6 運命の晩が始まる
※
「君には
宵闇に映える焚火に照らされた青の氏族長ブルハンが、盛大に顔を顰めてアースィムに吐き捨てた。彼が「あんなもの」と表した購入品は今、仮の集落を構えた砂岩地帯の谷間に、白の氏族の者らによって撒き散らかされている。
アースィムは、自信に満ちて泰然とした男の仮面で顔を覆い、ゆったりと微笑んだ。
「だからこそ、あなたにお願いしているのです、ブルハンさん。青の氏族は
「それはそうだが、事後報告とはどういうつもりだ」
「それは申し訳ないと思っています。ですが、事態は緊急を要するものでしたので」
今宵は月がない。
「白々しいな。我々青の氏族が断れないと知っていながらの横暴か」
「代金を貸してくれますね、ブルハンさん」
そう、彼が支払いの援助を受けざるを得ないことは、誰の目にも明白だった。アースィムが商取引をしたのは、砂漠中央部に住まう他部族。ほんの数日前までは、水神の眷属である砂竜を従える砂竜族に表立って立ち向かおうとする者はほとんどいなかった。しかし今や、砂竜は人間の指示を聞かず、奇行を繰り返しているという。
砂竜族は水神マージに見放されたのではなかろうか。これは付け込む良い機会だと、大移動の後方では、武力による小競り合いが頻発しているという。つい先日、赤の氏族長ディルガムが討伐のため、猛者を率いて東へ向かったばかりでもある。
そのような状況下、形式上は友好的に行われた売買の代金を踏み倒すなど、あってはならぬこと。新たな災いを生む火種となろう。
ブルハンは苦々しい表情であからさまに舌打ちをしたものの、渋々頷いた。
「仕方あるまい。元より、選択肢は用意されていなかったのだからな。だが、君の申し出はお願いではない。脅しだぞ」
「援助、感謝いたします」
柔和な口調で受け流すアースィムに、ブルハンは遠慮なく言葉の刃を振り下ろす。
「哀れだな」
意図が汲み取れず、アースィムは微かに首を傾ける。ブルハンは、悪意と憐憫をない交ぜにした複雑な顰め面で言った。
「君は
「なるほど、確かにそうかもしれません」
ラフィアを一目見た瞬間から、彼女の姿が脳裏から離れなくなった。ある種の洗脳であると言えなくもない。しかし、それでも良い。ラフィアは悪ではない。砂竜族にとっての善なる存在であると確信している。それならば、彼女の思うがままに利用されたとて、本望である。
開き直ったアースィムに、気味の悪いものを見るかのような眼差しを送り、ブルハンは盛大に溜息を吐いた。
「はあ、もう何でも良い。とにかく、ここまで進んでしまったからには、上手く進むように……おや?」
ブルハンが上空を見上げて驚きの声を上げる。同時に、やや離れた場所にいた者らの間にも騒めきが広まった。
原因は、すぐに判然とする。夜更けだというのに、東の空が黄金色に淡く発光している。細長い形状をした光は次第に野営地に迫り、遠雷が轟いた。
「な、何だあれは」
「天竜様ですよ。言ったでしょう、新月の夜にやって来ると」
アースィムは、待ち望んでいた使徒の神々しい姿に目を細め、未だ茫然としているブルハンの背を軽く叩いて促す。
「さあ、始まります。ここまで進んでしまったからには、上手く進むように、ですよね」
「いや、しかしあれは」
「兄さん!」
天幕の裏から、シハーブが飛び出した。彼は畏怖を顔中に張り付けて、アースィムの腕に縋りつく。
「雷です。きっと、今まで一度も見たことがないほどの豪雨がやって来ます」
「ああ、そうだな。これまで準備してきたことを実行に移す時だよ」
「ですが、恵みを通り越した量の雨は危険です!」
シハーブを含め、この野営地で過ごす者達全員に、策は告げてある。シハーブも、白の氏族を率いる者として同意したはずなのだが。
「砂漠に雨が降れば濁流が全てを洗い流す。そんなもの、最初からわかっていたことじゃないか。この策には、氏族長の会合でおまえも同意しただろう」
しかし、弟の瞳は怯えに捕らわれ、揺れている。
ぽつ、と頬に冷たい
シハーブの恐怖は次第に独りよがりな使命感へと転じ、彼は兄の胸倉を掴んだ。
「ここまでの雨とは聞いていない!」
「俺もどの程度の降雨かは知らなかった」
「作戦は中止です、兄さん。逃げなければ、人命が失われます」
「大丈夫だ。高所へ避難するように指示は出してある」
「やはりこんなこと、愚かとしか言いようがありません。蛮行を好む狂った精霊王の娘など、信ずるに値しません」
触れ合わんばかりの近距離で鼻先を突き合わせ、兄弟は睨み合う。膠着した空気を動かしたのは、割り込んだ低い声だった。
「見苦しいぞシハーブ。族長会議での決定事項を今さら反故しようとするとは」
「ルクン
厳格を是とする紫の氏族長ルクンは、シハーブの肩を掴んでアースィムから引き離す。
従兄に窘められたシハーブは束の間、叱られた子供のように顔を歪めたが、反発を収めることはなく、兄の胸を小突くようにして乱暴に解放した。
「とにかく僕には、族長として皆の命を守る責務がある。族長代理の兄さんとは違う」
「そうか」
「同じ考えの者と一緒に、避難します」
「砂竜はどうする。見捨てるのか」
「彼らは賢い。自分で高台に登るでしょう」
「なあ、シハーブ」
再びルクンが説得を試みる。
「上に立つ者が心を乱してどうするんだ。泰然と構えなさい」
シハーブはルクンとアースィムへ交互に鋭い目を向けてから、付き合い切れぬ、といったように首を振り
「後悔してからでは、遅いですよ」
捨て台詞と共に去る弟の背中を見送り、アースィムはこのような非常時だというのに、妙な感慨を抱いていた。父の教えが脳裏に蘇るのだ。
――兄弟は助け合わねばならぬ。
アースィムに贈られたのは、自負を驕りとせず、周囲の助言に耳を傾け、善良な族長になるべしとの教訓。対して、シハーブに向けられたのは、正しき心を持ち、多角的に物事を見て兄を諫め良き助言者となるべしとの教え。
皮肉にも、父の言葉通りの一幕だった。アースィムの胸に、父の願いは深く根付いている。しかし今回は、己の信じる道こそが正しいのだと確信している。
「ルクン従兄さん、仲裁ありがとうございます」
ルクンは夜色の瞳を動かしてアースィムを一瞥し、砂岩が屹立する高所へと爪先を向けた。
「シハーブの言い分も理解できる。だが、極限の状況下で、一度決定した事柄を独断で覆そうとするのは愚かなことだ。シハーブは、指導者には向いていないかもしれないな……」
アースィムはそれには答えず、大粒の雫を撒き散らし始めた夜空を見上げる。空は暗雲に包まれ、星々が作り出す乳白色の紗は姿を潜めていた。代わりに迫るのは、本物の竜。
運命の晩が、始まった。
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