4、夫の秘密と、夫婦の結末

 雨上がりの青空が広がる朝。

 マリアンヌはナーシュと手を繋いで公爵邸の庭園を散歩した。

 

「朝に妻の笑顔をみると、今日も一日がんばろうって元気が出るんだ。私に元気をくれてありがとう」

 ナーシュはそう言って繋いだ手を揺らした。

「今年は豊作なのだけど、税収記録を確認したところ特定の地域に過度な負担がかかっていて不満の声があがっているようなんだ。対策案を練って兄に提出しようかな」

「改善案ですか……そういえば、父も『能力比例の原則』という論文を書いていましたね」 

「うん。論文は興味深い内容だったよ」

   

 庭師が精魂こめて作り上げた庭園は、美しい。


「綺麗だよ、ごらん」

 と言われて見あげれば、樹木の葉の輪郭が淡くけぶる陽光の金色に縁取ふちどられて神々しい。

 枝垂れる緑は透きとおる朝露を幾つも抱いていて、きらきらしていた。

 

「ダイヤモンドの髪飾りをマリアンヌに贈りたくなってきた。贈るね」

 熟れた花の芳香を含む涼風が頬と髪を撫でていく。こころよい感触にひととき瞳を閉じて、マリアンヌは屈託のない笑顔を返した。

「私への贈り物は、この美しい景色と素敵な夫と過ごす時間で十分です、ナーシュ様」

「そう? でもあの朝露の光輝くさまを見ていたら、対抗意識が湧いたんだ」

「朝露に対抗なさらないでください」


 爽やかな庭園の香りと彩に包まれて、二人は顔を合わせてくすくすと笑った。

 

 午前の時間は穏やかに過ぎた。

 微睡まどろみを誘うような暖かな昼過ぎになると、マリアンヌは新しく雇った使用人に女主人として挨拶をしてから夫の部屋を訪ねた。

  

 扉が開いている。猫が隙間からひょっこり入っていく室内は、分厚い本が大量だ。本棚にも、机にも、椅子の上にも。

「あら」

 開いた扉の向こうに、ナーシュが机に突っ伏してうたた寝しているのが見えた。マリアンヌは音を立てないように近付いて、近くにあった肩掛けブランケットを夫の肩にかけた。


「んなぁお」

「しーっ、ナーシュ様はお疲れなの……」

 愛らしく鳴く猫に微笑んだ時、マリアンヌは猫が前足でぽふぽふ突っつく日記帳に気付いた。


(あら、これは)

 ページを開いた形で置かれた日記帳の文字が、中身を見ようとしなくても目に入ってしまう。


『婚約者がいる令嬢を好きになってしまった』

 夫の筆跡だ。書かれた文章のインパクトがあまりに大きくて、マリアンヌは凍り付いた。


(これ、は……ナーシュ様の……) 

 

『でも、相手の男との仲はあまりよくないようだ』


『素行を詳しく調べたら、相手の男はお忍びで娼館通いしているではないか。あんなに天使のような婚約者がいるのに許せない。あの男に彼女を幸せにできるとは思えない』


『私のものにしたい。独占したい。あの男の隣に彼女がいるのが我慢ならない』


『彼女は私のなので、他の女性を探せと言ってやったらどうだろう』 


「これは……」

 早鐘はやがねのように打つ心臓が騒がしい。この音が夫に聞こえてしまったらどうしよう、と思いながら、マリアンヌは胸を抑えた。胸が苦しい。


「ナーシュ様は……道ならぬ恋をなさっているの? わ、私以外に結ばれたい相手がいるの……?」


 呟いた瞬間、窓から吹き込んだ風がぱらりと日記のページをめくる。


 すると、掠れた声がした。

「どうしてそのような解釈になってしまうのかな……」

 ナーシュだ。

 寝起きの夫は、髪をかきあげるようにして妻を見ていた。


「ナーシュ様」

「うん……」 

 

 ゆっくりとした仕草でナーシュが立ち上がり、その手がマリアンヌの肩に触れる。

 びくっと強張こわばる妻の細い肩に気遣わしげな表情をして、ナーシュは言葉を続けた。


「その……今、すごい誤解をしたね、マリアンヌ。これは正さないと大変なことになる……いいかい、あまり堂々と言いにくいのだけど、日記に書いている令嬢とはマリアンヌのことだよ」

「わ、私ですか?」

「そうだ。私は、マリアンヌに懸想けそうしていたんだ」

「ま、まあ」

 

 夫の声が語る。

 引き篭もりがちなナーシュが気紛れに夜会に出たときの話を。

 婚約者に放置された令嬢が庭園に出ていくのをなんとなく追いかけていって、迷い猫とたわむれているのを見かけたのだと。


「それがなんとなく忘れられなくて、気付けば猫を飼っていた」

「な、なぜ猫……」

「なんとなく……いや、猫を愛でていると、美しい思い出がよみがえるようで。飼ってみると猫好きになった。あの自由気ままな姿がとてもいいね」

「私も、猫はのびのびと生きている姿が素敵だと思います……」

 

 ナーシュが渇望を秘めた熱い眼差しをみせたので、マリアンヌはどきりとした。


「マリアンヌ、君を愛してる。好きなんだ。……それで、自分のものにしてしまった。こんな私を受け入れてくれるだろうか。嫌かな」

 

 ああ、とマリアンヌは理解した。

 あの奇妙な婚約破棄と、異様な速度で進んだ結婚は、王弟ナーシュの権力によるものだったのだ。

 

 恥ずかしくて逃げ出したいような気分になりながら、マリアンヌは夫に微笑んだ。

「私、他の令嬢にナーシュ様が恋焦がれているのではと思った時、悲しくなったのです。それが私だとわかった時は……う、嬉しく思いました」


 好きなのだ。

 自分もまた、この優しい夫に好意を抱いているのだ。


「君……嫉妬してくれたのかい。本当に? 嬉しいな……っ」 

 マリアンヌがそう想いを告げると、ナーシュは幸せそうに綺麗な笑顔を咲かせた。

 そして、マリアンヌに身を寄せた。


「私は、妻に接吻しても構わないだろうか? キスをしたい」

「は、はい……っ」

 

 真っ赤になって頷くマリアンヌの頬を、宝物に触れるようにナーシュの手が撫でる。

 整った顔が近づいて、吐息が鼻先をくすぐる。


 まぶたを閉じれば、震える唇に羽毛のような柔らかさが触れる。

 ふわりとしたそれは、初々しいくちづけだった。


「もっとしたい」

「ん……っ」 

 ナーシュは小さく呟いて、小鳥がついばむようなキスを繰り返した。二度。三度。

「もっと……もっとだよ……」

「あ、あなた……」

「その呼び方、いいね。最高だ」

 

 愛される感覚は甘やかで、心がふわふわとする。幸福感に溺れてしまいそう。


「私の妻だ。私の。私のなんだ……」

 

 独占欲をあらわにして、夫は蕩けるような声で呟いた。 

 妻を自分という檻に閉じ込めるように抱き寄せて。

 マリアンヌの髪を慈しむように撫でながら、甘く優しいくちづけを深めた。角度を変えて、吐息を絡めるようにして。


「――今夜は、寝室をたずねても?」

 夫の切望の吐息が耳をくすぐる。マリアンヌは言葉の代わりに夫のたくましい肩に腕をまわして、ぎゅうっと抱き着いて頷いた。


 こうして、夫婦はより一層、仲良くなったのだった。

 



 ――Happy End!!

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