骸骨奇譚
カタオカアツシ
骸骨奇譚 第一夜
痛くない?
珍しく後輩に誘われて立ち寄った居酒屋。仕事帰りの一杯のはずが、上司への愚痴、仕事の不満、後輩が寄せてくれていた信頼、それらが杯を進めさせ、終電に飛び乗った頃には強かに酔っていた。
地元に着いたのは午前一時過ぎ。改札から吐き出されるのは同じような酔客ばかり。
これは明日の仕事に響くかなと思いつつも、後輩と交わした思いと杯に満足して帰路についた。
駅から離れれば酔客の姿もなくなり、都心から遠いベッドタウンは無人の町だ。
シャッターが下ろされた商店街を通り抜け、国道を渡って開けた遊歩道に入れば高層マンション群の谷間だ。
駅前の再開発と時を同じくして建てられた高層マンション。もう五年は経つだろうか。
あまりに景気が良い価格設定に、昔からの住人はため息交じりに誰が買うんだよ、と冷ややかに見ていたが、蓋を開ければ完売だった。
金があるところにはあるものなんだな、と一時期は羨ましい思いに苛まれたが、二年、三年と経てばすっかり町の風景の一部になっていて、今では気にもならない。
酔いが回った体をふらつかせて高層マンション群の谷間を歩く。
ひときわ高いマンションの下に来たときだ。
ぽんと肩を叩かれた。
そして、女のか細い声。
え?
驚いて振り向く。
街灯の黄色い灯りがあるだけ。
誰もいない。
そりゃそうだよな。酔っ払った中年に真夜中に声をかけてくる女性なんていないだろう。
酔いすぎたかな。
アルコール臭い息を吐いて歩き出す。
ぽん。
また肩を叩かれた。
「痛くない?」
今度ははっきりと女の声。叩かれた右肩のあたりで聞こえた。
右半身に鳥肌が立つ。
背後に何かがいる気配がするが、それが人だとは思えない。振り向いたときは無人だった。こんな真夜中に声をかけてくる女性などいないだろう。
振り返ることは出来ない。もし、声をかけてきた何かを見てしまったら、取り返しのつかないことになる予感があった。
酔いすぎたんだ。
自分に言い聞かせて歩き出す。
ぽんぽん。
二度、肩を叩かれた。
そして、
「痛くない?」
耳元で女の声。
さっきよりも近づいている。
勘弁してくれよ。
酔いは完全にさめてしまった。ただ頭の芯と心が冷え冷えと凍りついていく。
しかし、どこかで怒りにも似た感情が湧きつつもあった。
せっかく美味い酒を飲んで気持ち良く帰宅していたのに、すべてを台無しにされてしまった。ただ肩を叩いただけで、しつこく痛くないと訊いてくるのは何なのだ。これが人ならざるものの仕業でも、ふざけすぎだ。
「いい加減にしてくれよ、馬鹿らしい」
誰に言うわけでもなく声を荒らげ、歩き出す。そこに、また。
ぽんぽん。
「痛くない?」
怒りが沸騰した。
「痛いわけないだろ! いい加減にしろっ!」
無人の町に怒声が響き渡る。
「よかった」
頭上で声がした。
驚いて見上げると、髪を振り乱した女と目が合った。
「えっ?」
そして、凄まじい衝突音。
目の前の歩道に女が落ちてきた。
両足は潰れ、骨盤の中に突き刺さる。破れた腹部から飛び出したのは臓物と汚物。長い髪の頭は、潰れた体のうえに沈み込む。砕かれた顎の隙間から歯と血が噴き出た。
飛び降り自殺だ。
突如、目の前に現れた女の死体に呆然と立ち尽くした。
血と臓腑の臭いに圧倒される。
警察に通報しなければ。
ポケットのスマートフォンに手を伸ばしたときだった。潰れた体に沈んでいた頭がむくりと起き上がった。女が血で真っ赤になった目でこちらを見てきた。砕かれた顎をカシュカシュと動かして女が言った。
「嘘つき。とっても痛いじゃない」
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