第6話:予期せぬ事態

 あそこが第二の人生をすごす場所であるらしい。


 もう後数刻と立たぬ内に到着するであろう無人島を前に、雷志は自嘲気味に小さく笑う。


 順調に突き進めば、何事もなく彼らを乗せた船は無事に到着するはずだった。


 しかし予期せぬ事態が彼らの予定に著しい悪影響を及ぼすこととなる。


 それはついさっきまで青々としていたはずの空に、いつしかどんよりとした鉛色の雲がかかっていた。


 程なくしてぽつり、ぽつりと小さく冷たい雫を海上へと落とし、やがては轟ごうごうと激しい雨となって容赦なく打ち付ける。


 びゅうびゅうと海上を吹き荒れる冷たい颶風ぐふうが、四方八方より彼らに牙を剥いた。


 穏やかだった海は酷く荒れ、船体を激しく前後に揺らす様はさながら怪物が飲み込まんとするかのごとく。


 突然の嵐に見舞われた雷志は、とにもかくにも振り落とされないようしがみつくので必死だった。



「な、なんなんだ突然!」


「嵐だ! かなり大きいぞ!」


「んなもん見りゃわかるわ! さっきまで穏やかだったのに突然こんなに激しい嵐が怒るなんて、普通どう考えたってありえないだろう!」


「ま、まさか……」



 一人の船員の顔から見る見るうちに血の気が引いていく。


 異常事態に男が吼えるように口火を切った。



「どうかしたのか!?」


「ま、まさかこれが……“魔の三角海域”!?」


「なんだって? 魔の……何?」


「“魔の三角海域”! 漁師らの間じゃあ有名な噂話なんでさぁ!」



 いつからその噂話が存在しているか。


 それは誰にもわからない。ただ唯一言えるのは、その海域に踏み入ったが最後二度と陸に戻れないという、恐ろしい言い伝えが漁師らの間にはあった。


 曰く、その海域に入るとさっきまで晴れ晴れとしていたのにひどく激しい嵐に見舞われる。


 そしてこの海域の真の恐ろしさは場所を一定しない、要するに常に動いておりそれはまるで意志を持った一つの生命体であるかのよう。


 辛うじて生還を果たした生存者の言葉だけに説得力があるが、悲しいかな。この話を信じている者はほとんどいない。


 あまりにも現実離れしすぎているのだから、彼らが信じないのも無理はあるまい。


 そもそも、果たして件の生存者が実在していたかどうかさえも、今となってはあやふやで立証のしようがないのだ。


 雷志に至っては、噂話が存在していたことさえ知らなかったのだから尚更と言えよう。


 全員が怪訝な眼差しをする中で、件の船員だけがまくし立てるように声を荒げる。



「そ、その海域には恐ろしい物の怪が住んでいて上を通る船や生き物をこうして嵐で襲って海中深くにまで引きずり込むなんて話もあるぐらいです! い、今すぐ引き返さないと俺達も殺される……!」


「落ち着け! 物の怪など、そのようなものがこの世に存在するはずがなかろう!」


「し、しかし山田浅右衛門やまだあさえもん様! あ、嵐ならばともかく突然こんなにも天候ががらりと変わるなんてことあり得ないですよ!」


「……それは、そうかもしれないが……しかし!」



 次の瞬間、一際大きな波が彼らの船を瞬く間に飲み込んだ。


 人は、海の中ではあまりにも無力な存在である。


 どれだけ剣の腕が立とうと、全身を包む膨大な水のずしりとした重さの前では、さしもの雷志とて手も足も出ない。


 どちらが上で、下か。もみくちゃにされる雷志にはもはやそれを知る術も体力もない。


 視界がどんどん霞んでいき、肺の中にあったわずかな酸素もついに底を尽いた。


 ならばもうすぐ彼に待ち構える結末は、死以外になく。しかしその現実を目前にした雷志の表情はとても穏やかである。


 人は、遅かれ早かれいつかは死ぬ。


 たまたま今日だった、という話にすぎない。



 ――これが俺の最期……なのか。

 ――まぁ、それも悪くない……か。



 雷志はふっと頬を和らげると、静かに瞳を閉じて意識を深淵へと手放した。




 雷志が意識を取り戻した時、そこは広い砂浜だった。


 無事に、とは言い難いがとにもかくにも件の無人島に着いた。


 周囲を一瞥する雷志だが、彼の表情はすぐに暗い影を落とす。


 辺りに人の気配は皆無である。ここは絶海の無人島だ。


 奥に行けば、同類とも出会えよう。



「……あいつらはいない、か」



 彼の視界に映るのは、ついさっきまで乗船した船と思わしき残骸のみ。


 そこに生存者の姿は皆無である。


 あろうことか自分だけが生き残ってしまった。


 その事実に雷志は振り返ることなく、静かに立ち上がる。



 ――あの嵐だ……助かる可能性はないだろうな。

 ――無罪とは言え、俺だけが生き残るなんて……。

 ――まったく、神様って言うのは本当にロクでもないらしい。



 最後に一度だけ、雷志は振り返った。


 彼の視線の先には、穏やかな大海原が地平線の彼方まで続いている。


 雷志は静かに頭を垂れた。


 せめて彼らの魂がどうか安らかな眠りへとつけるように、と雷志は黙祷を捧げた。

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