第24話 切断
音の無い家で過ごす夜は、いつだって寒く感じる。
夏だろうと、冬だろうと、平等に身を縮こまらせるその冷気はどこから出ているのか分からない。窓を全て閉め切っても、中の空気はいつまでも暖かくならない。
テレビやラジオをつけたりすると、ほんの少しだけ、提灯のような温もりだけが手のひらに落ちてくる。誰かの話し声が聞こえると、生活の一部に自分も組み込まれているような気分になる。
リビングのテレビをつけっぱなしにして、私は自分の部屋に戻った。お風呂上がりにはラジオを聞きながら、スキンケアをする。手のひらが頬にもっちりと吸い付く感覚の中で、昨日の出来事を考える。
私は瑠莉ちゃんを部屋に呼んで、瑠莉ちゃんに自分を慰める方法を見せてもらって、それで、抱きしめられた。
せっかく瑠莉ちゃんを部屋に呼んだのに、痛いことを一度もせずに終えるなんて。もう少し、なにかできたはずだ。私がもっと素直になって、瑠莉ちゃんの言うことに「うん、そうだねぇ」「分かったぁ」と斜面を滑るような肯定を返事として声に出していれば、私のお願いだって聞き入れてくれたかもしれないのに。
どうして意地になってしまったんだろうか。
髪を乾かして、ベッドに横たわる。
今日も、お母さんは帰ってこなかった。
だけど冷蔵庫には食料が増えているので、私が寝ている間に帰ってはきているのだと思う。
お母さんに話をしてみると、瑠莉ちゃんに言ってはみたものの、本当に話せるのだろうか。入院したとき以来、私はお母さんと顔を合わせていない。
お母さんの言う通り、階段には私がリハビリするようの手すりが増設されていた。お母さんは優しい。私のためならどんなものだって買ってくれる。この部屋には、お母さんが買ってくれた本も、ゲームも置いてある。それも全て、私が暇しないようにと気遣ってくれたものだ。
服だって、私が外に出て恥ずかしくないようなオシャレで可愛い服ばかりだ。
それなのに、どうしてあの蝶のヘアピンだけ、異質に感じるのだろう。
同じどころか、お母さんに買ってもらった物の中では安い部類に当たる。そんなヘアピンを、これまで捨てられなかった。まだ着られる服ですら、捨てたことがあるのに。
固執する理由が、どこかに、あるはずだ。
翌日の夕方、私はリビングで報道番組を眺めていた。
冷蔵庫から2リットルのお茶を取り出して、コップに注ぐ。私はソファに座りながら、蝶のヘアピンを手の中で転がしていた。このゴツゴツとした感触、ところどころにラメがついていて、ざらっとしたものが指をなぞる。触っていると、記憶の中に閉じ込めた大切な何かの輪郭がぼーっと見える気がして、ここのところ肌身離さず持っている。だけど、まだこのもやもやの正体には辿り着けていない。
テレビの向こうで、誰かが刃物で刺されたというようなニュースがやっていた。
三人が重軽傷を負って一人が意識不明。犯人はいまだ逃走中と出ていて、テロップには私が住んでいる地域の名前が出ていた。近隣の住人は注意するようにと注意喚起がなされている。
もし、誰かと一緒にこの報道を見ていたのなら、私はなんて言うのだろう。「近いね、夜は一人で出歩かないようにしなくちゃ」「刺された人、大丈夫かな」「ね、なんでこんなひどいことするんだろう」そんな会話が、冷たい空気に満たされたこの部屋で繰り返されるのだろうか。
刃渡りが十センチ以上もあるナイフでお腹を一刺しされたらどうなるんだろう。筋繊維をブチブチと破る音が聞こえるのか、それともそれすら聞こえない間に、内臓まで到達するのだろうか。
背後からでもいい。とにかく、死角から、突然、衝撃と共に鋭利な血の香りの海に溺れたい。機械的な冷たさを熱の籠もる肉の中で感じながら、内臓付近で突き動かされる先端の感覚に不快を超える嫌悪感を覚える。抜いて、助けて、と言っても願いは聞き入れられることはない。
身体に突き刺さった刃物を背中、お腹に抱えながら、私は膝から崩れ落ち、血を吐きながら混濁した意識の中で、理不尽に対する恐怖と怒りを感じ、か細くなっていく呼吸に人間の身体の脆弱さと抗いがたい外部からの暴力的刺激に屈服させられる充実感を痛みと共に感じることができる。
……羨ましい。
被害を受けた人たちには、本当に申し訳ないと思う。できることなら、私が代わってあげたい。あなたたちの代わりに、私が、刺されたかった。
目の前から歩いてくる通り魔に、突然刃物を刺されたときのことを想像して、身体が熱くなる。
高所から飛び降りる? 車に轢かれる? そんな偽物じゃない。人が持った刃物に刺される痛みは、どんなものよりも純然だ。
玄関で音がした。
鍵が開く音があったので、心当たりはあった。
しかし、なんで? という疑問と同時に、緊張が走る。
私は立ち上がってドアを開けた。
「あ、お、お母さん」
まだ夕方だというのに、お母さんが仕事で着ている赤いドレスを身に纏いながら、鍵をケースに収納していた。靴を蹴るように脱いだお母さんは私に気付いて「ああ」と低い声を地面に零す。
「おかえりっ、お母さん」
近頃、忘れていた、跳ねるような、首の根っこを細めて出す声が復活して自分でも驚いた。しかし、すぐに納得がいった。
そうだ、私はお母さんの顔色を窺うために、この声も、喋り方も習得したんだ。この声色なら争い事をうまない。敵意はないですとアピールできる。
「帰ってたの」
「うん、今日は真っ直ぐ家に帰って――」
お母さんに駆け寄った瞬間、嗅いだこともないような薬品のような香りに鼻を貫かれる。まるでアルコールを直接鼻腔に流し込まれたような刺激が目の奥まで響いた。
においが違う。たったこれだけで、どうしてこうも、別人のように見えるのだろう。姿形はお母さんなのに、お母さんじゃないようで、心臓がドクドクと焦りを血液に乗せる。
「あれ、すみちゃんその子は?」
つい咳払いしてしまうような衝動を喉の奥に押し込めていると、ドアが開いて、見たこともない男の人が家の中に入ってきた。サングラスをかけていて素顔は見えないが、この薬品のような香りはその人からも漂っている。
とても強い、香水を浴びるようにかけているのだとすぐに分かった。
「あ、そうなの、この子はぁ。ほらぁ、ねっ?」
お母さんの口が、まるで別人のような声を模倣する。オウムが表情を変えないまま人間の言葉を喋るような不気味さを貼り付けていて、私はつい一歩後ろに退いてしまった。
男の人はまるで自分の家かのように靴を脱いで入ってくる。許可もなしにリビングに入ると冷蔵庫を開けて「コーラあんじゃん、飲んでいいー?」と言いながらすでに直接口を付けて飲み始めていた。
「お、お母さん。あの人は?」
「あんたには関係ないわ」
お母さんと話したい。
寂しいというものが、どういう状態を表すのか私には分からないけど、でも。
たまに、帰ってきて欲しい。一緒にテレビを観て、一緒に音楽を聴いたりして、会話というものを、この家に産み落としたい。私が生きた証、生きている証拠。それさえ見つけることができたなら、もう広がることのない私の翅でも、どこかへ行ける気がして。
「ね、ねぇお母さん」
自覚できるくらい、私は笑っていた。何もおかしいことなんかないのに、一言喋るたびに「えへへ」と笑みを模した防衛本能が剥き出しになる。お母さんは私を睨む。その眼光は、面倒ごとを持ってくるなという意思表示だ。
「あ、あのね、いつも、ご飯用意してくれて、ありがとうっ。お小遣いも、たくさんくれて……私、何に使えばいいかわからなくて、貯金してるんだぁ」
「そう」
「あ、それと、この前、体育祭あったんだよ。私、リレーに出たんだけど、転んじゃって……でも他の子がすっごい足速くって、勝ったの」
「よかったじゃない」
お母さんは私ではなく、玄関に立てかけてある全身鏡に顔を近づけて前髪をいじっている。
「あの、お母さん……時々、帰ってきてほしい」
鏡越しに、目が合った。
反転した世界に映る親子は、互い違いの表情を浮かべている。
「お母さんだって仕事があるの。帰ってきて、何をするの? 何の意味があるの?」
「それは、わかんないんだけど」
「お母さんに迷惑かけないで」
一切電気を通さない絶縁体に触れられたようだった。駆け出そうとしていたものが、虚無にも似た暗闇によって切断され、行き場をなくす。
男の人の呼び声に、お母さんが猫撫で声をあげて答える。しかし、私を睨む目は一貫して冷たい。
「これからお母さん、大事な用事があるの。それが済むまで、外で時間潰しててくれない?」
「え?」
「え、じゃないわよ。聞こえなかった? どこか出かけてきなさい」
「でも、もう暗くなるよ」
「お金ならたくさんあげてるでしょう。時間潰すくらいできるはずよ。そうね、夜の九時までは家に帰ってこないでちょうだい」
声を発したいのに、身体が一瞬にして骨だけになったような感覚に陥る。喉も、胸も、頭も、全部が空洞で、洞窟のように冷たい風だけが吹きすさんでいる。
「お、お母さん、これっ!」
最後の道なんて希望に溢れたものではなかった。
完全に断ち切られた線の中で、微かに残る放たれた電流の残滓。
手に持っていた蝶のヘアピンを、お母さんに見せた。
「さっき掃除してたら、たまたま机の中から出てきてね。これ、お母さん、覚えてる?」
ずっと持ってたって言ったら引かれるかもしれない。
両手を花のように広げて、蝶を見せる。
私が焦がれた、青色の輝き。
初めてお母さんと二人で出かけた植物園。そこで、お母さんに買ってもらったもの。
心から欲しいって思ったもの。私の宝物。
私の、生きた証。
「は? 知らないわよそんなもの」
お母さんは舌打ち混じりに言って、リビングに姿を消した。
玄関に取り残されたまま、私は動けなかった。
明かりの点いたリビングから、知らない男の人の笑い声と、知らないお母さんの声が聞こえてくる。
ここにいてはいけない。
私は弾かれたように、玄関を飛び出した。
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