錦夏交遊録

葉霜雁景

第1話 傘/雨天に穴

 何もない休日の昼下り、しとやかな雨音がしていると、得をした気分になれる。

 家で静かに聴いているのもいいけれど、お気に入りの場所で聴くといいかもしれないと思って、しないと思っていた外出をした。一見すると黒いが、開けば星空が広がっている、これまたお気に入りの傘と一緒に。

 場所の方のお気に入りは、ひっそりたたずんでいる神社だ。鬱蒼としているのと寂れているのとで、あまり人が近寄らない。けれど今日は、驚くことに先客がいた。私がいつもやっているように、やしろへ上がる階段に腰掛けて、目を閉じている。

 他人の姿が見えた瞬間、きびすを返そうとしたけれど、何となく立ち尽くしてしまった。そしてまじまじと先客の女性を観察してしまっていた。

 女性は明るい茶髪を後ろで一つまとめにして、中華風な襟元の半袖にワイドパンツを合わせている。上が薄水色で下は落ち着いた青紫という、涼しい色合いをしていた。草履と、かたわらに立て掛けてある傘は鮮やかな赤色で、彩度が低いこの空間ではかなり浮いている。

 だけど何より目についたのは、左目に掛けられた片眼鏡モノクル。伊達だろうか、伊達でも片眼鏡を愛用している人なんているのか、物語の世界ならまだしも現実で。

 じっと、同性とは言え不躾ぶしつけに見つめてしまうこと数分。傘が弾く雨音、神社のもはや林な生垣の木々が弾く雨音にもまた、耳を澄ませている。緑と土とコンクリートの匂いがむっと濃くなって、そういえば雨の匂いってペトリコールって名前が付いているらしいとかって、思っていたら。

 ぱちり、女性が目を開けた。


「私の隣なら空いているよ」


 にこりと笑って、ぽんぽんと隣を叩いている。思わずビクついて逃げ出しかけたけど、じろじろ眺めておいてそれはない……と思う自分が、かろうじて踏ん張った。

 恐る恐る社に近付いていく間抜けな私を、女性は変わらずニコニコと眺めている。軒下まで辿り着いて会釈をしたら、返してくれた。


「おや、良い傘だね。内側に星空が広がっているなんて」

「えっ!? あっ、ありがとうございます!?」


 両手で傘を握りしめて、素っ頓狂な声を上げてしまった、恥ずかしい死にたい。いや落ち着けと、ぎこちないまま傘を閉じて、長らくぽんぽんされていた階段に腰掛ける。


「急に声をかけて、驚かせてしまってすまなかったね」

「いえ、その、私もめっちゃ見ちゃってたので……」


 正直に言うやつがあるか。言うにしても、もっとこう、言い方とかあっただろ。


「ははは、まあ私の格好は風変わりだからねぇ。特に片眼鏡はよく言われる。だがチャームポイントというやつでもある」


 頭の中で大論争を繰り広げる私の傍らで、女性は自慢げに片眼鏡をつついていた。確かに、チャームポイントにもなっている……と思う。


「ところで、君は何をしに? 私は雨音が聴きたかったんで、適当にここへ立ち寄ったんだが」

「あ……同じ、です」


 まさか、同じ理由でここへ来る人がいたなんて思わなかった。今の私が漫画になったら、まん丸く目を見開く姿を描かれているに違いない。

 私の驚きをよそに、女性はまたにこりと微笑むと、入口の方を向いて目を閉じる。私もまた倣うように、いつも通り目を閉じた。

 変わらず雨は降り続いて、聴きたかった音も止まずにいる。パラパラパラ、ざあざあざあ。無数の雫が土と石と、葉っぱと、私たちの入り込んだ屋根に衝突している。屋根からは溜まった水が流れ落ちて、パチパチパチと絶え間ない、小さな滝の音もする。鼻が慣れたところに、すっと一筋、濡れ葉や濡れ土が香る。


「雨天は異界だね」


 落ち着く空気を邪魔することのない、むしろ同化したような女性の声がした。ゆるり目を開けて横に視線だけ向けると、同じく目を開けた女性の横顔が見える。


「雨の幕もまた境界線だ。そして、その中を切り進む傘もまた境界線になる」


 不思議なことを言っているなと、ぼんやり思った。雨の音に、すっかり心をなだらかにされて、ふわふわした心地がしていた。


「お、見たまえ。花嫁行列だよ」


 女性がするり前方を指して、つられるように視線を前へ向けた。すると確かに、狭い神社の入口から行列が見えている。黒い着物を着た人たちが提灯を携えて歩き、やがて赤い傘と、真っ白な人影が歩いて通り過ぎる。


「この後お暇かね、お嬢さん。良ければあの行列を見に行かない?」


 もう立ち上がって傘を携えている女性に、私もぼんやり頷いた。とても綺麗だったから、できるならもっと見たい。

 女性は急かさず、私がのんびり立ち上がるのを待ってくれていた。先にパッと赤を開いて、軽やかに雨天へ進み出る。よく見れば骨の多い傘で、和傘のようにも見える傘だった。


「そうだ、名乗るのを忘れていたね。私はニシキという。気軽にニシキさんと呼んでくれ。呼び捨てでも構わないよ」

「じゃあ、ニシキさんって呼びます。私は――」


 傘を開いて隣に立ちつつ、私も名前を言おうとしたら、ピッと人差し指を前に出されてつんのめった。目を瞬かせながらニシキさんを見ると、やっぱりニコニコしている。


「きみの名前は、晴天の下で聞かせてくれたまえ」


 それだけ言うと、ニシキさんはひらり舞うように、前を向いて歩き出す。私もゆっくりついて行った。相変わらず、雨音が心地よい合奏を続けていた。

 花嫁行列もゆっくり進んでいたので、野次馬の私たちはすぐに追いついた。一定の距離をおいて、おぼろに光る人々の背に続く。

 何だか私はぼんやりしていた。穏やかな音のする、傘の赤色が浮き上がる世界の中で、ふよふよ漂っている気分。隣ではからんころんと、ニシキさんの足音がする。

 道の左右には田んぼか畑しか広がっていない。灰色にけぶる遠くには、連なる民家がぼんやり見える。遠くからでも、白無垢の女性に傾けられた傘と、ニシキさんが差す傘の鮮やかな赤は、簡単に見えそうな気がした。


「どこまで行くんでしょうね」

「なに、行き先なんて山と決まっている。そこまではさすがについて行かないがね」


 何となく零した疑問を、ニシキさんは軽快に拾って、転がすように答えてくれた。着物で山まで行くのか、大変だろうに。

 道の左右が民家になり、また田畑になり。雨天の花嫁行列は、しずしずと進んでいく。確かに山を目指しているらしかった。この速さではかなりの時間がかかりそうだけど、行く先には山影が見えている。

 だんだん、時間の感覚もぼんやりしてきた。不思議と疲れが溜まる気配はなく、足も真綿を踏むようにふわふわしている。パラパラパラと傘を打つ雫の音、からんころんと濡れ地を転がる草履の音。ぼうと浮かぶ提灯の明かり。烟る雨天に私も溶けて、世界の一部になりそうな気がして。


「ふむ、ここまでにしようか」


 ピタリ。穏やかながら確かな声に、留められた。

 あと一歩で四辻の交差点に踏み入る。その手前で、ニシキさんは止まっていた。私はニシキさんより、ほんの少し後ろを歩いていたので、急に止まられたちょうど隣に立ち止まる。前方の行列はもちろん止まらず、提灯の光を揺らして遠ざかっていく。

 幾重にも重なる雨の薄絹が、行列を覆い隠していく。やがて見えなくなってしまうと、雨音が小さくなり始めた。振り返ってみれば、千切れ始めた雲の合間から差す日差しが、ゆっくりこちらに迫って来ている。


「いやはや、現代において嫁入り行列をやる奴もいるんだなぁ。あれは、私のような隠栖者いんせいしゃでもなかなか見られるもんじゃない。きみも幸運だったな」


 まだ傘を差したまま、ニシキさんはからから笑う。その声が、何となく明瞭に聞こえて、しばらくするとハッとなった。


「え……、えっ。あれって、その、もしかして」

「狐の嫁入りというやつさ。まあ狐ではなく、別の何かの花嫁行列だったかもしれないけどね」


 当然のように答えるニシキさんと、雨が去っていった山の方を交互に見てしまう。狐の嫁入りって、そんな、そんな……。


「信じられない……」


 呆然。この言葉を、これほど身にしみて味わう時が来るなんて思わなかった。非科学的なんて言葉が頭に浮かんでくることも、思わず頬をつねってしまうなんてことも、本当にする日が来るなんて。


「ははは。白昼夢ならぬ雨天夢、とでも言ったところかな。きみ、あんまりにも夢見心地らしかったし」


 うろたえる私と、笑うニシキさん。雨が止んでも傘を差しっぱなしなところへ、陽の光が到来する。洗われて、ピカピカ光る世界の中で、ニシキさんの赤い傘がいっそう鮮やかに見えていた。


「さて。夢から覚めて、異界から戻ってきて、晴天の下に出た。改めてお尋ねしても良いかな、お嬢さん。きみのお名前を」


 不思議な文言を謳いながら、傘を閉じたニシキさんが問うてくる。バサバサと振るわれた赤い傘から、雫が飛び散ってきらめいていた。私も星空を閉じて、深い紺色を振るって、夢の名残を振り落とす。

 一度は名乗ろうとしたし、ニシキさんが先に名乗ってくれていたのだ。今さら無視するなんて失礼だろうと、口を開いた。


「名字ですけど、はぎと言います」

「ふふ、賢明な判断だね。萩くんと呼んでも?」

「はい。……くん付けされるのは、何か変な感じですけど」

「すまないね、癖なもので」


 片眼鏡と耳との間に垂れ下がる鎖をいじって、ニシキさんは目を泳がせながら苦笑する。それも癖なのかもしれない、と眺めていたら、再び見つめられた。


「ところで萩くん。私は文通が好きなんだが、良ければ私の文通相手の一人になってくれないかい? ああ、住所だとか、いわゆる個人情報は必要ない。私への手紙は、紅葉もみじ一枚あれば届くからね」

「紅葉一枚で?」


 そんなわけあるかと聞き返したが、ニシキさんはうんうんと頷いている。頷かれても到底信じられな……いや、もう信じられないものを見てしまった後に言うのもなんだけど、うん、信じられない。

 しかしふと、いつか見聞きした噂を思い出した。都市伝説めいた噂を。

 紅葉と一緒に手紙を出すと、「ニシキさん」なる人物に届く。その人は文通が好きで、やり取りをする気のある人とだけ、手紙を送ってくれるという。

 ずいぶんロマンチックで、ともすれば誰かの作り話かなと思っていたけれど、気に入って憶えていた噂だ。まさか、この人があの「ニシキさん」なのだろうか、本当に。


「なに、手紙に書くことなんて、些細なことでいいのさ。そして毎日送る必要もない。きみが送りたくなった時、何らかの紅葉と一緒に手紙を出してくれたまえ。紅葉そのものでもいいし、そういう装飾の何かでも、封をするものが紅葉仕様でも良い。ああ、紅葉の形に切り抜いた赤い紙を入れても届くよ」


 補足された詳細もまた噂通り。私はまた、色々と考えてすっかり固まってしまっていたが、ニシキさんは気にせずニコニコしている。


「気が向いたらでいいし、通りすがりの妄言だったと忘れてくれても構わない。ただ、もし憶えていてくれるなら、手紙をくれると嬉しいな。私は誰かと交流するのが好きだからね」


 答えあぐねている間に、ニシキさんは軽やかに言って、歩き出してしまう。振り返ることなく、傘を持っていない方の手をひらひら振って。何もできない中、思わず一つ瞬きをしたら、ニシキさんの姿は跡形もなく消えてしまっていた。早足で駆け寄れば、追いつけるほど近くにいたのに、忽然こつぜんと。


「……、……信じ、られ、ない……」


 本日最も、口でも頭の中でも言った言葉を繰り返す。信じられない。本当に信じられない。まだ夢の中にいるんじゃなかろうか。でも既につねった頬が、まだじんわり痛い。

 穏やかな雨音を聴いていたことなど遥か彼方。立て続けに起きた不可思議な現象に、私はただただ翻弄されて、ぼうっと立ち尽くすことしかできなかった。

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