3 孤独な夜は砂竜と共に


 一月ひとつきも経てばさすがに、ラフィアの奔放さにも慣れたのだろう。日を重ねるにつれ、集落の住民らからの干渉は減少した。


 しかし行動を咎められる頻度が減ったということは、ラフィアに声を掛ける者が少なくなったということでもある。


 もちろん、迫害されている訳ではない。ラフィアをかたくなに皇女と呼ぶ彼らは、皇帝の恩寵により降嫁した娘を丁重に扱ったし、一定の敬意を持ち接している。


 しかしそれが高じれば、機嫌を損ねぬように、危険が及ばぬようにと、腫れ物に触れるかのような関わり方になるのだ。


 また、相変らず夫も他人行儀である。孤独が募り涙を堪える度、ラフィアは誰にも内緒で夜間に天幕を抜け出して、砂竜を撫でに行く。唯一心休まる一時ひとときだ。


 砂竜の容貌は、蜥蜴とかげに酷似している。異様なのはその巨大さと、背中にちょこんと乗った小さな翼。妙なことに、身体に対して小さすぎるこの翼は空を羽ばたくようにはできておらず、彼らはもっぱら砂上を駆ける。


 体付きは駱駝よりも大きく、強靭な顎を持ち、鋭い牙を持つ。人に懐くとはいえ、彼らが本気になれば、人間などひと堪りもなく殺められてしまうだろう。それゆえ、ラフィアは砂竜の群れに近づくことを禁じられていた。


 その点夜間であれば、宵闇に紛れて忍び寄ることができる。月光を浴び、白銀に煌めく砂竜の群れ。ひんやりとした鱗に頬を寄せ、夜行性の動物が起こす喧騒に耳を傾けることで、一日の心労を癒す。


 何度かこうして砂竜の側で過ごすうちに、他の住民も時折、夜分に砂竜を眺めに来るのだと知った。そんな時は、仲良くなった砂竜の陰に隠れさせてもらい、人に見つかる危機を乗り越えた。


 この日もラフィアは、馴染みの砂竜に語りかけ、孤独を紛らわせていた。


「今日はね、初めて羊の放牧に連れて行ってもらったの。いいえ、勝手について行っただけなのだけれど、とにかくとても新鮮だったわ。羊って、囲わなくても散り散りに逃げて行くことはないのね。あなた達砂竜はどうなのかしら。賢いからきっと、迷子になることはないでしょうね」


 砂竜の鱗に背中を預けその鼓動を感じながら、ラフィアは近況を話し続ける。


「ここに来て一月が経って、皆の暮らしが何となくわかってきたの。後宮ハレムにいた時には物語の中でしか触れることが出来なかった世界が本当に存在するのだと知って、毎日わくわくしているわ。もちろん、帝都よりもずっと過酷な環境下だけれど、知らなかったことを知るのはとても楽しい。それに、あなたと知り合うこともできたしね」


 角の間を撫でてやると、砂竜は嬉しそうに喉を鳴らす。


 その刹那、奇妙な現象が起こった。


 触れた指先から、白銀の鱗の内側を流れる血潮を感じた。血液は水である。偉大なる水神の導きにより、水に乗り、砂竜の心がラフィアの胸に流れ込んで来る。初めての経験だった。


 ほんのりと温かな水流に、一点の曇りが混じっている。親愛の情の中に浮かぶ僅かな憂い。この砂竜はラフィアを案じ、慰めたいと願ってくれているようだ。


 渦巻くような感情のうねりに驚き息を呑んでから、ラフィアは小さく笑い、ひんやりとした鱗に頬を寄せた。


「あなたは優しいのね。他の子も良い子だけれど、あなたの温かさは格別だわ」


 彼の水流がさざめく。ラフィアはその流れに身を委ねて揺蕩たゆたった。瞼を閉じ、没入する。


 砂竜は当然、自身で名乗ることができない。本来砂竜を囲う柵に近づくことすら禁じられたラフィアは、誰かから砂竜の紹介を受けることはないので、今背中を預けている相手の名前を知らない。


 それなのに、この集落の誰よりも心をさらけ出せる存在が彼だというのは妙である。


「砂竜とお話したのは初めてよ。あなた達は本当になのね。やっぱり私が砂竜族になったのは、水神マージが定めてくださったことだったのかも。昔から水神の眷属だけは私のお友達だったもの。集落の皆と心を通わせられなくても、あなた達さえいてくれれば……」


 鼻の奥がつんと痛くなる。意図せず涙が溢れそうになる。誰が見ている訳でもないのだが、ラフィアはみじめな気分になり、羞恥から顔を両手で覆い、涙を堪えた。


「私が変な子だから、アースィムに嫌われてしまったのかしら。まだおかしなことはしていないと思うのだけれど。まさか糞を拾ったのがだめだった? 羊の毛に指を差し込んだり、駱駝の匂いを嗅いで個性を探したりしたのがいけないのかしら。それとも単に、皇女だから嫌なの? もしかして、他に結婚したい人がいたのかしら」


 これまでは胸の奥底に押し込んで見ない振りをしてきた悲しみが溢れ出す。


「私はここに来られて嬉しいけれど、この集落の皆はきっと迷惑しているのだわ。そうよ、皇女だなんて言っても、たくさんいるうちの一人なんだから、大した価値はないのだわ。戦いで失ったアースィムの右腕の方がきっと、ずっとずっと価値があるのよ。私なんか」


 不意に、頬に温かく湿った物が触れた。続いて、生暖かい空気の塊が顔面に吹き付ける。驚きに目をみはるラフィアの鼻先で、白銀の鱗が煌めいた。鋭い牙に縁どられた口の先から薄紅色の舌が飛び出して、ラフィアの目尻に浮かんだ涙をぺろりと舐め取った。黒々としたつぶらな瞳が、気遣わし気にこちらを見つめている。


 取り繕った配慮ではなく、心からの優しさを一身に浴びるのは久し振りである。豪華絢爛な後宮で、ラフィアを真に愛してくれたのは生母だけ。それを思えば、血縁者以外の者から温かな情を受け取ったのはもしや、生まれて初めてなのかもしれない。


 ラフィアは感極まり顔をくしゃくしゃに歪めつつ、砂竜の横腹に抱き着いた。獣らしい、どこか酸っぱいような特有の匂いに包まれたが不快ではない。むしろ、心休まる心地がして、胸いっぱいに匂いを吸い込んだ。


「私が弱音を吐いたのは内緒よ。もちろん、時々ここに来ていることも、あなたとお話できることも、全部、ぜんぶ……お母様と、約束したのだし……」


 一か月に渡り張り詰めていた気持ちが緩んだのだろうか。泣き疲れるまで涙を流したラフィアは、何か重たいものが取り憑いたかのようにぼんやりとする頭を白銀の鱗に押し付ける。気づけば気を失うように、深い眠りに落ちていた。

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