朝と夕には食卓を囲んで

駒野沙月

朝と夕には食卓を囲んで

 都内某所、とあるマンションの一室。玄関扉を開けた彼を出迎えたのは、ふわりと漂う出汁の香りであった。

 見れば、リビングへと繋がる扉は開け放たれていて、匂いはその向こうから漂ってきている。きっと今、その向こうでは同居人が夕食を作っているのだろう。

 そんなことを考えつつ、彼は扉を閉めた。


「おう、早かったな」


 リビングへと足を踏み入れた彼に、すぐ隣のキッチンからかかる声がある。

 聞き馴染んだその声と、より一層強くなった匂いに誘われるように、彼の足は自然にそちらを向く。


「おかえり、朝陽」

「…ただいま」


 彼が予想していた通り、キッチンには一人の男が立っていた。菜箸片手に彼を出迎えたこの男は、俳優の仕事をしている彼の幼馴染にして一番の友人であり、名前を祐樹という。


 時々誤解されることもあるが、祐樹は彼の同業者ではないし、マネージャーでもない。それどころか、(彼自身は)芸能界と一切関係を持たない、ただの"一般人"にすぎないのだ。勿論、恋人などでもない。


 朝陽の提案から始まったこの同居生活は、あくまでもルームシェア。

 二人の関係は、ただの幼馴染兼同居人にすぎないのだから。


 帰宅した同居人を出迎えた祐樹はすぐにコンロへと向き直るが、そんな彼を朝陽は再び呼び止めた。


「…祐樹」

「なんだ」


 次の瞬間、突如覆い被さってきた重みと体温に、祐樹は一瞬体を強張らせるが、すぐに迷惑そうな顔で「…おい」と呟く。

 振り返れば、帰って来た時の服装のまま、彼の背に体を預ける友人の姿がそこにあったからだ。


「料理中にひっつくなって言ってんだろ。危ないじゃねえか」

「…ごめん」


 文句を言いつつも、祐樹は背中に朝陽をくっつけたまま、今度こそ料理に戻った。

 その物慣れた様子からすると、これくらいのスキンシップは、彼らにとってただの日常茶飯事であるようだ。


 祐樹は慣れた手つきで小皿に煮汁を取りながら、背中の友人に声をかける。


「悪いな、夕飯まだできてなくて」

「…ゆっくり作ってていーよ」

「んじゃ、お言葉に甘えて」


 充分冷ますのを忘れたのか、「あち」と舌を出しつつも、彼は小皿にとった煮汁を啜り、しばし舌の上で転がす。しかし、納得いかないように彼はその首を捻った。


 一方の朝陽はと言えば、その間も友人の背に無言で顔を寄せたまま。

 祐樹は、そんな友人に息をついた。


「今日、なんかあったのか?」

「…何も」

「今撮ってるのって、ドラマかなんかだっけ」

「…そう」

「難航してるのか?」

「いや…ちょっと疲れただけ」

「…そうか」


 ぽつりぽつりと交わされた会話もそこで途切れ、二人の間には再び沈黙が訪れる。

 この場で音を発しているのは、二人の目の前でくつくつと煮立つ鍋のみであった。


「朝陽」


 気まずさこそないものの、どこか張り詰めたような沈黙の中で、不意に祐樹は友人の名を呼んだ。


「ちょっと口開けてみろ」

「…へ?」


「早くしろ」とでも言うように目配せされ、戸惑いつつも朝陽が素直に口を開ける。そこに"何か"が放り込まれた。

 一瞬呆気に取られたものの、朝陽はゆっくりとそれを咀嚼する。

 放り込まれたそれは半月型の形を保ちつつも簡単に崩れてしまいそうなくらい柔らかく、一噛みするごとに染み込んだ出汁と大根の旨味が口の中にじゅわっと溢れ出した。

 どうやら、朝陽の口に放り込まれたのは、先程から祐樹が作っていた大根の煮物であったようだ。


「どうだ?」

「…おいしい」

「染みてるか?」

「…しみてる」


 その返答に、「ん」とだけ答えた祐樹はコンロの火を消し、鍋に蓋を被せる。

 そのまま、手に持っていた菜箸も置いてしまおうとするが、左後方からのもの言いたげな視線の存在に気がついた。


 苦笑しつつも菜箸を再び持ち直して、一言。


「…残りも食う?」

「食う」



 もう半分もしっかり味わった後、満足した様子の朝陽は、祐樹の顔の真横にひょこっと顔を出す。


「これってこの前届いたやつ?」

「そ。量がアレだからな。ちょっとでも消費してかないと」


 突然真横に現れた朝陽に驚いたような顔をしつつも、祐樹は、今度は疲れたような苦笑交じりにそう告げた。


 この前届いたやつ、とは一週間ほど前に朝陽の実家から届いた宅配便のことだ。

 彼の母曰く、親戚からのお裾分けのお裾分けだというそれらは、大きめの段ボール二箱分にも及び、受け取った二人を呆然とさせた。

『男二人とはいえいくらなんでもアレはない』とは朝陽の言である。


「困ったもんだよねえ。今度母さんに文句言っとく」

「…それはやめとけ」


 そんなことを言い出した友人を諫めつつも、祐樹はキッチンの隅に置かれた段ボール箱を眺めて考え込んだ。

 見たら分かる通り、宅配便はまだ大半が残っている。ここ数日で相当量を調理してはいるのだが、消費が追いつかないのが現状だ。

 どうするべきか、と考え込む祐樹の隣で、不意に朝陽が口を開く。


「皆呼んで鍋パでもする?」

「…なるほど」


 鍋なら大量消費もしやすいし、調理も楽だ。どうせ二人だけでは消費しきれないのだから、友人たちも巻き込んでしまおう、…といった所だろうが、普段料理をしない朝陽にしては良い案である。

 ちらりと隣を見やれば、「我ながら名案」とでも言いたげな得意げな顔と目が合い、祐樹は思わず笑みを浮かべる。


「鍋パいいな」

「お、やる?」

「あいつらに都合のいい日聞いといてくれ」

「おっけー」


 仕事柄故か、朝陽には友人が多い。それは時に朝陽の同業者であったり、同じく上京してきたもう一人の幼馴染であったりするが、ここ最近は朝陽も含め皆多忙であるのか、彼らともすっかりご無沙汰である。


 気心知れた友人達と会えるかもしれないことへの歓喜か、幼馴染の作る料理を皆で囲むことへの高揚感か。朝陽の口元には、先程までは見えなかった表情が浮かんでいた。

 予定すら決まっていない状況ではあれど、どうやら今から楽しみで仕方ないらしい。

 すぐ隣で目を輝かせ始めた朝陽を見やって、祐樹は満足気にその口元を持ち上げた。


「…ちょっとは元気戻ったか」

「うん」


 ありがとね、という友人の素直な言葉に、祐樹は照れたように「…おう」と返す。


 彼は不意に、左手を自分の肩の上に乗せられた朝陽の頭へと伸ばした。

 恐る恐る、それでも少しずつ。


 近付いていく手が朝陽の髪に触れようとした、ちょうどその時。

 無慈悲にも炊飯器から炊き上がりの合図が流れ、行き場を失くした手は所在なくその場を漂った。


 その間もずっと背にひっついていた友人をようやく引き剥がし、何も無かったかのように、ぶっきらぼうに彼は言う。


「ほら、飯にするから着替えてこい」

「はあい」


 さっきのはしゃいだ様子はどこへやら。すっかり脱力状態で祐樹に寄りかかっている朝陽を、「重いんだよお前は」とぼやきつつも祐樹は自室へと追いやる。


「風呂入りたいんなら待っててやるから」

「祐樹マジで愛してる…」

「バカなこと言ってる元気があるなら自分で歩け」


 自室に戻った朝陽を見送り、祐樹はダイニングに置かれた椅子に座り込んだ。

 何気なくテレビのリモコンを手に取れば、画面に映されたのは夕方のニュース番組。この時間はエンタメコーナーの時間で、そこではちょうど─と言うべきかは定かではないが─、朝陽が出演した映画の舞台挨拶映像が流れていた。

 監督や主演俳優たちが次々にコメントを発する中に、朝陽の姿もある。緊張からか、その表情はどこか硬くはあったものの、全体的には和やかな雰囲気のまま舞台挨拶は幕を閉じた。


 そうこうしているうちに、コーナーは次の話題へと移っていた。

 某俳優と某女性アナウンサーが結婚したというニュース。特に興味のない彼は、無造作にテレビの電源を落とす。

 シャワーの水音が微かに聞こえる他は特に音も無いダイニングで、彼は一人、椅子に背を預けては虚空を見つめていた。


(いつまでもこのまま、って訳にはいかないよなあ)


 二人のルームシェアが始まってから、もうすぐ3年になる。

 祐樹の想定以上に朝陽が家事を苦手としていたこと、またそれによって生じるトラブルこそいくらかあったものの、基本的に二人の同居生活は上手く行っていた。

 あくまでも、表面上は。



「『愛してる』とか、気軽に言うんじゃねえよ」



 届かなかった左手をぼんやりと見つめ、彼は一人佇む。

 その頬は、微かに朱に染まっていた。

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