第44話 いつもの日常
♢ ♢ ♢ ♢
朝早くから、トントントン、とまな板を叩く子気味良い音が台所に響く。均等に切り揃えられた色とりどりの野菜たち。その多くは、水が張られた鍋の中へと勢いよく滑り込んだ。
チャッチャッチャ、とボウルの中でトロトロにかき混ぜられていく卵たちは、玉子焼き機の上でその身を広げ、そして丁度いい焦げ色が着いた辺りで丸められてゆく。
お皿に盛り付けられた、つやつやとしたそれを見て、紅葉は感嘆の声をあげた。
「ほわぁ……」
まるで具材たちが生きているようだった。この具材たちを自在に操っているのは、母、百合子の腕だ。
「なぁに?珍しく早起きだと思ったら、ジロジロ見て」
百合子はおかしそうにクスクスと笑って、また卵をリズミカルにかき混ぜてゆく。
「別に、昨日は珍しく夜早く寝たから、目が覚めただけ」
紅葉は少し気まずそうにそう伝え、そしてまた、百合子の手元をじっと見る。
昨日はあれから、四季と共に直ぐに帰宅した。玄関をくぐると、それはそれは鬼のような形相をした百合子が待ち構えていて、百合子の頭の上には、怒りの角が生えていた。
「女の子が、こんな時間に一人で危ないでしょう!」
と、軽く一時間くらい居間で説教を受けてしまった。
「任務の時は、帰り遅いのに?」
「それは四季君がいるから!なんならもうちょっと遅くても良いのよ?」
なんて言ってくれるものだから、本当に百合子は四季のことを気に入っているのだと、紅葉は思った。
そして昨夜は、久方ぶりに時計の針がてっぺんで重なる前に就寝し、このように早く起きてしまった始末だ。
学校へ行く準備もすっかりおわってしまった紅葉は、丁度百合子が手製の弁当を作っているのを見学している。
「ねぇ、紅葉も作ってみる?」
思わぬ百合子の提案に、紅葉は目を丸くする。
「ええ、私が?」
「そんなに見てるんだもの。もしかして、興味があるのかと思って」
紅葉の方を向いて、パチッとウインクをして見せる百合子。随分と様になっているが、そういうことをどこで覚えてくるのか。
いつもなら「そんなことない」と言って突っぱねるところだが、今日はその百合子の問いかけがありがたい。
「……ちょっとやってみたいかも」
その紅葉の返答に、百合子の表情がパァッと華やかに、明るくなる。
「まぁ……まぁまぁまぁ! ちょっとやだ、紅葉、まさか四季君に……!」
百合子はいつも、変な所で勘が働く。耳元で叫ばれそうになるところを、紅葉はすんでのところで制止した。
「あーあーあー! ぜんぜん! 四季は関係ない!!」
百合子はそれ以上何も言わなかったが、向けてくる視線はとても楽しそうだ。
「いいわねぇ……! お母さんもね、お父さんにお弁当作るとき、すっごくドキドキしたわ」
百合子は、当時の事を振り返るように宙を見上げる。全く持って、先程の紅葉の否定は聞いてない様子だった。
紅葉は素朴な疑問を口にした。
「そっか、お父さんとも、学生時代に知り合ったんだっけ」
「そうよ。高校生の時にね」
百合子は、懐かしそうに目を細め、そしてまた手元に視線を落とす。その表情からは、百合子が今、何を考えているのかは図り切れなかった。
紅葉の父は、八咫烏の研究組織に属している。分かりやすく言えば、一族の中でまだ明かされていない謎を解明する組織、というものだ。
紅葉の他人の元素を身体に保管できる特異体質の事に関しても研究している。
「そっか……。お父さん、次いつ帰って来るのかな」
「さぁねぇ。それはお母さんにも分からないわ」
百合子は、あくまで明るく、手を動かしながらそう言った。紅葉は、少し控えめに百合子に問いかける。
「……寂しくない?」
紅葉のその問いかけに、百合子は一瞬手を止めて、そして紅葉の方を見て、また目尻に皺を寄せた。
「全然! ……って言ったら嘘になるけど、でも平気よ? お父さんは私たちの為に頑張ってくれているし、それに内緒にしていたけど、定期的に帰って来てるの」
その百合子の一言に、紅葉は目を見張る。
「ええ!? いつ!?」
百合子は申し訳なさそうに少し眉を下げて、胸の前で手を合せて「ごめんねぇ」と紅葉に謝った。
「アナタが学校へ行ってる昼間の時間と、任務に行ってる夜中……」
なんということか。これではまるで、実の父親に避けられてる哀れな娘ではないか。
「お父さん……私に会いたくないわけ!?」
「違うの! ほら、プライベートジェットで帰って来るから、どうしても時間がねぇ」
それに、と百合子が声を一段明るくして、紅葉に笑いかける。
「お父さん、年末にかけてこっちで研究をするかもしれないの。だから、しばらく家にいるかもよ」
またもや百合子がバチンっとウインクをした。
「全く……まぁいいわ。それよりもお母さん……」
紅葉はため息と共に、自分の手元へと視線を映した。
「これ、どうすればいい?」
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