第2話 穿孔

 異常を自覚したのは小学一年生のときだった。


 跳び箱を跳ぶのに失敗して、お腹を思い切り打ちつけると、じーんとした痛みと共に呼吸が細く、そして速くなった。


 私はよく女の子が悪い奴らと戦うようなアニメを観ていた。アニメに出てくる女の子はいつも悪役に負けていた。窮地に追い込まれて、血を吐いて、傷だらけになって、立ち上がれないところを敵にいたぶられる。


 そんなシーンを、私は羨望の眼差しで食い入るように観ていた。


 私も、あんな風にされてみたい。


 中でも、壁に叩きつけられるのと、首や身体を締め上げられたりするのが好きだった。


 どうしてこんなものを好きなんだろうと不思議ではあったけど、跳び箱にお腹を打ちつけた瞬間、ちぎれていた導線がすべて繋がったような感覚に陥った。


 私は、痛いのが好きなのだ。


 学校の帰り道では、必ず道路に倒れこんだ。雷に打たれたり、死角から銃で撃たれたり、そんなことを妄想しながら、死ぬ真似をする。すると身体中の血液が沸騰したように熱くなり、吐息が荒くなる。


 地面に頬を擦り付けて傷を作った。膝を擦りむくために、わざとスカートを履いた。近くの壁に身体を打ちつけて、気を失うフリもした。


 いつも観ていたアニメの女の子みたいに、どうしようもないほどの強大な力に屈服させられて、抵抗むなしく敗北する。それが今、自分の身に起きているんだと思うと、ゾクゾクした。


 道路に倒れていると、通りかかった人に「大丈夫!?」と話しかけられることがあった。そういうときは、興が冷めてしまうので、何も言わずに走って立ち去る。


 声をかけてくれた人からしたら、きっと夏の終わりのセミにでも見えたことだろう。倒れていた人間が突然むくりと立ち上がり、走り去る。異常この上ない。


 そう、私は異常なのだ。


 痛いのが好きで、苦しいのが好き。力なく倒れる瞬間は全身に鳥肌が立つ。じっくり苦しむのもいいし、理解が及ばないまま即死するのも気持ちいい。穿つような打撃も好きだ。ただ、顔を叩かれるのは好きじゃない。痛ければいいというわけではないのだった。


 理由は分からない。観ていたアニメに、たまたまそういう描写がなかっただけかもしれない。


 だから、私にとって完璧な痛みをくれる瑠莉るりちゃんは救世主のようなものだった。


 瑠莉ちゃんは毎日のように私を痛めつけてくれる。まるで私の性癖を理解しているかのように苦しみと痛みを交互に使い分けた暴力は、まるで羽毛に包まれて眠るかのように心地良い。


 だから私も、きちんと役を演じきった。痛い、やめて、お願い。懇願するも、聞き入れてもらえるわけもない。自分の意思が通用しない相手が目の前にいて、その相手が自分に対して敵意を持っている。それだけで、涎が出そうなほど興奮した。


 熱を出して学校に行けなかったときは、お母さんがいなくなったのを見計らって自分の手足を縄でしばってみたり、階段から落ちてみたりした。だけど、なぜだか物足りない。


 やっぱり、瑠莉ちゃんじゃなきゃダメなんだ。


 瑠莉ちゃんは私が苦しもうが、泣き叫ぼうが、その手を緩めない。容赦のない怒濤の攻めが、愛おしい。もっとしてほしい。いろんな痛みを教えてほしい。他の子じゃきっとできない。


 私を満たしてくれるのは、瑠莉ちゃんだけだ。


 そんな瑠莉ちゃんが鳴りを潜めてしまったのは、私の目が潰れて、救急車に運ばれたあとのことだった。


 シャーペンが思い切り突き刺さった私の眼球は使い物にならなくなり、手術のあと取り除かれた。縫い合わせて消毒を行い、数日後義眼を入れることになった。


 手術をした夜、先生と、それから瑠莉ちゃん、そして瑠莉ちゃんのお母さんが、私の家までやってきた。お母さんは私が転んだか何かしてシャーペンを突き刺してしまったとばかり思っていたから、先生の説明を聞いてすごく驚いていた。


 今回の一件をきっかけに、これまで瑠莉ちゃんが私にしていたことはすべて先生に知られてしまった。口を割ったのは、取り巻きの一人だった。他の取り巻きも、まるで責任を押しつけ合うように「瑠莉ちゃんに無理矢理やらされた」と口裏を合わせたらしい。


 今回の件は、瑠莉ちゃんがすべての主犯格ということになって、私の家まで謝りに来たのだそうだ。


 瑠莉ちゃんは目を真っ赤に腫らしていた。もうすでに、先生や、お母さんから怒られたあとなのかもしれない。瑠莉ちゃんは震えた声で「ごめんなさい」と頭を下げる。


 すると瑠莉ちゃんのお母さんが「ごめんで許されるわけないでしょ!」と瑠莉ちゃんの頭を思い切り叩いた。私のお母さんはまだ戸惑いながらも、宥めに入る。


 シャーペンが突き刺さった右目はすでに失明していて、使えなくなった眼球は取り除いたと伝えると、瑠莉ちゃんのお母さんが泣き始めた。その涙の意味は分からないけど、私に同情しているわけではなさそうな、保身の潤いを宿している。


 瑠莉ちゃんは顔を真っ青にして、私を見ていた。どういう顔をすればいいか分からず、私は顔を伏せた。


 それからいろいろ、先生やお母さんはお金の話をしていた。理解できていないのは、私と瑠莉ちゃんだけだったかもしれない。


 翌日、学校に行くと、瑠莉ちゃんが遠目から私を見ていた。


 そろそろトイレに連れていってくれるかな、と期待したけど、瑠莉ちゃんはずっと一人で、席に座って動かなかった。


 せっかく、中に水着を着てきたのに。


 もう、私を水に沈めてはくれないの? 


 もう、シャーペンを突き立ててくれないの?


館羽たては、瑠莉ちゃんとはもう関わっちゃダメよ」


 お母さんは、瑠莉ちゃんが私にしたことを立派な虐めだと非難し、瑠莉ちゃん本人にも「館羽には今後一切近づかないで」と言い放った。


 瑠莉ちゃんの取り巻きは、すぐに今回の一件をいろんな人に言いふらした。瑠莉ちゃんが私の目にシャーペンを刺したと、学校中に広がりきった頃、瑠莉ちゃんは一人になっていた。


 休み時間も、帰るときも、瑠莉ちゃんの周りには誰もいない。


 瑠莉ちゃんの身体に青あざが増えたあたりで、彼女が親から虐待を受けていることを風の噂で知った。瑠莉ちゃんはいつも学校が終わると、家には帰らずに近くの神社で時間を潰すのだそうだ。


 一度だけ、見に行ったことがある。瑠莉ちゃんは神社の、木が鬱蒼と生い茂った林の中にポツンと体育座りをしていた。境内に棲み着いている野良猫が興味深そうに瑠莉ちゃんに近づいていったが、反応がなくて飽きたのかすぐにどこかへ行ってしまった。大きなアブが、何匹か瑠莉ちゃんの腕に止まっている。それでもやはり、瑠莉ちゃんはボーッとして動きがない。


 遠目から見たら、死体かと思ってしまうほど、生気を感じられなかった。


 それから私と瑠莉ちゃんは疎遠になって、一切話さないまま、中学生になった。


 私は小中一貫のシステムに則って、そのまま近くの中学校に入学したが、そこに瑠莉ちゃんはいなかった。瑠莉ちゃんは違う中学校に転校してしまったのだ。


 平和と静寂は似て非なるもので、正常と退屈はかなり近い種類の状況だ。毎日がローラーで正されたセメントのように灰色に固まってしまい、凹凸も、色彩もなくなってしまった。


 鈍痛に悶えているときの快感や、鋭い痛みに顔を歪める愉悦は完全に消滅した。


 成長とは、自分自身を磨き上げることだ。宝石が本来の輝きを取り戻すために削られるのと一緒で、余分な部位を取り除きながら、私たちは大人になっていく。


 寂しくはあった。結局、本当に手に入れたいものは手に入らなかったけど、それでいいのだ。 周りが背筋を伸ばしていくのに合わせて、私も胸を張る。頭から、消しゴムのカケラがぱらぱらと落ちても拾うことはしない。みんなもう、その場所にはいないのだから。


 そうやって私は、毒にも薬にもならない中学生活を送った。


 そして、現在。


 高校の入学式。新しいクラスでの初めてのホームルーム。


 順番に自己紹介していく中で、一人の女子生徒が元気よく返事をして立ち上がった。


深山みやま瑠莉るりっていいます! 音楽とかよく聞きます! CDショップ巡りとか、結構好きなので、誰かと一緒に行けたらめっちゃ嬉しいです! よろしくお願いしまーす!」


 過去を洗浄した、漂白な笑顔を浮かべる瑠莉ちゃんは、小学校のときと比べると随分変わってみえた。


 私が最後に見たのは死体のような瑠莉ちゃんだったが、今目の前にいる瑠莉ちゃんは愛想がよく、声は明るく、自己紹介が終わったあと後ろの席の子に「めっちゃ緊張したー!」と話しかけられるくらいには、変わっていた。


 髪もショートから、肩甲骨まで伸ばしたロングになっていた。瑠莉ちゃんが動くたびに揺れる髪は、砂丘のようにサラサラと、教室の照明を反射させながら広がったり閉じたりを繰り返している。


 このクラスの中でも、随一の美少女と言っても過言ではない。きっとクラスの男子の中には、すでに瑠莉ちゃんに目を付けた人もいるだろう。


 そんな瑠莉ちゃんが、私に気付いた。


 その顔が、みるみる青ざめていく。


 私も私で、小学生のときから変わったところはあると思う。


 髪は短くまとめてるし、お気に入りだったちょうちょのヘアピンも、もう付けていない。


 だけど、変わってない部分もある。変わりようのない、ぽっかりと開いた穿孔。


 瑠莉ちゃんの視線は、すでにもう光を見ることのできなくなった、私の右目に注がれた。


 そのとき、私は思った。


 私と瑠莉ちゃんはきっと、離れることはできないのだろう。


 ただの友達なら、学校が変わったり、環境が変わればいずれ関係は煙に巻かれたように消えてなくなる。時間が経てば、互いの顔も思い出も忘れ、街中ですれ違っても気付けないくらいになっているはずだ。


 でも、瑠莉ちゃんは、これから十年、二十年。人生の最後のときまで、この私を忘れることはないのだろう。


 街中ですれ違ったら、足を止めて、私の目を見て、そして、絶望するのだ。


 私たちは、友達、恋人、家族、それ以上の絆で結ばれている。


 瑠莉ちゃんがこの右目をみるたびに。


 私と瑠莉ちゃん、どちらかが生きている限り。


 私達は半永久的に、繋がっているのだ。

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