第4話 シンガポールの噂
高井の存在は別として、美咲は中学生活を順調にスタートさせていた。クラスメイトとは仲良くしていたし、勉強にも付いていけていたし、体育の授業は二クラス合同なので隣のクラスにも友人ができた。最初の校外学習のときには班替えと席替えも済んでいて、美咲はようやく高井と離れることができた。ただし、その班には高井の友人がいたので、近くに声は聞こえていたけれど。
「はぁ? 高井?」
美咲の耳に嫌な情報が入ってきたのは、奈良の明日香村への校外学習の余韻に浸っているときだった。学年末の普通の合唱コンクールの他に一年生だけ校歌のコンクールがあって、その指揮者が高井に決まったらしい。
「うーわ、最悪や!」
そう叫んだのは高井本人だ。
音楽の授業で意思を聞かれ、彼は〝他に誰も候補がいなかったら指揮をしても良い〟のところにマルをつけていた。〝ぜひ指揮をしたい〟生徒はゼロで、候補は他に上がらなかったらしい。
立候補しておきながら嫌がっているのは二つ理由があった。
一つ目は、高井はまさか自分になるとは思わずにマルをつけたこと。
「えぇ……高井ぃ? 嫌や……」
二つ目は、指揮よりも早くに決まっていた伴奏が美咲だったこと。
高井が指揮を嫌がる以上に、美咲も指揮が高井なのが嫌だった。集会で隣に並んでいるのは変わらないけれど班替えをしてからせっかく関わりが減って喜んでいたのに、伴奏と指揮という、息を合わせなければならないものを一緒にするのは本当に嫌だった。
「なんで高井……」
「うっさい黙れっ、このっ……」
高井はずっと
「紀伊、これ、音楽の先生から」
数日後の放課後、帰ろうとしている美咲を呼んだのは担任だった。音楽の先生から校歌の楽譜を預かってきたらしい。
「ピアノ上手いん?」
担任は笑いながら、美咲の隣にいた侑子に聞いた。
「上手い上手い。めっちゃ上手い!」
もちろん侑子も笑っていたけれど、美咲は少し憂鬱だった。伴奏は
秋の文化祭では、学級歌という名の替え歌を歌うことになった。その伴奏も、美咲が担当した。ちなみに指揮は高井ではなかった。
歌詞は文化祭担当数名が考えたものをうまく混ぜることになり、夏休みの登校日までの宿題になった。
「格好良くしすぎた」
そう呟きながら提出したのは、侑子が〝キザっぽい〟と言っていた
森尾は格好悪くはなかったけれど、成績優秀でお金持ちという噂もあったので、どちらかというと人気者だったけれど、高井と一緒に暴れていたこともあって、大人気、ではなかった。
社会の授業でシンガポールを習ったときに、クラスメイトが「喬志、行ったことあるんやろ?」と言った。森尾は起立させられた。
「森尾、シンガポール行ったことあるのか?」
「ないです」
「嘘やー、行ったって言ってたやん」
「行ってないのか?」
「行ってないです」
それ以上は先生は聞かなかったけれど、森尾はおそらく嘘をついていた。それくらい事実を答えても何も問題ないはずなのに、変な奴だ、と思った。
先生には嘘をつくのに、クラスメイトのピンチには協力してくれるらしい。
冬の駅伝大会の日、美咲と同じチームで走る予定だった友人・
チームではないのに。
「なんで森尾君おるん?」
「いや、別に……誰が走る?」
「佐方さんの代わりやから、女子やな」
チームは男女三人ずつの六人で構成されていて、同じチームの男子たちからそんな意見が出た。
森尾が『俺が走る』とでも言ってくれていれば少しは株が上がっていたのに、彼はそうは言ってくれなかった。
「森尾君、代わりに走ってくれるんちゃうん?」
「なんで? 気にせんと続けて」
そして二回走ることになってしまった美咲は、その日は忙しかった。
どちらかと言えば運動は嫌いなのに何故か後期から体育係になっていたので与えられた仕事があり、その上で走者変更を報告のために先生を探して走り回り、駅伝コースを二回走り終えたときには少しふらついていた。学校を飛び出して作られた一人二kmのコースは半分が坂道だったので、二回目の上り坂は何度か転びそうになった。体育の授業では毎年走らされたけれど、近くで工事が始まったので駅伝大会はその年で終了だった。駅伝大会の結果は、準優勝だった。
クラス全員が仲良し──ではなかったけれど。
学校の柄を悪くしている側の生徒もいたけれど。
高井の存在が厄介ではあったけれど、美咲の中学三年間の中ではこのクラスがいちばんまともだったはずだ。
山を拓いた土地なので当時は学校の周りは建物がなく、坂道は舗装されていたけれど、石や岩がゴロゴロしている道も通学路の一部だった。
「あれ? あれ森尾?」
「あー……ほんまや……何してんやろ……?」
坂道を下って下校していた美咲と侑子は、一人で帰宅中の森尾を見つけた。夕方だったので向かう先には紅く染まった海と空が見えた。
「青春してんちゃう?」
森尾は一人で夕陽に向かって石を投げていた。
「きっとカノジョにフラれたんや」
侑子が言った。
「森尾ってカノジョおったっけ?」
「知らん。おらんかな」
森尾が少しだけ人気なのは侑子も認めていたけれど、彼女の噂は聞いたことがない。
「森尾ってほんまわからんよなぁ」
「うん。なんか森尾ってなー、うちのお兄ちゃんに似てんねん」
「えー?」
「うちのお兄ちゃんのほうがよっぽどマシやけどな」
「ははは。あんな石投げるお兄ちゃん嫌やな」
それから二人が坂を下り終えるまで、森尾はずっと石を投げていた。
文化祭で歌った学級歌のタイトルは『意思をひとつに』だった。僕が守ってあげる君は僕の夢だから、森尾が考えたそんな歌詞は、みんな笑いながら歌っていた。
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