サトルクエスチョン
氷室凛
第1話 鎌鼬と保健室
第1話Ep1.お悩み相談部
四月十三日、水曜日。
放課後、午後四時三十分。職員棟。
廊下を小走りに進んでいた男子生徒は頭上の「生活指導室」の立て札を見て速度を緩めた。それはその教室が目的地だということもあったけれど。
(あれ。看板、なんか歪んでない?)
そう思って小首を傾げる。
彼の名は
短い黒髪と身長一八○センチある立派な体格、そして常に大きい声量のせいで一見運動部のようだが、昨日とある文化部に入部届を出したばかりだ。
そのカイの身長と裸眼でもよく見える目で、立て札の根元に少しだけヒビが入っているのが見て取れた。昨日までは普通だったはず、と考えてひとつの可能性に思い当たる。
(――今朝地震あったもんな。けっこう大きいやつ。この学校古そうだし、それでヒビ入ったのかも)
先生に会ったら言っておかないと。
確かにそう思ったのに、扉の前に立った瞬間、カイはそれを忘れ去った。――それは別に、何か特殊能力を使われたとか、そういうことではなく。
生活指導室は前後二箇所に扉がある。その、後ろ側。あちこち傷んで塗装が剥げかかっているその引き戸には、一枚の張り紙が貼ってあった。
「お悩み相談部 活動中」。
太いマジックで手書きされた、男子っぽい勢いがあるけれど全体のバランスが取れていて綺麗な字だ。
それを見たカイは拳を握りしめる。
(く~~、初部活動だ! やっぱ高校は中学に比べていろんな部活あるな! 先輩もう来てるかな)
高まったテンションに任せて息を吸い、
「お疲れ様です!」
挨拶と共にガラガラと引き戸を横に押し開ける。そのまま中へ入ろうとして――見覚えのないパーテーションが並んでいてカイは足を止めた。
名前こそ生活指導室となっているものの、その内部は通常教室と大差ない。昨日までは机と椅子が並んでいて、それは後ろ側の扉から入ってもよく見えるはずだった。
しかしドア前の一角、そこはパーテーションで区切られていた。カイの身長でも向こう側は見渡せない。その内側には向かい合うように机が四つ置かれ、そのひとつで本を読んでいた男子生徒が顔をあげる。
「お疲れ様です、カイくん。……入る度に声大きいですね、きみは」
そう言って少しだけ眉を寄せて艶のある髪を揺らし、上げた顔をまた本に戻す。
彼の名は
顔の大部分は細い金縁の眼鏡と長めの前髪に隠れてよく見えない。けれどその奥の目は涼し気で、落ち着いた態度は年齢よりずっと大人びて見える。一番上のボタンまでキッチリ留めている学ランには皺ひとつない。
そんなサトルに挨拶しつつ、カイは物珍し気に見まわしながら中に入った。
「お疲れ様です、サトル先輩。あの、このパーテーションって? 昨日までなかったですよね?」
「ああ、一応部活中は生活指導室と区切るためにパーテーション立ててるんですよ。他人の悩みを聞くので、プライバシー保護の名目もありますね。本当にカタチだけですけど。先週は色々あってそれどころじゃなかったんですが、そろそろ本格始動ということで。カイくんも入ってくれたし、今日はお客さんも来ますしね。お悩み相談部はこれが基本形です」
サトルは本を閉じてこちらに向き直った。
お悩み相談部。
聞くところによると、三年の先輩が去年立ち上げた新設の部活らしい。三年生がふたりと二年生のサトル、昨日入った一年生のカイの、計四人の小さな部活。活動内容は「生徒の悩みを傾聴、必要であれば解決する」。
数日前、どうせ解決などできないだろうと半ば道場破りみたいな勢いで押し掛けたカイの相談を、サトルは見事解決してみせたのだった。
「は~、なるほど……。こういうのあるとなんか本格的な感じしますね。――って、あっ、もしかしてこれ立てるのサトル先輩ひとりでやりました!? すみません、一年の俺がやるべきなのに!」
言葉と共に慌てて四十五度に頭を下げる。
カイは外見のイメージ通り、中学では野球部だった。強豪ではない、むしろロクに練習もしないような弱小校だったが、やたら上下関係には厳しかった。先輩に部活の準備をさせるなど言語道断だ。しかもサトル先輩は――口調こそ丁寧なものの――表情があまり変わらないからか、なんだかちょっと怖い。
その姿をサトルは物珍し気に見た。というより、驚いているのかもしれない。眼鏡の奥の一重が少しだけ見開かれた。
「え……。そんな、謝る必要ないですよ。ジンゴさんとふたりでやったし、そんな手間じゃないですし。むしろきみが来るの待てばよかったですね。すみません、後輩という存在に不慣れなもので。片付けは一緒にやりましょう。しまう場所教えます」
「お願いします」と返事をしながらサトルの隣に座る。よかった、彼は怒ってはいないようだ。
「…………」
「…………」
しかし何を話せばいいのかわからない。黙っているうちに先輩は本の世界に行ってしまった。パーテーションの反対側の会話がやたら楽しそうに聞こえてくる。
「あ~反省文できた! これでいいっしょ、ジンゴ先輩! はい!」
「ほい。スバル、一緒に読もうぜ! え~、『二年十二組、
「ちょ、ちょ! 音読!? 反省文音読!? 公開処刑じゃん!! さすがにやめてくださいよ~ジンゴ先輩!」
「お、おおおお、俺もっ。お、音読はよくないと思いますっ」
「えー、スバルもそっち? 仕方ねえ、音読やめてじっくり読むか……」
「さらっと! さらっとで大丈夫です!! じっくりヨマナイデ!」
そわそわしているとサトルがチラリと視線だけをこちらに向けた。それが自分を咎めているように感じられ、カイは心の中で「ひえっ」と悲鳴を上げる。
「……カイくんは向こう行かなくていいんですか? 今日委員会当番なのでは?」
カイはお悩み相談部の新入部員であると同時に、生活指導委員だ。
一週間ほど前に高校生になったカイは、サトルに憧れお悩み相談部に、委員長に憧れ生活指導委員に入っていた。――というのは、さすがにまだ本人たちには言えていないけれど。
その片方から鋭い目を向けられ、胸がバクバクと音を鳴らす。
(お、落ち着け俺。サトル先輩はもともとこういう顔なだけで睨んできてるワケじゃないから……たぶん)
そうどうにか言い聞かせて、
「いや、それは朝だけです。いきなり朝も放課後もあると大変だろうから、放課後は別にいいってジンゴ先輩が」
「そうだったんですか? あのスバルくんって子、一年なのに毎日来てますけど」
今度は目がキョロキョロと動く。
「えっ。お、俺も行った方がいいのかな……。いや、でも、今日は初日なんで! ここで待機してます!」
「ふうん、そうですか」
「ハイ……」
「…………」
「…………」
「……そんな力まなくていいですよ」
沈黙のなか視線を左右に忙しなく動かすカイに、サトルはとうとうパタンと本を閉じた。椅子を引いて身体ごと彼に向き直る。
「落ち着かないなら少し話しましょうか。きみは初日だから知らないかもしれませんが、生徒からの相談は概ね相場が決まっています。さて、何がいちばん多いと思います?」
突然の質問にカイは頭を捻った。自分たちは高校生、高校生の悩みと言えば。
「……勉強、ですか? ついていけないとか、次のテストが心配だとか」
「ふふ、惜しいですね。それは二番目です」
カイはけっこう自信があったのだが、サトルはそう言って薄く笑った。組んでいた腕を上げて、指を一本立てる。
「いちばん多いのは人間関係です。もっと言えば恋愛系。ま、聞かれることも答えることもある程度決まってますから、そのうち慣れますよ」
「あ、そっか、今までのデータがあるんですね」
「ええ。それに、こう言っちゃあなんですが、結局生徒の相談はたかが知れてるんですよ。聞くだけでいいことも多いから。いちばんめんどくさいのは教師からの相談です。先生と生徒は違うからなかなか大変で……」
サトル先輩はさっき、「後輩という存在に慣れていない」と言っていた。きっとそれは本当で、たぶん、今の台詞は彼なりに自分の緊張をほぐそうと思って言ったことで。特に深い意味なんてなかったのだろう。
……けれどそれが、フラグみたいに。
「こんにちは。ジンゴくん、いるかな」
ガラガラと引き戸を開けたのは、白衣を着た背の低い女性教師だった。
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