第12話「選択・3」

「ちょうどこの辺りだったかな……」


 心のなかで呟く。視界は真っ暗。光の一筋すら差し込まない。

 私は今、息を潜めて地面の中に潜っている。息を引き取って埋められたわけではない。ものをすり抜ける能力を使って地面をすり抜け、地中にいるのだ。地中に入るのには、なんというか、底なし沼に沈んでいくようにどこまでも落ちていってしまいそうな、足元がふわふわする恐怖感を覚えたが、いざやってみると思いの外簡単だった。

 それはさておき、どうしてわざわざこんなことをしているかというと、もちろん銀さんに奇襲をかけるためだ。塀をすり抜けて飛び出してタッチするのも一つの手だが、塀の後ろに隠れた人がそのまま塀から出てきたところで、そこには意外性の欠片もない。容易に読まれるだろう。だから、銀さんの裏をかくために、地面の中、真下から、最短距離で彼女を狙う。

 銀さんのことだ。どうせ私を弄ぶために一歩も動いていないに違いない。


「捕まえた!」


 声を張って、地上の、銀さんの足がある場所に手を突き上げた。その手が何かに当たる感触は……なし。前後左右に振り回してみた。が、全て空振り。

 当てが外れたらしい。浮き上がり、地面から顔を出して視界を取り戻すと、目の前にあったものに、思わず息を呑んでしまった。そこには、ちょうど鼻先がくっつきそうな距離感で、私の顔、つまり銀さんの顔があったのだ。しゃがんでこちらを覗き込んでいる彼女の顔には、悪意も曇りも感じさせない朗らかな笑顔。


「これは……、あの鬼の入れ知恵かな?」


 目を剥き、咄嗟に繰り出した私の平手を、何度やっても無駄だと伝えるかのように、頬に当たるすんでのところで頭を引いて避ける。


「おっとっと、危ない危ない」


 そうして立ち上がると、後ろで手を組んで、ケラケラと笑いながら上機嫌な足取りで離れていく。私はつい堪えきれず、地面に半分埋まったまま、離れていく背中に声を掛けてしまった。


「あなた、ほんとに人間? 何か怪異の能力を残してて、それを使ってるんじゃないの?」


 銀さんは立ち止まって、肩越しに振り返った。

 

「そう言ってもらえると光栄だよ。だけど生憎と、ボクに残された怪異の力といえば、せいぜい二、三人の数日分の記憶を覗き見することと、肉体を若干変化させて、人間のものに近づけたり、逆に怪異のものに近づけたりするくらいのことしかできないよ」


 そう言って、再び前を向いて進み出す。

 事実……なのだろうか。いや、考えたところでわからないのだから、考えるだけ無駄だ。そうこうしているうちにも、時は刻一刻と制限時間に針を進めている。

 現実に意識を戻すと、銀さんの背中は更に遠ざかっていた。そして私達の今いる道と、進む先に覚えがあった私は嫌な予感がして、叫ぶ。


「どこ行くの!?」


 肩越しに振り返った銀さんは、しーと人差し指を唇に当てて、静かにするように示すと、流れるように右に進路を曲げる。

 それを見て、自分の顔が青ざめていくのがわかった。銀さんの向かう先には、私にとっては見慣れた、四階建てのマンションがある。そのマンションと道路の間には侵入防止柵などなく、一階のベランダは道路に直接面しているため、冗談で、ここから人入ってこれそうだねなんて話したことあるものだ。その当時は、まさか本当に誰かがよじ登って入ることがあり得るなどと、思いもしなかったが。

 銀さんは一階の一室に、ベランダを軽々とよじ登って入っていく。


「ちょっと! そこは、その部屋は……!」


 私の親友――明香里が住んでいる部屋だ。

 慌てて埋まっている下半身を地上に出し、躓いて転びそうになりながらも彼女を追って走り出す。

 銀さん、明香里に何をするつもりなんだ。まさか、明香里を人質に取るつもりか? いや、鬼ごっこで人質取ったところで何の意味がある。逃げにくくなるだけじゃないか。馬鹿か私は。

 益体のない考えは振り払い、マンションの前に着いた私は躊躇なくベランダの塀をすり抜けて家に侵入。まっすぐに明香里の部屋へ向かう途中のことだった。ちょうど廊下に差し掛かると、小さくガチャリと音が聞こえて、反射的に壁に隠れた。恐る恐る顔を出して廊下の先を見ると、玄関の扉が小さく開いていた。誰かがその隙間から、体を薄くしてするりと抜けて、外に出ていくところだった。

 それは、紺色のパジャマを着た、栗色の髪の少女――銀さんだった。

 咄嗟にそちらを追いかけそうになってしまったが、銀さんが意味もなくこの家に来たとは思えない。明香里の無事を確認することが優先だ。そう思ったが、いざ明香里の部屋に駆け込んでみると、いささか拍子抜けしてしまった。

 明香里は床に敷いた布団で、学校では命より大事にしている前髪をくしゃくしゃにして、よだれでもたらしそうな間抜けな寝顔でぐっすりと寝ていた。部屋の中を見渡しても荒らされたような跡があるわけでもなく、ここには普段から頻繁に遊びに来ていたため、部屋に何があるかなどはそれなりに覚えているのだが、一見すると、先週に訪れた時と何も変わりないように見えるのだ。

 だが、何もされていないはずはない。第一に明香里の体を確認しようとしたが、私は布団を退かすことができないため、四つん這いになって、布団に顔を埋めるようにしてすり抜けて、身体中を直接見て回った。次に部屋中を隅から隅まで、タンスや机の中まで確認した。

 結果――特に何もなかった。


「ああ、もう、どうなってるの!?」


 本当にただ家の中を通っただけなのだろうか。それとも、何かした相手は明香里ではない? わからない。今は異常が見られないだけで、遅効性の何かでこれから何か起きない保証はない。ここを離れるのは正直不安で、後ろ髪を引かれる思いだ。

 考えたら考えただけ不安が募って重なっていく。……だから、もう、考えるのをやめよう。


「さっさと銀さんとっ捕まえて、何したのか聞き出せばいいだけのことだ」


 私らしくない決断力だったと思う。いや、私が自分の推測に自信が持てないが故の決断だったかもしれないが、それはともかく、そうして思い切って、走り出してこの場を後にした。

 どうせ、銀さんのことだ。そう遠くは離れていないはず。いや、いっそマンションの前で待機して、私が飛び出してくるところに向けてあっかんべーするくらいのことをしても驚きはない。

 そう思いつついざ玄関をすり抜けて飛び出すと、予想通り、こじんまりとしたエントランスの先、道路に出たところに銀さんは立っていた。


「やっぱりいた!」


 足を止めることなく、そのままエントランスから外に繋がるガラス製の扉も走り抜けようとしたその時、奇妙なことに気付いた。

 それは、銀さんがこちらを見ておらず、横を、すなわち道路の伸びる方を向いてじっと何かを見ていたことだ。

 不穏な何かを感じ、咄嗟に床を踏ん張って足を止める。銀さんの視線の先は、私からは死角になっていて見えない。忍び足で前に数歩、扉をすり抜け外に出てから窺ってみると、すぐに、銀さんが立ち止まってじっと見ている理由がわかった。

 道路の真ん中では、二人の人物――いや、二匹の鬼が対峙していた。

 一匹目は、私と変わらぬ身長、細めの体格の、しかし人間のものとは思えない青白い肌をした猫背の男で、その額にはコブと見間違えんほど小さな角が二つ生えていた。

 彼はぶるぶると震える手で、もう一匹の、比較的長身の鬼に掴みかかると、


「助けてくれぇ! あれはまずい! 殺される!!」


 肩を揺らしながら助けを懇願した。だが、取り付く島もなく無言で突き放された。

 私は、何をしているのかと声をかけようとしたが、二人の間には他人を寄せ付けない、独特の剣呑な空気が漂っていて、それは憚られた。


「嘘だろ……? お前も鬼ならわかるはずだ! あれは化け物だ!」


 がなり続ける鬼に、長身の鬼は背中でも掻くようにして、背負っている黒のギターケースに片手を突っ込むと、その中からゆっくりと、鋼色に鈍く光る何かを抜き出した。

 長さ七十センチくらいあるそれは――刀だった。もっとも、その形状は刀というより、料理包丁をそのまま大きくしたようなものだった。

 それを見て、小柄な鬼は一瞬ぎょっとするものの、たちまち目に輝きが宿る。


「そうか! これを使って戦ってくれ――」


 ひゅっ、と何かが風を切る音が鳴ったと思うと、鬼の希望に満ちた言葉が途切れた。一拍遅れて、ばさっと何かが地面の雪に落ちた。

 それは、小柄な鬼の生首だった。

 首をなくした体は、その断面から真っ赤な液体を吹き出しながら、力が抜けたようにばたりと倒れる。すると、その体や流れ出す血は、まるで蒸発でもしているかのように蒸気を上げ始めた。


「ぁ――」


 その光景を、私は瞬き一つせず、身じろぎ一つせず、ただ唖然と眺めるよりほかなかった。

 横一閃に刀を振り抜いて、小柄の鬼の首を斬った長身の鬼は、転がる死体を見下ろしながら、片手で持っている刀を一振り、血払いする。ぺちゃっと雪に散った血が、純白を赤く汚した。


「悪い、邪魔したね。すぐにどくから、お構いなく続きをどうぞ~」


 そう言って、ぐっと膝を曲げると、ひとっ飛びに家の屋根を飛び越えて去っていった。

 そう言って、肩越しに振り返った彼の顔を、私は知っている。


「――蒼勇?」



 ◆

 


 意味がわからなかった。銀さんが明香里の家に入るだけ入って、何もせずに出ていったこと。そのマンションの前で、蒼勇が助けを求める鬼を無慈悲に斬殺したこと。

 理解が追いつかなかった。

 理解が追いつかないながらも、しかし言葉を失うような衝撃とおぞましさだけは直に感じて、絶望にも似た独特の無力感に全身を冒される中、私は鬼の亡骸が蒸発して消えていく様を、立ち尽くしたままひたすらに眺めていた。銀さんも同じ思いなのか、私から二、三メートル離れた位置で、同じように死体を見つめていた。

 どれだけ時が過ぎたのか、実際はたったの五分かそこらだろうに、私には一時間ほどそうしていたように感じた。

 ふと、今もまだ鬼ごっこ中だったことを思い出し、途端に現実に戻ってきたような心地になった。その頃には鬼の死体がほとんど蒸発し、露出したコンクリートの上に、骨の燃えカスのようなものだけが残っていた。

 銀さんのほうを見てみると、まだ彼女はまだ向こうを見ている。妙に落ち着いた頭で、思った。


「よそ見している今だ」


 予備動作無しで一歩、二歩、大きく踏み込み、手刀で刺突。懐に刺し込まれる手を、銀さんは向こうを見たまま腰を捻って避けた。まるで背中にでも目がついているかのように、ジャストタイミングで。


「なッ……」


 追撃をしたい気持ちはあったが、今の一撃が避けられたことが予想外で体が固まってしまって、それ以降動いてくれなかった。

 銀さんは跳んで距離を取りながら空中で身を翻す。


「油断した瞬間を狙ってくるんじゃかなって思ってたよ」


 そうしてこちらに見せた顔には、先程まで死体を眺めていたとは思えないような軽さと余裕が映っていた。

 着地するまでに追撃しようと思っていたが、動けなかった――いや、今回は故意に動かなかった。そんな私に、銀さんは首を傾げる。


「あれ? 追ってくると思ってたんだけど……どうしたの? あ、あの鬼の所業が頭にチラついて、動けなくなっちゃった? それとも、まさか鬼ごっこ中に本物の鬼と出くわすなんて、とか考えて笑いそうになっちゃった?」


 危ない。吹き出しそうになってしまった。まさか、私の笑いのツボまで抑えているなんて。

 それはともかく、確かに、あの暴力的で残虐な行動には、一時は大いに動揺したが……何故だろう、今は不思議と頭の中が曇りなく冴え渡っていて、周りがよく見える。

 今するべきことは鬼ごっこで銀さんをタッチすることだから、蒼勇のことは後でいい。

 それより、今はこの冴えた頭で他のこと考えている。


『これは……、あの鬼の入れ知恵かな?』


 地中からの奇襲後、地上に顔を出した私に銀さんが掛けた言葉だ。言われた当時は冷静さを失っていたため気に留まらなかったが、冷静になって思い返してみると、妙な引っかかりを覚える。

 どうしてわざわざこんなことを聞いてきたのだろう。

 私の行動が読めているのだから、その行動をするに至った考えもわかっているはずだ。なのに、行動の動機があの鬼の入れ知恵なのかどうかわざわざ聞くなんて……あれ?

 あの鬼って、おそらくは蒼勇のことだよね? 蒼勇の名前すらわからなかったのか……


「え、ちょっと待って」


 

 ということは。


『大抵の怪異は、特定の誰かに成りすますのなんて朝飯前。銀さんもその大抵に含まれるんだとしたら、真美の魂を喰らえばもちろん、何ならたぶん真美に触れた時点で、真美に化けることくらいなら容易くできとったんじゃないかな』


 ふと、そんな話をされたのを思い出した。

 そうだ。銀さんは私に化けているのだ。それも、今の私にではなく、銀さんと触れ合った当時の私、つまり怪異になる前の私に。

 だから、怪異になった後に私が知った蒼勇のことも、蒼勇から教えてもらったことも、銀さんの中にいる真実はまだ知らないのだ。

 私は怪異になってから、それまで知りもしなかった様々なことを経験をした。蒼勇から怪異の知識も得た。それらは、銀さんのまだ知らない私だ。いくら銀さんでも予想の範囲外に違いない。

 全く新しい、今までの私には思いつきもしなかったようなことをやれば、銀さんを出し抜けるのだ。


「勝機は――十分にある」


 実は、蒼勇から貰った、私の怪異の能力についてアドバイスには続きがある。


「できるかは自信ないけど、やってみるしかないか……」


 私は想像した。強く想像した。

 道路に両手をついて、尻と踵を浮かせ、クラウチングスタートにも似た、しかしそんな洗練されたものではない、野性的な構えを取る。立てた手足の爪を食い込ませるようにして地を噛む。


「すー……」


 息を吐きながら、四肢に力を溜めるように道路を踏み締めると、刹那――空気が変わった。糸が張ったように、ピンと張り詰めた。

 満月に少しだけ満たない、しかしいきいきと輝く月に見守られる夜。青白く滲む、道路に積もった足跡だらけの雪の上を。

 次の刹那――一筋の雷が、夜を置き去りにして駆け抜けた。

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