海の絵本
冲田
海の絵本【女声向け】
天気予報は梅雨明けを宣言していてセミも鳴き始めているというのに、雨の日が続いている。
学生服の少女が、手に持つ
家族への不満、学校での人間関係、未来への不安、温暖化、不景気、
けれども、水を
チリンと、
──こんなお店あったかな。
入口は、切り子のような模様のはいったすりガラスの引き戸。そのすぐ横には
もう一度引き戸に目を
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
背がスラっと高く整った顔だちをした女性店員が、エプロン姿で客を
「あ……すみません。ちょっと、
「いいえ。この通り、お客様はあなただけですよ。さ、ご案内いたします」
窓から見えた本棚らしきものはやはり本棚で、足を
はたして店の一番奥には、いくつかのテーブルが並ぶ
少女が
「
「あ、ごめんなさい! こんなにびちゃびちゃなのに座ってしまって!」
「かまわないのですよ。気分を害してしまったのであればごめんなさいね」
座ったとたんに出てきたココアは、「お待ちしておりました」との言葉のとおり、客が来ることを予感して用意しておいたかのようだった。
「ここは、ブックカフェですか?」
お
「ええ。最近は、そんなハイカラな名前で呼ぶそうですね。
ここは美味しいコーヒーやお茶と一緒に、読書を楽しむ場所……でもあり、お客様のあたらしい物語を
「物語を、紡ぐ?」
「このお店を見つけてくださる方は、現状の物語に、どこか満足しておられない方がほとんど。読書は、あなたを
「まあ、その側面はありますよね。
「ではこちらの絵本など、どうでしょうか?」
店員は、ココアやクッキーを置いたテーブルの上に積んであった本の中から、ひとつを取り上げて
絵本というから、かわいい動物が服を着ているような絵が出てくるのかと思いきや、その表紙には油絵で
そのままぱらりとページを開くと、目の前に海のある風景がひろがった。
──さあ私は、ソファーにゆるりと座って、美味しいコーヒーと一緒に読書を楽しむ時間といたしましょう。
雨でしっとりと
彼女はあっけにとられています。それもそのはず。さきほどまで、本屋にいたはずなのですから。
少女は砂を
遠くから見ると水色や緑や
寄せては返す波は、ザザと音をたて、時に勢いよくうちあげて、少女の足を濡らしました。暑い日差しの中、その冷たい波は心地よく感じました。
満足ゆくまで波打ち際を楽しむと、彼女は砂浜に
海水浴の時期には海の家になっている小屋です。次に使われる日を待っているのでしょう。テーブルや
そしてこの海の家の
イーゼルにのせられた真っ白なキャンバス、それから絵の具や絵筆などの道具。
少女は吸い寄せられるようにキャンバスの前に座り、絵筆を
この場所は夢の中と同じようでした。つまり、
時間も忘れて手を動かしていると、気づけばあたりは
水平線に今まさに日が
こんなに美しい夕暮れがあったのかと、少女は息をのみました。けれどもほんの
──……あら、もうこんな時間なのね。今日のところはそろそろおしまいにしましょう。
ハッと気がつくと、少女はブックカフェのソファに座っていた。
「いかがでしたか?」
店員に聞かれて、少女は気まずさに少し視線をそらした。
「えーっと、ごめんなさい。眠ってしまって、全然読んでいなくて……」
「いえいえ、ちゃんと物語の中に入っていたでしょう? 素敵な絵をお描きになりますのね?」
店員がぺらりとめくってみせてくれた絵本の
夢の中だと思った出来事を、現実と呼ぶにはあまりにも空想的だけれど、なにか
「そうそう。お客様のお名前は?」
「あ……アンナ、です」
「アンナさん、ね。
ありがとうございます。また、いらしてくださいね」
アンナはどこかふわふわとした気持ちのまま店を出る。もうあたりは暗くなっていて、雨は相変わらず降っていた。彼女は心が少し晴れやかになったことを感じながら、傘をさして、帰路についた。
アンナは、高校のクラブで絵を
昔、賞をとったことがきっかけで才能があると信じてずっと描いてきたし、周りも期待してくれていた。大学も美術系に進んで、将来は
けれど、今、目の前にある絵はどうだろう。爽やかな青空のお花畑に女の子が立っている、なんの目新しさもない構図。自分の中から出てくるものの
アンナは白や青やの絵の具をハケにつけて、お花畑の上に
だんだんと、花が、女の子が、海に
──もう一度、あのブックカフェに行きたい。
その日、学校からの帰り道で、今日までどうしても見つけられなかったあのブックカフェが、風鈴の音とともに唐突に目に飛び込んできた。
アンナは迷わずカラカラと引き戸を開ける。背の高い女性の店員が
「いらっしゃいませ。そろそろ来られる
と、出迎えてくれた。
以前と同じように奥のソファに案内されると、すでにココアとクッキー、絵本が用意されていた。今日のココアは氷が入っていて、アンナの火照った身体を冷やした。
「このお店が不思議なのかこの本が不思議なのか……。つまり、ここでは本の中の世界に行けるということですよね?」
ココアを飲みながら、アンナが店員に聞いた。
「そう表現するのが、一番簡単でしょうね。けれど、他の
アンナはわかったような、わからないような、「ふうん」と
店員は自分のためのコーヒーを用意すると、テーブルに残された絵本を手に取り、ソファの背にゆったりともたれかかった。
──……さあ、アンナがもう一度本の中へと入ってみると……あらあら。
また砂浜にいることに気がつくのかと思いきや、なんと彼女が現れ出たのは海の中でした。
以前の
けれども、その深さ、波打つ水面、重くなる衣服、冷たすぎる水温、何より予想外の出来事への
なんとか息を
「
と、声をかけられました。
「力を
先ほどよりもよく通り張りのある、しかしやさしい声で言われて、彼女はようやくもがくことをやめました。
声の
「本当はダメなんだけど、見ていられなくて助けちゃった」
青年は照れくさそうに頭をかきながら、目を細めて笑顔をつくりました。
「あ……ありがとうございました」
アンナは、顔を赤くして目を背けながら言いました。こんなに素敵な青年にしっかり抱きかかえられたことを思い出すと、急に恥ずかしくなってきたのです。
「海水浴にはまだ少し早いよ。それと、このあたりは急に深くなるから、気をつけてね」
「泳ごうと思ったわけじゃないの。それに、海水浴と言うなら、あなたこそ……」
「
青年はよいしょ、と岸にあがってみせました。アンナは驚きに目を見張ります。
彼の下半身は、太陽の光を反射してキラキラと輝く
そうか、本の中だからこんなこともあるのね、と内心では納得しながらも、アンナは
「人魚って、女性のイメージが強かったから、とっても
「うん、そうかもね。
「じゃああなたは、例外?」
「仲間には変わってるって、よく言われる」
「何が見たくて海から出てきているの?」
「絵が、見たくて」
人魚の青年は、海の家を
「あそこ、
──ひょっとして、君も絵描きさん?」
「……うん、いちおう」
「すごい! 君の絵も見せてよ!」
アンナの返事も聞かず、青年は海の家に向かっていきました。ほふく前進で
海の家に着くと、ルイはまず足洗い場に直行し、手慣れた様子で
ウキウキとした表情で手招きされて、アンナはおずおずと描きかけの絵の前に座りました。
「これ、君の絵?」
「うん、そう。まだ
「描いてるところ、見ていていい?」
「つまんないよ?」
アンナが絵の続きを描き始めると、ルイはその様子を興味ぶかげに、楽しそうに
ルイが何度目か、足洗い場から身体を濡らして戻ってきたところでアンナはふと、手を止めました。
「海以外のもの、
アンナは彼に聞いてみました。
彼が
それから、アンナは彼からせがまれるままに、彼が見たことがなそうなものを、色々と
──……ふふふふ、面白くなってきたけれど、今日はここまでね。
それからというもの、アンナは学校でも家でも、何をしていても本の中の出来事で頭がいっぱいになった。クラブや家ではうまく
三回目、四回目……もうほとんど毎日のように、アンナは何度もブックカフェに通う。
本の中では空腹や
「物語はもう
ある日、店員がアンナに言った。
「終盤? でも終わるなんてそんな感じ、全然していないし……。もっといつまでもずっと、ここに通いたいと思っていたのに」
「どんなお話もいつか結末を
店員はいつものようにココアと海の絵本をテーブルに置く。アンナは近づいているという終わりに
──……本の中でアンナはまた絵を描いていて、その
ルイはキラキラと目を
「……
アンナがぼそりと言いますと、彼女の視線に気づいて顔をあげた青年は、ぱちくりとその目を
「そんなに見つめられると照れるな」
「ねぇ、あなたをモデルにして絵を描いてもいいかな?」
「描いてくれるの?
「本物の人魚をモデルにできるなんて、わたしだけね」
世にも
いつも隣合っていた二人は、向かい合わせになりました。アンナは
自分の姿は、彼女にはどのように
「自分で言うのもなんだけど……せっかく
「瞳が、とっても綺麗だから……」
アンナはそう答えますが、少しためらってから、
「本当は、あなたのことを
と
「それ……とても素敵な愛の言葉だよ」
青年は、綺麗と言われた目を嬉しさに細めて、少女の
二人は、ごくごく自然と、
──……あら、そう……。こちらの物語の中に生きることを選んだのね。
では、このお話を
そして二人は、いつまでも幸せにくらしました────。
店員はそっと本を閉じると、表紙が見えるように本棚に飾った。ページが増えたその本は、もう絵本というよりも画集のようだった。店員は数歩ばかり後ずさり、遠目に棚を眺めながら、満足そうに頷いた。
END
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