袋小路の残像
森本 晃次
第1話 待ち合わせ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
中学校の頃から、
「物忘れが激しいね」
とよく言われてきたが、本人としては、
――どうしてなの? 暗記物の科目は得意なんだけど――
と、いつも思っていた安藤あすなは、確かに中学時代は、歴史を中心とした社会科の成績はよかった。
それにも関わらず、何を根拠に物忘れが激しいというのか、言われ始めた時はまったく気づかなかったが。言われ始めてから半年もしないうちに、嫌でも物忘れを意識するようになっていた。
しかし言われ始めた頃は、一人の特定の人間に言われていただけで、他の人から言われたわけではない。それなのに想像以上に意識してしまったのは、それを言った相手が自分の好きだった男の子だったからだ。
彼の名前は桜井剛。小学校の頃から結構同じクラスになることが多く、
「またお前と同じクラスか」
と何度言われたことか。
最初の頃は嫌だったが、中学二年生の頃に意識してしまって、それから剛のことが気になって仕方がなくなった。
そんな相手から、自覚していない、いわゆる短所になるようなことを言われたのだから、ショックに感じても仕方のないことだろう。しかしあすなはショックだというよりも、最近では絡んでくることを嫌だと思わなくなった自分を不思議に感じながら、くすぐったい気分になっていたのだった。
あすなが歴史の成績が他の科目に比べてダントツでいいことも分かっていた。そしてそんなあすなに、
「お前は暗記物は成績がいいよな」
とからかってきたくせに、今度は物忘れが激しいとはどういうことなのか、まったく理解に苦しむあすなだった。
――矛盾した言い方しかできないほど、私のことを気にしていると言いながら、結局は何も気にしていないということなのかも知れないわね――
と思うようになった。
あすなは自分でも記憶力はいいのか悪いのか、実際には分かっていない。歴史の成績がいいのは、確かに暗記物だからだと言えるだろう。しかし、暗記物の勉強と、物忘れが激しいことのどこに共通点があるのかと言われると、分かるわけではなかった。説明のしっかりとできないことをいかに自分にも納得させられるか、それが中学生のあすなにとって、直近での課題だった。
――そういえば、小学生の頃、いつも宿題を忘れてくる男の子がいたっけ――
というのを思い出した。
その子と先生の話を思い出していた。
先生曰く、
「どうして、いつも宿題をやってこないんだ?」
と先生に言われた男子生徒は、すぐに答えることをするわけではなく、モジモジとした態度を取りながら、
「やろうという意識はあるんですが」
とそこまでいうと、言葉を切った。
「だったら。やってくればいいじゃないか。まるでわざとやってこないかのように聞こえるぞ」
と言われた男子生徒は、
「いえ、わざとだなんて、そんなことはありません。やろうという意思はあるんですが、宿題をどうしても忘れるんです」
「だから、それをやる意思がないというんじゃないのか?」
「違います。宿題が出されたということ自体を覚えていないんですよ」
と言って、先生をしばし呆れさせた。
先生はその言葉を聞くと、それこそわざとだという思いをさらに強くしたのか、
「そんな言い訳が通用すると思っているのか? ここは学校だぞ」
と言われ、男子生徒はそれ以上の言い訳はできないと思ったのか、そこから口を開くことはなかった。
あすなはもちろん、まわりの生徒も彼の話を鵜呑みにできるはずはなかった。しかし、そんな中で一人女の子が彼に同意していたのだが、まわりは、
「あの子は、彼のことが好きだからだよ」
というウワサが流れたが、あすなにはその子が彼を好きだという意識があるようには思えなかった。
むしろ彼女は、誰か男の子を好きになることがあるのかと思うほど、男の子への感情はマヒしているように思えた。
彼女の場合は、その男の子よりもさらに物忘れが激しかった。そもそも覚えようという意識があるのかという感じを抱かせ、その表情からは、いつも何を考えているのか分からないと言ったイメージだった。
あすなの小学校には、
――どうしてこんなに似たような人たちが揃ってしまうんだろう?
と思うほど、似た者同士が多かった。
しかも、皆普通なところが似たような雰囲気というわけではなく、偏ったところが似通っているので、まるで変人の集まりのように思えてならなかった。
あすなはそんな中でも比較的普通だと自分では思っていた。つるんでいる連中を見ると、
「これほど分かりやすいものはない」
と思うほど、偏りに共通がある連中が集まっている。
だから逆にいうと、つるんでいるわけではなく、いつも孤独で一人でいるようなやつほど、普通でまともなやつだということが言えるだろう。
あすなは、いつも一人だった。それだけで、自分が、
「他の人とは違う」
と思ったのだろう。
あすなはそれから、ある意味で、
「私は他の人とは違うんだ」
と思うようになった。
それは、自分がまともだという小学生の頃の思いとは少し違って、中学に入ってからは、まともではなくてもいいから、他の人との違いを感じてみたいと思うようになったのだった。
あすなは小学生の頃から自分は変わったと思っているが、それは思春期に入ったことで変わっただけであって、本質的に変わったわけではないと思っている。
そのわりに、まわりの同年代の人たちは、自分が変わったと感じているより、あまり変わっていないように見えた。そのくせ、誰か一人を相手にすると、その人だけは、皆と違って、本当に変わってしまったような気がしてくるのが不思議だった。
あすなは小学生の頃、確かに宿題を忘れることが多かったような気がする。その中には宿題が出ていたことすら忘れてしまっていたこともあり、本人にはそんな自覚があったわけでもないのに、なぜ忘れてしまっていたのか、不思議で仕方がなかった。
そんな時、宿題が出ていたことすら忘れていたという人がいたことを知り、衝撃だった。宿題を忘れるなんて、普通ありえないことを自分がしていたということ自体衝撃だったのに、こんなにも近くに同じような人がいたということを思うと、怖くなったのだ。
確かに宿題をしなかったことを、
「宿題が出ていたということ自体忘れていた」
と言えば、相手は呆れて叱るのを忘れるかも知れない。
しかし、それによって損失する信頼や身近に感じられるという安心感は失せてしまい、まるで別世界の人のような目を浴びせられることは分かるはずだ。だからあすなも宿題を忘れていたということを決して口に出すことはしないと思っていたのだし、そんな人は他にはいないだろうという思いが強かったのだ。
だが、思いもせずに近くに同じような人がいた。
その事実はあすなをいろいろな意味で不安にさせた。
たとえば、宿題があること自体を忘れていたなどというのは、普通ではありえないと思っていたのは自分の勝手な考えであり、実際にはもっと普通に起こるべきことだったのではないかということである。
しかし、考え方としては皆あすなと同じように、宿題が出ていたこと自体を忘れるなど稀であると思っていると、それを公開することを恥だと思い、誰にも言わないという風潮になるだろう。そのためにタブーが生まれ、そのタブーは公言するということになってしまう。
ただ、この考え方が一番ありえそうな気がしているのだが、一番認めたくない事実でもあった。なぜならそれまで宿題を忘れてしまった自分に対して、別の考えを持っていたからだ。
宿題が出ていたことを忘れるなど、本当に稀なことであって、他の人ではありえないことだと思っていた。そんな自分を納得させるためと、まわりから変な目で見られないようにするために、このことは公言してはいけないと思うようになっていた。
あすなには、誰でも一つはあすなが宿題が出ていたのを忘れてしまっていたということのような、人には言えないことを一つは抱えていると思っている。それが自分を納得させる材料の一つにもなっていたし、その方が自分が救われると思ったからだ。
それは同じことであってはならないという勝手な考えもあった。これだけ人がいるのだから、同じようなことを感じている人も中にはいるだろうとは思っていたが、まさか身近にいるはずなどないと思っていた。それは思っていたというよりも、言い聞かせていたと言った方がいいかも知れない。
やはりまわりに同じような考えの人がいれば自分が怖くなるという思いがあったからだ。自分の考えを根本から否定されたような気がして、それが恐ろしいのだ。
だからあすなは、クラスメイトの女の子という、身近すぎるくらい身近な存在に同じような考えの人がいたことで、恐怖を覚えたのだ。
――どっちなんだろう?
偶然身近にいただけと解釈すればいいのか、それとも、宿題が出ていたことすら忘れてしまうという状況はあすなにだけ起こることではなく、いつ誰に起こっても無理もないことであり、稀なことではないと考えるべきなのか、まったく分からなかったからである。
あすなは、宿題が出ていたことすら忘れてしまったことを、物忘れが激しいと言えることなのかどうか考えていた。
あすなが宿題が出ていたことを覚えていなかったのは、頻繁にあることではなかった。たった一度だけのことだったのだが、まわりに自分と同じような人がいることで恐怖を感じなければ、自分を物忘れが激しいなどと思うこともなかっただろう。
たった一度のことが、その人の(あすなにとって)心ない告白のために、あすなにとってトラウマのようになってしまった。
「また同じようなことが起こるんじゃないだろうか?」
という思いが募ってきて、たった一度のことだったはずが、頭から離れなくなってしまったことで、自分の性格に見えない何かの力を与えてしまっているのではないかと思うようになっていた。
あすなは、小学生の頃から確かにうっかり何かを忘れてしまうということが多かった。授業では、時間中ずっと緊張して聞いていたので、ほとんど忘れることもなく覚えていると思っていたのだが、その時の授業で習った中で一番肝心なところを忘れてしまい、それがテストに出て、答えられなかったということもあった。
「あすなにしては珍しいわね。こんなところを間違えているなんて」
と、算数のテストで、円周率から計算する計算問題を間違えたのだ。
テストの時は、
――あれ? 円周率って?
と、問題を見るまでは覚えていたのだという自覚があったのに、問題を見た瞬間忘れてしまったせいで、間違えたのだと思っていた。
しかし、答案用紙が採点されて戻ってきた時、友達にそう指摘されて初めて自分が授業中聞いていたはずなのに覚えていなかったのだということを思い知らされた気がした。
円周率という言葉は分かっていた。小学生の頃なので、そんなに難しく考えないように、円周率は「三」として覚えていた。
それなのに、答案が返ってきて、友達から、
「あすなは、円周率が三だってこと、分かってなかったの? それとも単純な計算間違えなの?」
と聞かれたが、明らかに円周率が分かっていなかったことは分かっていた。
なぜなら計算の答えは、円周率を五として計算すれば求まる答えだったからだ。円周率という考え方は分かっていて、それが三という数字だということを自覚していなかったことで、当てずっぽうに求めた円周率が五だったというわけだ。
三で計算すれば求まる答えをどうして簡単に求めることができなかったのか、納得させることができず、結局、
「算数の授業で、肝心なところを覚えていなかったというだけのことなんだ」
と思うしかなかった。
だが、
「覚えていなかっただけ」
という、この「だけ」というところが問題だった。
たったそれだけのことだという意識があるから、あれだけ他のことは覚えているのに、本当に覚えなければいけないはずの肝心なことを覚えていない。
「円周率という言葉は覚えているのに、三という数字を覚えていなかったんだ」
ということをトラウマのように思っていた。
だが、実際にはそうなのだろうか?
学年が進んで五年生くらいになると、それまで三だとして覚えていた円周率を、三・一四だとおぼえなおさせられた。
一度間違えた、いや忘れていて答えられなかった答えは二度と忘れないようにしっかりと覚えていた。それなのに、せっかく覚えた三という数字が今度は小数点がついて、その第二位まで計算しなければならなくなった。それを思うと、
「円周率というのは、その存在自体が問題なのであり、いくつで計算するかというのは、さほど問題ではない」
と言えるのではないか。
つまり、三であっても、三・一四であっても問題ではなく、円周率というものが円の周囲を求めたり面積を求めるうえで必要だというやり方とその理屈が大切だということになるのだろう。
自分が低学年の頃に答えられなかった答えは、一体何を意味するのだろう。自分は円周率という意識は持っていたのだから、それはそれで悪かったわけではない。それを思うとトラウマとして捉えている自分がバカバカしくなってきた。
あすなは、そのトラウマから解放された気がした。
トラウマというのが、そんなに簡単に解消されるものではないということは分かっているつもりである。それなのに解放されたと思ったのは、何を根拠にしてなのか、自分では意識していなかった。
トラウマが解消せれることに、そもそも近峡などいるのかどうかすら分からなかったからである。
円周率をしっかり把握できるようになると。円周率の数字を忘れていたということすら、意識から消えていた。おそらくトラウマから解消されたという安心感が、そうさせたのだろう。
宿題があることすら忘れてしまっていたというのは、一度きりのことだった。だが、このことは円周率を忘れていたということよりも簡単に忘れることはできなかった。
あすなが宿題があることを忘れていたその時、同じように宿題があることを忘れていたと言ったクラスメイトも、どうやらその一度きりのことだったようだ。
その日、宿題をしてこなかった人はあすなを含めて五人いたのだが、もう一人は、宿題があることを忘れていたと言った人であり、他の三人は何も答えなかった。
あすなのまわりの人は優秀だったというべきか、それまでもそれからも、宿題を忘れてくる人はあまりいなかった。忘れてくることがあったとしても、いつも同じ人ではない。本当に忘れていたのだろう。だが、それが宿題があることを本当に忘れていたのだとは思えなかった。
本当に宿題が出たことまで忘れていたという時は、明らかに他とは違っていた。実際にあすなも宿題があったと学校に来て言われた時、自分の中から変な汗が滲んできたのを感じていた。
――何かしら? この感覚は――
と感じた。
そして、宿題があったこと自体を忘れていたと告白した人も、明らかにその日の挙動はおかしかった。精神的に尋常ではなかったのか、おかしな汗を掻いていたのは否定できないことだろう。
あの日の宿題を忘れた五人のうちの三人は、本当にただ忘れただけなのだろう。
「あっ、しまった」
という表情が感じられた気がした。
それは忘れていたことへの驚きではなく、忘れてしまったことで先生に叱られること、そしてその後の課題をこなさなければいけないという罰への思いが強かったことから感じたことだった。
つまりは彼らには明らかに自戒の念があり、
「忘れてしまったことはすべて自分に責任がある」
と感じていたことであろう。
あすなは宿題があったことを覚えていなかったのを自分のせいだとはまったく思えなかった。
――覚えていないんだから仕方がない――
という思いがあった。
その代わりに、
「忘れてしまっていたこと自体に自分の中で大きな欠陥を感じさせることに恐怖を感じる」
という思いを抱かせたのも事実なのだ。
あすなは、その日以降何が肝心なことなのかを考えるようになっていた。
物覚えに関しては、小学生の頃は特記するようなことはなかったと思う。別に暗記科目が得意だったとかいう意識はなく、成績も万遍なかった。
とは言っても、万遍なく成績がよかったというわけでもなく、平均より下であったことは確かだ。だから余計に成績に関して何が得意だったかとか、苦手だったとかいう意識は低く、勉強ができたわけではないという漠然とした意識が残っていただけだった。
ただ、一つ言えることは、
「人の顔を覚えるのが苦手だ」
ということだった。
人の顔を覚えられる人を尊敬するくらいに人の顔を覚えることはできなかった。そういう意味では、自分以外の皆すべてを尊敬していると言ってもいいだろう。それだけ人の顔を覚えることに関しては致命的に苦手だったのだ。
それは自分の小心者だという性格が起因しているのかも知れない。
あれはいつのことだったか。小学校の三年生くらいの頃だっただろうか。ある日、親戚のおじさんがあすなを遊園地に遊びに連れて行ってくれるということになったことがあり、その約束の場所にあすなが一人で出向くことになっていた。
父親も母親も、その日はどうしても外せない予定があり、あすな一人となるので、おじさんがその日、あすなを引き受けてくれることになったのだ。
約束は近くの駅で待ち合わせるところから始まった。
「朝の十時に、おじさんが駅まで来てくれるから、あすなはそれまでに駅に行っていて、おじさんを待っていればいいわ」
と、母親からは簡単にそう言われただけだった。
あすなもその頃までは、自分が人の顔を覚えられないなどと思っていなかったこともあり、気軽に、
「はい」
と了承した。
普段から、両親以外の親戚の人とどこかに行くなどなかったことなので、少し緊張していた。その緊張は喜びの緊張であり、楽しみで半分眠れなかったと言ってもいいだろう。
家族で旅行に出かける前の日、寝付けない感覚と同じだった。相手がおじさんというだけで行き先が遊園地と言っても楽しみは倍増する。ちょっとした冒険心のようなものだった。
駅に十時でいいのに、九時半くらいには駅についていた。父親はその日、前の日からの出張で家にはおらず、母親も町内会の出事で、早朝から遠方へ出向くことになっていたので、目が覚めた時には、すでに母親はいなかった。
「レンジで暖めて食べなさい。後は今日、おじさんに失礼のないように」
という置手紙とラップにくるまれた朝食が置いてあった。ハムエッグにトースト、コーヒーはお湯を入れるだけになっていた。
今までには、朝食時に母親がいないなどということはほとんどなかったが、寂しいというよりもその後のおじさんとの時間を考えれば、ウキウキした気分になっていた。
朝食は思ったよりも早く食べられた。いつもであれば母親や父親がいて、部屋にはテレビがついているのが恒例だったが、一人だとテレビをつけようなどとは思わなかった。
この感情は、あすなが抱いていた思いとは実は反していた。
あすなは、リビングに一人でいるという感覚を意識したことが今までに何度かあった。その時、部屋にはテレビがついているのが当たり前だという意識でいた。今までの感覚から、
「テレビがついていないなど考えられない」
という考えがあったからだ。
実際に母親がいる時、テレビがついていない時もあったが、すぐに母親が気付いてテレビをつけた。
「本当に殺風景よね」
と一言言って、テレビをつけたのだ。
どちらかというと社交的で、いつも誰かと一緒にいるというイメージの強い母親は、家でも殺風景を嫌う。かといって部屋を派手派手にするという意識はないようで、シックな中に、寂しさを感じさせないセンスを持ち合わせていた。それが母親の長所であり、いつも誰かがまわりにいるということが日常茶飯事に感じられる母親の大きな特徴なのかも知れない。
家で一人で朝食を食べていると、
――もっと寂しく感じると思ったのに――
と感じたが、実際にはそうでもなかった。
表から差し込んでくる朝日が、ちょうど心地よく、下手にテレビなどついていない方が優雅な気分にさせてくれそうな気がしたのだった。
今までに一人で過ごす朝食の時間がなかったわけではない。両親とも共稼ぎで、それぞれに忙しいというのは分かっていた。だから、あまりわがままは言えないという意識があすなにはあった。
ただ、その思いが強いせいか、一人でいてもさほど寂しさを感じないようになった。寂しいという意識はあるのだが、
「だから?」
と思うのだ。
寂しさという感覚がマヒしているのかも知れない。そのうちに一人でいることも悪いことではないように思えてくると、一人でいることを孤独と思うよりも自由なのだと思うことの方が強くなった。
それは、あすながポジティブに物事を考えているからではない。どちらかというと消去法の中で、自由だという感覚が残ったのだと言ってもいいかも知れない。
自由という感覚と孤独という感覚が同居しないものだとは言えないだろう。
――ひょっとすると別次元での同居なのかも知れない――
と感じていた。
小学生のあすなが別次元などという発想を持つのは、結構すごいことなのかも知れないが、その時のあすなには、そんな感覚もなかった。
部屋の中は暖かく、孤独というよりも自由が優先する環境だった。気の持ちようというのは、その場での快適さに左右するものだったりするものなのではないだろうか。
静かな部屋で時間だけが過ぎていく。朝食を食べたあすなは、出かける時間まで部屋でボーっとしていた。食事が済んで、後片付けが終わってからも、少しだけ時間が余ったのだ。
余裕のない中での生活を好まないあすなは、時間にもいつも余裕を持っている。待ち合わせにももちろん相手を待たせるようなことは決してない。約束の時間の十五分前には必ずいつも出向いているので、ほとんどの場合、あすなが一番乗りなのだ。
そのことはあすなの親しい友達は皆分かっていることであって、中学に入ってから友達同士でどこかに出かける時など、誰もが最初に待ち合わせの場所で探す相手はあすなだという。
「あすながいてくれると安心するわ」
と、友達からよく言われたが、探すと必ずいる人であるから、安心するというのも当たり前のことなのだろう。
そんなあすななので、おじさんとの待ち合わせも約束の時間の十五分前には駅まで行っていた。
その日あすなは家を出る時、何か胸騒ぎのようなものを感じたが、まだ小学生のあすなに、胸騒ぎとはどういうことなのか分かるはずもなく、何となく感じた違和感を、あまり深く考えないようにしていたことで、すぐにその思いは忘れてしまっていた。
駅までは歩いて十五分ほどで、大人であれば、近すぎず遠すぎずの適度な距離なのだろうが、小学生のあすなには少し遠く感じられた。
もっとも、小学校までも結構距離があり、しかも途中が坂道だということもあり、通学だけでも結構な労力を要していた・そういう意味では駅までの距離は中途半端であり、休みの日に歩く分には、ちょっときついと思う距離なのかも知れない。
それでも駅までの十五分程度をほどなく歩くと、思ったよりも疲れを感じなかった。
「おじさんに会えるんだ」
という気持ちの方が強く。その思いはワクワクしたものだった。
予定の時間に到着したあすなは、
――どうせまだ来ていないんだろうな――
と思い、待ち合わせの場所で立ちすくんでいた。
あすなは知らなかったが、ちょうど同じくらいの時間におじさんも来ていたのだ。
おじさんの方も、
――さすがにまだ来ていないだろうな――
と思っていた。
お互いにまだ来ていないと余裕をかましていたわけである。
ただその思いが二人に余裕と油断を与えた。
余裕の方はまだまだ約束の時間までかなりあるという気分的な余裕なのだが、それは感じて当然の感覚だったことだろう。しかし、油断の方はというと、余裕の裏返しであり、余裕を感じているという自覚があれば、油断はその裏で意識されることもなく、湧いて出るものだった。
自覚がないということは、油断は独り歩きを始める。しかも油断として感じていることは、
「まだまだ時間がある」
という余裕と同じ考えなのだ。
つまりは、余裕と油断は表裏一体、片方が表に出ていれば片方は裏に隠れている。隠れているので自覚もないわけだが、すべてを余裕と感じてしまうと、そこに落とし穴があるというわけだ。
表裏一体というのは、紙一重ということでもある。その時のあすなはそこまで意識していたわけではないが、少なくとも中学に入ってからはこの意識を持っているようだった。
「紙一重で相対することが表裏一体に存在する」
この感覚を一言でいえば、どう表現すればいいのか。
あすなは、
「長所と短所」
だと感じるようになっていた。
「長所と短所は紙一重」
という言葉を聞いたことがあったが、それは本当は言葉足らずで、その途中に入る言葉があり、再度表現するとすれば、
「長所と短所は表裏一体の紙一重」
と言えるのではないかと思うようになった。
それは中学に入ってからのことだったが、その時のあすなは、その片鱗を感じていたのだ。
あすなは待ち合わせ時間までの十五分ほどを、結構長く感じていた。早く行った時の弊害というのは、待ち合わせの時間までが長すぎると感じることであった。
それでも人を待たせるよりもいいと思い、早く行っている。だから他人が待ち合わせの時間ギリギリにどうしてくるのかということを考えてみると、何となく理屈が分かる気がした。
それは、皆も自分と同じように待ち合わせまでの時間を長く感じているので、なるべくそんな時間を持ちたくないという思いが強いからではないかと思っていた。
別に早く来て一番乗りになったからと言って誰かに褒められるわけでもない。要は遅れずにくればそれでいいことなのではないか。それをわざわざ早く行って、長い時間をじれったい思いをしながら待つなど、愚の骨頂のように思っているとすれば、それも仕方のないことだと思う。
だが、あすなはそれでも一番乗りを目指していた。
だからと言って、自分よりも先に誰かが来ていたからといって、
――しまった――
という気分にはならない。
別に競争しているわけではないという感覚があるからで、早く来ているのは、自分自身を納得させることができるからだった。
それは、自分の中にある余裕が消えてしまうことを恐れているからだとあすなは思っていたが、実は余裕が消えることで、もう一つの感情も消えてしまうことを恐れていたのかも知れない。
その感情が油断なのだが。あすなは油断という意識はない。しかし、余裕とは別に、何か似た感覚が自分の中にあることを自覚していた。それが油断であるなど夢にも思わないが、一つが消えると、もう一つも一緒に消えてしまうという感覚があすなには恐ろしかったのだ。
一つのことで二つの感覚が消えてしまうなど、ひょっとすると、取り返しのつかない消え方をするのではないかと思うと恐ろしい。恐怖の正体はそこにあったのだ。
待ち合わせの場所は、思っていたよりも人がたくさんいた。休みの日ということで、ちょうどこのくらいの時間から家族連れが活動を始める時間なのだろう。やけに家族連れが目立つ気がした。
もちろん、家族連れ以外にも、友達同士やカップルの姿もいっぱい見ることができる。しかし、目につくのはどうしても家族連れ、普段から孤独よりも自由だと思っていた気持ちに反するようで自己否定をしたいという気持ちが強いくせに、家族連れを見つめている自分を見るのも悪くないと思い始めていた。
それは客観的に自分を見ているからであり、それが余裕から来ているものだという自覚もある。複雑な感情を抱きつつもおじさんが早く現れないかと思っているあすなは、次第にキョロキョロしてくる自分を感じていた。
――おじさん、まだかな?
と思っていると、現れるような気がしていた。
しかし、思ったよりも駅にはたくさんの人がいて、次第に、
――おじさんが分からないかも知れない――
という一抹の不安を感じている自分がいることに気付いた。
おじさんの顔は覚えているつもりだった。
ただ前に会ったのは、半年ほど前のことであり、小学生の頃の半年というと、かなり昔のことのように感じられる。
それは自分が成長しているという意識があるからなのか、それともまだまだ思春期の成長期には程遠いという意識がありながら、それでも今も成長期だという意識があるからなのか分からないが、成長の度合いの勘違いがそのまま時間の感覚を想像以上に長引かせているということに気付いていなかった。
意識としてはあっても、気付いているわけではない。この複雑な感情は、この頃から培われたのかも知れないと思っているあすなだったが、小学生の頃を中学生、高校生になってから思い出したくないと感じるのは、前だけを向いていたからなのか知れない。
前ばかりを見ていると後ろにあったものを否定してみたくなる傾向にもあった。
「小学生の頃の自分なんて」
と思ったことも何度もあった。
小学生の頃の自分を、お世辞にも好きだったと思えないあすなだったが、それは、
「小学生の頃から、いつも本心とは別の感覚を思い描いていたような気がして仕方がない」
と思ったことだった。
もちろん、小学生の頃の自分にそんな自覚があるわけではない。しかし、素直になれない自分がいたことは自覚していた。その性格がそのまま思春期に入ってしまったことで、余計な感情を抱いてしまい、素直になれない自分を演出してしまうことも、しばしばあった。
あすなはそんな自分をあざといという風に感じていた。そこには打算的な計算があり、しなくてもいい計算をしてしまったことで、余計な感情に火をつけてしまったという思いである。
あすなは成長期にこの時のおじさんとの待ち合わせをふいに思い出すことが何度もあった。
それは、ふいに思い出すのであって、別に何かの前兆を感じるわけでもない。
「気付けば思い出していた」
という感覚に似ていて、思い出したことに何かの理由があるとは思えなかった。
あすなは、おじさんを待ちながら、いろいろなことを頭に描いていたような気がする。その感覚が約束の時間まで、長いものに感じさせるのだろうが、その理由には、
「待ち合わせの相手が、約束の時間までくるということはありえない」
という思いがあるからである。
約束の時間までには間に合わないということを前提に考えていては、実も蓋もないとは思っていたが、実際には、
「十五分は必然の時間」
と思っていたのである。
その思いは最初の頃よりも後になってからの方が強く、それは小学生の頃に絶頂を迎え、中学以降では、飽和状態のまま平行線を描くようになっていた。
待ち合わせのその日は、なぜかいつもよりも時間を長く感じた。それは一秒、一分という単位が長かったというよりも、時間の流れはいつもと変わりはないのに、その日だけはさらに時間が長くかかった感じがした。
いつもの十五分を長く感じる時というのは、一秒、一分という単位で長さを感じていたはずなのに、その日は違っている。子供の頭で考えると、
「どこかに時計が止まった時間があったんじゃないかしら?」
という思いだった。
「子供の頭で」
と言ったのは、大人であれば、
「こんなバカバカしい考えは」
ということで、最初から、あるいは早い段階で、その考えを否定する動きを頭の中が見せるからだった。
しかし、子供の無垢な頭で考えると、大人がバカバカしいと思うようなことでも素直に考えてしまう。それをいい悪いという判断で片づけられないとは思うが、あすなは実感として、
「時計が止まった時間があったのではないか?」
と感じたのだ。
子供の頃に感じた実感というものは、大人になっても残っていた李する。忘れることがあったとしても、ふとした拍子に思い出すことが多い。しかも、そのふとした拍子というのが、結構な割合であったりするから、大人になって、子供の頃のことを思い出して、
「前にも同じような感覚に陥ったことがあったような気がする」
という、いわゆるデジャブ現象を引き起こす原因になっているのかも知れない。
待ち合わせの時間までこんなに時間があるとは思ってもいなかったので、思わず人間観察をしてしまうあすなだった。
普段からこの場所によくいるのだが、こんなに待ち合わせをしている人が多いとは思ってもみなかった。いつもはほとんどが素通りなので、駅前に人がタムロしていることは分かっていても、そこにいる人のことをいちいち意識まですることはなかった。
年齢的にはやはり十歳代から二十歳代が多いだろうか。友達を待っているのか、それとも恋人を待っているのだろうか、今日初めて意識したあすなには、すぐには分かるものではなかった。
だが、十五分という時間を結構長いと意識していると、時間の感覚がマヒしてくることもあって、時系列を逆に意識することで、自分が彼らと同じ待ち合わせをしているような感覚になった。
自分も待ち合わせをしているのだが、お互いが決めた待ち合わせではなく、親から、
「おじさんが来てくれているから、駅で待ち合わせなさい」
と言われただけなので、明らかに他の人とは違う。
まだ小学生の低学年なので、自分から一人で人と待ち合わせをするなど考えたこともなかったので、一人で待っていると普段考えないようなことを考えているようで、少し大人になったような気がしてきた。
まわりを見ていると、一人気になる男の子がいた。
――いくつくらいなんだろう?
小学生の低学年から見れば、中学生でもかなり大人のお兄さんというイメージである。
その人は意識しなければまったく目立たないタイプの男性で、なぜあすながその人を意識したのかは自分でも分からなかったが、意識してしまうと、意識を他に持っていくことはできなかった。
その人は、最初まったく微動だにせずに立ち竦んでいた。まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように感じられ、彼を見ていると自分まで固まってしまいそうな錯覚を覚えるくらいだった。
あすながその男性の顔を覗き込むように見ていたが、相手はまったくあすなに気付くことはなかった。一定の距離があり、意識しないのも分かるのだが、それをいいことに、あすなはその人から視線を逸らすことはできなくなってしまった。
ずっと見つめていると、自分の首が硬直してくるのを感じた。首筋が冷たくなっていくようで、凍り付いてしまったかのように感じるのは、顔をそむけたくないという意識からなのだろうか。
その男の子はきっと彼女を待っているのだろう。しかも今日が初デートかも知れない。あすなは自分がまだ小学生の低学年だという意識を持っていながら、そんな大人の考え方をするという複雑な心境になっていた。
思わず、
――私って二重人格なのかしら?
とも感じた。
もっとも、その頃、二重人格などという言葉も知らなかった頃なので、あくまでも感じたまま、言葉を当て嵌めることもできるにいただけのことだった。
あすなは目の前にいるその青年のことを、
――前にもどこかで見たことがあるような気がする――
と思った。
だから、普通なら気にすることもないその人のことを意識してしまったのだと、自分で理解していた。
その男性の行動は、最初こそ、
――息をしていないのではないか?
と思えるほど微動だにしていなかったにも関わらず、気が付けば、少しずつ揺れているような気がする。
それは貧乏ゆすりのような小刻みな揺れではなく、メトロノームのような振り子が揺れている雰囲気に似ていた。
振り子というのは見ていると、催眠術にかかってしまうようなイメージがあったので、なるべくじっと見ないようにしようと思っていたが、一度意識してしまうと、目を逸らすことができなくなってしまっていた。
――大丈夫なのかしら?
と感じたが、これは一体誰に感じたことなのだろう?
目の前の揺れている人の行動を、大丈夫なのかと感じたのか、それともその人の精神状態に感じたのか、それともその人から目が離せなくなってしまった自分のことを大丈夫なのかと感じたのか、一体どれだったのだろう?
きっとその中のどれかなのだとは思うが、それを最終的にどれなのかという決定的なものは何もなかった。
あすなはその男性だけが気になっていたはずなのに、次にその横にいる女性を意識してしまった。
その人はその男性とはまったく関係のない人だということは分かっていたはずだったが、彼女のことを意識した理由が、
――この人も隣にいる男性を意識している――
と思ったからだ。
その意識の元になっているのは、彼が揺れ始めてからなのか、それとも最初からなのか分からない。ただあすなの記憶が正しければ、その女性は男性がその場所に現れる前からいたような気がする。
――結構長いこと待っているようなんだけどな――
とあすなは感じたが、彼女は自分が待たされているということを苦痛に感じているような素振りは感じさせなかった。
それよりも、この二人に共通していることは、それぞれで気配を消しているように思えてならかなったからだ。二人のことを意識してしまうと、今度は無視できなくなるようなオーラを持っていそうなのだが、まったく意識しないと、二人をまるで石ころのように、目には見えていても、意識させることのない存在として君臨しているのかも知れない。
男性はその女性のことをまったく意識していない。
「まわりがまったく見えていない」
と言ってもいいかも知れない。
まわりが見えていないわけではないと思うのだが、そうなると、意識して見ていないということになるだろうか。
――いや、ひょっとすると、本当に見えていないのかも知れない――
というのは、見えていることが他の人の目とは違っていて、自分だけまったく別の世界が見えているのかも知れないということであった。
そんなバカなことなどあるはずがないのだろうが、あすながそんな感覚になったのは、その人のことを、
「前にも見たことがあったような気がする」
という思いにさせられたことからだった。
デジャブというには、子供心なので、
――思い過ごしかも知れない――
と思ってしまえば、もうそれ以上考えることなどないのだろうが、その時のあすなには思い過ごしなどという感覚はなかった気がした。
その男性の視線は次第にうつろになってきた。もはや誰かを本当に待っているのだどうか、不思議に思えてくるほどで、本当に催眠術にでもかかっているのだとすれば、誰によって掛けられたものなのか、想像してしまった。
あすなはその時、ふと時計を見た。
時計は駅のコンコースにあり、待ち合わせの時間まで後五分を示していた。
――もう後五分になっちゃんだ――
と思った。
あれだけ長いと思っていたはずのこの十五分間、すでに十分も経っているなど思いもしなかった。
時間の感覚がマヒしてしまっていることと、その時間も時間帯で進行が微妙に違ってきていることに気付かされた。
ここでいう微妙という言葉は、あくまでも概念的な意味であり、実際には大きなものだったのかも知れないが、それをどう表現するかということを考えれば、やはり微妙という言葉でしか表現できないような気がした。
あすなにとってこの時間は、
――後になっても思い出すかも知れない――
と感じさせるもので、その根拠はないが、信憑性としてはかなり高いものではないかと思えた。
あすなが時間の感覚を意識していた時、目の前の男女は何を考えていたのだろう。女性は男性を意識していたが、あすなのことはまったく分かっていないようだ。男性の方は、隣の女性に意識されているということも、あすなの視線もまったく感じていないようで、まわりから隔絶された結界のようなものがその間には存在しているように思えた。
言葉では難しく書いてしまったが、小学生のあすなに表現できるわけではない。心の中を読み取った代筆者が言葉にしたにすぎないと思っていただきたい。
あすなの頭には、二人の男女の顔が焼き付いてしまったような気がした。
――おじさん、早く来てくれないかな?
あすなは、急にそう感じた。
おじさんが来るまでの時間潰しにまわりの人間観察をしていただけだったが、それがまさかこんな恐怖に近いゾクゾクした思いをするなど思ってもみなかった。
人間観察というのは、ただボンヤリ見ているだけでいいと小学生なら思うだろう。実際にあすなも最初はそうだった。
自分が見た瞬間、
――この人は誰も気にしたりはしないだろう――
と思ったことで、その人を意識した。
そういう意味ではあすなは天邪鬼である。その意識はあすなにはあった。
「他の人と同じでは嫌だ」
という意識をかなり小さな頃から感じていたこともあって、あすなは変わり者と言われたとしても、それは嫌ではなかった。
むしろ、
「平均的な人。これと言って特記することのない人」
と言われるのが嫌だった。
要するに、
「あなたは面白くない」
と言われているのと同じである。
面白くないという人ほど、面白くないとは思うのだが、どうせなら面白いと思える人から、
「あなたは変わっている」
などと言われると、冥利に尽きるという気がしてくるのは、やはり自分が変わっているからではないかと思うのだった。
天邪鬼と言われることにも違和感はなかった。これも所学生の低学年では理解できるものではなかったが、言葉的に何となく嫌ではなかった。後になってその言葉の本当の意味を知ると、
――やっぱりあの時に感じた思いは、間違っていなかったんだわ――
というものであった。
駅で待っている他の人の表情を見ると、誰もが同じ表情に思えてきた。そして、そのほとんどが皆同じ顔に見えてきて、そのうちに、その表情が分からなくなり、表情がなくなったのを感じると、のっぺらぼうになったように思えてきたのだ。
さっきまでざわついていた駅だったのに、そのうちに、その声の一つ一つが認識できるのではないかという意識もあった。もちろん、実際にそんなことができるはずもなく、以前母親から聞いた、
「昔、聖徳太子という人がいて、その人は一度に十人の人の話を聞くことができたって話よ」
と言われ、その信憑性も考えず、驚いたのを思い出した。
ちなみに今ではその人を聖徳太子と言わないらしいが、その頃はまだ聖徳太子という名前が一般的であり、今のように名前が変わったとしても、それを認識しているのは、これから学校で習う人たちか、それとも歴史好きの人に限られるだろう。母親が歴史を好きだなどということは聞いたことがないので、母親は今でも聖徳太子は聖徳太子だと思っているに違いない。
一人の人の声を認識できたような気がすると、その近くの人の声も聞こえてくるような気がする。そのうちに聞き耳を立てている自分を感じるのだが、その時にはさっきの男性も、その横にいた女性の印象も消えていた。
ふと我に返ってその二人のことを思い出し、さっき二人がいた方向を見ると、すでに二人の姿は消えていた。
――待ち合わせの人が来たんだろうか?
と思い、二人の顔を思い出そうとしたのだが、
――あれ?
さっきまで目の奥に焼き付いていたはずの二人の顔がまったくイメージできなくなってしまっていた。
あれだけ穴が開くほど見つめていたはずなのに、こんなにも簡単に顔を忘れてしまうなんて、自分でも信じられなかった。
そう思っていると、今度はさっきまで一人一人の声が認識できているように思っていたのがウソのように、ざわつきだけが残ってしまっていた。
――どうしてなのかしら?
と感じたが、むしろこれが本当のことなのだ。
ざわつきの中で一人一人の声を認識などできるはずがない。そう思っていたはずの自分に戻ってきたのだ。
要するに今が自分の普通の精神状態だと言えるのではないだろうか。
いろいろな思いが頭の中を駆け巡った。我に返って考えてみると、
――こんなことを考えているのだから、時間が経つのが遅いのも分かるというものだわ――
とあすなは感じた。
再度時計を見ると、そろそろ約束の時間が近づいていた。時計の誤差もあるかも知れないが、それでもほぼ約束の時間と言ってもいいだろう。そういえば母親から、
「おじさんは、約束の時間に遅れることはないので、お前も少し早めに行っておいた方がいいわよ」
と言われていた。
あすなが時間に遅れるのが嫌な性格であることは分かっていたはずなので、あくまでも確認という意味に違いない。そういう意味でも、そろそろおじさんが来ていないか、探してみる必要があるようだった。
この場所に来てから、駅前の様子は結構変わってしまっていた。さっきまでは人通りがもっと多かったような気がしていたのに、今では目の前を歩く日十まばらであった。人待ちの姿もそんなに目立つわけではない。
「これならおじさんとの待ち合わせにそんな気を遣うことはないわ」
と思った。
おじさんとはここ一年会っていなかった。おじさんの方はこの一年でそんなに変わったということはないとは思うが、自分の方の一年というと、結構大きくなっているかも知れない。
親のように毎日顔を合わせている人には分からないかも知れないが、一年ぶりに会う人に、果たして自分があすなだと分かるだろうか。それを思うとおじさんが自分を見つけるよりも、自分がおじさんを見つけなければいけないということになるのだろう。
急に使命感のようなものを感じたあすなは、おじさんの姿をコンコースに追い求めた。頭の中では、
「確か、こんな感じの人だったはず」
という意識はあったが、思い出そうとすると、ハッキリと思い出すことはできない。
漠然とした記憶というのは、思い出そうとすればするほど曖昧になってくるようで、要するに自分の記憶に自信が持てないのだ。
それは、よほどの自信を最初から持っていなければ、ちょっとした不安でも、それが現実のものとなってしまうという意識の表れなのかも知れない。あすなは、本当に自分がおじさんを見つけることができるのか、不安を感じずにはいられなくなってしまった。
しかもあすなは、おじさんを待っている間、暇つぶしとでもいえばいいのか、人間観察に余念がなかった。そのせいもあってか、いろいろな人の顔が頭の中にシルエットとして残ってしまい、シンクロ状態になってしまっていると言っても過言ではないだろう。
「おじさんは確か電車でやってくるって言っていたっけ?」
そう思い、最初から改札口の正面で待っているのだが、我に返ってから改札口を気にして眺めるようになると、穂との行き来が思ったよりも頻繁であることに気が付いた。
思ったよりもというのは、先ほどまでに比べてコンコース内の人の数が減少してきたと感じたことで、
「電車の乗り降りも少ないに違いない」
と思っていたにも関わらず、想像以上にコンコースを通る人が多いことが不思議だったからだ。
コンコースを出た人が、自分の目の前を通らないということはありえない。それなのにどうして改札を抜けた人を最初、少なくなったと意識したのか、よく分からなかった。
数十分くらいの間を長いと思うか短いと思うか、そのことが大きく影響してきているように思う。
確かに人間観察をしている間、自分はいつもの自分ではなかったような気がする。気分的にも何かウキウキした気分になっていて、その思いは、
「何か新しいことを発見できそうな気がする」
という思いだったような気がするが、実際に何かを発見できたという意識はない。
我に返ってしまったことで感じたはずの何かを忘れてしまったのかも知れない。だが、もしそうだとすれば、後で必ず思い出すことだと感じたし、発見できたという意識だけは残っているような気がすることから、本当に何か発見できたのかということは疑問が残った。
時間は刻々と過ぎていく。おじさんが現れることはなかった。
「どうしたんだろう?」
肝心のおじさんの携帯電話の番号を聞いていなかった。
これはあすなのミスというよりも母親のミスだろう。あすなはしょうがないので、母親に電話を掛けた。
「おかあさん、おじさんが来ないんだけど」
というと、
「どういうこと? こっちにはおじさんから何も言ってきていないわよ」
と言われた。
「私が見つけ切らないからなのかも知れないんだけど」
というと、
「分かったわ。私がおじさんに連絡を入れて、あなたの携帯に電話をしてもらう」
と言って電話を切った。
すると、少ししてから携帯が鳴ったのに気付くと、それは知らない番号だった。おじさんだということはすぐに分かったので出て見ると、
「悪い悪いあすなちゃん。おじさんが見つけ切らなかったから悪いんだね」
と言って謝っていたが、それはまったくの逆だということが分かっていたあすなは、
「いえ、ごめんなさい。私が見つけなければいけないんだけど」
と言いながら、コンコース内を見渡してみると、そこに一人の男性が電話を掛けているのが見えた。
相手もこちらに気付いたのか、こちらを見ている。あすなは軽く会釈すると、相手はニッコリと笑ってあすなに近づいてきた。二人は電話を切ってその場で正対すると、
「ごめんごめん。おじさんが見つけてあげられなかったね」
といい、あすなは恐縮したが、おじさんの笑顔に救われた気がして、あすなもおじさんに向かって笑顔を見せた。
おじさんがいた位置は、あすなが何度か顔を向けた場所だったのだが、あすなは急に不思議に思った。
――その場所には、さっきまで誰もいなかったはずなのに――
という意識があったからだ。
そこで思い切って聞いてみた。
「おじさんは、いつからその場所にいたの?」
と聞くと、
「君のお母さんから電話がある十分くらい前からここにいたよ」
と言われた。
十分前というと、あすながまだ人間観察をしていた時間ではないか。おじさんがいた場所はあすなから見ても、十分に視界に入っているところで、そんなところに人がいたら、絶対に人間観察をしていたはずである。しかし、まったくその場所に人の気配を感じたわけでもないので、観察に値するはずもなかった。
あすなはそこにいる人がおじさんであろうがなかろうが、今となってはあまり関係なかった。自分がそこにいたと言っている人に気付いていなかったことに違いはないのだ。
もちろん、おじさんの、
「十分くらい前からそこにいた」
という言葉を全面的に信じたからであるが、おじさんがそのことでウソをついていたとして、そのメリットはどこにあるのかと思えば、全面的に信じてもいいような気がした。
おじさんは、自分があすなを見つけることができなかったことに対して、
「悪かった」
と認めている。
あすなは恐縮しているわけであるが、そんな状態でその場に自分がいたいなかったというのは二の次の問題なので、そのことについてウソをつく理由はどこにも見当たらない気がしたのだ。
おじさんと会ってから、その顔をまじまじと見ていると、やっとおじさんの顔を思い出せたような気がした。
おじさんはまったくと言っていいほど変わっていなかった。一年くらい前に会った時と、変わっていないおじさんに対して、あすなはホッとした気分になっていた。
「それにしても、あすなちゃんは、この一年で大きくなったね」
と感心したかのようにおじさんは言った。
あすなに自分が大きくなったという印象はないし、会っている人も親や学校の先生、クラスメイトなので、変化があったとしても気付かれるはずもない。特に一番接しているクラスメイトも皆同じ年ごろなので、同じように成長している。目の高さは変わりがないのだから、その変化に気付きにくいのは当然である。実際に同じクラスの友達で、成長したと思える人は誰もいなかった。実際には、もう少し成長するとその違いを歴然と感じることができるようになるのだが、その頃にはまだ何も感じることはできなかった。
おじさんは、あすなを制して、
「じゃあ、そろそろ遊園地に行こうか?」
と言って、あすなに切符を渡してくれた。
「ありがとう、おじさん」
おじさんは、段取りよく、最初から切符を買っていてくれたのだ。
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