全体が見えないほど大きい

 徹夜する夢を見ていて目が覚めた。夢で徹夜すると、現実では寝ていたはずなのに、あまり休まった気がしないものだなと新たな発見だ。


 朝ごはんを食べてから、床の掃除とシンクの掃除をする。いまいち加減を掴めず、たくさん洗剤を使ったから、しばらくシンクから塩素の匂いがしていた。

 掃除をするのはさみしい。生活を共にしている人がいるのなら、その人のためにもと、進んで掃除できると思う。ありがとうと言ってもらえるなら、なおさら張り切る。

 人間は生活のような、途方もなく、どこまで続くのか分からない、全体像の見えない行為を自分の為だけに続けていくということが困難なようにプログラムされている気がする。



 掃除しながらアスリートのことを考えた。

 スポーツ選手が「応援してくれていたみなさんのためにも〜〜」なんて答えるのをいつも嘘、というかリップサービスのようなものだと思っていた。団体にしろ個人にしろ競技というのは突き詰めていけば、自分のため以外に頑張る理由なんてない。自分が楽しいから、得意だから、誰より良い結果を出したいから、頑張っただけだろうと。

 だけど、たぶんアレは結構本心から言っているんだろうなと、最近は思う。競技に打ち込み、途方もなく、どこまで続くのか分からない、全体像の見えないほどの膨大な努力をするうち、次第にバランスが取れなくなってくるのだ。「自分」のためというのでは、もう片方に「先の見えない、全体像の見えない労力」の載った天秤に於いて釣り合いが取れない。自分という存在の軽さに耐えられなくなる。そこで、こちらの皿に抽象的だが(だからこそ、と言うべきか)、巨大な「みんな」を勝手に載せ、その「みんな」のためという大義の重みで釣り合いを取る。

 生活も同じだ。果てが見えない中で、自分のため以外にも、一緒に暮らす人のため、という重みを求めるようになる。日々の生活で(ちゃんとご飯作っても、どうせ食べるの自分だけだしな……)などと考えるとき、自嘲的でなく実にナチュラルに自分という存在の軽さに直面しているのだ。



 前のサッカーW杯開催中、見るとはなしにテレビで流していたら、試合に勝ったあとのロッカールームの様子が中継されており、ある選手が「(今ごろ試合結果に湧いているであろう)渋谷スクランブル交差点のライブ映像見せて」とサポートスタッフに指示していて、それがめちゃくちゃキモかった。

 自分のために頑張るというのは、こうも難しいのかと打ちのめされてしまったのだった。

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