鬼哭丸③ 『タムラマロ』

鷹山トシキ

第1話

 9月2日、織田和樹は林檎や蜜柑とともに浦島市にやってきた。和樹の叔父である矢吹陽介の友人である相馬民夫(山本耕史似)が制作した位置ゲーム『タムラマロ』をプレイするためだ。ゲームの誕生パーティーがホイヤルオレンジズホテルの20階、スカイバスケットホールで開かれた。相馬だけでなく、矢吹や地葉釣男ちばつりお(相島一之似)いうサブディレクターも出席した。

 

 坂上田村麻呂の姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。


 官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。


 4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。


 薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。


 坂家宝剣では坂家。

 

『タムラマロ』は実生活が密接に絡む。岸田が辞職して、野崎治之という元警察官僚が後任についた。野崎治之は酷く悪を憎んでおり、国民に悪人や前科者の殺戮を許可した。プレイヤーたちが悪人を殺害すると敵キャラも死ぬという仕組みだ。


 相馬は坂上田村麻呂の幼少期の話をした。


 天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男、または三男として誕生。生年は坂上田村麻呂の薨伝に記録された没年からの逆算。苅田麻呂は31歳、生まれた場所についてはあきらかにされていない。


 母について、高橋崇は一切不明としている。延暦12年2月3日(793年3月19日)に坂上田村麻呂の兄弟である坂上広人が雲飛浄永(畝火清永)とともに高津内親王の外戚として従五位下に昇授されている。外戚とは高津内親王の母である坂上全子を通しての親族の意味で、全子の母の父か兄弟となるため、全子の母は畝火宿禰であり、浄永は母方の伯父か祖父、おそらく祖父(苅田麻呂の妻)に該当するものと推量される。角田文衞は広人、坂上田村麻呂、全子の三人が同母であったならば延暦12年2月3日の宴で坂上田村麻呂が昇授されなかったのは、前年の延暦11年3月14日(792年4月10日)に兄の広人を越えて従五位上に叙されていたからであろうとし、坂上田村麻呂の母が畝火宿禰某女であったことは確証できないが、俄然性に富んだ推測であると言えようとしている。


 田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系として、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった。曽祖父の坂上大国は右衛士大尉として武官にあり、祖父の坂上犬養は少年期から武人の才能を讃えられて聖武天皇から寵愛されると左衛士督に昇り、父の苅田麻呂は武芸によって公卿待遇を与えられた。


 しかしながら、この頃の坂上氏は地方的豪族な存在にすぎなかった。そのため大国から苅田麻呂までの3代は氏族の没落を防ぐ試みに全力を尽くし、武人の供給源という特性を坂上氏の特徴にまで育てあげると「将種坂上氏」として武芸絶倫という家風を確立し、坂上田村麻呂とその兄弟は幼少期から武芸を好むよう教育された。


 幼少期の田村麻呂については史料こそないものの、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位すると、父・苅田麻呂が道鏡の姦計を告げて排斥した功績により同年9月16日(770年10月9日)に陸奥鎮守将軍に叙任されている(宇佐八幡宮神託事件)。宝亀2年閏3月1日(771年4月20日)に佐伯美濃が陸奥守兼鎮守将軍となり、苅田麻呂が安芸守となるまで半年ほどの在職期間ではあったが、その間は鎮守府のある多賀城に赴任していたものと思われる。律令では21歳未満であれば同道出来ることから、13歳前後であった田村麻呂は父とともに、道嶋氏が凋落して桃生城襲撃事件が起こる三十八年騒乱直前の比較的平和な時代の陸奥国で幼少期を過ごしていた可能性もある。


 宝亀3年(772年)、大和国高市郡の郡司職に関して、代々郡司職にあった檜前忌寸ではなく、ここ数代は蔵垣忌寸・蚊帳忌寸・文山口忌寸が郡司職に任ぜられていることを父・苅田麻呂が上奏し、今後は譜第である檜前氏を郡司職に任じる旨の勅を得ている。

 

 マイクがキーン!と鳴った。


 和樹は地葉に別室に呼び出された。

「相馬は私の作品をパクったんだ。奴を殺してもらいたい」

 和樹は地葉から10万を受け取った。茶封筒の中身を見て和樹はほくそ笑んだ。

『タムラマロ』には初めから殺すことにより任務を達成できる人物のリストが掲載されている。相馬もリストに掲載されている。

 田村麻呂は各地にはびこる妖怪を倒すために坂家宝剣を探す旅に出る。日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣で、鎮国剣ちんこくのけんとも。『古事談』などの説話集では坂上宝剣さかのうえのたからのつるぎと記されている。文献によっては田村麻呂将軍の剣、敦実親王の剣などとも記されている。


 日記である『公衡公記』では剣の図を描き刀身の両面にそれぞれ「上上上 不得他家是以為誓謹思」「坂家宝剣守君是以為名」と書き込まれているため、正しい銘文は坂家宝剣である。坂家は坂上田村麻呂を指す。


 平安時代の征夷大将軍としても著名な大納言の坂上田村麻呂の御佩刀みはかしで、鎮国剣として皇室に相伝されると朝廷守護の宝剣や皇位継承の印と考えられた。


 醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けるといい、醍醐の同母弟で左大臣・藤原時平の娘婿であった敦実親王は一時皇位継承の可能性があったのか、説話中で「身もはなたず」と皇位継承の印としての坂家宝剣に対する敦実の執着心を伝える表現がみられる。


 鎌倉時代には坂家宝剣が後嵯峨天皇から亀山天皇へと伝えられたことに母の西園寺姞子(大宮院)も関与していたことを知った後深草天皇は「女院のうらめしき御事」と不満に思い、それを聞いた北条時宗が後深草に深く同情したことが両統迭立の最初の出来事となる。その後は西園寺瑛子(昭訓門院)が亀山の妃として恒明親王を産んだ際に賜剣の儀の御剣として用いられた。

 

 この刀を手に入れる為には蝦夷の兵士を5人倒す必要がある。つまり、現実世界の悪人を5人殺さないといけない。

 

 9月3日 - 日本テレビ系列の『笑点』の大喜利に、57年の歴史で女性落語家として初めて蝶花楼桃花が出演。


 その時計が鳴り響いた。ターボ車のオイル交換の日だった。永野任三郎(山口智充似)はゆっくりと自宅を出て、車をディーラーに預けた。その後はコーヒーショップでゲームクリエイターの友人、相馬民夫と待ち合わせだ。


 待ち合わせ場所に着くと、相馬が何かを隠しているような様子だった。彼は永野の手首に発光するブレスレットを付け、永野を射的場へと誘った。


 その射的場で、永野たちは機械仕掛けの鳥を撃った。相馬の腕前は驚くほどに上手く、永野たちは常連客になった。


 翌日、永野は浦島市の西にある健康ランドでリラックスするつもりだったが、休憩室で相馬の死体を発見した。彼の側には、ノートに書かれた彼の未完成の新作ゲームがあった。


 同じ日の夜、和樹は浦島市内にある道場で蜜柑に稽古をつけてもらっていた。蜜柑は元剣道部だ。

 まず、竹刀稽古を行った。

 素振り、切り返し、打ち込み稽古(打突)、追込み稽古、掛かり稽古、互角稽古(地稽古)、試合稽古、立ち切りなどを教えてもらった。


 埼玉県警の日高川林檎は彼の死を捜査し、毒殺であることを突き止めた。そして、別の友人、沼田寧々(吹石一恵似)が彼と同じゲームを制作していたことがわかった。真犯人は、寧々だった。


 寧々は、彼女のゲームを盗用したことが原因で、相馬を殺害したのだった。

 毒殺!?石垣島のホテルで殺された、真二も毒殺だった。林檎は思い切って真二に尋ねてみた。

「秋川真二さんってご存知?」

「もう調べたの?」

 寧々は石垣島出身で、真二とは以前付き合っていたが、真二は不倫をしていた。相馬を殺すための実験台として真二を葬ったのだ。

 寧々の姓は沼田、さんずいは汚職をすることにより水魔法を発揮できる。魔法石は石垣島に行ったときに手に入れた。

 寧々は自分の周囲に浮遊する水の塊を作った。

 寧々がフワフワ浮かび上がる。幽霊みたいにその場から立ち去った。寧々が行ったことは小規模政治的腐敗だ。小規模政治的腐敗は、高級官僚、政治家、ビジネスマンなどが、特定の業界や企業に対する優遇を行い、その対価として資金、株、不動産などの資産が支払われたり、娯楽の機会や天下り先などが提供される類型である。背景には開発による利権の発生機会の増加、貧富や階級、党派、宗教、イデオロギーなどによる社会断層、公私を曖昧化したり党派の利益を優先する政治文化、利益集団の暗躍や政治エリートへの権限集中などがある。

 汚職の相手は野崎治之首相だ。

 

 9月5日

 静岡県牧之原市にある認定こども園で、通園バスの車内に園児が取り残され、熱中症で死亡。10月12日、国は翌2023年4月から安全装置を義務化する対策を取りまとめ。


 学制150年記念式典。


 ロシア連邦政府が、北方四島交流と自由訪問の合意の破棄を発表。外務省は、3月の四島交流事業の中止発表時に続き、改めて強く抗議した。


 和樹は蜜柑とともに手嶋敏夫を捜索していた。

 手嶋はある未解決事件の容疑者だ。

 1996年9月9日午後4時半ごろ、浦島市3丁目の民家より火災が発生。約2時間後に消し止められ、焼け跡から浦島大学4年生の女子大生(当時21歳)の遺体が発見された。被害者の女子大生は2日後にアメリカへの海外留学を控えていた。遺体は口と両手を粘着テープで、両足をパンティーストッキングで縛られており、首を鋭利な刃物で刺されていたことから警察は殺人事件と断定。現場の状況や交友関係などから、顔見知りの犯行と思われた。


 事件から10年経った2006年9月に、両足の縛り方が「からげ結び」という特殊な方法だったこと、現場に残されたマッチ箱の残留物から家族以外のDNAが発見されたことが公開された。


 2014年9月に2階の遺体に掛けられていた布団に付着した血液から犯人と思われるDNA型が検出され、1階で発見されたマッチ箱に付着したDNA型とも一致したことが報道された。


 事件の現場である被害者宅の建物は現在存在しないが、跡地には被害者の名前をつけた地蔵が祀られている。


 9月6日 - e-Govなどでシステム障害。翌7日までに復旧。


 9月7日 - COVID-19に係る水際措置が見直され、外国人観光客の入国について、添乗員を伴わないパッケージツアーも容認。対象の国と地域を全域に拡大。入国者総数の管理について、1日5万人をめどに引き上げ。この日以降の入国者のうち、COVID-19ワクチン3回接種完了者に対しては陰性証明書の提出を求めない。


 9月8日 - 安倍晋三銃撃事件から浮上した問題を受け、自由民主党の茂木敏充幹事長は、党所属議員のうち世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と何らかの関わりがあったのは179人であるとの調査結果を公表。

 

 ルパン一味は浦島市の南の閑静な住宅街にやって来た。狙いはトライアングル社の社長、武田飛竜たけだひりゅうの財宝だ。飛竜は鬼哭丸①で和樹に倒された敦夫の弟、さらに和樹の師匠である長太郎の息子だ。



 

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