八章「異能者たちの戦い」
鉄森林檎に『もしものときは責任を取る』と彼女――日野悠は啖呵を切った。しかし、彼女は未だに納得がいっていない。
そう言った以上は、もちろん彼女は責任を取るつもりだ。しかし、雨月桂――彼女の恩人である彼自身が、その罪を認めたにも拘わらず、彼女は、どうしても、彼がそんな不実を働くような人間だとは思えないでいたのである。彼を知るから、彼女は思うのだ。彼がすんなりと罪を認めたからこそ、彼はおそらく罪なんて犯していない。
普段は凡人ぶっているくせに、時として、彼女が兄貴分として慕うあの青年は周りが思ってもいなかったような行為に打って出ることがある。そのことを、彼女は理解していた。だから、今回も、彼は周りには想像も出来ないような阿保らしい何かを企んでいるのではないか。
だがしかし、かといって、その真意は、彼女には分からない。
彼女の頭は、非常にもやもやとしていた。
「まあ、ともあれ――」
ここは『ファイアフライ』の地上七階。
彼女の目の前には、十数人と言う【篝火】の人間たちが待ち構えていた。
「全員【異能遣い】か。オレは【ヤナギ】か【死神】の奴とやり合うつもりでいたんだが……あいつらは順調に進んでっかな」
彼女は天井を見上げて、先に上層へ進んで行った彼らのことを思う。
「人数で抑えようってハラか。まあいい。引き受けたからには、この雑魚どもはオレが蹴散らしてやるさ」
彼女のもやもやは、晴れない。
だが、しかし――戦っている間は、そんなことは忘れてしまおう。
「【悪の此岸】所属、日野悠――世の中にはオレのことを【銃弾】って呼ぶ奴もいる」
彼女は目の前の敵たちに向かって、とても好戦的に笑った。
「意思を持った〝弾丸〟を避けられるか?」
Φ
【篝火】のアジトへ乗り込んだ【悪の此岸】の人間たちの中で、現在もっとも秋島純の近く――つまりはもっとも高い階層まで到達していたのは鉄森林檎だった。
しかし、他のメンバーが下の階で交戦しているのと同様、彼女もここ――十三階にて足止めを食らっていた。
「ちっ……通路では分が悪いですね」
林檎は今逃げていた。
「まあ、あれだけ出鱈目な【異能】に対して分が良いも悪いもないのかも知れませんが」
彼女はフロア内を駆ける。確か事前に確認しておいたビルの案内図ではこの階層には開けた空間があったはずだ。通路を曲がるとそこには引き戸式の扉がある。
「……ビンゴ、ですね」
扉の向こうは彼女の思惑通り――広い板張りの空間になっていた。
「ここなら……」
太鼓が置いてあるところを見るあたり、ここは剣道場であるらしい。
その時だった。
林檎の背後から突風が吹いた。
「くっ……」
こんな建物の中で突如として起こった自然現象によって、彼女は剣道場の中空へ投げ出される。咄嗟に受け身を取って床に落ちた際のダメージを減らすが、彼女は追跡者に対し一瞬でも油断した自分を恥じた。
そして、彼女はすぐに飛び起きて背後へ跳ぶ。次の瞬間、それまで倒れていた場所が容赦のない暴力によって弾け飛んだ。
その男は、巨大な身体と棍棒を持っていた。
林檎は瞬時に、その男に向かって、【異能】によって作り出した数本のナイフを投げつける。
しかし、再び巻き起こった風によって、その刃は、男に届くことなく地面に落ちた。
ただ、そのナイフは牽制にすぎない、既に彼女は駆け出し、男のすぐそばまで迫っている。彼女は、腕を刃物に変え、襲い掛かる。
「その首もらい受けます!」
彼女は叫んだ。
「甘い」
彼女をまたも突風が襲った。正面からの風圧によって、彼女は動きを封じられる。
「――しまった」
「死ね」
男は身動きの取れない林檎に向かって、棍棒を振り下ろした。
バキバキと、木材の砕ける音が剣道場にこだまする。
「…………ほう」
しかし、林檎に痛みが訪れることはなかった。
「――林檎、無事?」
「……兄さん」
彼女はいつの間にか男から離れた位置に座り込んでいた。彼女の背後にはその肩を抱くようにする才悟がいた。
「兄さん、気を付けてください、アイツは……」
「分かってる。【ヤナギ】か、面倒くさいなあ……」
「一人増えたか」
棍棒の男――【ヤナギ】は、彼のもつ暴力的な武装とは対照的に、冷静な口調で言う。
「でも、やることは変わらない。お前らを生きて返すなと言われている」
才悟は林檎の耳元でささやく。
「林檎、行こうか」
「ええ、兄さん」
Φ
【悪の此岸】の面々と【篝火】との戦いの最中。
高層ビル『ファイアフライ』の目の前に一人の青年が立っていた。
――雨月桂である。
「……来たかな」
そこに、車のエンジン音が響いた。
「ふう――最初はここまで手間がかかるとは思ってなかったんだけどな」
遠目に大型の乗用車が数台こちらに走ってくるのを見て桂は呟く。
彼がその手に持っているものは、一握りの短刀のみ。その刀――【枝霧】は彼にとって忌々しい代物だった。自分の背負っているものを否応なく思い出させる――呪いの刀。しかし、今の彼はそのたった一つのその得物に対してこうも思う。
それは、自分にとってなくてはならないものだ。
心からそう思うし、まぎれもない事実として、それはそうある。
彼は、目の前の戦場を見上げる。
「人を殺していいって言ったのはお前だぜ、秋島」
そして、彼は、車の到着を待たずに――その建物に足を踏み入れた。
Φ
桂が一五歳の頃――それは丁度ユキが監禁される少し前の話。
軒先に出ると、ユキが庭で何かに夢中になっていた。
サンダルを履いて、桂は彼女の横からそれを覗き込む。
「……ユキ、何してるんだ」
「鳥さんと遊んでるの」
彼は額を押さえた。
「鳥さん『で』遊んでるの間違いだろ」
妹は――そこで野鳥を解体していた。
「駄目だ、そんなことしちゃ。やめろ」
「えー」
ユキは不満そう口を尖らせる。
「お兄ちゃんだって、同じことしてたじゃない」
その仕草だけ見ればただのおてんばな女の子だが、顔中に飛び散った赤色の液体に、背筋が凍るような感じを覚える。
「自分のことを後悔してるから言うんだ」
身体をこちらに向けると、ユキはそのままごく自然な流れで、握りしめていた万能包丁を突き出してきた。桂は【異能】でそれから逃れる。
「……それ。それ使うようになってからお兄ちゃん変わったよ」
ユキは一瞬で自分の背後に移動した桂に言う。彼の手の中にはいつの間にか彼女から取り上げた包丁が握られていた。
「偶然だよ。出来事がいくつか重なっただけさ」
「恋人?」
「ぶっ」
桂は噴き出した。
「そんなものが俺にいると思うか」
「『俺』?」
ユキは返答とは別のところに引っかかったようだった。
「お兄ちゃん、このあいだまで『僕』って言ってたよ」
「学校ではみんなそうだからね」
「ふうん」
彼女は自分で訊いておきながら、興味なさそうに言う。
「もう、つまんない。お兄ちゃんのバカ」
そして、そのまま靴を乱雑に脱ぎ捨てて家の中に上がっていってしまった。
「全く……」
一人になった桂は横たわる猫に視線をやる。乱暴に腹を切り裂かれ内臓が剥き出しになったその小動物を――彼はただ無感動な目で見下ろしていた。
すると、不意にその小さな手足がぴくりと動く。それだけ変わり果てた姿になりながらも、それはまだ生きているらしかった。
「……そっか」
そこで、桂は初めて悲しそうな顔をした。
彼はその場にしゃがみこむと、ユキから取り上げた包丁を逆手に持って掲げた。
「今、楽にしてやるから」
それから何の迷いもなく、桂は刃を振り下ろした。それはずぶり、と、いともたやすく鳥の頭に刺さった。
「――うぁっ」
その瞬間、桂の背筋に電撃が走る。
身体中の筋肉が意志とは関係なく緊張状態になり、ビクビクと痙攣する。
間もなく襲ってきた痺れるような感覚に彼はしばらくその場でうずくまっていたが、やがて息を荒くしながらゆっくりとその場で立ち上がった。
そして、彼は恐る恐る自分の――下着の中を覗く。
「ああ……くそっ」
彼はどうしようもない嫌悪感に襲われた。
そして、こんな自分の運命を呪った。
自分はどうして、こんな家に生まれてしまったのだろう。
服を着替えるために、覚束ない足取りで自分の部屋に戻る。扉をくぐった瞬間、彼は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
「う……うう……」
そして、桂は声を押し殺して――誰にも聞こえないように泣いた。
Φ
「テメエで最後だ」
日野悠は目の前に立つ最後の一人に向かって言う。既に他の【異能遣い】たちは――皆地面に倒れ伏している。これだけの敵を相手にして、しかし、ユウの表情にはまだ余裕が浮かんでいた。
最後に残った男は次の瞬間、目にも止まらぬ速度で、彼女の懐に飛び込んできた。
「おせえ」
しかし、飛び込んできた男に、ユウはカウンターの要領で正拳突きを命中させる。
自分自身の速度によって力が上乗せされ、男の顔は一瞬その形が変わるほどに思い切り凹んだ。断末魔の叫びさえあげる暇なく、彼は気を失った。
「弱いな、弱すぎる」
思いの外、手応えのなかった戦闘に、日野悠はどこか苛立たしげでさえあった。
だが次の瞬間、その部屋に足音が殺到する。
「……」
ユウは、また十余名の【異能遣い】に囲まれた。
「……数ばっかり積まれてもよお」
彼女の息は未だ全く上がっていない。ただ、それでもさすがに嫌気が差していた。彼女はあまり単調で冗長な作業というのが好きではないのだ。
すると、また別の大人数の足音が近付いてきた。
「――何だ、お前らまだいんのかよ。まあ、さすがにこんだけ揃いや、ちっとは楽しめ……」
しかし、言いかけて、途中でユウは言葉を失う。
「……おいおい」
そこに入ってきたのは彼女にとって思いがけない人間たちの姿だった。
Φ
現時点、【悪の此岸】の中で雨月桂がその【異能】を実際に目にしたことのあるメンバーは四名である。まず一人目は日野悠。彼女とはもう数年来の付き合いだ。故に、その中で彼女の使用するそれは既に知っていた。二人目は、鉄森林檎。これは彼女に襲われたときに、その詳細についても彼女自身の口から聞かされた。三人目は秋島純。これは具体的にどういったものであるかは知らないのだが想像に難くない。桂が初めて【死神】と交戦したあの日に純が追った傷は、数日後に跡形もなく治っていた。すぐには到底治らないような――しかも、自然治癒が到底不可能な傷が塞がるということは、これはいわゆる〝再生〟系の能力だろう。
――そして、四人目。
純のそれと同じく、桂は彼の【異能】がどんな性質のものであるかを把握していない。しかし、それによってどんな現象が引き起こされるかを――桂は確かに目撃している。何せ、桂が【悪の此岸】と関わるようになって、初めて見た【異能】がまさに彼の使用する能力だったのだから。
「――いいか、林檎よく聞け」
その彼――鉄森才悟は自分の妹へと作戦を伝える。【ヤナギ】という二つ名で恐れられる【篝火】の中でも腕利きの【異能遣い】を前に、それでも彼の朴訥とした調子は普段と変わらない。才悟が林檎に述べた内容はこういうものだった。
「あの男――【ヤナギ】は〝風使い〟だ。だけど、見たところ風そのものに攻撃力はないみたい。それで、彼はあの棍棒の打撃を攻撃方法にするしかないから――基本的に敵をギリギリまで寄せ付けて【異能】を発動する。つまり、あのデカブツに接近すること自体はそう難しいことじゃない。しかもあいつは自分が攻撃するために直前で能力を切る。狙うとすればその隙だ」
林檎は頷いた上で、口を開く。
「それは分かります。でも、兄さんも見たでしょう。そのほんの数瞬では棍棒の攻撃を捌ききるので精一杯です」
「そう。だから、俺が何とかするよ」
「……それでは兄さんが危険になってしまいます」
「俺の【異能】なら出来る」
そういって彼は立ち上がり、林檎に手を貸した。
「ま、テキトーにやるよ」
その淡々とした口調にはやはり危機感というものがなかったが、しかし、そんな彼のことをずっと見てきた林檎にとって、その言葉は何故だかとても頼もしいものであるように思える。
「じゃ、よーい――ドン」
彼らは同時に駆け出した。
【ヤナギ】を挟み込むようにして、二つの方向から、突進する。
才悟と林檎がほぼ同時にその懐に入ると、【ヤナギ】は【異能】を発動した。二人は風で動きを封じられ、その目の前で【ヤナギ】が棍棒を振りかぶる。それは、二人をまとめて同時に巻き込むような横薙ぎの大ぶりな攻撃だった。
才悟の予想通り――攻撃と同時に【異能】は解除されたが、次の瞬間には眼前に巨大な棍棒が迫っている。林檎は攻撃を捌くので精一杯だと言っていたがこの距離ではそれすらも間に合わないだろう。
そして、才悟は【異能】を発動した。
「何っ――!」
【ヤナギ】の動揺した素振りに、しかし、これといって彼は満足したような表情を見せることもない。
二人を同時に襲うはずだった棍棒。それが【ヤナギ】の手中から消えていた。
「――隙だらけだね」
その得物はいつの間にか――才悟が抱えている。
すかさず、林檎が攻撃行動に入った。
「今度こそっ」
そして、【ヤナギ】に身動きが取れるようになった林檎の渾身の一撃が炸裂する。厚手の巨大な刃物に変化した片腕によって放たれたその斬撃は――【ヤナギ】の巨躯を両断するとまではいかずとも、その身体に致命的な深い傷を負わせた。
「馬鹿……な」
剣道場の床を倒れた【ヤナギ】の巨体が大きく揺らした。
「……一仕事、だね」
「ええ、兄さんのおかげです」
「相性が良かっただけだよ――行くぞ」
「はい」
彼らは、剣道場を後にしようとする。
「――許さん」
そんな声が、彼らの背後から聞こえた。
続いて聞こえるビュウ、という風の音。
才悟は直感的に危険を察知した。
「林檎っ――」
才悟の【異能】は〝武装回収〟――視界の中に捉えたあらゆる武装を、一瞬で自分の手の内に移動させてしまうというものだ。この能力は敵の武装を奪いとるという使い方も可能で、彼は大抵の場合、それを利用した戦い方をする。状況によって多種多様な武器を使い、柔軟に戦い方を選び取る彼は、オールラウンダーとして【悪の此岸】の中でも高い評価を受けているのだが――しかし、こと鉄森林檎がいるときに限って、その【異能】は特殊な方法によって用いられることがある。
その能力は鉄森林檎を一つの武器として認識し、瞬時に自分の元へ移動させることが出来るのだ。
それは、林檎が〝刃化〟という【異能】を持つからこそ出来る芸当――兄と妹の絆とでもいうべき、偶然の産物である。
察知した危険。それに対して才悟がまず起こした行動は、回避行動ではなく【異能】を発動することだった。自分の身の安全よりも瞬時に妹の身を案じたのである。
彼は〝回収〟した林檎を庇うようにして抱きかかえる。
次の瞬間、彼を包み込んだ風は、妹を守るその背中を鋭く切り裂いた。
「ぐっ……」
「兄さん!」
林檎が悲鳴を上げる。
「……なるほど、【異能】を出し惜しみしてたわけか」
「この使い方をすると、戦いが呆気なく終わってしまうからな」
【ヤナギ】は嗜虐的な笑みを浮かべる。
「――それでは、獲物をいたぶる楽しみがないだろう?」
林檎は、最後の肩越しに立つ血まみれの大男の姿を見た。
「逃げろ……林檎」
その言葉を残して才悟が力なく崩れ落ちる。林檎は咄嗟に彼女の兄を受け止めた。
「兄さん!」
【ヤナギ】は地面に投げ出されている棍棒を拾い上げ、林檎に向かって言う。
「俺はな……生きた人間を潰すあの感覚が好きなんだ。その楽しみのために――俺はありとあらゆる暴力を振るうことが許されるこの【篝火】に入った」
その口元は邪悪に笑う。
あれだけの傷を負いながら、それでも尚、立ち上がり――こちらに向かって歩いてくる。
林檎の頭は、目の前の強大な存在と彼女の兄の負傷によって絶望にも近い気持ちに満たされた。
「誰か……」
その時だった。
「――弱いね、あなた」
その場に、若い女の声が響く。
林檎はその声のする方へ振り返った。
そこには、黒のスーツに群青色のカットシャツに身を包んだ少女が立っていた。
「あなた、は……?」
林檎はその服装に見覚えがあった。いや、見覚えがあるなんてものではない、この世界に置いて、その服装を見たことがないものはごく稀だろう。
「貴様は――」
【ヤナギ】が唐突に声をあげる。
さっきまであれだけ冷静で残酷だった彼の声が、幾分か上ずっているように聞こえた。
「――何故、貴様らがここに」
「私は――城咲栄華」
その少女は林檎に語りかける。
「雨月桂――彼がどこにいるか知らない?」
彼女は事務的に端的に――氷のような冷たい口調でそう言った。
Φ
五年前――【秋戦争】と呼ばれるその日。
純は逃げていた。父親の恐ろしい企みを知った彼女は、その元から逃げ出したのである。
そして、彼女が、その少女と出会ったのはそんな時のことであった。
暗い舗装された道の真ん中に、妙な格好をした人影を見かけて、彼女は立ち止まった。
そこにいたのは、ゴスロリ衣装を着ている綺麗な顔をした少女だった。
背丈は純と同じくらいだろう。その顔は暗くてよく見えないがどうやら化粧をしているようだ。
立ち止まった純に、少女は言った。
「――僕は、鬼なんだ」
それはまだ変声期を迎えていないらしい可愛らしい声だった。
「鬼?」
そこで、純は少女が『僕』だなんて一人称を用いたことにも違和感を抱いた。
「ごめんね。だから僕は君を殺さなくちゃならない」
何を言っているんだろうと、彼女は思った。
そして、気付いた。
目の前のゴスロリ少女の手に――銀色に輝く短い刀が握られていることに。
しかし、純はその場を動かなかった。
「……君、僕が怖くないの」
「うん」
足が竦んだからとか、そんな理由ではない。彼女が動かなかったのは自らの意志だった。
「そう。僕を見ると、大抵の人は怖がるんだけど」
そう言うと、ゴスロリの少女はゆっくりと純に近寄ってくる。
「何、その目。そんな目は見たことがない」
次の瞬間、少女の顔が歪んだ。
そして、その華奢な体からはとても想像出来ないような激しい力で、純は地面に押し倒された。
彼女の上に馬乗りになって、少女は言った。
「何でそんな目をするの。――知らないの? 人って生きてなくちゃいけないんだよ。人は生きてなきゃいけないのに、
少女は、純には理解できないような理由で怒っているようだった。その口調は見た目に比べて精神的に幼い。
「……私は、逃げてきたの。お父さんに殺されちゃうから」
彼女の頬を襲う痛み。
それは金属の刃の冷たい痛みではなく、人の手の熱を帯びた痛みだった。
「生きるために逃げたんでしょ? なら、そんな目をしないでよ」
彼女の反対側の頬を再び、痛みが襲った――
Φ
ミコトとの戦いで――純は既に満身創痍だった。
「まさか、ここまでとは――【死神】」
「君は思ったより弱いね――秋島純」
そう言うと、彼は低い体勢で純へと駆け寄り、その膝の裏を切り裂いた。
「くっ……!」
純は膝をつく。
切られた方の足が突然言うことを聞かなくなった。
「……腱をやられたか。出血はそこまで派手じゃないのに……チッ――何て精密な攻撃だよ」
「全く――もうちょっとくらいは粘ると思ってたのに。僕に【異能】すら使わせないまま負ける気かい?」
「……負けないさ」
純は片足だけを使って立ち上がる。
「どうやら、この状況で僕に出来るのはそれくらいことのようだしね」
「君は、一生懸命だね――」
言いながら、突進してくるミコト。その攻撃が純を襲う。
「ただのひねくれ者だと思ってたけど、意外だ」
「そうかい? まあ、そうかもね」
攻撃は止むことがない。
打撃が腹や顔を突き、斬撃が腕や足を裂く。
「が……ふっ……」
攻撃が止み、血反吐を吐いて、しかし、それで尚も純はミコトに向き合い続ける。
「……普通の、気の弱い女の子であることをやめたら……僕はいつしかこんなふうになってた。強くなることを意識してたら……一人称もいつの間にか『私』から『僕』に変わってた」
身体中の痛みに耐えながら、途切れ途切れに彼女は言葉を紡ぐ。
「それなら、『僕』じゃなくて、『俺』とかの方が良かったんじゃないのかい。その方が少なくとも気は強そうだ」
「……そうだね、その通りだ。実際にそれを……使ってる奴はそこらの人間じゃ比べ物にならないくらい気持ちも腕っぷしも強い」
純は疲弊しきった顔で笑う。
「つまりさ……僕は、強くなりたかったというより……〝彼女〟に憧れていただけなのかもしれないな」
「そうかい。でも、すぐに弱音を吐かせてやるさ。君を立ち上がれないようにしてやる」
そして、前方に立っていたミコトが駆け出した。
純は、心の中で思う。
思えば、自分が雨月桂という青年に惹かれたのも、彼が、あの少女に似ていたからなのかもしれない。あの少女と同じように――純の〝弱さ〟を認めてくれたからなのかもしれない。
「僕は……負けない――っ!」
向かってくるミコトに純は咆哮する。たとえ目の前の存在に勝つことが出来ないのだとしても、彼女には絶対に譲ることの出来ない意志があった。
そして、その時だった。
彼らの間に割り込むようにして、一つの影が現れたのは。
「あ――」
その影は、ミコトの攻撃を得物の短刀で捌き、続けざまに迷いのない一撃を放つ。
背後に跳びその一閃を避けた【死神】は――とても愉快そうに言った。
「ほら、言っただろ、秋島純――彼は必ず来るって」
そしてその青年は純の前に立っていたずらっぽく笑う。
「――お待たせ」
雨月桂が、そこにいた。
Φ
「雨月桂――彼がどこにいるか知らない?」
突然現れた城咲栄華と名乗る彼女は狼狽している林檎にそう問いかけた。
「あなたは……」
黒いスーツに群青色のカットシャツ――その
〝対特殊能力者用治安維持隊〟――通称、【治安隊】。
その中で部隊長を任せられる実力者だけが身に纏っている服装だ。
「どうして……」
「何故【治安隊】がここにいる!」
林檎の言葉を遮るように【ヤナギ】は叫んだ。
「何故と言われれば取り締まりのためだよ。無害な【異能遣い】の誘拐と人体実験をやってるって話があって、私たちは以前から【篝火】に目を付けていた」
眉一つ動かさず、彼女はただただ高圧的な冷たい口調で言う。
「そういうことを訊いてるんじゃない。何故この場所が分かったのかと言っているんだ」
「タレコミがあったの。
そのスーツの左襟には雷を模した紫色の記章が飾ってある。
林檎はこれまでに何度か【治安隊】の隊長クラスとも顔を合わせたことがあったが、そのマークは見たことがないものだった。しかも、彼らは基本的に数人から数十人単位で行動するのが通常であるはずなのに、彼女はたった一人で、しかも他に仲間を連れている様子もない。
「……林檎」
腕の中から声が聞こえ、林檎は驚いたように彼女の兄を見た。
「兄さん! 大丈夫なんですか!」
「ああ、全然大丈夫じゃない――
「駄目です。無理をしては」
「……まあ、このくらいの傷であれば話をするくらいのことに支障はないさ。折角、滅多に拝めないものが見られたわけだしね」
「どういう……ことですか」
「【治安隊】にはね、ちょっと特殊な立ち位置の連中がいるんだ」
才悟は大きく深呼吸してから言う。傷口はまだ開いたままで安静が必要だったが、口調は比較的穏やかであり、確かに会話程度なら問題なさそうだ。
「林檎は【紫電】って聞いたことあるかい」
「いえ……ありません」
「熾烈を極めるであろう戦いに稲妻のように現れ、たった一人の力で戦況を引っ繰り返す特殊部隊。彼らは戦場における個人単位での自由行動を認められた――【治安隊】でも選りすぐりの実力者だちだ」
「まさか、彼女もその一員だと……?」
「ああ、恐らくそうだよ。【紫電】の大半は【異能遣い】たちであるそうだ。自分自身の肉体を鍛え上げ、その【異能】を洗練させた彼らの強さは他の追随を許さない。だけど、ごく稀に、能力を持たずして【異能遣い】たちを圧倒できるほどの実力を有した人間が部隊に参加することもあるそうだ。そして、つい最近、実際に一人の無能力者が配属された。驚くべきことにそれは、まだ若い少女で――ちょうど」
才悟は目の前に立つ【治安隊】の少女を指差す。
「ああいう感じの茶色いクセっ毛をしてるそうだ」
Φ
「…………」
ユウはただその光景を見ているだけだった。
十数名の【治安隊】の隊員たち――突如として現れた彼らは、彼女が相手取るはずだった【篝火】の【異能遣い】たちを、あっという間に制圧していった。
ユウの表情に笑みが浮かぶ。
「内通者は内通者でも――ってことかよ。やってくれるぜ、アニキ」
それはとても嬉しそうな顔だった。
Φ
林檎は信じられない顔でその一部始終を見ていた。
【治安隊】の特殊部隊――【紫電】に属する少女に向かって、【ヤナギ】は突風を放った。彼女から離れている位置にいるにも拘らず、その風は林檎と才悟をも包み込む。しかし、驚くべきことに彼女は、その突風の中を何食わぬ顔で歩き、【ヤナギ】の元へ近づいた。
「馬鹿な! 何故歩ける!」
「地に足をつけて歩くなんて、子どもにだって出来ることでしょ」
「くそっ!」
【ヤナギ】が何かを彼女に放つ。
林檎はそれが才悟を襲った攻撃と同じものであると直感した。
「危ないっ!」
林檎が叫び終わるよりも前に、無能力者の少女は上半身を突然激しく捻った。
次の瞬間、周囲に強い風が吹き荒れ、見えない何かが彼女の周りで消え去るのを林檎は感じた。
「体の回転だけで気流を乱したのか」
「あなたも弱いね」
そして、【ヤナギ】は彼女に思い切り殴りつけられ、背後の壁まで吹き飛んだ。
城咲栄華が現れてから――【ヤナギ】を倒すまで。
それはほんの一瞬の出来事のように思えた。
Φ
時間をもう一度、【秋戦争】の日までさかのぼる。
あれから、しばらくの間――純はその少女に暴力を振るわれ続けた。
「……痛いよ、もうやめて」
ずっと無言で耐え続けていた彼女は、やがて降参するように、悲痛な声で言った。
「……父さんが言ってた。人が痛がるのは、生きるためだって」
そして、そんな彼女に向かって、それまで無表情だったゴスロリの少女はにっこりと笑うのである。
「良かった。君がちゃんと生きてくれて」
自分を痛めつけ続けた少女のその顔を、何故だか純は綺麗だと思った。
「ああ……そっか」
人形のような顔をした――醜悪な〝
「悪いものの方が、本当は綺麗なんだね」
そんな〝悪鬼〟に向かって彼女はどこか疲れ切ったような声で呟いた。
そして、彼女は今まで堪えていたものを全て吐き出すかのように、声を上げて泣いた。
しばらくして純は泣き止み、立ち上がる。
その眼には強い光が宿っていた。
「私、戻る。戻って、凛を助ける」
「そうなの。うん――それじゃ頑張って」
最後に純は少女に向かって言った。
「――ごめんね」
そして少女は彼女にこう返した。
「――ありがとう」
Φ
「――お待たせ、秋島」
純の目の前に、雨月桂がいた。
その背中を見た瞬間、純の中に一つの感情が湧き起こる。抑え込もうとして、それでも抑えきれずに溢れ出したその感情が――一滴の雫として彼女の目元から流れ出した。
「……待ってねえよ、阿呆」
「素直じゃないな」
「……うるさい」
「純、お前に一つ言いたいことがある」
「何だよ。早く言え」
「お前、俺にゴスロリ衣装を着た〝殺人鬼〟のこと訊いてきたことがあったよな」
一息置いて、彼は言う。
「俺はあのとき知らないって答えたけど、実は嘘なんだ」
「……っ! 知ってるのか、彼女を!」
「ああ、知ってる」
「彼女は今どこにいるんだ!」
「ここ」
彼はきっぱりと言った。
「は……?」
そして、衝撃の事実を告げる。
「あれ俺。色々あってあんな服装だったけど」
ぽかんとする純。
「は?」
「あのときの女の子、多分お前だったんだろ。思い切り殴ってごめんな」
「はあ!?」
そして、彼女は置き去りにされ。
桂と【死神】の戦いが始まった。
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