錦夏交遊録
葉霜雁景
第1話 傘/雨天に穴
何もない休日の昼下り、しとやかな雨音がしていると、得をした気分になれる。
家で静かに聴いているのもいいけれど、お気に入りの場所で聴くといいかもしれないと思って、しないと思っていた外出をした。一見すると黒いが、開けば星空が広がっている、これまたお気に入りの傘と一緒に。
場所の方のお気に入りは、ひっそり
他人の姿が見えた瞬間、
女性は明るい茶髪を後ろで一つまとめにして、中華風な襟元の半袖にワイドパンツを合わせている。上が薄水色で下は落ち着いた青紫という、涼しい色合いをしていた。草履と、
だけど何より目についたのは、左目に掛けられた
じっと、同性とは言え
ぱちり、女性が目を開けた。
「私の隣なら空いているよ」
にこりと笑って、ぽんぽんと隣を叩いている。思わずビクついて逃げ出しかけたけど、じろじろ眺めておいてそれはない……と思う自分が、かろうじて踏ん張った。
恐る恐る社に近付いていく間抜けな私を、女性は変わらずニコニコと眺めている。軒下まで辿り着いて会釈をしたら、返してくれた。
「おや、良い傘だね。内側に星空が広がっているなんて」
「えっ!? あっ、ありがとうございます!?」
両手で傘を握りしめて、素っ頓狂な声を上げてしまった、恥ずかしい死にたい。いや落ち着けと、ぎこちないまま傘を閉じて、長らくぽんぽんされていた階段に腰掛ける。
「急に声をかけて、驚かせてしまってすまなかったね」
「いえ、その、私もめっちゃ見ちゃってたので……」
正直に言うやつがあるか。言うにしても、もっとこう、言い方とかあっただろ。
「ははは、まあ私の格好は風変わりだからねぇ。特に片眼鏡はよく言われる。だがチャームポイントというやつでもある」
頭の中で大論争を繰り広げる私の傍らで、女性は自慢げに片眼鏡をつついていた。確かに、チャームポイントにもなっている……と思う。
「ところで、君は何をしに? 私は雨音が聴きたかったんで、適当にここへ立ち寄ったんだが」
「あ……同じ、です」
まさか、同じ理由でここへ来る人がいたなんて思わなかった。今の私が漫画になったら、まん丸く目を見開く姿を描かれているに違いない。
私の驚きをよそに、女性はまたにこりと微笑むと、入口の方を向いて目を閉じる。私もまた倣うように、いつも通り目を閉じた。
変わらず雨は降り続いて、聴きたかった音も止まずにいる。パラパラパラ、ざあざあざあ。無数の雫が土と石と、葉っぱと、私たちの入り込んだ屋根に衝突している。屋根からは溜まった水が流れ落ちて、パチパチパチと絶え間ない、小さな滝の音もする。鼻が慣れたところに、すっと一筋、濡れ葉や濡れ土が香る。
「雨天は異界だね」
落ち着く空気を邪魔することのない、むしろ同化したような女性の声がした。ゆるり目を開けて横に視線だけ向けると、同じく目を開けた女性の横顔が見える。
「雨の幕もまた境界線だ。そして、その中を切り進む傘もまた境界線になる」
不思議なことを言っているなと、ぼんやり思った。雨の音に、すっかり心をなだらかにされて、ふわふわした心地がしていた。
「お、見たまえ。花嫁行列だよ」
女性がするり前方を指して、つられるように視線を前へ向けた。すると確かに、狭い神社の入口から行列が見えている。黒い着物を着た人たちが提灯を携えて歩き、やがて赤い傘と、真っ白な人影が歩いて通り過ぎる。
「この後お暇かね、お嬢さん。良ければあの行列を見に行かない?」
もう立ち上がって傘を携えている女性に、私もぼんやり頷いた。とても綺麗だったから、できるならもっと見たい。
女性は急かさず、私がのんびり立ち上がるのを待ってくれていた。先にパッと赤を開いて、軽やかに雨天へ進み出る。よく見れば骨の多い傘で、和傘のようにも見える傘だった。
「そうだ、名乗るのを忘れていたね。私はニシキという。気軽にニシキさんと呼んでくれ。呼び捨てでも構わないよ」
「じゃあ、ニシキさんって呼びます。私は――」
傘を開いて隣に立ちつつ、私も名前を言おうとしたら、ピッと人差し指を前に出されてつんのめった。目を瞬かせながらニシキさんを見ると、やっぱりニコニコしている。
「きみの名前は、晴天の下で聞かせてくれたまえ」
それだけ言うと、ニシキさんはひらり舞うように、前を向いて歩き出す。私もゆっくりついて行った。相変わらず、雨音が心地よい合奏を続けていた。
花嫁行列もゆっくり進んでいたので、野次馬の私たちはすぐに追いついた。一定の距離をおいて、
何だか私はぼんやりしていた。穏やかな音のする、傘の赤色が浮き上がる世界の中で、ふよふよ漂っている気分。隣ではからんころんと、ニシキさんの足音がする。
道の左右には田んぼか畑しか広がっていない。灰色に
「どこまで行くんでしょうね」
「なに、行き先なんて山と決まっている。そこまではさすがについて行かないがね」
何となく零した疑問を、ニシキさんは軽快に拾って、転がすように答えてくれた。着物で山まで行くのか、大変だろうに。
道の左右が民家になり、また田畑になり。雨天の花嫁行列は、しずしずと進んでいく。確かに山を目指しているらしかった。この速さではかなりの時間がかかりそうだけど、行く先には山影が見えている。
だんだん、時間の感覚もぼんやりしてきた。不思議と疲れが溜まる気配はなく、足も真綿を踏むようにふわふわしている。パラパラパラと傘を打つ雫の音、からんころんと濡れ地を転がる草履の音。ぼうと浮かぶ提灯の明かり。烟る雨天に私も溶けて、世界の一部になりそうな気がして。
「ふむ、ここまでにしようか」
ピタリ。穏やかながら確かな声に、留められた。
あと一歩で四辻の交差点に踏み入る。その手前で、ニシキさんは止まっていた。私はニシキさんより、ほんの少し後ろを歩いていたので、急に止まられたちょうど隣に立ち止まる。前方の行列はもちろん止まらず、提灯の光を揺らして遠ざかっていく。
幾重にも重なる雨の薄絹が、行列を覆い隠していく。やがて見えなくなってしまうと、雨音が小さくなり始めた。振り返ってみれば、千切れ始めた雲の合間から差す日差しが、ゆっくりこちらに迫って来ている。
「いやはや、現代において嫁入り行列をやる奴もいるんだなぁ。あれは、私のような
まだ傘を差したまま、ニシキさんはからから笑う。その声が、何となく明瞭に聞こえて、しばらくするとハッとなった。
「え……、えっ。あれって、その、もしかして」
「狐の嫁入りというやつさ。まあ狐ではなく、別の何かの花嫁行列だったかもしれないけどね」
当然のように答えるニシキさんと、雨が去っていった山の方を交互に見てしまう。狐の嫁入りって、そんな、そんな……。
「信じられない……」
呆然。この言葉を、これほど身にしみて味わう時が来るなんて思わなかった。非科学的なんて言葉が頭に浮かんでくることも、思わず頬をつねってしまうなんてことも、本当にする日が来るなんて。
「ははは。白昼夢ならぬ雨天夢、とでも言ったところかな。きみ、あんまりにも夢見心地らしかったし」
うろたえる私と、笑うニシキさん。雨が止んでも傘を差しっぱなしなところへ、陽の光が到来する。洗われて、ピカピカ光る世界の中で、ニシキさんの赤い傘がいっそう鮮やかに見えていた。
「さて。夢から覚めて、異界から戻ってきて、晴天の下に出た。改めてお尋ねしても良いかな、お嬢さん。きみのお名前を」
不思議な文言を謳いながら、傘を閉じたニシキさんが問うてくる。バサバサと振るわれた赤い傘から、雫が飛び散ってきらめいていた。私も星空を閉じて、深い紺色を振るって、夢の名残を振り落とす。
一度は名乗ろうとしたし、ニシキさんが先に名乗ってくれていたのだ。今さら無視するなんて失礼だろうと、口を開いた。
「名字ですけど、
「ふふ、賢明な判断だね。萩くんと呼んでも?」
「はい。……くん付けされるのは、何か変な感じですけど」
「すまないね、癖なもので」
片眼鏡と耳との間に垂れ下がる鎖をいじって、ニシキさんは目を泳がせながら苦笑する。それも癖なのかもしれない、と眺めていたら、再び見つめられた。
「ところで萩くん。私は文通が好きなんだが、良ければ私の文通相手の一人になってくれないかい? ああ、住所だとか、いわゆる個人情報は必要ない。私への手紙は、
「紅葉一枚で?」
そんなわけあるかと聞き返したが、ニシキさんはうんうんと頷いている。頷かれても到底信じられな……いや、もう信じられないものを見てしまった後に言うのもなんだけど、うん、信じられない。
しかしふと、いつか見聞きした噂を思い出した。都市伝説めいた噂を。
紅葉と一緒に手紙を出すと、「ニシキさん」なる人物に届く。その人は文通が好きで、やり取りをする気のある人とだけ、手紙を送ってくれるという。
ずいぶんロマンチックで、ともすれば誰かの作り話かなと思っていたけれど、気に入って憶えていた噂だ。まさか、この人があの「ニシキさん」なのだろうか、本当に。
「なに、手紙に書くことなんて、些細なことでいいのさ。そして毎日送る必要もない。きみが送りたくなった時、何らかの紅葉と一緒に手紙を出してくれたまえ。紅葉そのものでもいいし、そういう装飾の何かでも、封をするものが紅葉仕様でも良い。ああ、紅葉の形に切り抜いた赤い紙を入れても届くよ」
補足された詳細もまた噂通り。私はまた、色々と考えてすっかり固まってしまっていたが、ニシキさんは気にせずニコニコしている。
「気が向いたらでいいし、通りすがりの妄言だったと忘れてくれても構わない。ただ、もし憶えていてくれるなら、手紙をくれると嬉しいな。私は誰かと交流するのが好きだからね」
答えあぐねている間に、ニシキさんは軽やかに言って、歩き出してしまう。振り返ることなく、傘を持っていない方の手をひらひら振って。何もできない中、思わず一つ瞬きをしたら、ニシキさんの姿は跡形もなく消えてしまっていた。早足で駆け寄れば、追いつけるほど近くにいたのに、
「……、……信じ、られ、ない……」
本日最も、口でも頭の中でも言った言葉を繰り返す。信じられない。本当に信じられない。まだ夢の中にいるんじゃなかろうか。でも既につねった頬が、まだじんわり痛い。
穏やかな雨音を聴いていたことなど遥か彼方。立て続けに起きた不可思議な現象に、私はただただ翻弄されて、ぼうっと立ち尽くすことしかできなかった。
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