迎え



 瞬時に動いたのは気狐と野狐だった。小珠と黒髪の男の間に入り込み、庇うようにして立ちはだかる。


「小珠ちゃん、お下がりください」


 いつもはゆるゆるとした喋り方をする気狐の真剣な声音に驚き、慌てて後退りする。しかし、いつの間にか他にも人間が集まっており、狭い路地の出口を塞いでいる。野狐が小珠の背後を守るようにぴったりとくっついてきた。


「嫌な気配……。こいつら只者ではないですねえ」


 気狐がそう呟き、着物の懐から武器を取り出した。


「幼少期の玉藻前様を捕まえて監禁し、妖力を余すことなく利用した連中の末裔でしょうか」

「その通り! 妖狐よ、生きていると思ったぞ!」


 男が目を大きく見開いて笑い、懐から呪符を出して投げつける。気狐はそれを払い落としたが、呪符はまるで意思を持つかのように動き、気狐の足を掠めた。すると、掠り傷であるにも拘らず、気狐の細い足から大量の血が噴き出す。

 気狐が足を押さえて蹲る。同時に、野狐が小珠を抱き抱えて地を蹴った。


(あの御札……夢で見た玉藻前の体に貼られていたものだ)


 空中から男の呪符の文字を見て確信する。


(もしかして、玉藻前を石に封印したのもあの人達……?)


 玉藻前は、陰陽師に正体を見破られ討伐軍に追い詰められて石に封印されたと聞いている。もしその末裔がまだ生きていたとしたら。

 いや、あの男は気狐の発言も肯定していた。以前銀狐が言っていた、妖力をうまく扱えない子供の妖怪をさらって人間の都合の良いよう利用していた連中というのも、彼らということになる。

 ――彼らが玉藻前の憎き相手の末裔なのかもしれない。どれだけの時が経っても、妖怪を狙い続けているのだ。


 素早く路地裏から離れて地に降り立ち、走り続ける野狐を、黒髪の男の仲間らしき人物達が追ってくる。彼らは黒髪の男と同じ呪符を使い、野狐の腕を切り裂いた。野狐は声もあげずに崩れ落ち、枯れたような声で指示してくる。


「ふねの、近く、に、いる」


 野狐が声を発したのは初めてだ。この事態の異常性を実感する。


「そこ、まで、にげて」


 船の近くというのは、二口女達のことだろう。


(私には何もできない。ここで捕まったら、最悪人質になってしまうかもしれない)


 血が出ている野狐のことは心配だが、それよりも二口女の方にいるもう一組の野狐と気狐に応援を頼んだ方がいい。

 小珠は瞬時にそう判断して踵を返し、走り出した。緊急事態のためか、いつもより自分の内の妖力が暴れているような、変な心地がした。むずむずとした感覚が体を駆け巡る。


(早く、早く二口女さん達に――)


 焦る気持ちと同時に、思い出すのは地を蹴って宙へ浮かび上がった気狐の様子だ。妖力を利用してあんなことができるのなら、小珠にもできるのではないか。

 行き交う人々にぶつかりながら走り続け、何度も何度も今朝の気狐の妖力の扱い方を反芻する。最近ようやく掴めるようになってきた妖力の動き――それを頭の中で繰り返しているうちに、ふわりと体が軽くなる感覚がした。


「あ、あれは何だ!?」


 周囲を歩いていた人々のざわめく声が聞こえる。

 しかしその声はすぐに遠くなった。小珠が空高く舞い上がったからだ。


(え、え、えええええ!?)


 小珠の体は小珠の意図に関係なく物凄い速さで宙を移動した。港町を越え、山に向かって飛んでいく。小珠を追ってきていた人々は遥か遠くだ。

 空中でどうしていいか分からず手足をばたばたさせているうちに、突然勢いは止まり、体が急速に落下していく。


(し、死ぬ……っ!)


 近付いてくる地面を見ているうちに、小珠の意識は遠退いていった。



 ◆


 りん、と鈴が鳴る。河童がくれた鈴だ。

 その音で目を覚ました小珠は、全身に痛みが走って呻いた。身体があちこち傷だらけだ。周囲に折れた枝が大量に落ちている。山の木々の上に落ち、枝に引っかかって衝撃が和らぎ、何とか生きていられたらしい。


(あれだけの高さから落ちて生きてるなんて……。私が人間ではなくなってきてるってことなのかな)


 起き上がろうとしたが痛みで動けない。

 周囲は暗く、空には丸い月が見えている。


(気狐さんと野狐さんの元へ行かないと)


 夜になっているということは、あれから相当な時間が過ぎているということだ。気を失っているうちに気狐達は奴らに殺されてしまったかもしれない。あんな物騒な人々がいる町となると、二口女も無事か分からない。


(私が人の町へ行こうなんて言ったから)


 怖い。不安で泣きそうだ。もう子供ではないというのに。


(私、何も知らなかった。妖怪にとって人間がこんなに危険だなんて想像もしていなかった)


 無知で気狐たちを危険な目に遭わせてしまった罪悪感で一杯になる。気狐は止めてくれたのに、かつて住んでいた村へ行くような感覚で人里に降りてしまった。全部自分のせいだ、と思えば思うほど悲しい気持ちになってくる。


 ――……その時、人形ひとがたをした紙が一枚、小珠の元に飛んできた。


『小珠様。ご無事ですか』


 空狐の声だった。


「…………」

『まだ口を利いていただけませんか』

「……空狐さん、で合ってますか?」

『はい。こちらは連絡用の紙人形です』


 人形の紙は空狐の声に合わせて動く。


『妙な物が屋敷に入り込んでは困りますので、外部からの贈り物には全て僕が細工を施してあります。貴女が河童からもらった鈴にも僕の妖力を込めておいて正解でした。おかげでこうして、最後に音が鳴った場所に紙人形を向かわせることができます』

「空狐さん、ごめんなさい。私、港町へ来ているんです。それで気狐さん達が襲われて……私が無理にきつね町から連れ出したせいで……早く助けに行かないと……」


 しどろもどろに状況説明をする。しかし、空狐は焦り続ける小珠とは裏腹にとても落ち着いていた。


『状況は把握しております。というか、港町へ行くことは前日に気狐から聞いておりました。このような事態を想定できなかった僕の責任です』


 空狐の言葉に驚く。空狐からの許可は出ないだろうと推測していたので、てっきりここまで来られたのは気狐が空狐に隠しているからなのだと思っていた。しかし、どうやら違うらしい。


『気狐と野狐は僕に絶対服従しています。例え貴女が隠したがっていようと、僕に許可を取らずに外へ出るなんてことはないんですよ。僕は、きっと今回は止めても言うことを聞かないだろうと思って黙認しました』

「本当に申し訳ありません……私のせいで、気狐さん達まで危険な目に遭いました」

『気狐も野狐も無事です。特に野狐は戦闘訓練を受けていますから、人間如きであれば一体で数十人は相手できますよ』

「でも、襲ってきた人達は不思議な札を使っていたんです」

『ご心配なく。既に彼らの無事は確認できておりますし、一度屋敷に戻ってきています。二口女も狐の一族の保護下にあります。……問題は、小珠様。貴女の居場所が特定できないことです』


 そう言われてはっと気付く。そういえばここはどこなのだろう。山であることは確かだが、ここからどうやってきつね町まで戻っていいか分からない。


『鈴に付けた妖力のみが頼りです。それも、遠く離れている場所ではうまく機能しません。辛うじて紙人形を届けることはできていますが、何か手がかりがなければ僕は貴女を見つけることができません』

「では、自力で帰ります」


 小珠は何とか上体を起こし、傷だらけの足で立ち上がった。


「これ以上ご迷惑をおかけすることはできません」


 山を下りれば人里があるかもしれない。そこで元々住んでいた村への行き方を聞こう。何日かかるかは分からないが、住んでいた村からきつね町への行き方なら何となく覚えている。


『小珠様。僕は貴女の行動を迷惑だと感じたことは一度もありません』


 痛み続ける片足を引き摺るようにして歩く。小珠の後ろを紙人形が付いてきた。


『むしろ感謝しているくらいです。突然連れてこられたにも拘らず、きつね町のことを好きになってくれて、必死に変えようとしているでしょう。きつね町の変貌は、貴女の責任ではないというのに』

「変えたいなんていうのは私の身勝手な願望です。それに周りを巻き込んで、無理やり付き合わせた結果がこれでは……」


 言葉の途中で、大きな石に躓いて前方に転けた。りんとまた鈴が鳴る。


『小珠様。頼みますから無理に動かないでください』


 言われずとも、もう動けない。転けたせいで辛うじて体重を支えられていた方の足も挫いてしまった。自身の無力を感じ、小珠はきゅっと唇を噛む。


『その紙人形を食していただけませんか』

「……え?」

『僕の妖力と血を込めて作った紙人形です。多少抵抗はあるかと思いますが、それを食すことによって狐の一族としての力が一時的に解放されるはずです』

「解放されたら、どうなるのですか」

『僕が必ず貴女を見つけます』


 ごくりと唾を呑み込んだ。紙を食べるのには抵抗があるが、動けないこの状況で小珠にできるのは空狐の指示に従うことだけだ。

 ゆっくりと手を伸ばし紙人形を掴む。折りたたんで小さくしてから、覚悟を決めて口に含み、呑み込んだ。


 ――その瞬間、妖力が暴れるような感覚があった。その感覚が山まで飛んでしまった時のものと似ていて恐ろしくなる。紙人形がなくなったことで、空狐の声はもう聞こえない。また妖力のせいでどこかへ飛んでいってしまうのではないかと不安になり、目を瞑って体を丸くした。できるだけ妖力を外へ放出させないように意識しているうちに、臀部がむずむずしてきた。


(こんな時に何……!?)


 痒いようなその感覚に思わず尻を手で押さえたその時、小珠のその部分から、衣服を突き破るようにして尾が生えた。


「え!?」


 尾の数はどんどん増えていき、九本もの動物の尻尾のようなものが小珠の意思に反して動く。しかもその尾は光り輝いており、暗闇の中では大層目立つ。

 何だか恥ずかしくなって慌てていると、空から何かが近付いてくる気配がした。驚いて顔を上げる。傷だらけの小珠の隣に降り立ったのは、空狐だ。



「迎えに上がりました。小珠様」



 ――――……まるで、村の寂れた神社に小珠を迎えに来たあの日のように。空狐は小珠のことを迎えに来てくれたのだ。


 『空狐はんのどこが好きなん?』と銀狐に聞かれたのを思い出す。


(私を、見つけてくれるから)


 幼いあの日も、キヨが病で臥せって孤独に生きていたあの時も、空狐は小珠のことを見つけてくれた。


「は、早いですね……」


 思わずそんな言葉が漏れる。


「ある程度目処は付いていましたから。すぐそこにいましたよ」

「てっきり屋敷にいるのかと……」

「小珠様がどこにいるか分からない状態で、悠長に屋敷でゆっくりしているはずがないでしょう」


 尻尾を押さえて座っている小珠と目線を合わせるためか、空狐が屈む。じっと見つめられ、どきどきしてしまって視線を逸らすと、空狐に溜め息を吐かれた。


「僕、何回貴女に避けられればいいんですか」

「……すみません……」

「あれから一度も目を合わせてくれなくなって、寂しかったんですが?」


 寂しいという言葉を聞いて罪悪感が募り、顔を上げる。

 ――刹那、空狐が小珠の唇に自身の唇を軽く重ねた。

 小珠は驚いて目を見開く。


「え、あの、」

「あの時、し損ねたので」

「まってください、私さっき転けたから汚いし、口も切ってて血だらけだし」

「どうでもいいです」


 また空狐の顔が近付いてくる。抵抗する力も出てこず、目を瞑って受け入れた。

 何度か接吻を交わした後、空狐がぽつりと呟く。


「好きというのが、僕にはよく分かりません」

「はい……」

「ただ、小珠様のことを愛しいとは思います」

「……嘘」

「本当ですよ。毎日一生懸命仕事している貴女も、明るくお転婆で周りを巻き込んでいく貴女も、時々こんな風に心配をかけさせてくる貴女も。小珠様がいなかった時より、退屈しなくて困る日々です」


 ふ、と空狐が苦笑いする。


「正直、久しぶりに迎えに行った時は、小珠様の変化に驚かされました。妖力を得られないままでいると、成長速度も人間と同様になるのですね。僕の中の小珠様はもっと小さかったんです。婚姻の儀はするけれど、当分子などはなせないと思っていました。僕と結婚するとはいえしばらくは子供のように屋敷で遊んでいてくれたらとそう思っていたのに……貴女は予想外の動きばかりする」

「…………今、〝僕と結婚〟とおっしゃいましたか?」

「はい」

「…………えっと……私って空狐さんと結婚するのでしたっけ……?」


 最初の説明を聞き間違えていたのかと困惑していると、空狐は申し訳無さそうに眉を下げる。


「本来は僕との婚姻です」

「ええ!?」

「すみません、僕が慎重になりすぎました。玉藻前様のことは正直苦手だったのですよ。妖力が強いとはいえその生まれ変わりと結婚させられることに抵抗がありました。貴女がどのような人間なのか前もって見極めたかったのです」

「そうなのですか……? じゃあ、私が秋に結婚するのは天狐様ではなく空狐さん……?」

「はい。試すような真似をして申し訳ありませんでした」

「そ、それはいいのですけど! むしろ道ならぬ恋じゃなくてよかったのですけれど……!」


 なかなか言われたことを頭の中で処理できず、あわあわと歯切れの悪い反応をしてしまう。


「これからは改めて、婚約者としてよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、不束者ですが……」

「それから、あまり避けられるのも悲しいので、今後三回以上僕を避けたら屋敷に軟禁されると思ってください」

「軟禁!?」


 柔らかい笑顔で発せられた恐ろしい言葉にぎょっとする。

 冗談か本気か分からないことを言ってくすくすと愉しげに肩を揺らした後、空狐は小珠の膝裏に手を回して抱きかかえた。


「帰りましょうか。きつね町へ」

「〝帰る〟……」

「どうかしましたか?」

「いえ。いつの間にか、きつね町が私の帰る場所になっているんだなと思いまして」


 今日は色んなことがあった。疲弊した身で帰りたいと願う場所は、キヨや野狐、気狐や銀狐たちがいるあの屋敷なのだ。少し前まで住んでいた村ではなく。


「なら嬉しいです。これから僕も、小珠様の帰る場所を、もっと小珠様が住みやすい場所に変えていきます。次期当主として」


 そう言って、空狐は地を蹴って空へ飛び上がった。



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