第1章 現在─春を待つ─
第1話 山口家の日常
土曜日の午後、
「どうしたん、美咲? 難しい顔して」
美咲は混声合唱団『
聞いてきたのは夫で同級生の
美咲は三十歳を過ぎてから結婚したけれど数年で離婚し、しばらくしてから朋之と再婚した。前の夫との間にできた子供は引き取って、地元に戻って三人で暮らしている。朋之と美咲は同窓会で再会し、朋之が美咲をHarmonieに誘った。朋之は高校のときからHarmonieに所属していて、今では団長だ。
「この楽譜、
「確かに難しいな。でも美咲は代わりはおらんからな。頑張れ」
「ううう……」
右手だけ練習して、左手だけ練習して、両手を合わせてみる。なかなか上手くいかなくて、何度も引っ掛かる。人数がいるソプラノよりも、伴奏を任される美咲のほうにプレッシャーがかかる。
初めはマンションで暮らしていたけれど、娘の
地元・
二人が所属しているHarmonieは、江井市から車で一時間ほどのところで練習している。江井市に引っ越したのでえいこんに──、と篠山から誘われたけれど、今のところその予定はなく、美歌を連れて三人で練習に通っている。美歌は美咲の見えるところで絵を描いたり、持ってきたおもちゃで遊んだりしている。
「ママぁ、おなかすいたぁ」
「え? あ、おやつの時間?」
「俺やっとくわ、美咲、練習したいやろ?」
「ありがとう。冷蔵庫のプリンあげて」
「やったぁ、ぷりん!」
朋之は仕事が休みの日は美歌の面倒を見てくれていた。美歌は赤ちゃんの頃から朋之が大好きで、HarmonieのCD、特に朋之のソロがある曲をかけているといつもご機嫌だった。CDは美咲が産休に入るときにメンバーからプレゼントされたものだ。
美歌を朋之に任せて、美咲はピアノの練習を続けた。季節は年が明けた冬、手が冷たくなって動かないので何回も間違えてしまう。黒鍵なのか白鍵なのか、楽譜をきちんと見ないと間違えて覚えてしまう。そのまま練習を続けて、弾く舞台が終わってから間違いに気づいた、という経験が美咲には何度もある。
「ママ、はい」
振り向くと、美歌がプリンを持ってきてくれていた。
「美咲も休憩したら? ココア飲む?」
「うん……よし、今日は終わり!」
美咲はピアノの電源を切り、美歌と一緒にダイニングに戻る。
以前は何も考えずにコーヒーを飲んでいたけれど、カフェインが喉に良くないと聞いて控えるようになった。美咲はHarmonieでピアノを弾かないときは歌っているので、アルトではあるけれど高い音も出せるままでいたい。
「俺は別に気にせんでも出るけどな」
「ずっと続けてたからやろ? 高校くらいから……中学ときだって、篠山先生に合唱部に誘われたって聞いたし」
「……なんで知ってん? 誰に聞いたん?」
「え、教室でトモが話してるの聞いたけど」
美咲も篠山から、友人の
「あ──二年ときやったからな」
美咲と朋之は中学二年で同じクラスになって、その年度末に有志合唱の練習に参加したあとで篠山から別々に声をかけられた。朋之はバスケ部に、美咲と彩加は放送部に入っていたし、三人とも塾にも通っていたので掛け持ちする余裕がなく入部は断った。
「パパ、うたって!」
美咲にココアを持ってきた朋之に美歌が駆け寄った。こぼす前にココアを置いて、朋之も椅子に座る。
「パパまだおやつ残ってるから、ちょっと待ってて」
「はぁい」
美歌は素直に朋之に従い、彼の膝に乗る。お菓子の箱を見つけて、ビリビリと開けている。
「私はカラオケはしてたけど──前の旦那と結婚してから自粛になって全然やったし、えいこんもHarmonieも休んだ時期あるし」
Harmonieに入ってから喉が戻った気がしたけれど、美歌を妊娠して休んだときに声が出にくくなった。出産後に復帰してから練習に通っているけれど、育児があるので毎週は無理になった。ピアノを弾くことのほうが多いので、その練習に時間を取られてしまう。
「まぁ、別にな……歌うときは周りが助けてくれるから、無理なとこは口パクと顔でごまかしたら良いやん。ソロちゃうし。ピアノは無理やけどな」
息が続かないときや音が高すぎて出ないとき、きっと誰もがその手を使っている。実際、いま練習している曲は男声パートも音が高いようで、Harmonieの代表・
「篠山先生も言ってそうやなぁ。前に聞いたことあるわ」
「明日の練習は合同やな。文化センターで」
Harmonieとえいこんは合同で演奏会をすることがあって、次回の定期演奏会はその予定だった。文化センターは数年前、二回目の同窓会をした場所だ。
「明日、弾けるかなぁ……。あ、そういえば、美歌の制服もそろそろ用意せなあかんな。明日、行こっか」
「みかのふく?」
朋之の膝の上で美歌が首を傾げる。
「美歌が小学校に着ていく服な。良いなぁ美歌、新しい服とランドセルと」
「パパ、しょうがっこう、ってたのしい?」
「それは、美歌次第やな。友達いっぱい作って、いっぱい勉強しような」
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