お化け桜が咲く頃に

不屈乃ニラ

「先輩、卒業おめでとうございます」


 いつもと違う髪型の彼女に、僕はそんな祝福の言葉を投げかけた。先輩は、僕の言葉に小さく「ありがとう」と返す。


 巻かれた綺麗な黒髪は花のモチーフがついた髪飾りに彩られ、艶やかな光をたたえている。普段より主張の強いアイメイクとチークも、彼女の凛とした美しさに強さと華を添えていた。


 校則が厳しいことで有名なうちの高校も、今日だけは化粧も髪も暗黙の了解、というところなのかもしれない。


 少しばかりまじまじと見つめすぎてしまっただろうか。彼女ははにかんだ笑みを浮かべつつも、所在なさげに視線を彷徨わせた。


 目の前の彼女は、僕のひとつ上の先輩だ。知り合ってからは二年弱になるだろうか。そして今日、彼女はこの高校をめでたく卒業し、この春から東京の有名な大学へ進学する。


 先輩は感慨深そうな顔で、もうすっかり寂しくなった部屋を見渡した。ここは、旧校舎にある文芸部の部室。この一年、僕と先輩だけが所属し、今年度で廃部になる部活の部室であった。


 本来は、一年前――当時の三年生が卒業した時――に、部活として成立する最低人数を満たさなくなり廃部となるはずであった。


 だが、今年でちょうど定年を迎える顧問の計らいもあり、最後のもう一年だけと今まで存続していたというわけだ。部室の片付け自体は殆ど終わっており、残すは私物や学校で処分できないものを持ち帰るだけである。


「まだ月末まで使ってよかったのに」

「先輩も居なくなりますし、今日で終わりにしますよ」


 先輩のからかうような声に、僕はどうにかそう答えた。こんな言い方は、少し気持ち悪かっただろうか。元々、僕はあまり人との会話が得意な方ではない。気恥ずかしさに視線を窓の外へと向ければ、満開の花を咲かせた桜の大樹、通称『お化け桜』が目に入った。


 立派な大樹ではあるが、正門側の桜並木が有名なせいで誰もわざわざ見に来ない、不憫な桜である。木の幹の模様が人の顔に見えるから『お化け桜』なんだとか、そんな話だった気がする。


 老木だからか知らないが、年々開花が早まっているとも聞く。だが、今日この日に満開になってくれたことには、素直に感謝したいと僕は思った。


 何故って、先輩はあの桜に大層ご執心なのだ。僕と先輩が初めて出会ったのも、あの桜の下だった。


 僕たちが今いる旧校舎は来年度取り壊しが決まっている。二年後の他校との合併に向け、新校舎や体育館を建てるらしい。だが、その頃には自分が在籍している訳でもない。それに関しては大した興味はないのだが――――。


「ねね、聞いた? お化け桜のこと」


 先輩の声に僕は小さく首を振った。彼女の表情を見れば分かる。あれは、自分が話したくて仕方がない顔だ。普段からにこやかな彼女だが、この二年弱で僕も大分その裏の感情が分かるようになっていた。だから僕は、彼女が気持ちよく話せるようにお膳立てをすることにした。


「お化け桜って、旧校舎の取り壊しと同時に伐採が決まってましたよね?」

「そうそう。……それがね、なんと! 東京の小さな図書館に移植して貰えることになったんだって!」

「……へぇ、そうなんですね」

「何それー。もっと驚いてよー!」


 だって、全部知ってましたから。僕はそんな言葉を飲み込んで、肩をすくめた。そう、知っていたのだ。どうにかあの桜が残せるよう、先輩が色々な所に自ら掛け合っていたことを。やがて、顧問から教職員、卒業生をも巻き込み、それを実現させたことを。……僕はそれを、ここの卒業生でもある母親から聞いた。


 あれだけの大木で且つ老木である。その移植が困難であることは容易に想像できた。業者の選定から資金調達にスケジュール調整さえ、彼女が中心になって決めたというのだから驚くばかりだ。ちなみに受け入れ先は、一番沢山お金を出してくれた昔の卒業生のところらしい。


 そんな大変な状況にあっても、先輩は決して僕に手伝ってと言わなかったし、あの桜の移植に関して自分が関わったなどと言わない。この人はそういう人なのだ。


 この半年、先輩は受験もあってすごく忙しそうにしていたし、本当に珍しく疲れを滲ませていることもあった。それでも、やっぱりここが落ち着くからと足繁く部室に通っては、僕と他愛のない話をしてくれていた。


 だから、僕はそんな先輩のことが――――、正直苦手だった。


 あまりにも……、そう、あまりにも眩しかったからだ。その光で、僕がどれだけ矮小な人間なのかを、くっきりと浮かび上がらせるからだ。


 先輩は殆ど何でも出来た。成績も良かったし、この部室を飾っていた賞状や盾のほとんどは、彼女を称えたものだった。形だけの文芸部で、活動報告のためだけに適当に書いて応募したというのに、だ。


 僕はきっと所謂人格破綻者の類なんだろう。矛盾するのは自分でも分かっている。それでも、彼女と過ごす放課後のひとときはとても心地よかった。


 彼女はいつも僕の話を聞きたがった。本当にくだらない、日常の些細なことを知りたがった。それが何故なのかは、よく分からない。


 先輩は元々何を考えているのか分からないことがあったし、掴みどころのない人ではあった。だが、何故か昔から僕に構った。そして、これも本当によく分からないのだが、僕は先輩にだけは何だって話せた。心の奥底にあった、ある感情を除いては。


 先輩は、聞くのが上手なのかもしれないし、壁を作るのが上手なのかもしれない。彼女は、絶対に僕の深い所に踏み込まない。そして同時に、彼女自身もまた、その本心をいつも隠していたように思える。


 僕たちはある意味、似た者同士だったんだろう。上手に周囲に溶け込めない、という点で。僕と先輩の理由は違うだろうけれど……。


 これは本人に聞いたわけではないが、僕は間違いないと思う。今だって、新校舎の方からは未だに卒業生たちの多くの声が聞こえてくるというのに、先輩はここに居るのだから。


「――――あ」


 それは、どっちの声だっただろうか。少しの沈黙を破らせたのは、窓から吹き込んだそよ風だった。部室の中央に置かれた大きな長机。その上に無造作に置かれていた写真が舞うのを、僕の右手と、先輩の左手が止めた。


 いつもこの机を囲んで部員たちは活動していた。年季の入った重厚な木の机の上に散乱している写真たちは、つい先程まで壁のコルクボードに貼られていたものたちだ。


 それは、部室に残されていた古いフィルムカメラで撮られたものだ。先輩は無言で、いくつかの写真を撫でると、一枚の写真を手に取った。


「ねぇこれ、私が貰ってもいい?」

「あ、はい……。いいですよ」


 僕の了承の声に、先輩はにこやかに頷く。その写真には、執事に扮した僕とメイドに扮した先輩が写っていた。恥ずかしそうに俯く僕と対象的に、満面の笑みの先輩。


 あれは僕が一年生の時の文化祭――。当時の文芸部の三年生たちの悪ノリのせいで、とんだ恥をかくことになった時の写真だ。今思い出しても耳が熱くなる。


「この時のキミ、傑作だったなぁ」

「いつまで言ってるんですか……」


 先輩は気付いているだろうか。あれは、唯一僕と先輩が二人だけで写っている写真だ。そして、文句なしに先輩が一番可愛く写っている写真でもあった。


 先輩は、その写真をとても大切そうに自身の鞄へ仕舞う。僕は少しばかり後ろ髪を引かれるような気持ちになった自分が嫌になった。


「一枚だけで、いいんですか?」


 僕の問いかけに先輩は頷くと、その鞄を手に持った。僕はそれで、先輩との時間が間もなく終わることを悟る。


 僕は先輩の連絡先を知らない。知る手段はきっとあったのだが、今更だし、彼女もそれは望まないだろう。何か機会がなければ、もう一生会うことはないのだ。


「……少し、歩かない?」

「今日くらいは、正門まで送りますよ」


 先輩の問いかけに、僕はそう答えた。この高校は正門から出てすぐに駅があり、先輩は電車通学だ。僕はいつも裏門から出て徒歩で帰るが、今日は特別だ。


 僕は部室の窓を閉めると、同じく部室の鍵だけを手に取った。まだ全部の荷物が片付いたわけじゃない。後で戻ってくればいい。


 小さな声で部室に「ばいばい」と告げた先輩と一緒に、旧校舎を出て渡り廊下を歩く。空は間もなく茜色に染まるだろう。傾きかけた太陽は、僕たちの影を長く伸ばしていく。春の陽気は、既に早退してしまったようで、僕はブレザーを部室に置いてきたことを後悔しつつあった。


 先輩は近くの自販機でパックジュースを買うと、「これも飲み納めかー」などと笑う。まぁ確かに、ここの自販機でしか見かけない飲み物なのは確かだ。


 ローファーを履いて中庭に出た僕たちは、どちらともなくベンチに腰掛けた。卒業式の日だからか、隣の先輩からは、いつもより華やかな香りがした。お化け桜が夕日に輝く様子を眺めながら、僕は先輩がジュースを飲み終えるのを待つ。


「ねぇ覚えてる? あそこで初めて会った時のこと」


 お化け桜の根本に視線を向けながらそう問いかける先輩に、僕は一度わざとらしいため息をついてこう答えた。


「忘れるわけないじゃないですか。だって第一声が『え、生きてるの? 変死体じゃなかったんだ。残念ー』なんですよ?」

「あはは……。あの時の私はミステリに傾倒しててさ。桜の根元と言えば、的な? ……あと、二度と私の声真似はしないでね?」

「分かってますって。でも、あの時は本当に、『めちゃくちゃ変な人に絡まれた。どうしよう!?』ってなりましたよ」

「めちゃくちゃ変な人とは失敬な。入学早々、授業サボって寝てた人には言われたくないし。……それで? 実際一緒に部活をしてみてどうだった?」

「まぁ普通に変な人でしたね」


 僕がそう言うと、先輩は可愛らしく「もう」と言って頬を膨らませた。僕は、そんな先輩の横顔を見ることに罪悪感を感じ、目をそらす。


 僕が手持ち無沙汰に周囲を見渡したのだと思ったのだろうか。先輩は、手に持っていた飲みかけのジュースを差し出し「いる?」と聞いてきた。


 先輩は時折、妙に思わせぶりな行動を取る。だがそれは、彼女にとってはただの暇つぶしに過ぎないと、僕は分かっていた。からかわれているだけだ、と。


 だから僕は、今日くらいはと勇気を出して、そのパックジュースを手に取った。驚いた表情の先輩が見れただけで儲けものだ。そう自分に言い聞かせると、顔の熱さを感じながら一息にそれを飲み干す。


 味なんて分からなかったが、少なくとも後味は強烈な甘さであった。先輩は少々変わってはいるが、顔はいい。悪い気はしなかった。……彼女はそうじゃないだろうが、まぁ自業自得だろう。


 二人の間を沈黙が支配する。僕は先程の行動のことを、家に帰ってから死ぬほど後悔するだろう。これは確定事項だ。


 そんな沈黙を破る機会をくれたのは、お化け桜だった。風に吹かれ、その枝を揺らすと夕日を浴びた満開の花たちがこちらに手を振るように揺れ、空に舞い踊る。


「こういうの、零れ桜って言うんでしたっけ? 文芸部的には」

「うん、そうだね。凄く綺麗……」

「僕が今まで見た中でも、間違いなく一番綺麗だと思います」

「ねぇ。もし、だけどさ……。また、三年――――」


 何かを言いかけた先輩であったが、力なく首を横に振り、口をつぐんだ。何故かその様子が胸に引っかかった僕だったが、どうせ『また三年生をしたいって私が言い出したらどうする?』的なことを言うつもりだったんだろうと自分を納得させる。


 アンニュイな気持ちになりながら、桜を眺めること数分。意を決したように立ち上がった先輩に続き、僕も立ち上がる。


 先輩はゆっくりとお化け桜の下まで歩くと、こちらを振り返り微笑んだ。


「キミが最後まで居てくれて良かった。今日まで、本当に、本当に楽しかった。文芸部に入ってくれて、ありがとう」


 そう言って、先輩はその頭を下げた。そんなストレートな言葉に、僕はしどろもどろに、「……あ、はい。僕も、楽しかったです」などと、情けない返事を返した。


「あ、そう言えばさ。キミ、彼女とはうまくやってんの?」

「……えっと、彼女って?」

「そりゃ、キミが前に話してくれた恋人のことに決まってるじゃん?」


 何でこのタイミングでそれを聞くかな、と僕は心の中で毒づく。先輩は何故か地面ばかり見ているようで、その真意を測ることはできなかった。


「いや、いつの話をしてるんですか? 入部したばっかりの時の話ですよね、それ。もうとっくに別れましたよ」

「えぇぇぇ!? 嘘!? いつ!?」


 急に大きな声を出した先輩に困惑しつつ、僕は「一年の夏休み前には」と答える。すると先輩は、「はぁぁぁぁぁぁ……」とため息なのかどうか最早わからない声を出して項垂れた。


「先、輩……?」


 突然の先輩の奇行に、僕は恐る恐るそう声を掛けた。すると先輩は、下を向いたままこう呟いた。


「なんだ、私にもチャンスあったんだ」


 僕は一瞬その言葉の意味を理解できなかった。文脈から考えれば、そうに違いないとは分かっていたのに、頭が理解することを拒否していたようであった。


 だって、有り得ないから。相手は、あの先輩なのだ。


 しかし、顔を上げた先輩の瞳が微かに潤んでいることを認識した僕の頭は、凄まじい速度で回転を始めた。何か言わなくては。とはいえ、僕の口からこぼれ出たのは、言葉にすらなれなかった音で。


「あ、えっ? はい?」


 僕のそんな態度に業を煮やしたという訳ではないだろう。単純に気恥ずかしさがあったのかもしれない。分からないが、先輩は何も言わずに背を向けて歩き出してしまった。


 頭の中を錯綜する断片的な情報が、先程の先輩の言葉で繋がり、急速にひとつの解を導き出そうとしていた。しかし、その答えが出る前に、彼女は行ってしまう――。


 このまま行かせてはいけない。僕は思わず手を伸ばし、その背中に叫んだ。


「待っ――!」


 しかし、必死に絞り出した声は、最後まで続かなかった。


 夕日と桜吹雪の中、振り返った先輩の笑みが、あまりにも――。

 そう、あまりにも、綺麗だったから。


「じゃあね!」


 先輩はそう言って走り去る。

 時が止まったように凍りついた、僕を残して。

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