ここで作られ仮想の記憶を植え付けられ、何も経験することは無く、過去に縛られ続けた
*
病院中を回り、魔女の話したことを理解しようと私は必死に考えた。
纏めるとここは健全な精神病院では無く、ここで起こってしまったおかしな事故により私達はまちがえた。
そして、本来実験には関与するはずの無かった
だから余計に気になった。
どうしてこうなったのか。
おねえちゃんはどうしてここに来ることになったのか。
私はなぜ無事なのか。
魔女は大まかに答えた。
「不幸な巡り合わせと、至高の才能。そして、貴女は助けられたから」
ある扉の前までたどり着いた時、魔女はその扉のドアノブに手を掛けながら言った。
そして、魔女は扉を開けた。
「で、こいつがその元凶────この研究所の創設者でもあり、貴女達を作り出すに至った思想を持った人間。貴女達がここまで苦しめられたのは間違いなくこいつのせい」
扉の先は、他の病室よりも広く様相が異なっていた。
偉い人の部屋。
そういうイメージ。
そしてその部屋の隅っこに、私と同じ顔を持った女の人が肘掛椅子に座り込んでいた。
「────ま、このざまなんだけどね。ちなみに、彼女は貴女達の主治医よ」
「………この人が…」
主治医の女は私たちの姿なんて眼に入っていないのか。
それとも動けないのか。
身動き一つせずにそこに居た。
装置を外した彼の素顔は、60くらいの白髪の女だった。
「どう? すみかが文句を言うべきやつをいつでも始末できるように固定しといたけど」
魔女は後ろの私に問う。
「……どうって、なんなんですかこれ」
「最初に言ったでしょ。けじめをつけさせてあげるって」
「けじめって、私が何をするんですか!」
正直、聞かなくても予想はついてしまった。
元凶にしなくちゃいけないことなんて一つだけ。
「復讐」
残酷な声色が部屋を支配した。
魔女は扉を閉め、私を諭す。
「すみか。北極か南極。そこで自分と瓜二つの少女が暴行実験改造凌辱殺害。その他もろもろの悪事のはけ口になっていると言われて、あなたは正気でいられる?」
「…………わ、わたしは」
「────私は無理だった。本当に情けないけど、私には耐えきることができなかった」
それはその言葉の通りに、自分と同じ存在が魔女にもいて、その人が酷い目にあわされたという事か。
それとも……自分が。
「その子のクローンはその子が持つ万能の力を作るために生み出された。その為に夏咲すみかの人生という観点からルーツを探って能力を作ろうとした。そんな私利私欲の為だけに貴女は生み出されたのよ?」
それでも何も思わないのか。
そう突きつけられている気がした。
「……そんなこと、いきなり言われたって」
人を殺すなんて。
だって、私は考えたことなんてない。
「貴女の手を汚すつもりはない。ただ、貴女が私に願ってくれさえすれば私はこいつを殺せる……そうね。どうせだし、もう一つ話をしようか」
ここまで一切見せなかった、疲れた表情を見せながら、
「白状するとね。これは私の為でもあるの」
魔女は自身の人生を語る。
初めてこの人に触れた、そんな気がした。
「私もすみかと同じ。今から20年と3か月と29日前に、私もこいつらの実験に付き合わされた。その頃は研究内容も、建物も違くて、今よりももっと巨大な施設だったんだけどね」
「魔女さんも……実験に?」
「うん。私が魔女なんて名乗る前のことだけど、ちょっとした実験に巻き込まれてさ。私がここに来たのもその時の心残りを果たす為なんだ」
どんな仕打ちを受けてきたのか。
体はおろか服にすら傷一つ付いてないこの人の体からは想像できなかったが、影を落とした緋色の瞳が全てを物語っているような気がした。
どこまでいってもこの女に、この病院に非がある。
だからこその元凶。
ここの平穏を殺した諸悪の根源。
「魔女っていうのも面倒でね。私一人で誰かを殺すのは難しいんだ。情けないけど、私は他人の願いが無ければ動けない」
魔女はそう自嘲した。
私はとてもじゃないけど笑えなかった。
「ここでけじめをつけておかないと貴女は後悔するかもしれない。復讐で未来は生まれないけど、過去の未練は断ち切ることは出来る。……その子は生き返らないけど貴女の憂いを断つことはできる」
だから、殺すべきだ。
魔女の緋色の眼はそう結論付けた。
まるで銃口を突きつけるように右手を男に向ける。
白髪の男の表情は、静かな顔のまま止まっていた。
「────────────────私は」
今だって、こんな状況じゃ無ければ何もかも投げ出して泣いてしまいたい。
お姉ちゃんが死んだことに対する理不尽を叫びたい。
騙されていたことに対する失望も、信頼していた世界が呆気なく私に牙を剝いていたことに対する恐怖も、
この世界で唯一の大事な人を喪った絶望もある。
だから、魔女の誘いに乗りたいと思う気持ちだってある。
私だけじゃ殺しにくい人を、この人が全て肩代わりしてくれるならこれほど幸運なことは無いのかもしれない。
でも
「────────────────その人を、」
────私がするべきことって。虚っぽの人生の意味は。
そんなことを考えた。
「殺さないで……くだ、さい」
歯を食いしばりながら、そして泣きながら魔女に私の願いを伝える。
「…………すみかはそれでいいの?」
上げられた右手を下げずに魔女は私に聞いた。
それに対し、私は声を出さずに頷く。
「────────なんでなの?」
魔女は女の方を見て呟く。
「……魔女さんは言いましたよね。選択を積み重ねるのが人生だって」
「……言った」
「なら、復讐とか、殺人なんて。私がするわけないです」
ここの人たちがみんな空っぽで、余計なものを無理やり詰め込まれたなら。
私は、いいと思った物だけ詰め込みたい。
きれいな────────星のような思い出だけ見ていたい。
「私は、おねえちゃんから貰ったこの体の人生最初の一歩を、血で汚すつもりはありません」
冷たくなったおねえちゃんを抱きしめて魔女に向かって宣言する。
「だから、魔女さんにも人殺しなんてしてほしくないです」
「その子をここに監禁したのも、貴女を身勝手に作り出したのもこいつなのに?」
「それは、そうなんでしょうね。でも」
私は自分の右目を指さして答える。
「………………私の右眼。手配してくれたのはその先生なんです」
「────────はぁ? で、でも。こいつが外道なのには変わらないでしょ?」
「だとしてもです」
焦点の定まっていない、まるでそこで時が止まっているような先生の顔を見る。
「私はクローンだったんですよね? なら、たぶんいくら使い捨てたってかまわなかったはずです」
地下で見つけた予備の私達を思い出す。
想像以上に作るのは簡単で、生き物としての価値なんてそれこそモルモットがいい所だろう。
稼働期間にはそもそも限りがあった。
わざわざ私だけを優先する意味なんて無い。
「でも、その人だけが私の右目のことを気にかけてくれたんです。」
私と同じ顔をしている、大分未来の私の姿をしている。右眼に眼帯を着けているその先生を見下ろす。
「………なら、私はその人を殺したいなんて思えません」
だから手を降ろすように頼む。
これ以上、同じ顔が死んでいくのなんかたくさんだ。
それに、魔女の綺麗な服が血で穢されることなんて、想像もしたくなかった。
「────あははっ。そっか……そうなのね」
乾いた笑いが閉じ切った部屋に反響する。
魔女は、まるで憑き物がとれたような顔で私に向き直った。
「……………すみかは少しだけ部屋の外に出ててくれる?」
「何をするんですか?」
私の問いかけに、向日葵のような笑顔で答える。
「安心して。ちょっと話がしたいだけだから」
*
数分後。
魔女はきれいな赤い服のまま部屋から出てきた。
中でどんな話が繰り広げられていたのか。不思議と音が聴こえなかったため分からなかった。
「…………じゃあ、こんなところからおさらばしよっか」
小さく微笑んで魔女はまた病院の出口へと歩き出した。
何を話していたのか。不思議とそんなことを訊く気にはならなかった。
*
数時間前に訪れた、錆のついた古めかしい鉄門に戻った。
「魔女さん、この後ここはどうなるんですか?」
黒幕は殺さずに、残った謎と共に立ち去る病院を見て、私は気になったことを魔女に尋ねた。
「裏世界の自治組織が来るわ。たぶんここは解体されて、ここでの陰謀は跡形も無く潰される。私達さえ何も言わなければここで生きてきた不幸な少女たちはそのまま安らかに眠りにつくでしょ」
「生きていた人たちはどうなるんですか? ほら、少しだけでもいたじゃないですか」
「私には何も。ただ、地下で言った通りどのみちもう命は長くないデザイナーベビーなわけだし、加えて外の世界で生きては行けない矛盾した存在よ。すみかと違って新しい体を貰えたわけじゃ無い。………どのみち貴女が考えることじゃないわ」
「………分かりました」
オリジナルと完全に同じであるがゆえに、個性が無く、ただ重複するだけの存在。
例えば、夏咲すみかの家に夏咲すみかという小学6年生の女の子は一人だけしか居ないし居てはいけない。
そうした事実を踏まえれば確かに、私達には過去しか無かった。
自分のオリジナルに成り替わろうなんて、それこそありえない発想だった。
「………本当に、私達には何も無かったんですね」
「全く無いって訳じゃ無かったんだろうけどね。ここが異常だったのは停滞することを許さなかったところ。精神病院としてはヤブもいいところね」
そうぼやいた魔女は腰を下ろし、私と目線を合わせる。
「貴女はこれからどうしたいの?」
本来の夏咲すみかの帰りを待つ、外の世界への出口の前で。
魔女は私に問いただす。
私はそれに対して、素直な願望を口に出す。
「────できるだけ、時間を掛けて、私が居るべきところに行きたいです」
思えば、おねえちゃん以外には初めてした年上の女性に対するわがままだったかもしれない。
そんな子供のわがままに対して、魔女は優しく頭を撫でて答えてくれた。
「………うん。そうしましょ。どうせすみかの家が見つかるまでは時間が掛かっちゃうし、ここは南極だしね。………旅に1か月掛かろうが、2か月掛かろうが。おかしくないもんね」
最後に、もう一度。
とっくのとうに暖かさなんて無くなったお姉ちゃんの体を抱きしめる。
私がここを出て、普通の世界に戻ってからすることは、お姉ちゃんのお墓を作るところからになるだろう。
私がしたいことなんてそれだけ。
そんな未来の為に、歩き出す。
「────その顔ができるなら大丈夫ね」
その言葉を最後に、私達はこの世界から脱出した。
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