5 一路、南へ


 翌日、東の夜空が未だ赤みすら帯びぬ早朝に、四頭の砂竜さりゅうと一頭の駱駝が砂丘を進む。皓々と照る巨大な月が、風紋が刻まれた砂地に彼らの影を落としている。


 砂竜の体色は一頭が白銀、三頭が赤銀で、前者の鞍上あんじょうには二つの人影がある。ラフィアとアースィムだ。


 昨晩は、旅立ちの興奮ゆえか、なかなか寝付けなかった。ほとんど睡眠をとらずに砂竜の歩みに揺られているものだから、微睡の底に沈みかけてはがくりと首が落ちかけ、眠りから浮上する、という醜態を延々と晒していた。


 アースィムが背中側から支えてくれていなければ、とうに鞍から落ちて砂に沈んでいたことだろう。


 眠りの淵が見える度、高揚したラフィアの心に一筋、重苦しい罪悪感が差し込む。出立の直前、幼竜ようりゅうバラーと交わしたやり取りが脳裏に蘇るのである。



「ほらバラー。皇女様が困っているでしょ。心配しなくても半月もあれば皇女様は帰って来るし、私が毎日遊んであげるから」


 夜明け前、月影と篝火の朱に照らされる集落の片隅にて。心地良い眠りから叩き起こされて心底迷惑そうな顔をしたカリーマが、白銀の幼竜の尻を掴み渾身の力で引っ張っている。


 何事かといえば、幼竜が砂に爪を立て隙あらば前進しようと試みるので、全体重で引き止めているのだ。幼いとはいえ、頑強な砂竜である。四肢の筋力はなかなかのものであり、態度は大きくとも身体は細いカリーマでは抑え込むのも一苦労だ。


 ラフィアは砂竜イバの鞍上からそれを見下ろして、痛む胸を押さえた。


「バラー、ごめんね。すぐに帰って来るわ」


 しかしバラーは潤んだ瞳でラフィアを見上げ、駆け寄ろうとして懸命に四肢を踏ん張っている。どうやら前回の新婚旅行への出発時「すぐ近所まで放牧に行って来る」とでもいうような調子で別れを告げたきり、日を跨いで不在にしたことを根に持たれているようなのである。


「バラーの本来の乗り手は急病で集落を去ることになったんですよ。だから彼は、バラーにさようならも言えていないんです。捨てられたと勘違いしているかもしれません。皇女様の姿が急に見えなくなると、乗り手との別れが思い出されて不安なんでしょう」


 溜息混じりに言ったカリーマは、いよいよ抱きつくような格好になりつつ、バラーを拘束している。


「まあ、気持ちはわかりますけどね」


 バラーが立てる砂埃の中、哀れみに眉尻を下げたカリーマに、ラフィアは頷いた。


 バラーはたいそう寂しがり屋である。砂竜の囲いに押し込んでも、しばらくすると隙間から抜け出してしまう。ふとした拍子に視線を感じ目を遣れば、バラーが物言いたげにこちらを見つめているのは常のこと。それほどまでに懐かれて、ラフィアとしては嬉しく思うのだが、今回の旅にバラーを同行させることはできぬのだ。


 第一に、バラーは頑強なる砂竜であるとはいえ、幼い子供である。一般に砂竜が灼熱と渇きの砂漠旅に耐え得る年齢は、一歳半以上と言われている。さらに人間を背に乗せることになれば、二歳以上が通常だ。しかしバラーはまだ一歳にもなっていない。


 そして第二に、これから向かうのは、砂竜の身体に影響を及ぼす可能性のある事象への調査なのだ。体力が未だ発展途上である幼竜をいたずらに危険に晒す訳にはいかない。


 だが、いかに砂竜が賢い生き物だとしても、そのような事情を理解できるはずもなく、幼いバラーにとってはただ単に、ラフィアがバラーをおいて遊びに行くようにでも見えるのかもしれない。


 必死にこちらへ向かおうとするバラーに胸を打たれ、ラフィアは堪え切れずイバの背中から滑り下り、砂に膝を突いてバラーを抱き締めた。


 滑らかな感触の鱗を通し、激しい水の猛りがラフィアを襲う。悲しみと怒りと失望に満たされたバラーの胸中を痛感し、束の間呼吸が停止する。だからと言って、連れて行くことはできぬのだから、ラフィアは白銀の背中を撫でながら、耳元で言い聞かせた。


「ごめんね、バラー。でもこれは、あなたのためなのよ」


 額に生える二本角の間を撫でてから、ラフィアはバラーをカリーマの腕に預けた。


 それからすぐにきびすを返し、アースィムとイバの元へと戻る。鞍上に収まってからはもう、振り返ることはしなかった。


 背中に人が揃ったことを察したイバは、南の砂丘へ向けて歩み出す。アースィムの控えめな声が耳朶じだを揺らした。


「赤の集落に行ったら、すぐに帰って来ましょう。聖地への新婚旅行はまた今度、バラーを連れて行っても問題ありませんから。大丈夫。バラーはラフィアのことが大好きだから、きっと許してくれます」


 アースィムとバラーは相性が良くないにもかかわらず、案ずる言葉をくれる夫の優しさに胸に小さな火が灯る。


 後方で繰り返される鳴き声が次第に遠くなり、身を切られる思いの中、アースィムの温もりに全身を預けつつ、ラフィアは言った。


「ありがとう、アースィム。大好きよ」

『ひいっ、よくも恥ずかし気なく!』


 耳飾りから発せられた無粋な声の存在など知る由もなく、ラフィアの頭部を覆う日避けのスカーフを、小さく微笑んだような甘い吐息が揺らした。


 白の集落に戻ったらすぐ、バラーを抱き締めよう。そうすれば全てはきっと元通りになる。


 愛おしい人々と砂竜、何だかんだと友情を深めつつある精霊。大切な者が増える度、失う不安が胸を過るのだが、それすらもかつての自分からは想像すらできぬ、贅沢な悩み。


 水溢れる後宮を出て、渇きの砂漠へと降嫁した。他のどの皇女も進んでは望まぬ運命であるのだが、ラフィアにとっては僥倖でしかない。


 自由と愛と友を手に入れた変わり者皇女は一路、南へと向かう。

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