汚れた血


水の中の鳥。全部がどうでもよくなる瞬間。どうせ水ですら勿体無いと思うんだから、本当はコンビニにチョコレートを買いに行きたいのだけれど、その帰りに桜でも見て帰ろうかと思ったのだけどれどもう、それも明日でいいと思った。家に帰る頃、まだ外は明るい。影が二重三重に重なりながら、夜は増えていく。消えて無くなる愛。純正の愛。どこまでも奥のほうに入っていく。過去に生きている。過去に囚われ続けている。

自ら施したことでは無く、避け難く施された、他者からの行為を一つ一つ拡大して補正する。全てが最悪のタイミングで絡み合った人生を補正しする。

遍く事物を注意深く観察し、正しく輝く側面を知覚する。流行歌に潜む、耄碌した老人の咳払いを聞き分けられる。たった一言で、端から端まで、その道に並ぶ店の名前を言える街。水底に沈んだ花々の暮らす町。かつて美しかった男女が住んでいる町。


夜のアパート。誰も居ない。もう三十年も、あなたの声を聴いていない。わたしたちは、一時間も二時間も、同じ人間をただ一筋に愛せるだろうか?ガラス越しに見つめ合うだけで、愛を通わせることが出来るだろうか?──身体性の欠落した名前だけで、真実を反映する瞳だけで、あるいは何も歌えなくなった唇だけで。

本当はどこにいるべきだったのか、なんの電車に乗り、どの街のどんな建物の中で、誰と何を語らえば良かったのか。部屋にはなんの花を飾れば良かったのか。わたしたちは今どこで眠るべきだったのか。

あたたかい卵を撫でる。小さな男の子の頭を撫でる。子供特有の、細くてさらさらした髪の毛を撫でる。男の子は、形の綺麗な頭を、手のひらに載せて寝転がり、どこか遠くを眺めている。青っぽい空。菜の花畑。賢そうな長い睫毛。疑り深い瞳。細い鼻根。


何回でも同じ音を聴かせてあげたいと思う。五月に届く新しい笛。矛盾をはらんだ前時代的な釈明。あなたを思い切り殴ってみたい。眼鏡の上から思い切り殴ってやりたい。逃げられない挫折感に打ちひしがれて欲しい。死の恐怖を感じ、圧倒的な暴力に慄いて欲しい。死の瞬間を強烈に感じさせてやりたい。

同じことを同じように感じたかった。誰とも違っていたくなかった。身体中、全身に色んな花の茎や蔦が絡みつき、大小さまざまの虫が蠢いている。これまで見た如何なる芸術作品よりも、人工物よりも、自然物よりも超越する崇高性を湛えていた。

花の蜜を垂らして撫でる。花の蜜を垂らして舐める。葉脈が痙攣する。それほど特徴的でも無い声。誰にでも真似出来る歌声。花の中に降り続ける雨。

実体験も実感も伴わない、仮初めの言葉を置き、その場をやり過ごす。あまりに疲れてため息も出ない。何十時間分もの言葉を、たった一つで表そうというのがそもそも滅茶苦茶なのだと思う。


あなたのその楽観的な考え方に、しばしば閉口する。あなたは誤っていると指摘したくなる。心から謝罪するまで首を絞めてやりたくなる。充血した目で哀願させ、赦しを乞うまで少しずつ力を込める。心臓が止まる兆し。

自分以外の愛を見たことが無い。どこにそんなものがあるのかも分からない。

いつも階段をすごい速さで駆け下りていってしまう。一度も追いつけない。羽のような体。乾いた花。乾いた草。乾いた鉄。乾いた雲。乾いた土。乾いた水。あたたかい海の底で鎖に繋がれている。疾うに酸素は無くなっているが、苦しみは無い。息苦しさを感じる直前に、死の快感が押し寄せる。大きな体。優しかった頃の母の裸のような形。

自らあの絶望的な無価値感を反芻している。平仮名だらけの優しい文体。わたしには到底出来ないような愛らしい発音。可愛い声。女の子の声。ヘロイン中毒の女の経血。

眠らずに、睡眠に近い効果を得られる薬があればいいのに。もしくはたった一秒の睡眠で、十時間眠ったのと同等の効果が得られる薬があればいいのに。

もうその光が、一体何色に輝いているのかも分からない。彩度を失った景色。次々と閉館していく映画館。馬鹿が金を持っている。酒を飲んで息を深く吸い込み、外国の本を読んでなるべく何も考えないようにする。これを書くのだって頭を使わないためだ。何かを考えないようにするためだ。何かを文字にしないためだ。

文字を書き連ねている間は、何も考えないで済む。ただ目の前にある光景を、なるだけ詳らかに記述していけばいい。それが夢だろうと現実だろうと、嘘だろうと真実だろうと、確かに目の前にあるのであれば、一つも漏らすことなく、ただそのまま文字に変えていけばいい。誰にも見えない場所。自分ですら手の届かない場所。醜い乞食の男だけが掴める真実。花の蜜を垂らす。乾いた舌で舐める。感受性を閉ざし、ただ聞こえる音に耳を傾け、英語の聞き取りテストでもするかのように、それらを文字にしていく。

境界線が膨張していく。知らない人の嘘が尤もらしく感じられる。その子をピストルで撃ったのはわたしだよ。と彼に告白する。口の中にピストルを突っ込んで、たった一発で死んだ。綺麗な長い髪の毛。わたしとは比べものにならない美しい顔と華奢な体。彼の愛した顔と体。わたしが殺した顔と体。汚れた血。眼鏡の向こう側から覗く、濡れた野良犬を見つめるような蔑んだ視線。


懐かしい記憶の数々。死を挟まなくとももう二度と会うことの無い人々。好きな歌の中国語バージョンが流れている。原曲は中年男性が歌っているが、こちらは可愛らしい、幼い少女のような歌声に変わっている。幸福感以外何も感じられない。どこにも消えていかない夢の一つ一つが、言葉となって目の前を駆け巡る。

舌の先から溢れ出す、きらきらとした光。綺麗な形をした、花のような飾り模様の施された車輪に轢かれる。骨が砕ける優しい音。冬のよく晴れた空。銀色の葉が咲く遊歩道で、小さな骨が砕ける優しい音を聴く。もう居ない人。もう会うことの無い人。愛しているが、話したいことが何も無い人。愛しているが、その存在以外の何にも興味をそそられない人。最初からどこにも届かなかったように、嘘と裏切りだけが積み重なっていく関係。花が重なっていく。花びらが一枚ずつ、何十色もの花びらが順番に重なっていく。

わたしたちがどこに行ったのかは、結局誰も知らない。白い花を細い指先で揺らしながら、窓の外を眺めていた少年の姿を想像する。子山羊の首についた、大きな鈴の音を想像する。山の向こうで、雲の動きを追う少女の微笑を想像する。母親を亡くした青年の涙を想像する。自らの腕に、錆びついた、黒い蛸の脚が落ちるのを想像する。

小さな叫びがどこまでも響いていく。ねずみの住むような隙間にまでも響き渡っていく。どこに居ても感じる。

──甘いチョコレートとキャメルとココアを、これから死ぬまで、いくつでも買ってあげる。だから、永遠に離れないでいて。


指の隙間から覗き込んで、霧の中から青っぽい影を探し出す。黒い髪の毛。赤い唇。粗い粒子の雨粒。少しずつ全身が濡れていく。どこかもわからない、薄暗い森。湿った落ち葉を踏み締める。草が雨水を吸って、息を吐き出す。このままここで、誰にも知られずに死んでいくのだと悟る。限りない孤独と、そして同時に果てしない自由とを感じる。これまで出会ったすべての人が、たんなる、よそよそしい幻であったと知る。

霧の中の十年と一日。雨と曇りとを繰り返し、ひたすらに同じ場所を歩き続ける。いくつもの空想をする。そこにはいつも誰かが居て、いつもその誰かとわたしは、優しさを惜しみ無く交わし合う。何の見返りも必要ない優しさをあらわし合う。湿った葉を踏み締める音。たまに小枝を踏む音。わたしの空想と、何の関連も持たないそれらの音。わたしの空想に、何の影響も与えないそれらの音。わたしの空想の輪郭を少しも犯さないそれらの音。

暗い葉の上で夜を迎え、暗い葉の上で朝を迎える。常に薄暗く誰も居ない。何の気配も感じない。見たこともない現実を思い描く。遠い昔にあった光。たった一人で死んでいく。どうしても、あの部屋のことを考えたかった。西向きの部屋で、いつも悲しい感じがした。会ったことのない人間の気配が、そこかしこに転がっていた。わたしはその人間が、自分にとって、重要な他者となり得ることを知っていた。だからどこにも届かないように、山を二つも三つも越えて、この暗い森の中に来たのだ。湿った暗い森。孤独はすぐ、予想通りに作り上げられた。それでも、愛されるよりよっぽどマシだと理解していた。

悲しい夜が続く。妄想が真実より力を持つ。少し太った木々の間を見つめる。誰も居ない夢の中を見つめる。ただそこにあるものを見つめる。綺麗に音が裁断されていく。自分の行いが、本当に正しいのか分からない。湖の淵に、白い馬が佇む時、折首を屈め湖面に口をつけ喉を潤している。口の中の皮膚がずたずたに引き裂かれている。拷問のような日々。熱い炎に指を浸す。怒りと苛立ちと不信感が身体中を包む。誰の気持ちも知りたくない。その人自身であって欲しいことなんて何も無い。命は無数にあり、どこまでも続いていく。全てがたった一つに収斂されていく。自分以外に与えられた永遠の命。遠い彼方で、輝く天国の姿を見上げ、涙する。

小鳥のような靴音。二時間かけて薬を飲み込む。狭いエレベーターの中で、連続殺人犯と隣り合う。黄色いジャケットのポケットに、バタフライナイフを隠し持っており、8階で降りようとしたわたしを、後ろから襲い滅多刺しにする。小鳥のような靴音。赤い血がグレーのカーペットに染み込んでいく。死を悼む。誰も悪くない悪事。望まれた死。薔薇の花は香る。瞳の奥が腐っていく。自分を助けるには、死ぬよりほか残された道は無い。わたしには、もうそれしか無い。誰かに助けを求めるのは、馬鹿げている。薄明るい死。ベランダの外で、風に揺れている死。春の花のような死。ジョアンの弾くギターのような死。一度にいくつものことを感じる。一度にいくつもの言葉を話せればいいのにと思う。それが誰の耳にも聞き取れなかったとしても。

モザイクと雨の染み、三つの目から涙を零している。いつもあなたの話だけをしている。いつもあなたのことだけを考えている。でも、もうどこにも無い。何も無い。55番道路を走る。壊れかけの車。青い車。すみれ色の夕焼け。失われた記憶の中に、一つも損なわれずに、若々しい姿で佇む情感。ゆっくりと舞う響き。神の手が支える響き。穏やかな終わり。誰の目にも留まらなかった姿を、神々が見ている。慈悲と冷酷さを併せ持った双眸で見ている。美しい鼻先。もう二度と会えない。乾いた肌。なかなか変わらない信号を待っている。向こう側から何十人、何百人もの人間が渡ってきて、次々にわたしにぶつかり、よろめき、硬い靴で踏みつけてくる。誰にも見つからなかった死。わたしの脳がでっち上げた愛。

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