第14話 鮮血

 重力のない真空に漂うように、諸手を浮かべたまま動けない。


「それでねっ? あの、たぶん私声出ちゃうと思うから、口を押さえて欲しいの」


 頷くための首の動かし方を忘れてしまったのかもしれない。瞬きもできないまま、どんどんと目の表面が渇いていく。


「口を、押さえて?」


 館羽たてはがもう一度、子を宥めるように優しく言う。


「あとは、手も、壁に押しつけて欲しい。きっと暴れるから」

「館羽は……それがいいの?」

「うん、してほしい」


 潤んだ瞳で懇願する館羽。してくれ、という意思表示はない。あくまで館羽はしてもいいししなくてもいい、という選択権があるお願いをする。選ぶのは私。そしていつだって、選び取ってきた。


 リング型のピアスに触れると、館羽がきゅっと目を瞑った。


 これを、引きちぎる?


 悲鳴をあげる筋繊維と、はみ出る肉と血を想像しただけで目を閉ざしてしまう。背筋が凍るように冷たくなって、現実感がなくなる。


 そんなことできるわけがない。今までの行為とは、まるでレベルが違う。端に付いてちぎれやすくなっているとはいえ、そんなことをしたら人体はどうなるのだろう。穴の付近だけが破れるくらいならまだしも、画用紙に入った亀裂が広がるように破れてしまったらどうしよう。


「して、くれないの?」


 触れたまま動けない私を見て、館羽が心配そうに首を傾げる。その仕草を見ると、館羽の願いにどうしても応えてあげたくなる。


 ぐっと引っ張ったリングが、館羽の薄い耳の皮を連れて外の世界に飛び出そうとしている。館羽の顔までもが引っ張られるので、頬に手を添えて動かないようにした。


 リングに、指を通した。自分でやっておきながら、奇跡が起こることを願う。何かの間違いでピアスがちぎれるとか、この教室が急に崩れて怪物がやってくるとか、そういう、なんでもいいから、私の邪魔をしてくれ。


 指先に、力がこもる。


 苛立ちに似た、引力だった。


 パチッという音と共に、ピアスは耳の皮膚を連れて外の世界に飛び立っていく。


 引っ張る力に添えたのは後悔と諦めと、善良だった。この行為は館羽にとって望ましいことで、私の罪を償うための行為なのだ。


「あッ……!」


 館羽が小さく叫んだのを見て、即座にその口を手で塞いだ。


「…………ッ、…………!」


 館羽が目を丸くして泣いている。塞いだ手のひらに館羽のざらっとした舌が何度も当たる。こちらに押し寄せてくる力を押し返して、館羽を壁に押しつける。


 半端な力じゃ口が開いてしまう。首を絞めるのと同じ要領で、口を押さえる手に体重を乗せた。


「ッ、ん…………んん……………ぅ……ッ!」


 痛みにもがく館羽が足をばたつかせた。私の肩を掴んで逃げようとする。私は館羽の手首を掴んで、足の間に膝を入れた。これでもう、動けない。


 これまで館羽にしてきたことが教訓となり、動きに洗練したものを見出す。……慣れてきているのだ。


 背筋がゾッとした。


 館羽の耳はネズミが囓ったチーズのように端っこが欠けている。飛び出た肉は、明るい赤をしていた。しばらくすると血が出てきたようで、館羽の耳から顎にかけて流れていく。


 館羽は何かを言おうとしているが、涎を私の手に塗りつけるだけで明瞭な声は言葉となって私の耳に届くことはない。


「る、り……ちゃ……ッ! ……ん、ん……ッ」


 どうしてかそのとき、私は館羽と始めて喋ったときのことを思い出していた。


 ――瑠莉るりちゃんテスト百点だったの!? すごーい!


 館羽は採点の終わったテスト用紙を持って席に戻る途中、私の机に置いてあったテストの点数を見て目を輝かせた。何度もすごい、すごいと飛び跳ねてる館羽を見て、心の中で充満していた煙が取り払われた心地になったのを覚えている。


 勉強は多少ではあるが得意だった。褒められたことは今までも何度かある。だけど、あんなに感情を包み隠さずに褒めてくれたのは館羽が初めてだった。私はそのとき、どう反応していいか分からず、口を尖らせながら「ありがと」と努めてクールに言ってのけたが、内心では踊りたくなるくらい嬉しかった。


 それ以来私は館羽を目で追うようになっていた。館羽は私を見ると嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。きっとこの子は私のことが好きなんだろうなと思っていた。懐いた犬を撫で回すように、しょうがないなとその好意を斜めから受け止める。


 そんな館羽が、私以外の子にも同じように接していたのを見て、喉の奥に泥のようなものが溜まっていった。


 本当は仲良くしたかった。だけど、誰にでも笑顔を浮かべる表面的な人との付き合い方が癪に障るようになって、いつのまにか私は館羽を虐めるようになっていた。好きな子を虐める男子の心理とはちょっと違うかもしれないけど、向かっている方向は同じだった。


 いつか私が抱いていた、館羽と友達になりたいという人間めいた純粋な願いまでも引き裂いてしまったような気分だった。もしかしたら私は、まだ引き返せたんじゃないか。


 泣きたくなるような後悔に呑まれながら、実際に涙は流れてくれない。苦痛の底に、目を乾かしてしまうほどの何かがあるというのだろうか。


 館羽という女の子と出会った原初の記憶。


 それはおそらく、私に残る最後の希望だったはずなのに。


「なにしてるの、あなたたち」


 だから、これは報いなのかもしれない。


 小さい頃、連続殺人犯が警察から逃げ続けている模様をテレビで観ていた。あれやこれやと手を尽くして煙に巻いていたが、一ヶ月足らずでその男は漁港にいたところを警察に取り押さえられた。


 ああ、いつかは捕まるんだな、と子供ながらに理解した。いつか、いずれ。そういう日々、瞬間、それは必ずやってくる。逃れることなんてできやしない。


 教室の入り口に立つくるるを見て、暴れ回っていた連続殺人犯の形相を思い出し、自分に重ねた。


 犯人の手元には凶器とされた果物ナイフ。


 私の手には鮮血の付いたリング型のピアス。


 違いなどないのかもしれない。命を奪ったか、奪ってないかだけで。


 逃げ続けていれば、必ず「いつか」はやってくる。


 その「いつか」が、たまたま今日だったというだけの話なのだろう。

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