1.

 その人は、ゆっくりとわたしの足を灰の上におろし、両の腕でわたしの体を支えてくれました。起きたばかりの頃よりは体のふらつきは抜けており、まだ少し不安ですが両の足で立つことができました。

 落ち着いてくると、聞きたいことがたくさん湧き上がってきます。ここはどこか、わたしはだれか、それらよりも先にわたしの疑問は、足元を埋めるこの白い灰に行き当たりました。

「これか。……私も、すべてを見ていたわけではない。ただ……」

 その人はすぐ後ろの遠景を指で指し示します。上辺を雲に覆われた高い山がそこに大きく見えました。もしくは、雲ではなく……。

「山の怒りを買った、それがこの結果らしい」

 この降り積もった灰は、あの山から吹き出てきたもの、ということなのでしょうか。

「そうだ。かつてここにあった都市は丸ごと呑み込まれ、灰の地面の中へと消えた。都市だけじゃない。この国の領土のほとんどすべてが、一夜か二夜にして灰の下に埋もれ、消えた」

 わたしはそれを聞いてただ呆然とするしかありませんでした。何も知らずに見ればこの場所は、ただ草木の生えない砂漠と変わりないのですから。さかのぼれば少なくとも、この足下には人の営みがあり街の喧騒があって、それが今は、時折吹く風に巻き上げられる砂埃の音しかありません。

「生存者はほとんどいない、とされている。実際にその死を確認できているわけでもないからあくまで行方不明とされているだけだ。だが、噴火後の強烈な熱とこの量の灰で助かっているはずもない」

 では、わたしはなぜ助かっていたのでしょうか。

「わからない。あの硝子の棺が何か関係しているのだろうが、一目見て、あれは私が理解できる代物ではないと判断した」

 となればおそらく、わたしについてもこの方は何も知らないのでしょう。ならば、抱える疑問はあと一つです。助けていただいたあなた自身について。

「私か?私は……」

 疑問を投げかけるとこの方は少し黙ったのちに語り始めました。

「私はウォーレンだ。この騒動を聞いて、この都市に住んでいた姉を探しに来た。助かってもいないとは元から思ったが……どうしても、自分の目で確かめなければ気が済まなかった」

 なるほど。つまり私のことをこの方、ウォーレンさんは全く知らなかったということでしょう。

「あぁ。それこそ、君を見つけられたのは偶然だった。姉は……まぁこの景色を見ての通りだが、少なくとも、君を見つけてやれただけでも、私がここに来た価値はあったと思っている」

 ウォーレンさんはわたしの頭を撫でました。わたしにはその言葉が、自分にそう言い聞かせているように感じました。

「私のことはこれだけだが……君は何も……名前も覚えていないか?」

 わたしはこくりとうなずきました。実際に、わたしには、この光景があまりにも異常なものであることしかわからず、つまりはある程度の知識らしきものは持っているものの、自分が何者か、全く分からないのでした。

「そうか……では、君のことを何と呼ぼうか」

 その質問に、わたしは弱りました。今のところ、自分のことに頓着がなかったものですから。呼び名など、自由に決めてもらえた方がわたしにはありがたいのです。むしろ、ウォーレンさんの呼びやすいようにしてもらえた方がよいとも、わたしは思いました。

「そうか。なら……」

 すこし顎に手を置いたのち、しゃがみ、ウォーレンさんはわたしに目線を合わせました。

「マリー、で、いいだろうか」

 わたしはそれにうなずきました。善ければ、その由来も知りたいとは感じましたが、およそが察せられた気がしたので、むしろこれは聞かないことにしました。

「これからどうしようか。私はもう特に先んじてすることもない。マリー、君がしたいことがあるのなら、私もそれに同行しよう」

 当然、君ひとりを置いて立ち去るわけにはいかないからな、と、つづけました。わたしとしても、非常に心強くとても助けられた提案でした。わたしは、これから何をするにしても、少なくともわたし一人ではどこかで倒れてこの塵の一部になっていることでしょう。それに、わたしがこれからしたいことはひとつありました。


「……君が誰なのか、なぜこの場所にいるのか、それを知りたい、と……分かった」

 彼はうなずくと、わたしに手を差し出しました。

「行こう。疲れたら言いなさい」

 わたしはその手をとってぎゅっと握りしめました。




 灰の丘を、ずり落ちないよう気を付けて歩くと、遠巻きに屋根付きの荷車らしきそれとその傍らに人影が見えました。ウォーレンさんと同じくマスクを着けています。その人影は、こちらに気付くと手を振り、近づいてきました。青白い、よりはむしろ紫色か緑にも思える不気味な肌、頭に髪はなく、大荷物な背負い鞄にはむしろ背負われていると思えるほどでした。

「旦那ぁ!思いのほか早かったでやんすねぇ?」

「あぁ」

 この方は、わたしの方をぎろりと見つめました。その視線から逃げるように、わたしはウォーレンさんの陰に逃げ込みます。その後、何事もなかったかのようにこの方はにこやかに微笑み、

「聞くまでもなさそうでやんすが……目的のもの、ってやつは見つかったんですかい?」

「いや、この子は無関係だ。だが、もう野営地に戻ろうと思う」

 この方はおどけた、もしくはおどけたような素振りでウォーレンさんのお話を聞くと、それは残念でやんしたねぇと、相槌を打ちました。

「では、この子についてはお話を聞いてもいいでやんすか?」

「どちらかと言えば、こちらが聞きたいくらいだ。埋まった神殿らしき場所の中にいた。何か心当たりのある情報はないか」

「神殿でやんすか……なるほど」

 この方は手持ちの小さなノートをぺらぺらとめくりつつ、耳にかけていたペンを手で器用に回していましたが、しばらくして、

「残念でやんすが、あっしからは確たることは何も。また少し調べておきやしょう」

「そうしてもらえると助かる」

 ノートをパッと閉じると、わたしの方に向き直って、不気味な笑みを向けました。失礼に値するのかもしれませんが、わたしにはそれがとても恐ろしく映って、わたしはさらに自分の身体をウォーレンさんの足に擦りつけました。

「おや?あっしは人畜無害なんでやんすけどねぇ。嫌われちゃいやしたか」

「いや、むしろこういう本性も腹の底も見えんようなやつにはこれくらいで正しい」

 ウォーレンさんは、後ろに回ったわたしをかばうように手を回しました。

「こいつは情報屋のようなもんだ。取引さえ正しくやっていれば何もしてはこないが、見ての通り気を許していいような奴じゃない」

「旦那も旦那で辛辣でやんすねぇ……とほほ」

「落ち込んでいるフリはいい。こんなところに長居しても仕方ない」

「へいへい。じゃあ輸送料、勘定は……これでおねがいしやす」

「……おい」

 情報屋さんがカチカチと押してウォーレンさんに突き出した平たい板、その板にある数字を見てウォーレンさんは怪訝に声を出しました。

「行きの時より安いようだが?往復で同じという話じゃないのか」

「それ」

 情報屋さんは、ウォーレンさんの持ち物を指差しました。ウォーレンさんが、丸めた紙を取り出すと、そう、それでやんす、と言って続けます。

「30分前に別口で情報が入りやして、その地図の価値がお売りした時点でも2割ほど安かったことがわかりやした。その分を運賃からマケときやす」

 言いながら、情報屋さんは別のノートを取り出して、何かを書き込んでいました。

「あっしは公平な取引でやらせてもらってやすからね。こっちが損する分にはいいとしても、向こうさんが損するようなことしてちゃあ、信用を勝ち取れやせんから」

「……なら、あやからせてもらう」


 荷車に揺られ、何一つない白色の平野をわたしたちは行きました。独りでに動く荷車は、初めはそれはそれは奇妙に映りましたが、次第にそれも当然に思えて気にもならなくなりました。情報屋さんは、荷車の先頭付近に座り、数十枚の紙束とかわるがわるのにらめっこをしながら、私たちに向けとりとめのないような話を投げかけました。背負っていた荷物も今は荷車の隅に寄せ、体躯が半減したように見えます。ウォーレンさんは投げかけられた話題のすべてを、「あぁ」、「そうか」の二種類で返答するか全くの無視のいずれかで応じていました。わたしはというと、この御仁に温情を感じてないでもなくせめて何か答えるべきかとも思いつつ、灰を巻き上げる風の音に甘えて沈黙を通しました。しかし、情報屋さんは絶えず明るく妙に景気のよさそうな声で言葉を続けていました。

 この砂中の行軍の最中に太陽は二度沈み、夜間に情報屋さんが用意した焚火にあたりながら提供された携帯食を頂きました。至れり尽くせりというものです。誤りであることは明らかですが、わたしにとっての生涯初めての食事というものがこれに当たると思われました。保存肉の切り身をパンと調味料と一緒に頂きましたが、頬が落ちるような味がしました。舌の上に快感的な感覚が乗る、ということ自体がわたしにとってはかなり印象深いことであり、調味料の舌を刺す辛さのみが個人的な唯一の不満点でした。ウォーレンさんは決まって何も言わずに食していました。辛くないですかと尋ねても、

「これくらい刺激がないとものを食べていると感じられない」

のだそうです。味覚の多様性を感じました。わたしもこの辛さがおいしく感じるようになるのでしょうか。

 木の車輪軸の軋む音が幾度かの周期を刻んだころに、瞼の先がつり下がりそうになったわたしの肩を揺らしたウォーレンさんは、目線でわたしにその景色を示しました。周辺は既に積もる灰の高さがかなり低くなっていることが見て取れて、煤以外の、たとえば石壁が強く焼かれたような匂いも混じり、それに合わせていくつかの人工物と、人工物だった瓦礫も散見され、その黒と灰色の我楽多の寄せ集めの中に、いくつもの布テントが群生する植物のように不自然に生え揃うそれは、間違いなく人の気配を感じさせるもので、先にウォーレンさんが話していた『野営地』であることもわたしの目に明らかでした。

「では、この辺で」

 人の足では野営地までまだ距離がありましたが、情報屋さんはそこで荷車を止めました。わたしがそのことへ疑問を感じていると、ウォーレンさんは、

「こんな人間だ。人の多い場所では邪険にされる」

とつけました。

「何度も言っていやすが、あっしが遠ざけられてるんではありやせんよ。あっしが連中を遠ざけているんでやす」

 ウォーレンさんの手を頼りに荷車から降りると、情報屋さんは薄気味悪さの含まれた笑顔で、それとない別れを惜しむ言葉を並べました。そして去り際に、あっ、と急に何かを思い出したように振り返り、

「そうだそうだ、言い忘れてやしたが」

と、これまたノートを一つ取り出して、

「帳簿の名前、変えておきやすね。の旦那?」

と言い残し、最後までケタケタとした笑みのまま大荷物と共に消えていきました。ウォーレンさんは、最後の一言に承服と苦言を同時に吐き出そうとするような難しい顔をしているように見えました。マスク越しでしたのでこれは定かではありませんが。




2023.06.30.一部改稿

2023.07.06.一部改稿

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