第29話 名残/再開、再会

 もう、わたしのことなんて忘れられているんじゃないかしら。

 何回も何回も、繰り返しそう思ってしまって。手紙の行く先はポストではなく、引き出しの中。溜まった手紙を捨てることもできなくて、鍵をかけてしまっている。


 もうずいぶんと昔、八十年は前のことだろう。夏の昼下がりに、初めてのお友だちができた。

 わたしは帽子を被って駆け回っていたけれど、お友だちになってくれたひとは、日傘を差していた。左目には片眼鏡を掛けて、涼しい色の服に赤い草履を履いていて、ずいぶんハイカラなひと。そのひとも、お友だちになれる人を探していたというので、じゃあわたしとお友だちになってと、その手を握った。ひんやりとした手だった。

 ニシキと名乗ったそのひととは、夏が終わっても一緒に遊んだ。弟や妹も、ニシキさんによく懐いていた。ニシキさんは子どものようにはしゃぎ回りもすれば、一歩引いたところからこちらを見守ってくれてもいる。不思議なひとだったけれど、優しいひとだった。

 のちに、戦争が始まってしまってからは、ニシキさんとは遊ばなくなった。ニシキさん自身も、姿を現さなくなった。手紙をくれればいつでも会えるよと言われたから、しばらくはお手紙をやり取りしていたけれど。空襲やその後の混乱、終戦後の波に流されてしまって、途絶えたまますっかり忘れてしまった。

 最初にニシキさんを思い出したのは、いつだっただろう。心休まる時なんて、若い頃には無かったような気がする。働いて、働いて、働いて。ずっと、そればかり。家庭を得てからもしばらく経ってから、ようやく思い出せたのかもしれない。

 ああ、そうだ。実家で掃除をしていたら、手紙が出てきたんだった。品のいい、紅葉があしらわれた封筒に便箋。手に取った瞬間、とても懐かしくて、ニシキさんはご無事だったのかしらと不安になって。つい手紙を書いてしまったのだけれど、出せなかった。ニシキさんがいなくなってしまっていたら、この手紙は届かない。そう思うと、途端に怖くなってしまって、引き出しの中へ封じ込めてしまった。それが最初。今も、引き出しの一番下に埋もれている。

 でも、一度思い出してしまうと、何回も思い出せてしまう。心の奥へ封じ込めても、ある時ふっと覗いてくる。ニシキさんはお元気なのかしら。お手紙を出しても届くのかしら。

 不安は次第に増えて、引き出しの手紙も増え重なっていく。何十年も、お手紙のやり取りもしていなかったんですもの。わたしのことなんて、忘れてしまっているかもしれない。お手紙も、もう届かないかもしれない。

 そうやって、不安だとか怖いとか、何回も言っているのに。どうしても手紙は書いてしまう。後ろ向きなことを言って、逃げて、自分から遠ざかって。そんなことばっかり。ずいぶん臆病になってしまった。

 だけど、もう出していいのかもしれない。どうせわたし、先が長くないんですもの。このまま数年生き長らえても、次第に呆けて、ニシキさんのことも思い出せなくなってしまうかもしれない。だったら、出してしまうべき。仮に届かなくたって、先行き短い婆さんが変なことをしただけって誤魔化せそうだし。

 そうね、やっぱりわたし、お手紙を出したいわ。だって、お友だちとお手紙をやり取りするの、とっても楽しかったんですもの。だからもう言い訳もやめて、しっかり歩けるうちに、お手紙を出しに行きましょう。とっても素敵なお友だちのために。


 ❀


 夏休みは祖父母の家に行くというのが、鉄板というか、テンプレートというか、お約束みたいになっている中。その祖母がもう長くないと宣告されている身としては、嫌な夏休みになってしまうなと予感していた。

 すっかり寝たきりとなってしまった祖母は、もうこちらとまともに会話もできない。ただ、呆けてはいないらしくて、こちらを見ると微笑んでくれる。それがどうしようもなく悲しいので、私は初日に顔を合わせて以降、祖母と会っていない。悲しむばかりの顔を見せてしまうのも、申し訳ないし。

 けれども。今日は家に、祖母以外には私しかいないので、祖母の部屋へ定期的に顔を出さなければならない。既に何回か顔を出したけれど、無愛想がすぎて嫌な態度を取ってしまっている。

 居間の鴨居に掛けられた、古い振り子時計が、また顔を出す時間が迫っていると示している。テレビも点けず、タブレット端末も点けず、何か音楽を聴くこともせず。聞こえるのは冷房と振り子の音、壁越しの蝉の声だけ。動く気も起きなくて、体内でお昼ご飯が消化されていくのを、ただ感じ取っている。

 うとうとしていても、定刻になれば振り子時計が起こしてくれると思っていた矢先。別の音に目を覚まされ、テーブルに突っ伏していた体を起こした。インターホンの音だった。

 こんな暑い中、誰が来たのだろう。変な販売員とかなら追い払わねばと覚悟を決めつつ、玄関へ向かう。磨りガラスの向こうには人影が、微動もせずに立ち尽くしていた。見える色合いからしてスーツではないらしいけれど、髪色がずいぶん明るい。

 警戒は緩めないまま、ゆっくり引き戸を開ける。下げていた視線にまず飛び込んできたのは、赤い草履に濃紫のワイドパンツ。上げていけば、淡い水色に紺色が混ざる、中華襟の半袖が見えてくる。


「こんにちは。ユリ子さんはご在宅かな」


 問いかけてくるのは、左目に片眼鏡モノクルを掛けて、ガラス越しでも分かった明るい茶髪を一つにまとめた女性。私より年上くらいなのに、祖母の名前を呼ぶ声は、ひどく親しげな音をしている。


「ああ、怪しい者ではないよ。ユリ子さんとは手紙をやり取りする仲でね。久しぶりに手紙を貰ったから、会いに来たんだ」


 閉じた日傘を携えたのとは別の手で、女性は封筒を取り出し見せてくれた。確かに、そこには祖母の字で「香田こうだユリ子」の名前と、「ニシキさんへ」と宛名が記されている。


「……祖母は、寝たきりで」

「おや、会いに来るのが遅くなってしまったようだね。きみにもご足労をかけてしまった」


 にこにこ笑顔で言う女性は、怪しくは見えない。ひとまず、玄関に上がってもらおうか。それとも帰ってもらうべきか。


「……、……玄関でお待ちいただけますか。祖母に確認してきます」

「ありがとう。私はニシキと名乗っているから、そう言えば伝わるはずだよ」


 からん、と。綺麗な足音を響かせて、ニシキさんが玄関の敷居をまたぐ。客人が上がりかまちへ腰掛けるのを見届けることなく、私は駆け足で祖母の部屋へ向かった。

 結論から言えば、ニシキさんは確かに祖母の知り合いだったらしい。名前を出した途端、祖母は目を見開いて、ほとんど声の出ない口を「ほんとう?」と動かしていた。連れてきて大丈夫かと訊けば、嬉しそうな、でも悲しそうな顔で頷いてもいた。

 玄関に戻ると、ニシキさんは端末をいじるような暇つぶしもせず、座像のように佇んで待っていた。案内すると声をかければ、置物だった雰囲気は嘘のように和らいで、親しげな色を取り戻している。


「――おばあちゃん、入るよ」


 一声かけてから入っても、ベッドの上の祖母は、どこか不安げな顔をしていた。ところが、私に続いて入ってきたニシキさんを見た途端、泣きそうな顔へと変わっていく。


「やあ、お久しぶりだね、お嬢さん。この通り、私は変わらず健在だよ」


 傍らの椅子へ腰掛けたニシキさんが、気安いようで、温かな挨拶をする。祖母は泣き笑うような顔で、うんうんと頷いていた。


「きみからの手紙が届いた時は、懐かしくて嬉しくて、ついはしゃいでしまったんだ。お陰で、身内に呆れられてしまう始末でね。私から手紙を送ることは難しいし、切れた縁を結び直すこともできない。だからまた、こうしてきみと会うことができて、かなり浮かれているんだよ」


 浮かれているというのは、表情や話し方でも分かった。逸る気持ちが抑えられない。そんな顔に、どんどん早まってしまっている話し方。もしかすと、祖母は聞き取れていないかもしれないけれど、喜びで顔をくしゃくしゃにしている。

 ただ立ちっぱなしというわけにもいかず、私はこっそり、麦茶を用意しに台所へ向かった。戻っても、相変わらず声を発しているのはニシキさんだけ。それでも、祖母はずっと笑みを湛えて、時に何か反応を返してもいた。


「――ああ、もう時間だ。すまない、今は長居ができなくてね」


 私はただ、ちょっと距離を置いたところから眺めていただけだったけど。祖母の手を両手で握るニシキさんの声は、名残惜しげな音色をしていた。そんなニシキさんの手を、祖母はくいと一回引いて、何故か私を手招きする。


「なに、おばあちゃん。……、……引き出し?」


 ひどくか細い声を聞き取ると、祖母は机の引き出しを指し示す。開けてほしいのかと手をかけてみるが、鍵がかかっていてびくともしない。


「ふむ。……、分かった、挟んであるんだね」


 同じく祖母から囁かれたニシキさんが、机上の小さな本棚から、迷いなく一冊取り出す。背表紙に「Diary」と、金色の文字が刻まれている日記を。

 引き出しの鍵は、二つついた日記の栞紐の内、片方に括り付けてあった。かちゃりと解錠された引き出しを開けば、ざっと大量の封筒が、波のようにつられて出てくる。ちらほらと見える宛名には、どれもニシキさんの名前が書かれていた。


「ははは、これはまた、ずいぶんたくさん溜めたものだ。少女漫画とかにいる、ラブレターをたくさん貰うイケメン君の気分だよ」


 俗世的な例えをしながら、ニシキさんは迷いなく手紙を掴んでは、机上へ置いていく。全て出し切ると、どこからともなく出した紐で、素早くまとめ上げていた。


「過去のきみと、まだたくさん話ができるね。ふふふ、嬉しくなっちゃうな。あるかもしれなかった分を、これから確かにできていくのだから」


 子どものように笑うニシキさんを、祖母もまた穏やかな笑みで見つめている。そうしていると、ニシキさんも娘か孫のように見えるはずなのに、不思議と印象は違っていた。祖母の顔に、憧れの人を見るような色も混ざっていたので。

 上機嫌なニシキさんは、年下にやるかのように祖母の頭を撫でて、そのまま部屋を出てしまった。慌てて追いかければ、振り返ってこちらの頭も撫でてくる。唐突すぎて固まってしまったけど、嫌な感じはしない。


「私に見送りは要らないよ。きみは、ユリ子さんの傍にいてあげなさい」


 ひどく優しい声で諭されて、すっかり足が動かなくなる。反面、ニシキさんは軽やかな足取りで、颯爽と玄関まで歩き去ってしまった。私の体が動くようになったのは、閉まる引き戸の音を聞いてからだ。

 よろよろと祖母の部屋に戻れば、いつもより可愛らしさが増したような、温かい笑みに迎え入れられる。無言のまま、ニシキさんが座っていた椅子に腰掛けると、名残の温もりはなかった。涼しい所へ置きっぱなしだったように、ひんやりとしていた。

 ぼけっと座っていると、祖母が私の片手を取る。そうして、私の手のひらに指で字を書いた。「ありがとう」と。柔く握られた手首は、だんだん温かくなっていく。涼しい部屋の中、祖母はまだ生きている。


「……おばあちゃん、ごめんね。全然、愛想よくできなくて」


 音の返事はなく、繋がったままの手から、震えが伝わってくる。祖母は笑っていた。笑いながら、また手のひらに字を書いていた。「気にしてないよ」と。


『また、お話してくれる』


 次いで書かれた問いかけに、頷く。今までのように、祖母に自分の話をしていない。だからずっと、暇だったんだ。

 あのね、と口を開けば、毎年そうしてきたように、言葉が流れ紡がれていく。毎年やってきたように、別れる時の名残惜しさを軽減するために。


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