第8話「願い・2」
時刻は午前二時半。私は借りてきた猫のように身を小さくして、夜に沈んだ青白い並木道を歩いていた。
既に雪は止んでいるが、依然積もった雪は解けておらず、道も車も木の枝も、どこもかしこも可愛らしく雪を被っている。空を仰ぐと、雲の隙間からちらちらと、八割ほど満ちた明るい月が顔を覗かせたり隠れたりしていた。
私が歩く隣には蒼勇も歩いている。並んで立ってみると想像していたよりも背が高かった。見上げる形だから正確には測れないが、百八十センチくらいだろうか。ちなみに蒼勇を挟んだそのまた奥、かなり離れた位置に果穂さんもいる。むすっとした表情をしながらもちゃんと歩調を合わせてくれている。私の過去と願いの話を聞いてからもずっとこんな調子で、まだ一度も言葉を交わしていない。
かれこれ二時間も話し込んでいた噴水公園を離れ、こうしてどこに向かっているかと言うと――
「これは、急がんといかんな」
「そうだね」
公園で、私が願いについて話した後のことだ。私の話を聞き終えるや否や、蒼勇と果穂さんは真剣な様相で顔を合わせると、そう言って互いに頷き合って、荷物を纏め始めた(纏めるほどの荷物もないから、マックのゴミを片付けたくらいだが)。状況がさっぱりわからない私は呆然とそれを眺めていたが、たちまち我に返って尋ねた。
「今からどこかに行くの?」
「ああ。本当は色々ゆっくり話したいところだけど、そんな暇はないかもしれん。だから、急いで向かう」
「どこに?」
蒼勇は言った。
「――真実の家だ。案内を頼む」
そんなわけで、即座に移動を始めたはいいが、出発してから私の家への最短ルートであるこの並木道を進んでいる今現在まで、終始蒼勇は何も言ってくれない。そして、自分の願いの詳細をひた隠しにしていたことへの後ろめたさと、最悪の事態を想定した危機感とで尻込みしてしまって、私の方からも何も聞けないでいた。
夜の町は、家々までもが雪の布団を被って寝静まっているかのようにしんとしていて、遠くを走る車の音以外には、時折風が吹いて木の枝から雪が落ちる音だけが鼓膜を撫でた。普段なら心地よいだろう静けさも、今は耐え難いもので、私は縮こまって進みながら、ちらちらと二人の顔色を窺ったりしていた。すると、それに気付いたのか、不意にこちらを見た果穂さんと目が合ってしまった。咄嗟の反応で目を逸らそうとしたが、その時の果穂さんの顔を見て頭に浮かんだことがあって、なんとか我慢して彼女を捉え続けた。
「あの……。果穂さんには私がどんな姿に見えてるんですか……?」
恐る恐る尋ねたが、彼女は答えることなくふんと鼻を鳴らして前を向き直った。
流石に答えてくれるわけないか。諦めて、私も目線を外して前を見ようとした、その時だった。
「ものすごい、イケメンに見えてる」
果穂さんの、小さな声が聞こえてきた。私は扇風機もびっくりするくらいの遅さで首を回して見ると、彼女は悔しそうに唇を噛んで俯いていた。
「……え!?」
反応してくれたのが嬉しくて思わず声を漏らすと、彼女はこちらを睨んで、
「イケメンに見えるのが、もっとムカつく」
そう吐き捨てて再び前を見て顔を伏せた。相当苛立っているのが伝わってきたが、しかし私は見落とさなかった。ムカつくと言いながらも、少し頬を赤らめているのを。
なるほど、人は好みの外見の相手に弱いとはよく言ったものだ。しかし、その言葉を私に言った本人はというと、私の姿がのっぺらぼうみたいに、顔に目も鼻も口もついてないように見えるとか言っていたような気が……
「蒼勇ってまさか、のっぺらぼうみたいに顔がない人が趣味、とかじゃ……ないよね?」
念のため確認しておくと、蒼勇は顔をしかめて「そんな特殊性癖ないわ」と容疑を否認した。
「俺は怪異みたいなもんだから、そういう人間に対する特性は効かんのだって」
「ああ……てことは、私や果穂さんに見えてる美しい姿は、怪異の力で見せられてる幻像みたいなもので、のっぺらぼうみたいなのが私の本当の姿というか、銀さんの本当の姿ってこと?」
「いや、それも違う」
特性が効かないと言うものだから、彼には化けの皮を貫通して本当の姿が見えているのだと思ったが、どうもそうではないらしい。
「なら、私の本当の姿はどれなの?」
首を傾げた私に説明してくれた。
「見た者によって見え方が違うっていう特性を持つ怪異の外見に、本物も偽物もない。見た人にどう見えたか――それだけが大事で、その姿がその人にとっての本物だ。だから普遍的にこれが本当の姿、ってのは存在しんのだ」
「うーんと、それはつまり、私にとっては白髪の美しい人が、果穂さんにとってはもの凄いイケメンが、蒼勇にとっては顔なしが、それぞれ銀さんという怪異の姿で、みんな違ってみんないいってことだね?」
「言葉の使い方はたぶん間違っとるし、顔なしは誤解を生みそうな表現だけど……、そんなとこだ」
怪異の常識はやはり不思議で馴染めない。これも知識としてはわかったつもりでいるが、実際理解したかと言えば、正直微妙なところだ。
そこで会話は終わり、再び私達の間には沈黙が流れた。私の緊張はまだ解けていなかった。なんとなく、一直線上に、等間隔に並ぶ街路樹が、ずっと向こうまで続いているのを眺めていると、ふと、だった。
「真実が銀さんに願いを言ったのってさ」
沈黙を破って、蒼勇が言った。
何の前置きもなく、実にあっさりとした調子で、言った。
「――本当はいなくなりたかったからだろ?」
ぴたりと足が止まった。息も止まった。視界が、魚眼レンズを覗いて世界を見ているかのように歪む。街路樹と街路樹の間が広がって、遠くの街路樹が更に遠ざかったように感じた。
そんな奇妙な感覚の中で、頭の中に二つの光景が思い出された。
一つは、放課後に明香里に呼び出された時、逃げ出した明香里の、その遠ざかっていく背中から降り注いだ叫び声。
『――あんたなんかいなければよかったのに!!』
もう一つは、夕食時、逃げ出した私が我を忘れて衝動のままに叫び散らかした言葉。
『――私がいなくなればいいんでしょ!?』
誰かが大きく固唾を呑んだ、ゴクリという音が聞こえて、私は我に返った。口の中がカラカラに乾いていて、喉の奥の粘膜同士がくっつきそうな感覚がして気持ちが悪いが、それを我慢して見ると、蒼勇もいつの間にか足を止めて、こちらに向き直っていた。
彼は続ける。
「両親は真実がいるから喧嘩するし、親友も真実がいるから恋が成就しん。真実がどう立ち回ろうが、それは変えられんかった。むしろ動いたら動いただけ裏目に出た」
「そう、だね」
「じゃあもうやれることはゼロか? 万策尽きたか?」
鋭い眼光に射抜かれて、気圧されそうになりながらも、私は頭を振った。
「そうだよね? この問題をどっちも纏めて解決できる、夢みたいな方法があるからね。真実は頭の回転が速いから、それに気付いとらんかったはずはない」
頭の回転の速さについては否定したかったが、私の返答を待たずに、彼は言った。
「それは真実がいなくなること」
「――――」
「これは、真実がやろうとしとった、両親のもとから距離を置くってこととは別物だよ。そんな生易しいものじゃない。完全にいなくなることだ。
真実がいなくなりゃあ、親友と少年との三角関係は消え、父が母を、娘を愛しとらんからという口実で叱りつけることもなくなり、真身の回りの人の崩れかけた人間関係の諸問題は一挙に解決する。すなわち真実の願いである、彼らの幸せを守ることが叶う。だから、真実は自分を犠牲にできた。これでみんなが幸せになれるんならってね。
その覚悟をもって銀さんに願いを言ったのに、この結果じゃあそりゃ不安だったよな」
何が言いたいのだろうか。私は眉をひそめる。すると、蒼勇は得意げに鼻で笑って言い放った。
「本当は、銀さんに殺されるつもりだったんだろ?」
今まではまた違う意味で、ギュッと臓腑が締め付けられた。
蒼勇は畳み掛けるように続ける。
「悪魔という怪異は必ず願いを叶えてくれる。だからみんなに幸せになってほしいと願えば、それを成就させる唯一の方法を取ってくれる。すなわち、自分を殺してくれる、と思った。そうして自分がいなくなりゃ、真身の回りで起きていた問題はおしなべて解決。真実は愛しの銀さんの腕の中で死ねるんだし、万々歳だよね?」
そう捲し立てられ、私は複雑な、それはもう複雑な心境で、何と答えるべきか、顔を伏せて逡巡していた。
「図星をつかれて物も言えんか」
蒼勇は呆れたように言うと、再び歩き出した。私はちょっと遅れてその背中を追う。背負った黒いギターケースをじっと眺めながら、どうやって話を切り出そうか迷っていた。
そうして一分ほど迷った結果、こう切り出すことにした。
「あのぉ、凄い見透かした感じに言い切った人にこんなこと言うのは非常に気が咎めるんだけども……」
低姿勢で、申し訳無さと遠慮を全面に出して切り出すと、蒼勇は肩越しに振り返った。
「何だ?」
難しそうな顔で聞かれ、私は一瞬間を置いてから答えた。
「……ぜんっぜん違うよ?」
「え?」
蒼勇は歩みを止めて振り返り、目を点にする。これを率直に切り出すのが憚られたのは、内容が率直な否定だったからこそだ。
言われたことが飲み込めないのか、目を白黒させる蒼勇と向き合って私も足を止めて、私の本当の胸中を話し出した。
「蒼勇が言ったように、私が死ぬことが、みんな幸せになるための道かもしれないとは、確かに頭の何処かで考えてはいた」
「じゃあ、選ばんかったのは、死ぬ勇気がなかったとか……?」
「死ぬ勇気、まあ、そうとも言えるのかもしれないけど……」
私は自信ありげに言うような内容ではないが、自信ありげに言った。
「私は昨日の出来事があってから、自分の頭から生まれる考えと、自分の手でする選択に、完全に自信を失った」
蒼勇は開いた口が塞がらない様子で私の話を聞く。
「私がどれだけみんなのことを思って選択をしたとしても、その選択は間違っていて、誰かを傷つけてしまう、何かを壊してしまう、そんな気がしてならなかった。いっそ、選んだのが私である限り、その選択が必ず間違いになってしまうのではないかとさえ思った。私が死ぬ、っていう選択肢もそう。きっとそれを選んでも、私が想像もしなかったような方向にことが進んで、結果的にみんなから幸せを奪うことになるかもしれないと思うと堪らなかった。私の選択が、また誰かから幸せを奪うのが怖かった」
母の時や、明香里の時みたいに――幸せを奪うのが怖かった。
だから――と私は言った。
「私じゃない、他の誰かに選んでほしかった」
蒼勇が衝撃を受けたように目を見開いた。
「誰も傷つかず、平和に、みんなが幸せになれる選択――私には最早どの選択が正解なのか、皆目見当もつかなくなってしまった。しかし、何でも願いを叶えてくれるっていう銀さんなら、私には思いも寄らないようなものが見えてて、正解がわかるんじゃないかと思った。別にそれは斬新なものでなくても構わなかった。いや、正直に言おう。正解じゃなくてもよかった。銀さんが選んでくれたものならば、正解じゃなかったとしても、私はそれが正解だと信じてその道に進めた」
「じゃあ銀さんは……」
それまで呆気にとられて物も言えなかった蒼勇が、そのあんぐりと開いていた口からついに言葉を発した。
私はあっさりと答える。
「もちろん、銀さんが怪異だなんていうのは全く知らなかったよ。只人ではないだろうなとは思ってたけど」
そうだ。別に怪異の力を借りて願いを叶えたかったわけではない。間違った選択を、誰かを傷つける選択を自分の手でするのが怖かったから、願いを叶える方法を、誰かに代わりに選んでほしかった。その誰かが、偶然怪異である銀さんであったというだけで、言ってしまえばそれは誰でも良かった。
重要なのは、選択をしたのが私でないということだけだった。
蒼勇はまだ納得がいかない様子で尋ねる。
「それだけじゃない。ほら、あんなに銀さんがこの世のものとは思えんほど美しいとか、心を奪われたとか言っとったじゃんか。それはどうなん?」
「確かに銀さんは美しいね。銀さんに殺されるってのも、銀さんに酔いしれて正気じゃなかった時ならやぶさかじゃなかったって思う。でも、どこまで行っても私が一番好きなのは、お母さんなの」
それが変わることは一生ないと嘯くことが出来るくらい、揺るがないことだ。私が大切に想っている人ナンバーワンは――母。
「お母さんが一番大切と言っておきながら、こんな責任逃れみたいな方法を取ったのは矛盾してるようにも思われるかもしれない。それはごもっとも。だって、どれだけそれらしい理屈を並べたところで、私の実際したことは卑怯な逃げ、責任の放棄に違いないんだから。そんなことは私も知ってる」
蒼勇が何か言いたげな顔をしていたが、彼が口を開く前に、だけど――と繋げて、私は言った。
「お母さんを思うからこそ、私は銀さんに願いを託した。ほとんど見ず知らずの銀さんの選択のほうが母は幸せになれるって心の底から信じられるくらい、私は自分の選択に信用を置いてないから」
そこでようやく区切りをつけ、私は一息をついた。
「なるほど……。それは、相当……だね」
そんな私に蒼勇が掛けた言葉は、納得しているようにも、悩ましげにも聞こえる、深刻で複雑な調子だった。しかし、彼は不意にがっくしと肩を落として吐息つくと、
「でも、よかった……」
今度は一転、安堵したような調子に変わった。
「何が?」
尋ねると、のっそりと顔を持ち上げて、力の抜けた笑顔を私に向けて言った。
「真実が死にたがっとるわけじゃなくて」
そう言えば、そんな勘違いをされていたのだった。
私はなんだか妙な気まずさを感じ、なんと返したらいいかわからず、顔を伏せて足元を見ていると、不意に横から声が掛けられた。
「ずっと止まってないで、早く行こ」
苛立たしげにそう言ったのは、暫く蚊帳の外に置かれていた果穂さんだ。
そうだった。移動中なのだった。私と蒼勇は一度顔を合わせてから再び並んで歩き出した。速めのペースで進みながら私は話の続きに戻る。
「そうやって銀さんに願いを託したはいいけど、実際銀さんに願いを言ってみたら、まさか、こんなことになっちゃうとは」
「願いを言ったら、銀さんが何をしてくれるって思っとったんだ?」
「普通の人間相手のつもりだったからね。普通のお悩み相談みたいに、何かしらの解決策か、もしくはヒントか何かを提示してくれるとばかり思ってたけど?」
「脳天気すぎるだろそれは」
口を尖らせた私の言葉を聞いて、蒼勇は鼻で笑うが、
「いや、初見で怪異だと見抜くほうが無理な話だよ。それこそ結果論がすぎるんじゃないですか? 蒼勇さん」
「うっ……。確かにそうだ」
突かれたのが案外痛いところだったらしく、銃で撃たれたかのように胸元を押さえると、その体勢のまま歩きながら彼は質問を重ねた。
「じゃあ、そこで『あなたが消えるしか方法はない』とか言われたらどうしとったんだ?」
「そりゃ、言うまでもなくそれに従った。どんな無茶なことでも、どんな馬鹿げたことでも、私の選択なんかよりは余っ程信用できる」
強く言い切ったが、蒼勇はその内容をあまり良くは思っていないようで、眉間に指を当てる。
「でも、信用って言ってもねぇ。結局今も、銀さんがどうやって真実の願いを叶えてくれたか、いやそもそも本当に願いを叶えてくれたかすらわかっとらんくないか?」
「うん、わかってない。でも、それでいい。私は知らなくていいの。これは銀さんが選んでくれた道だから」
答えながら、私は胸に引っ掛かっているとある疑問について考えていた。
どうしてあのことに触れてくれないのか。果穂さんのほうは、何があっても、それこそ私がこの美貌をもって迫るという反則技を使ったとしても触れてこないだろうと、確信めいたものがあったが、蒼勇のほうはどうだ。わざわざ聞くまでもないと思っているのか、或いは私が自ら白状するのを待っているのか、わからないがとにかく、触れられないことがじれったくて仕方ない。
「銀さんがそれを選んだのならば」
だから、耐えかねた私は、もう自分から言うことにした。
「――私は人間に戻れなくてもいい」
と。
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