第33話 対峙する者
少年はセロが腹をくくるよりも早く、駆け戻って来た。
「作業は終わったから、話す時間はあるよって言ってました!……では、ボクはこれで失礼しますね」
そう言い残すと、彼は厩舎へ姿を消してしまった。
少年の行き先を見つめたまま、セロは馬場へ目を向けることができずにいた。首を動かそうとしても、体が石になってしまったみたいに動かない。
仕方なく、セロは地面を見つめた。視界には訓練場の砂と、砂埃で白く濁ったブーツのつま先だけが映っている。
あの人は今、こっちに歩いて来ているのだろうか……それとも、いつものように遠くから見つめているのだろうか。
言うことを聞かない首を無理やり動かして、セロは恐る恐る顔を上げる。
長方形の馬場の入り口で、クウェイは静かに立っていた。
敵と対峙しているときみたいに、緊張や嫌悪を感じることはない。道端で駄々をこねる子どもを、大人しく待つ親のような……そんな感じがする。
どれくらい時間が経っただろうか。夕日はかろうじて沈んでいないが、このままでは、いずれ日が暮れてしまう。
いつまでも、こうしてはいられないのに……どうすればいいのか、わからない。
セロが尻込みしていたそのとき。
学舎の鐘が鳴り響き、寂しい音色が閑散とした訓練場にこだました。
学舎の一日が終わったことを知らせる、夕刻の鐘だ。
時間切れか……。
セロがふり返ると、物見塔を見上げるクウェイがいた。目が合うと、彼は優しい微笑みを浮かべて立ち去ろうとする。
「……!」
その姿を見た瞬間、セロの脳裏にかつての記憶が蘇った。忘れていた訳ではないが、いつか忘れようとしていた記憶だ。
思い出したのは、ある日突然いなくなってしまった、クウェイの暗い後ろ姿だった。
悲しげに微笑んで、逃げるように去って行く。
……そう、今のように。
「ま……待って、クウェイ!」
気がつくと、セロは必死で呼び止めていた。
切羽詰まった叫び声に、クウェイははっとふり返る。驚いたというよりも、心配そうな顔をしていた。
誰よりも驚いたのは、紛れもなくセロ自身だ。慌てていたとはいえ、自分がこんなにも幼稚な声を出すなんて、思っていなかった。
「あ、あの。エクトス……さん。その……ケリーに伝言があるんですが、伝えてもらえますか!」
伝言なんて何も考えていないのに。セロの口は勝手なことを次々と吐き出していく。
クウェイはたじろぐセロを見つめて、そっと頷いた。彼は宿舎に向けていた足を戻して、ゆっくりと歩き出す。
セロは慌てて伝言を考えるが、頭が上手く回らない。
『お元気で。』いや、遠征に行く友達にそれは無いだろう。それなら『頑張れよ。』……いやいや、これだと簡単すぎる。
クウェイを引き止めてまで伝言を頼むんだ。もっとまともな言葉は……ないのか!
「……大きくなったね」
頭上から聞こえる懐かしい声に、セロの息が一瞬だけ止まる。
「しばらく見ない間に、こんなに背が伸びていたなんて。遠くから見ているだけだと、わからないものなんだね」
気がつくと、優しく微笑むクウェイが目の前にいた。
「あ、えっと……。エクトスさん……」
セロは口をつぐみ、クウェイを遠慮がちに見上げた。そんな弱気なセロを見て、クウェイはぷっと吹き出した。彼は唇を指で隠すと、照れたように口を開いた。
「もう僕のことは、クウェイって呼んでくれないんだね……そうだよね。セロはもう、十七歳になったんだから。年上の人を名前で呼ぶのは、恥ずかしいかも知れないね。
でも、もし君がよければ、昔……いや、さっきみたいに、クウェイって呼び捨てで呼んでくれたら嬉しいな」
セロはじっとクウェイを見つめた。
クウェイは微笑んでいるはずなのに、その表情にはいつも、独特の寂しさを感じる。
……昔とちっとも変わっていない。
クウェイは自分が知っている、クウェイのままだ。
こうして対面することは長らくなかったが、それだけはすぐにわかった。
セロは観念して、ため息をついた。クウェイの澄んだ瞳を前に、嘘を貫き通せるとは思えない。
正直に白状するしかないだろう。
セロは重い口をこじ開けて、声を絞り出した。
「ク、クウェイ……あの、すみません。実はまだ、ケリーへの伝言が考えられていなくて……。その、さっきは慌てていて、何も考えずに引き止めてしまって……」
いつになくぎこちないセロに、クウェイは微笑みを消すことなく答えた。
「セロがあんなに焦って僕を呼ぶなんて、今までになかったからね。……わかってるよ。君はどんなに些細なことも、本人に会って話したがるはずだから。伝言なんて、君らしくないなと思っていたんだ」
やはり、すべて見抜かれていたか……クウェイの鋭い勘にはとても敵わない。
自分の未熟さを恥じて、セロは思わずクウェイから目をそらした。
そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、クウェイはセロの答えを待たずに口を開く。これ以上、無意味な沈黙が続かないように配慮してくれたのだ。
「そこに座って、話さないかい?」
クウェイが指さす先には、橋へ続く階段があった。
そういえば……三年前、クウェイが騎乗訓練をしている間、ここに座って待っていたな。
先に歩き出したクウェイに続いて、セロも階段へ向かう。
三年ぶりに見上げたクウェイの背中は、あの頃より多くのものを背負っている気がした。
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