第26話
まるで災害のように雨が降った。あまりにも突発的であった。
アルスは官吏たちから贈られた菓子を食らっていた。病院食は不味くはないが、味が薄く、量も少ない。傍では見舞いのガーゴン大臣が窓の外を眺めている。帰れるような有様ではなかった。
「これも王子が不在のせいなんです?」
嫌味たらしく訊ねた。ガーゴン大臣のここ最近の気の遣いようが気持ち悪かった。そのためにアルスは直後、己の言動を悔いた。甘え過ぎていた。弱みを見せすぎた。
「それは、あるな」
ガーゴン大臣の慎重な態度にもうんざりしてしまう。義理とはいえ、父と息子になるかもしれなかった。その可能性の話は、互いに妙な壁を作っている。
「会議の中核のガーゴン大臣が帰れないんじゃ、大変ですね。もう来なくて大丈夫ですよ。あとは帯魔計を取り除くだけですから」
「すでに王子と王族クリスタルと精霊だけに収まる話ではなくなってきている」
「え?」
ガーゴン大臣はいくらか得意げな顔を見せた。それが私的で、アルスはふと直視できなくなった。
「恩赦を急かさねばなるまいな」
「まぁ、されればいいですけど」
雨が窓を打つ。王都に大雨が降ることは、頻度はそう高くなくとも、あるにはあった。アルスはこの大雨について気にも留めていなかったが、そのうち雨粒ではないものが窓を鳴らしはじめた。雹である。氷が降ってきているのである。窓ガラスを砕かんばかりに、軽快な音をたてて。彼は驚いて寝台から起き上がった。窓の外は見えなくなっていた。淀んだ色をして霞んでいる。近くの草木が打ちのめされている。幼馴染の家にある菜園のことが、ふと脳裏を掠めた。彼女は無事だろうか。時間帯的に別の診療所に通っているはずだ。
「ちょっと出掛けます」
「正気か。この天気でか」
「わくわくしますでしょう」
ガーゴン大臣は頭を抱えた。アルスはふいと目を側めた。やはり最近、この闇に生きる禿鷹だの、人食い三つ首番犬だの、議会荒らしの八又蛇だの言われている男が、赤い温血の通ったような、弱さや隙、油断を見せるような、そういう所作をかます。
「いいか、アルス。その
「大丈夫です、若いんで。ちょっと行ってきます」
アルスは出ていってしまった。ガーゴン大臣も口煩く止めはしなかった。
外に出た途端、雹が頭にぶつかった。全身を打つ。竜巻のようであった。あらゆる方向から小さな氷の塊がぶつかるのだった。生い茂っていた雑草たちは薙ぎ倒され、小石大の白氷の枕にされていた。削られてできた深めの水溜まりにも、夥しい数の小さな氷が浮かんでいた。
道の固く舗装されている大通りのほうへ出てみることにした。どこからか
幼馴染の家はここよりも南側で水辺にあった。そのことがふと思い出された。
途端、彼は肝を潰した。人々は外に出るのをやめ、
アルスは呑気に足を止めていた。雹の餌食を甘んじて受け入れていた。そして異様な光景を悠長に眺めていた。
雹は最盛期を終えたらしかった。徐々に弱まり、強雨と強風と入れ替わる。だが恐れるべきは雹ではなかった。急激に水位を増した川と水路である。すでに溢水しているらしいのが、大通りの様子から判る。
足元に響くような鈍い音が空に轟いている。彼はどうにか、それを自身の空腹の音ということにしたかった。できないだろうか。できなかった。遠くの
彼は雷が嫌いだった。
「アルス?」
大通りを彷徨っていたのは正解だった。道幅がある分、空が拓けて雹は当たりやすかったが、有事である。人目につく場所を選んだ。探しにいった相手も予想より早く見つかった。彼女は王都民としては珍しく、傘を持っていた。ロレンツァの土産物であることは、その模様で分かった。白と金を基調として、ロレンツァを特徴づける精霊崇拝の宗教施設が描かれている。しかしだからといって、彼女は精霊信仰者というわけでもないようだった。
「よかった、セレン。どうしてたのかと思って」
「診療所の帰りだったのだけれど……これからアルスのところに行こうかと思っていたの。そうしたらこの天気で」
彼女は靴も、丈の長い防水靴であった。顔色が悪いのは、曇天のせいか。
「じゃあ、ちょうどいいや。一緒に行こう」
幼馴染の家よりも、彼の入院している診療所のほうが近かった。それはいい口実であった。彼女の家はここより南側である。今も水があてもなく流れ落ちていっている。
「アルスは、どうして……?」
彼はガーゴン大臣に言ったことをそのまま伝えた。幼馴染は渋そうな表情であった。言いたいことはあるようだが、言わないことにしたようだ。そしてそれは彼の行動を是とするものではないのだろう。
「こんな経験、一度きりだと思ってさ。二度とこんなことがないようにって、願掛け?」
2人は診療所へ向かう途中で、人集りを発見した。氾濫する水路の物珍しさを見にきたのであろうか。しかし違った。怒声めいた人々の叫びを聞いてみると、どうやら溺れている人がいるらしいのである。アルスたちも王都で育ったいやらしい若者である。肉体のみならず良心や教養とともに、野次馬根性もまた
「アルス……」
しかし幼馴染は好い反応をしていなかった。いくら優秀な医者が応急処置をしたからといって、患者に治るつもりがないのでは、魔科学医療も魔科学技術も意味がない。腐り果てていくだけである。その傷口ごと。
「人手が必要かもしれないから」
要らなければ早々に立ち去ればよい。彼はある種の無邪気さで、水路のほうは向かった。幼馴染は渋々とあとを追う。
汚らしい濁流が轟音をたてていた。橋に届きそうなほどの水位で、人々はそこから様子を窺っていた。東西を横切る川と南北を繋ぐ水路に人がいる。普段は底が見え、石を跳んで渡っていたというのに、今やあたかも最初からそこに大きな川があったかのような有様である。
溺れている者は、垂らされた細い縄に掴まっていたが、王都の高低差と、流れてくる藻屑や廃材が、容赦なくぶつかっていた。
他人の不幸を観ていたいわけではなかった。被災者の末路を見届けたいわけでは。しかしアルスは、そこから立ち去るという選択肢があることを忘れてしまった。願いや思いや祈りが、一直線に張られた細い縄を頑丈にするわけではないはずだ。懸命に縋りつき、しがみつくしかない者に力を分け与えるわけでもないはずだ。彼は無力な傍観者に過ぎなかった。むしろここに好奇の目を寄せる一介の若者ではなく、アルス・セルという一個人に追及したとき、この異常な天気が王子不在のために起こっているならば、王子を見殺し、早期に王子に成り代わろうと決断しなかった責任の一端は彼が担っているといえるのではないか。
頼りの綱は呆気なくちぎれた。溺れている者はまるで上半身だけになって、横へ滑っていくようだった。入り混じる落胆と興奮を掻き分けて、誰かがわざわざこの時機に身投げした。神秘的な青い髪が見えた。滑稽な緑色の点滅も見えた。アルスは嫌な予感に押され、つられたように欄干へ踏み出した。視界の端に幼馴染が映った。背反した衝動に駆られ。彼のなかの時間が止まった。ところが、脇から擦り抜けてきた人影に彼は胸元を突っ撥ねられた。耳飾りが揺れていた。王都ではなかなか見ない、短く切られた髪と、その服装に見覚えがある。欄干に飛び乗って、落ちていく。3人が、王都に爆誕した怒涛へ呑まれていった。
アルスは内心で
「……戻ろう」
幼馴染が、声をかけた。同意するほかない。問題は決着した。少なくとも、この地点にいることに、何の意義もありはしない。
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