「あの……緑のベトベトしたのがついちゃって……着替えたんです」

 あれは何なの――聞きたいが、聞くのが怖い。

 凍りついたように俯いている美月を、男は冷たく見下ろした。

「ああ、あれか。だ。人間だって涙や汗がでるだろ。おまえは化けもんだから、人間様と違って気持ちわりい分泌物を垂れ流す。化け物らしいだろ? まあほっときゃいい。乾けば勝手に分解して消えるから」

 やっぱり――あの気持ち悪いものは自分から出たものなのだ。

「なんだよその顔。化けもんってのはどろどろぬたぬたしてるもんだろが。おまえ、まだ自分が人間だって勘違いしてるんじゃあねえだろうな?」

「……そんなことない」

「いいや、わかっちゃいねえ。ちゃんとしつけてわからせてやらなきゃならねえな。俺はお前の飼い主だからなぁ」

 加虐的な笑みにぞっとする。

 今すぐ階段を駆け上がって自室にとじこもりたかった。でも――逃げてしまったら、何のために降りてきたのか。

(麻矢――麻矢のことを、聞かなきゃ……)

 震えながら目を上げた美月を、男は意外そうに見やる。そして忌々し気に舌打ちをして立ち上がった。

「なんだよ退かねえのか、クソつまんねえ。――もう部屋に戻れ。お前を見てると苛々する」

「待って! ……麻矢のこと、教えてほしくて」

「麻矢ぁ?」

 男の目が鋭く切れ上がり、美月の心臓は鷲づかみにされたかのようにぎゅっとなる。

「だから死んだっつってんだろ」

「その、もっとちゃんと教えてほしいの。どんな子だったのとか、なにが好きだったのかとか……」

 地下都市には入れたのか。――死因は――。

 男は苛立ったように頭がりがりと掻き毟った。

「そんなもん知ってどうすんだ」

「だって……麻矢はわたしの娘だもの」

「麻矢はおまえの娘じゃねえ。本物の美月と俺の娘だ。お前は俺が造った人工生物なんだから、誰との血縁もねえんだよ!」

 男は吐き捨てるように言った。

「そもそもなあ、おまえが母だとか父だとか弟だとか言ってるやつらも、おまえとは何の繋がりもないんだからな」

「そんな……でも、でも……家族の記憶だってちゃんとあるもの……」

「そりゃ本当か? ――はずなんだがな」

 美月は弾かれたように見返す。男はわらった。

「うそよ……」

「なら思い出してみろよ。賢吾の顔を」

 思い出すも何も、賢吾とは毎日顔を合わせていた。夜は部活であまり時間が合わなくても、朝食は必ず一緒に食べていたのだ。

(そうだ。賢吾は卵かけご飯が好きで、毎朝どんぶりに三杯も食べていたわ)

 三杯目のおかわりに、呆れたような母の顔が浮かんだ。

 賢吾の生卵をかき混ぜる手慣れた手つき。ご飯の上に卵液を流し込み、丼を掻き込む弟の顔を思い出そうとして――美月は小さく悲鳴をあげた。

 記憶の弟は、頭部がなかった。首から上は後ろの背景が映っている。

「賢吾の顔は、記憶からことごとくオブジェクト消去してある。――あのクソガキ、俺たちがつきあってた頃からさんざん邪魔してきやがって……。顔合わせでこの俺を殴りやがったこと、ぜってえ許さねえからな」

 犬歯を剥きだして歯ぎしりする竹流を、美月は茫然と見やった。

 この男は、弟の記憶を悪意をもって省いたのだ。

(――なんてひどい)

「お前の記憶は俺が取捨選別してる。美月から抽出した記憶データをもとにしたんだ。俺の都合のいいようにな」

 男は意地悪く笑う。

「お前がだって、お前自身にわからせるためにやったんだよ」

 男の表情や口調からはあからさまな悪意が感じられた。

(この人、ショックを受けるわたしを見て喜んでる。オリジナルの美月のかわりにわたしを傷つけて溜飲を下げているんだわ)

 こんなにも憎まれているなんて、元の美月はこの人に一体何をしたのだ。

「麻矢の記憶も、わざと入れなかったの……?」

「それは――なんつうか、図らずもってやつだ。お前のその姿、十七歳くれえだろ。だから記憶も十七歳の時までしか入ってねえんだよ。麻矢の記憶がないのはそのせいだ」

「どうしてこの歳に……」

「こっちが聞きてえよ。俺は美月が死んだ三十二歳に設定して甦らせたってのに……。蓋を開けてみりゃ十七の小娘じゃねえか」

 男は苛立たしそうに頭を掻きむしる。

「まあ、おまえが十七の歳で蘇ったのもわかる。に戻りたかったんだろうよ。俺と出会ったのは美月が十八の歳だからな。俺の存在を記憶から消したかったんだろ」

 オリジナルの美月はそれほどまでにこの男を嫌っていたのか。――ということは、この夫婦はお互いに憎みあっていたのだ。

「わかったらさっさと目の前から消えろ、化け物が」

 男はそう吐き捨て、踵を返した。

「ま——待って! 麻矢の写真はないの? お願い、どうか一目――」

 美月は絨毯に膝をつき、頭を下げた。

「お願いします。何でもしますから。お願い……」

「やめろ‼ 頭なんか下げんな! しかも美月と同じ顔で――」

 男のたじろいだような声が、頭上から降ってくる。

 美月は絨毯の毛足を握りしめた。罵倒されようが、暴力を振るわれようが、頭をあげるつもりはなかった。これくらいしか美月にできることはないのだ。

「……もうよせ。美月のそんな姿、見てられねえ。写真はねえが――映像記録ならある。だからもう頭あげろ」

 美月が顔を上げると、男は何かをこらえるように見おろしていた。

「あいつが俺に頭を下げるなんてありえねえんだよ。出来損ないが」

 美月はソファーに座らせられた。

 麻矢の顔を見れる――美月は緊張に胸をおさえる。

「俺の視覚情報を切り取ったもんだから、見にくいがな」

 男は小さく息を吐くと、胸の前ですっと手のひらを水平に広げた。

「フィルムナンバー二十八」

 唐突に、男の手のひらの上に握り拳大の立体映像が浮かんだ。

 美月は目を見開く。――魔法であろうか。

 男が呆れたように言った。

「ばーか。こんなの簡単な拡張現実エーアールだ。俺たちがガキの頃にはあった技術だぞ」

 美月は映像に目を凝らした。周囲はぼやけており、中心一帯のみが焦点が合っている奇妙な映像だった。

 病院のような一室が映し出されていた。簡素なパイプベッドに女性がひとり横たわっていて、無味乾燥な眼差しで窓辺を見ている。

 美月は息を飲んだ。その女性は、自分にそっくりだったのだ。

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