第14話「選択・5」

 ジャー、と水が流れる音が、狭いコンクリートの箱の中で響く。その音で、あたしを責め立てるように激しく鳴り続けている心臓の音を掻き消して、洗い流そうとしていた。

 学校の校舎の一階にある女子トイレ。薄汚れた洗面台に手をついて、蛇口から勢いよく流れ出した水が、洗面台の底に打ち付けられて飛沫になって跳ねる様子を眺めていた。

 大きく深呼吸を一つ。沸騰していた頭は、少しは冷えたか。

 ……あたしは、なんてことを言ってしまったんだ。


『――あんたなんかいなければよかったのに!!』


 大好きな聡太。

 あたしにはちっとも振り向いてくれないのに、真実には簡単にデレデレして。

 あたしがどれだけアプローチしても向けてもらえなかった彼の笑顔を、言葉を、愛を、真実は向けてもらえて。

 そんな真実が、心の底から羨ましくて、妬ましくて、堪らなかった。

 真実のせいではないと、真実は何も悪くないとわかっていながらも、いや、そうとわかっているからこそ、その気持ちをどうすることもできなくて、真実に当たってしまった。


「何をしてんのよ、あたしは」


 真実はきっとあたしのことを思って、聡太の告白を断ったのに、その気持ちと心配りを踏みにじった。それだけに留まらず、真実自身のことまで傷つけた。

 きっと今更謝っても、許してはもらえない。

 それでも。

 許してもらえないとしても、せめて、誠心誠意ごめんなさいと、あたしは謝罪したい。

 蛇口を捻って閉めて、水が最後まで排水口に流れきるのを待たずに顔を上げる。目の前の壁に設置された鏡には、真剣な目付きでこちらを見つめる少女――明香里が映っていた。

 ゴボゴボという音を最後、水は流れきった。心臓の音は、まだあたしを許していない。


「明香里……」


 そうか。明香里もそうだったんだ。何故すぐに気付けなかったのだろう。

 明香里は――私だ。

 想い人に自分のことを見てもらえないことが悲しくて、想い人に、自分以外に好きな人がいることが辛くて、痛くて。しかし誰も悪くないからこそ、この激情を誰にぶつけることも許されず。

 やり場のない、焼け爛れそうな苦痛だけが胸の中に居座っている。

 私と、同じだ。

 それが如何に耐え難いものなのかも、全部――知っている。だから、知っている私なら、苦しみに寄り添うことができた。その辛さを分かち合うことができた。

 そのはずなのに、言ってしまった。


『――じゃあ、私はどうすればよかったの?』


 どうすればいいかわからなかったのは、どうすることもできなかったのは、本当は明香里の方だって、気付けたはずなのに。

 ことを丸く収めることばかりに囚われて、明香里の心を見ようとしなかった。

 謝りたいのは私の方だ。幸せとは何なのか、表面上の形や理屈にばかり目をやって、奥深くにある一番大切なところを見失っていた。


「ああ、謝りたいよぉ……」


 私のものなのか、あるいは明香里のものなのか曖昧な喉と口で、込み上げてくるものを言葉にして吐き出したが、喉の奥がぎゅっと締められて、声がうまく出なかった。

 すると、突如として、視界に変化が生じた。パレットに乗った絵の具を掻き混ぜたように、ぐにゃりと歪んで、輪郭が、色が混ざる。やがて混ざりきって一つの抽象画のようになると、反対に新たな形と輪郭を得始めた。

 気付けば、目の前には私のよく知る景色。そしてまたもや私は私でない誰かになっていた。


 天井から、どんどんと荒々しい足音と、バンッとドアが叩きつけられる音が降り注ぐ。それらの音は、その音を立てたあの娘の感情の昂りを如実に表していた。

 我が家の茶の間。音がやみ、静寂に帰した頃、私は視線を天井から下げて、すぐ隣にいる彼に向ける。最近顔に少ししわが目立ち始めた、愛しの彼――亮太だ。

 一瞬目が合ったが、彼は悲しそうに目を伏せた。私も胸が締め付けられる。


『――私がいなくなればいいんでしょ!?』


 まさか、そこまで思い詰めていたなんて。

 愛の程度に大小をつけるのは、本当は良くないことなのだろうけれど、あえて忌憚なくつけるとしたら、真実よりも亮太への愛のほうが大きく、重いというのが、正直なところだ。

 しかし、これは決して真実への愛を、ひいては真実自身のことを軽んじているわけではない。真実と、そして真実の本当の父親である秋人。二人と出会ってこのかた、二人のことを考えなかった日などない。

 嫌いになってなどいなければ、ましてや、いなくなってほしいなど――一度も思ったことはない。

 ただ、亮太のほうばかりを見て、真実の心の内に目を向けてこなかったのは確かだ。親の愛情を感じられなくて自棄になっているのなら、なるほど、それは私の所為だ。

 明日になったら、ちゃんと謝って、いなくなってほしいなんて思ってないよと伝えよう。そして、真実の胸の内にある思いにも、耳を傾けよう。そう心に決めた。


「お母さん……」


 そう、か。私への興味も関心も完全に失われたものと、私がいようがいまいが、母にとっては別段どうでもいいのだとばかり思い込んでいたけれど、そうではなかったのか。

 私のことを考えなかった日はないとは、


「嬉しい……」


 本来ならば、明日、私はこれを知るはずだった。しかし、怪異となった所為で、一生母の本当の気持ちを知らずに生きていき、そしていつかはそんな母のことを、自分に母がいたことさえ忘れるところだった。

 もし、そうなっていたら――明日が来る前に、真実という人間がいなくなってしまっていたら、私は間違いなく途方もない後悔をしていた。

 だが、今からなら、まだ……


「明香里」


 沢山謝り合って、許してもらえたなら、同じ痛みを知るもの同士寄り添い合って、恋を応援して、また家にも遊びに行きたいな。そうやってこれからも親友としてともに過ごしていきたい。


「お母さん」


 伝えたいことが山ほどあるのは、私の方だ。私を見てほしいと、沢山愛してほしいと、これからも一緒にいたいと、私こそ声を大にして伝えたい。諦めず振り向いてもらえるように頑張って、もう一回楽器なんてやってみるのもアリかな。母が嫌じゃないなら、見てくれる可能性があるなら、私は何だってできる気がする。

 ああ、母と一緒にしたいことをここまで前向きに考えられたのなんていつぶりだろう。最近はずっと、母から離れる理由ばかり探して、自分と母との間の未来に希望なんて抱いていなかった気がする。今はとにかく一緒にいたいという思いでいっぱいだ。

 二人のことを考えるだけで、こんなにも胸の中が満たされる。ああ、そうか。ようやくわかった。――私はどうしようもなく二人のことが好きで、離れたくなんかなかったんだ。

 またいつか二人とは喧嘩もするかもしれないし、すれ違いだって起こるかもしれない。それは、正直怖い。けれど、二人が私に、本当に大切なことを教えてくれた。

 私は相手の心の内を知ろうともせず、表面上や形だけを見て、勝手な憶測で決めつけで正しいとか間違っているとか判断して、自分一人の中だけで完結していた。しかし、そんな方法では、問題の根本はいくら考えたところで見えてこない。

 大切なのは、正しい選択をすることではない。自分の、そして相手の、心と向き合うことだ。相手の心にある思いを推し量ろうと努力して、自分の心の内を素直に見せて、そうして互いに互いの心と向き合えば、きっとどんな諍いも解決の糸口は見つかる。

 だって今も、私は二人の心の内にある思いを知って、こんなにも未来への熱情が膨らんでいるのだから。

 そしていつかこの願いを、現実のものとしよう。


「――みんなに幸せでいてほしい」


 この願いは、全て自分で背負い込んで解決しようとするのでも、誰かに丸投げにして託すのでもなく、誰かに頼りながら、常に一番近くにいる自分自身のことも頼って、大好きな二人とともに幸せを探していって叶えたい。

 未来は誰にもわからない。だから、この選択の結果が最悪のものになる可能性も否めない。この選択の先で、また父に対して猛々しい嫉妬を覚えるかもしれない。

 やはり今でも怖い。考えるだけで目を背けたくなる。思い切ったところで、その感情が消えてなくなるわけではない。

 だが、二人のおかげで、その不安を優に超えるだけの猛烈な『願い』と、それを今度は二人と叶える意志とが、私にはできた。怪異のまま生きていって、母のことも明香里のことも忘れてしまうなんて、絶対に嫌だ。

 だから、仮にこの選択が正しくなかったとしても、惨めな思いをするとしても、私は、


「――人間に戻りたい」


 そう心の底から溢れんばかりに思った瞬間だった。頭がぐらっと揺れて、目の前が空間ごとひび割れて崩壊するような、不気味な光景が一瞬だけ網膜に映った後、たちまち暗転。夢の世界は終わりを迎えた。



 ◆



 現実に戻ってきた意識は、しかし酷く朦朧として、まるでまだ現実と夢の狭間にいるかのようだった。頭の中に本来あるべきでないものが混ざってしまったような感覚。思考が混濁して、全身が重くて鈍い。

 私の容姿をした人が座っている傍に私は立っていて、肩に手を置いているのはなんとなくわかるが、視覚がなんだかぼやけて焦点が合わないため、どんな表情をしているかまでは読み取れない。聴覚に関してもそうだ。耳の奥が詰まったように音が遠い。

 確か、先程まで鬼ごっこをしていて、銀さんをタッチできた。私の勝利だから、今の……、今のはなんだったんだ?

 喩えるならば、夢の中で、人の経験を追体験したようだった。その中では、色も輪郭も、音も、味も匂いも、鼓動も胸の痛みも、感情の機微さえもが、何処か自分のものではないような曖昧さもありながらも、しかし現実と変わらぬほど鮮烈に感じられた。


「明香里と母の……記憶? 夢?」


 わからないが、どちらにしろ、これが勝利の報奨として銀さんがくれると言っていた、私の知りたがっていることに違いはなさそうだ。

 二人の本音。心の内。

 それをこんな形でだが知って、私はようやく、ようやく心の底から思った。


 ――人間に戻りたい。


 どうせ私のことだ。頭が冷えてから考えてしまったら、途端に不安でいっぱいになって選べなくなる。だから、興奮状態にも近い、今の奇妙な感覚に酩酊しているうちに、直感と感情に素直に従って、選ぼう。

 人間時代の全てを忘れる、怪異としての生き方。それを拒み、私の叶えたい未来を、二人とともに掴むために、私は、


「――人間に戻る」


 心のなかで宣言をして、私は未だに自分のものなのか曖昧な、銀さんの肩に置いてある手で、銀さんの中から真実という人間の魂を選んで吸い取り始める。

 蒼勇の言っていた通りだ。やり方は本能でわかる。どうやって腕を動かすのか教えてもらったことはないのに、自然と動かし方がわかるのと同じように、銀さんの中にある魂のうち、どの部分が私の魂で、それをどうすれば吸い取れる(私の場合は吸い取るという表現が、この感覚に最も近かった)か、やったこともないのに知っている。

 そうして少しずつ吸い取っていくが、如何せん人間としての部分を取り込むだけでは、まだ人間には戻れない。それは戻る過程の半分でしかないからだ。

 過程をすべて終えるためには、私の中にある怪異としての魂を、銀さんに返還しなければならない。

 人間の魂を取り戻し、怪異の魂を渡す。この二つが完了してようやく、私は完全に真実という人間に戻るのだ。その理解の上で、魂の渡し方を考えてみたが、


「あれ? 魂って、どうやって渡すんだろう」


 考えて、感じてみて、本能に聞いてみて――しかし、魂の渡し方はわからなかった。

 人間的な感覚で言うと、テーブルに並んだ食事から好きなものを選んで食べることは出来ても、胃の中から好きなものを選んで吐き出すことは出来ないのと同じだ。魂を食らうことは出来ても、一部を分けて渡すことは……出来ない。


『悪魔に、人に魂をくれてやるような性質なんて存在しん』


 蒼勇のそんな言葉が思い出された。私は困惑から呆然としていたが、たちまちこの事態が何を意味するかを理解した途端、体の芯から震え上がった。


「このまま魂が渡せなければ、私は人間には戻れない」


 途端に恐怖と焦りが募って、顔が青ざめていくのがわかる。その所為か、朦朧としていた意識がようやく覚醒してくると、それに従って、ぼんやりしていた視覚と聴覚が次第に鋭敏になり始めた。


「――おお!」


 何かの音が耳に届いた。声も聞こえる。何と言っているのだろうか。耳を澄まして聞いてみると、


「逃げろおおおお!!」


 一瞬にして我に返った。凄まじい声量で叫んでいるのは、蒼勇だ。声の方向から察するに、おそらくどこかの家の上から。

 何から逃げなければならないかは、我に返ったのと同時にわかった。背後から、まるで土砂崩れが迫っているかのような、蒼勇の叫びを掻き消して、地面を揺らすほどの轟音が急接近してきているからだ。

 ぞわっと背筋を冷たいものが駆け上がって、反射的に振り向いたときには、それはすぐそこ、五メートルくらい先にまで接近していた。

 それは、身長が二メートルは軽く超える、見たこともないくらい筋骨隆々な巨躯の、鉄錆のような赤い肌をした人型の異形。筋肉で盛り上がった首の上に乗る、剥き出しの角と牙を見せるその厳しい顔――忘れもしない、最寄駅で遭遇した、あの鬼だ。

 それが、ラグビー選手がタックルするような姿勢で、地響きのような足音を響かせながら地面を蹴って突進。慈悲も躊躇も感じさせない双眸で見据える先、私達めがけて突っ込んでくる。その途轍もない威圧感は、さながら、いや、正しくそのもの、人の力の及ばない――鬼であった。

 その刹那に、私は死を見た。直撃はもちろん、かすりでもしたら――死ぬ。頭の中で警鐘を鳴らす本能がそう告げてきた。


「避けろ、避けろ、避けろ!」


 自分の足に命じるが、理解も力も及ばない圧倒的なものを前にして、体が麻痺したように動かない。それどころか腰を抜かして、膝がガクッと折れてしまった。

 妙に時間が緩慢に流れる世界。支えを失って、重力に引っ張られて低くなっていく視界。今更になって冴え渡る思考。

 まだ銀さんから人間としての魂を吸い取りきれていないだけに留まらず、怪異としての魂に関しては一切渡せていない。

 ああ、駄目だ。このままでは人間に戻れない。

 いや、どっちにしろここであの鬼にぺちゃんこにされて死ぬんだから、関係ないか。

 人は死ぬ直前になると走馬灯を見るとか聞いたことがあるけれど、とうとうそんな物は見なかったな。

 ああ、でも、本当に……

 そんなことを考えている間にも、鬼は迫り続けて、今ではもう手を伸ばせば届く距離に。

 ぐっと堪えるように目を瞑ると、瞼の裏には笑いかけてくる母と明香里が映る。


「――死ぬ前に、お母さんと明香里には会いたかったなぁ」


 死を覚悟した、その瞬間だった。

 落ちていく体が、ふと、空中で何かに衝撃なく優しく受け止められた直後、ふわりと体が浮き上がるような感覚がした。

 弾かれたように目を開けると、そこに映ったのは、どこかを真剣に見上げる蒼勇の横顔。地面に落下する前に、彼が私の膝の裏と背中を支えるように手を回して、お姫様抱っこのような形でキャッチしたようだ。


「ぁ――」


 驚きの声を漏らす暇もなく、蒼勇はバネのように跳ねて、私一人だけ連れてその場を後にしようとする。急速に跳び上がった所為で銀さんの肩に触れていた手が離れてしまったのと、視界の端にそれが映り込んだのは、同時だった。

 取り残された銀さんに迫る、どんなものでも一撃でぺちゃんこに潰せそうな、巨大な筋肉の塊が。


「このままでは、銀さんが……!」


 咄嗟に、蒼勇の腕の中から体を乗り出すようにして一度離れてしまった手を再び伸ばす。その先、銀さんも片手を地について立ち上がりながら、もう片方の手を伸ばしてきた。その指先に、閃く何かを摘んで。

 なんと。それは母からのプレゼントである、あの大切なローズゴールドのブレスレットだ。


「そうか、それで距離を」


 意図はすぐに察した。狙う先を変更、差し出されたブレスレットを掴もうとするが、まずい、離れていくスピードが速すぎて届かない。それでも一か八か手を伸ばすのをやめなかった。……きっと、手同士を掴もうとしていたら、届かなかった。

 ――紙一重の差で、ブレスレットのリングの内側に指先が届いた。

 指を引っ掛けてから、絶対離さないように、頼りない、細い金属の棒をぎゅっと握る。

 よし、掴んだ。これで銀さんも助かる。そう、思った。

 リングを掴んだ指に凄まじい速度で引っ張られるブレスレットを、銀さんがそっと手放すまでは。


「は……」


 ブレスレットは銀さんの手から離れて、必死に伸ばした私の手の中に収まる。

 そうやってブレスレットを受け取った手の先、ハッとして見ると、銀さんはその私そっくりの顔を微かに綻ばせて、穏やかな笑みを浮かべた。その行動に理解が追いつくよりも先に、手の先で起きた一瞬の出来事を、私は瞬き一つ挟まず、刹那も余すことなく、全て見てしまった。

 突進してくる鬼は、暴走した車のようにそのスピードを全く衰えさせることないまま、一瞬前まで蒼勇と私がいた場所を通過する。私達の回避はなんとか間に合った。

 だが。

 進む先には、立ち上がる途中の、中腰の体勢でこちらに手を伸ばした、満ち足りた笑みの銀さん。

 待って――と息を呑んだ時には、メロンのような巨大な肩が、銀さんの、私の外見をした胴体に突き刺さり、その凄まじい衝撃に上半身がひしゃげるように歪んで、――爆ぜた。破裂するトマトのように、爆ぜた。音も、爆ぜた。

 銀さんの胴体があった場所を中心に、鮮やかな赤い飛沫が四方八方に弾け飛ぶ。頭と四肢だけをそのまま空中に取り残して、原型を一切留めることなく。

 私の形をしていたはずの、大量の真っ赤な血と肉片が舞う中を、鬼が勢いを殺すことなく、空間ごとえぐるように突き進んでいき――と、視界が捉えたものはそれが最後。

 べちゃべちゃと生々しい音がする中、私の意識は真っ暗闇の底に沈んでいった。


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