8 死闘①
いったい何事か、まさか族長代理は逃げるのかと、背後から騒めきが生まれた気配がする。しかし気に留めるに値しない。そのまま、足場の悪い砂岩地帯を、ひたすら下方へと駆け続ける。息を弾ませながらラフィアは、斜め前を走るアースィムの背中に言った。
「バラーを通して伝えたことを、信じてくれたのね」
「もちろんです」
「私からの伝言だとすぐにわかった?」
「はい。あなたならば水の眷属に働きかけることができたとしても不思議ではない。それだけなら、
そう、ラフィアは、水神の眷属を操る訓練だと言って、頻繁に砂竜に意識を同化させてきた。好奇心旺盛な精霊王に注目されぬよう、かなりの回数を繰り返した。やがて、精霊王が練習風景を見慣れた頃合いで目を盗み、バラーに一働きしてもらい、アースィムに事態打開のための根回しを依頼したのだ。
「でも、私が嘘を吐いているとは思わなかったの? 精霊王の娘なのよ。砂竜族を貶めようとしているとは疑わなかった?」
アースィムは走りながら、肩越しに振り返る。柔和な目元がいっそう柔らかく細められている。
「疑うはずがありません。だってラフィアは、善良で愛情深い女性だ。それに、周囲の視線に臆することなく、自分の意思を貫き通せる人です。幼い頃からずっと」
「幼い頃?」
「さあ、到着です。迎え撃ちましょう」
山のように盛り上がった砂岩と砂岩の間が浅い谷となっている。一見して、ただの窪みのようだが、注意して観察すれば、地を打つ雨粒の跳ね方が、他とは異なることに気づくだろう。
「あの下に用意が?」
その推測が正しい証拠に、辺りには鼻の奥にねっとりと纏わり付くような悪臭が漂っている。
ラフィアの問いかけにアースィムが頷いた時。不意に二人の前方の景色が揺らぎ、楽しげな青年の姿が具現化した。
「いやあ、素晴らしい! 愛の逃避行ってやつかい。でもさ」
高揚した表情が一転し、青玉の瞳が獰猛な色を帯びた。
「あんまり調子に乗ると、さすがの僕も怒るよ」
精霊王の怒気にあてられたのか、雨脚が強まり、強風が吹き始めた。
横殴りの水の
「あなたこそ、調子に乗らないで。今の私は、あなたと同じことを、ほとんど同じだけ行うことができる。甘く見ると痛い目を見るわよ。この力を得たのが、あなたのおかげだというのが皮肉だけれど」
精霊王から教えを受け、時には技を目で盗み、ラフィアは水を動かす強大な力を得た。
今ならば、彼に正面から戦いを仕掛けることができるのではないかと思った。水を動かす力において、軍配は精霊王に上がるかもしれない。しかしラフィアは一つ、精霊王に対して有利にも不利にも働くものを持っている。それは、作り物ではない本物の肉体。
「精霊王、正面からやり合いましょう。あなたの大好きな余興よ」
「へえ、言うねえ」
刹那、精霊王が肉薄する。声を上げる間もなく、ラフィアの首は精霊王の両手に握り潰されんとしていた。
呼吸が奪われ、呻き声を上げる。気道を圧迫する両手を掻きむしる他に抵抗らしい抵抗もできず、されるがままの体勢で睨み合う。
狂気を宿した精霊王の瞳が、いつになく冷酷だ。失望を隠そうともせず、精霊王は言う。
「残念だよラフィア。君は良い精霊になると思ったのに」
言葉と同時に、喉の締め付けが強まる。あまりの苦痛に涙が浮かび、視界が歪む。
「ほら、だから早く肉体なんて捨てちゃえば良かったのに。そんな邪魔なものを大事に大事に持っているから、僕の手から逃げることができない」
世界が明滅している。雨音が遠のき、五感が消失しかける。だが、もう少し、あと少しだけ……。
「ん?」
辺りを満たしていた闇の濃度が薄まった。
周囲の異変を察した精霊王がぴくりと身体を揺らした瞬間、気道に微かな隙間ができる。ラフィアは渾身の力で精霊王を振り払う。
叶うことならば、そのまま蹲り呼吸を整えたいが、ここが正念場だ。
ラフィアは両手を地に突いて、砂岩の窪みに溜まっていた水に働きかけて急速に冷却。個体へと変質させる。ラフィアの意図を察した精霊王は水蒸気に戻り逃げようとしたが叶わない。純然たる水となった彼の右膝から下が、氷の柱に捕らわれた。
「何を」
「逃がさない」
ラフィアは地に伏し咳込みながら、精霊王を睨み上げる。
「何があっても逃がさないわ。あなたはここで、水に還るの」
気づけば、周囲は朱色の光に照らし出されていた。先ほど見下ろした、砂岩の間の浅い谷が、燃え盛っているのだ。
「なぜ、雨なのに燃えて……」
「燃える水を用意した」
ラフィアを助け起こしながら、アースィムが言った。
「谷に燃える水を撒き、上に毛織物をかけて隠し、雨水が溜まらないように他の場所へと流れを誘導する。そして、あなたをここへ連れて来てから火を付ける。天候は雨。やがて大量の水蒸気が生まれるでしょう。精霊は、水蒸気でできている。だから、大量の水蒸気に囲まれると、水に含まれる他の精神の干渉を受け、自身を見失ってしまう」
以前、赤の聖地
「小賢しい。僕の娘なのに」
「あなたの娘ではないわ」
ラフィアはアースィムの腕を握り締め、断言した。
「私はマルシブ皇帝の娘。第八皇女ラフィアよ」
精霊王の顔が、みるみる歪み、やがて強烈な憎悪を宿した。その爆発的な感情の発露に誘発されたのか、精霊王の水に対する影響力が跳ね上る。
彼の右脛を覆っていた氷が溶解し、精霊王は自由を得た。
「おのれ」
低い声で吠え、精霊王はラフィアに飛びかかる。辺りに満ちた水蒸気から逃げるより先に、憎き女を亡き者にしようとしたのだ。
体当たりを受け、ラフィアの身体は仰向けに倒れる。背中を打ち付け悶えたが、それどころではない。頭のすぐ下に、燃え盛る炎がある。長い髪の先が焦げて、谷底に撒かれた油臭と混ざった不快な臭いが立ち上る。
全身から血の気が引いた。精霊王はラフィアの肉体を焼き尽くし、自身は早々に逃げ去るつもりなのだ。
そのことを察し、反射的に水を操り再び氷を作り出す。精霊王と己の片腕を融合させて氷漬けにした。ラフィアの体内を流れる水と、精霊王を形作る水の粒子が一体化する。途轍もない激痛に襲われたが、ラフィアは歯を食いしばり耐えた。
「ラフィア!」
「来ないで!」
駆け寄ろうとするアースィムを水の壁で阻み、ラフィアは精霊王と睨み合う。血走った青年の眼球が、炎の陰に揺られて憎悪を燃え上がらせている。
「君は
精霊王の言う通りだ。辺りには蒸気が満ちてるとはいえ、ラフィアが命を落とせば精霊王は自由になる。
反論できぬラフィアに嗜虐的な笑みを向け、精霊王は繋がった手を引いて、ラフィアを引きずり立たせる。それから逆の腕でラフィアを抱き、炎の谷に目を向けた。
「さようなら、ラフィア。まあまあ楽しかったよ。残念だけどまあ、別の玩具を探せば良いだけだ」
精霊王が砂岩を蹴り、二人は宙に浮く。抗う
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