第10話 夏輝の傷痕

「ねえ。明日の休み、夏輝君の家に行っちゃだめ?」


 同好会の活動――星の勉強ともいう――が終わって帰り際、突然明菜がそんなことを言い出した。


「へ? なんで?」

「んーと。どれくらい遠いのか確認してみたいのが一つ、夏輝君の作り立ての料理が食べてみたいのが一つ、夏輝君の家にあるというこれよりもっとすごいという天体望遠鏡が見てみたいのが一つ……あとは……」

「……欲望全開だな、特に二つ目」

「否定はしません。いつもお弁当美味しそうだなぁって思ってて。でも一緒に食べてくれないし」

「学内ランキングトップと底辺が一緒にいたら何を言われるかわかったものじゃないだろ」


 明菜は学年でも随一の美少女として知られている。友人も多い。成績も優秀だ。

 対して夏輝は、成績は平凡。友人と言えるのは賢太と、あとは本当に明菜くらい。容姿も際立っているとはいいがたい。


「それ、今更だけどねぇ。私が天文同好会に入ってるの、女子は結構知ってる子多いよ?」

「はい?」

「私もう隠してないし。男子には言わないでねって言ってるから、みんな内緒にしてくれてるけど。こないだ、夏輝君と付き合ってるのかって聞かれたし」

「ちょっと待て、それは初耳」

「そりゃ男子そっちのネットワークには流れない話だし」

「女子こえぇ……」


 男子にこの話が広まったが最後、どれだけの視線に晒されるか、考えたくはない。

 そうでなくても同じ学級委員で一緒に行動することはどうしても多くなるので、妬まれているという実感は常にあるのだ。


「夏輝君、結構女子の中では人気高いよ? 多分無意識にやってるんだろうけど、結構気遣いさんだから」


 それも初耳だ。

 ただ、同時に複雑な気分になる。そうならないように――してきたはずなのだが、どこでてしまったのか。何より本当に――そう思ってくれているのか。

 そんなことを考えてしまう自分が、一番嫌だった。

 ただ、それでも目の前の一人にどう思われているのかだけは、心に引っかかる。


「女子の中で俺はどういう扱いになってるんだ……」

「気にしない気にしない。で、いい?」


 話を強引に戻された。


「うちに来てみたいって……ことだよな」

「うん」


 今の家の状況を考えるが――別に問題はそうない。

 ただ、女の子が家に来る、というのは――夏輝の記憶する限り、間違いなく初だ。

 兄が彼女を連れ込んでいたことがあるかは知らないが、少なくとも夏輝はそんなことをしたことは、小学生時代まで遡っても、ない。

 男の一人暮らしの家に来るという意味を分かってるのかと思うが、すでに数回、観測会として二人だけで夜の学校にいたことがある以上、そこは今更だ。

 とはいえ。


「……いきなり明日?」

「ダメ?」


 そういって、明菜は小首をかしげて、わずかに握った手を口元に添え上目遣いでみてくる。


(あ、あまりにもあざとい……!!)


 だが悲しいかな、夏輝も男の子である。

 明菜ほど魅力的な女の子のそのようなお願いを拒否するだけの気概は――存在しなかった。


「……わかったよ……」


 夏輝は諦めたように承知した。

 敗北感がすごかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「やっほー、夏輝君」


 学校の、つまり明菜の家の最寄り駅から四十分弱はかかる距離。

 夏輝の最寄り駅である。

 その改札を出たところで、夏輝は明菜を出迎えた。


「ホントに遠いね……毎日これ?」

「うん。まあもう慣れたけどね。朝七時過ぎの快速に乗れば、八時前には学校着くし。まあ幸い、朝は座っていけるからね」


 時刻は朝の十時。

 とりあえずお昼ごはんを一緒に食べることになっているが、メニューの希望を聞いて一緒に買い物することにした。

 行くのはいつもの慣れたスーパーだ。


「あ、このお店いいなぁ。お肉ちょっと安い」

「明菜さんも大概に所帯じみてるよね、実際」

「人のことは言えないでしょ。まあ一人暮らししてたら当然かぁ」

「それはいいけど、何か希望はあるの? 出来ないものは出来ないけど」


 明菜はうーん、と顎に指を当てて考え込む。


「夏輝君の得意料理って何?」

「得意料理か……特にこれ、というのはないけど、よく作るのはオムライスかなぁ。単に好きなのと、一人分作るのが簡単だからってのもあるけど」

「お。それは気になる。私もオムライス好きだし、じゃあそれで」

「うん、じゃあ卵を買い足すか……ちなみに卵は固いのとふわとろだとどっち?」

「ふわとろかなぁ。どっちも好きだけど、選ぶなら」

「了解」

「え、できるんだ。すごい」

「俺も好きだからそこは実は研究した」


 そう言いつつ、必要な食材を次々に籠に入れる。


「あ、お金は私が出すよ」

「別にこのくらいは……いや、その方が気兼ねしないね。じゃあ半分だけ後でもらうよ」

「全額でもいいけど?」

「俺も食べるからね。さすがにそれだと俺が気が引ける」

「律儀だねぇ」


 レジで支払いを済ませると、あとは家に向かうだけだ。

 駅前の多少繁華街っぽいところから少し歩けば、すぐに住宅地に入る。

 住宅地を貫くように幹線道路があって、それと並行してそこそこの大きさの川がある。その川沿いに、夏輝の住むマンションはあるのだ。

 慣れた道であり、迷う心配もなければ、想定外の事態が起きる心配もない――と思っていた。


「お? 秋名君じゃないか。久しぶりだね」


 肌がざらつく様な感覚がした。


「雪村君……」


 ばったり遭遇したのは、同世代の男子。

 かつて、中学時代に同級生だった一人だ。


「すごい美人連れてるな。さすが秋名君。高校でも充実してるようで何よりだよ」

「別に関係ない。高校では一般人だよ、俺だって」

「そんなことないだろう。秋名君がいるクラスならさぞ賑やかだろうしな」

「……用事があるから失礼するよ」


 心がざわつく。

 字面だけなら、別に何の問題もない、むしろ称賛と言ってもいい言葉だろうに、今の夏輝はそれを聞いているのが辛い。


「な、夏輝君?」

「おぅ。じゃあな。いずれ君の高校の話とか聞かせてくれると嬉しいよ」


 夏輝は半ば逃げるようにその場を立ち去り――五分ほどで自宅のマンションに着いた。


 うかつだった。

 かつての同級生に遭遇する可能性は考慮すべきだった。

 だから普段、昼間に地元を出歩くことはしていなかったのだが、一年半以上が経過していたのもあって、明菜が一緒にいたので浮かれて忘れてしまっていた。


「あの、夏輝君!」


 ほぼ耳元に近い場所で声をかけられて、ようやく同行者の存在を思い出した。


「ご、ごめん。ちょっと早く歩き過ぎた」

「それはいいけど……大丈夫?」

「大丈夫、問題ないよ。っと、ここが俺の家。とりあえず……入るよね」


 明菜が小さく頷くと、夏輝が先に入り明菜が続いた。

 エレベーターで六階まで上がる。


「いらっしゃい、明菜さん」

「ここが……うちと同じくらいだね」


 寝室が三つとリビングダイニングキッチン、それに畳スペース。

 よくあるマンションの一室だが、大きな特徴として大きめのウォークインクローゼットがある。

 だが、その中にあるのは服ではなく、両親の膨大な量の仕事の成果だ。


「とりあえず……料理始めるのはもう少し後でいいとして、何かする?」

「……あの、話したくないならいいけど……中学時代、何があったの?」


 やっぱり気になるよな、と嘆息する。


「話しても絶対面白い話じゃないけど」

「面白い話しかしないなら、私の過去の話だってしてないよ」


 自分が話したのだから話せ、というつもりはないのは分かっている。

 ただ――夏輝自身、明菜のことを聞いたのだから、自分が話さないのはフェアじゃない、とも感じていた。

 話してもいいことだと思う一方で、さっきの自分を顧みるに、やはり未だに自分の中で整理できていないことなのだろうと痛感させられる。

 賢太にすら話していないことではあるが――それでも彼女になら、話してもいいと思えた。


「別に……大したことではないんだ。さっきのあいつ……雪村君も、俺に悪意があるわけじゃない。ただ……俺がちょっとそれを素直に受け取れないだけなんだ」

「受け取れない?」

「言っておくけど、本当につまらない話だぞ」

「さっきも言ったよ。話したくないなら無理強いはしないけど、話して楽になることだって、あると思うよ」


 それは確かにそうかもしれない。

 それに――明菜には知っておいてもらいたい、という思いもある。


「……自分で言うのもなんだが、俺は中学では結構優等生だったんだ」

「それは……なんとなくわかるけど」


 少なくともあの高校に入れる程度の学力があれば、普通の中学では優等生になる。それは、明菜も同じだろう。

 

「俺の場合、勉強も運動も、ついでに社交性やら全部ひっくるめてだったんだ。いわゆるクラスのリーダー的存在だった。今から思うとちょっと痛々しいなぁ、とか思うところもあるけど、それでもみんなに頼られるのは悪い気はしなかったし、みんなも俺についてきてくれてた……とは思う。実際ほとんどの連中は、純粋にそうだったとは思うんだ」


 期待されればやる気も出たし、期待に応えられる自分を誇らしいとも思っていた。

 そんなクラスメイトの視線も、自分の励みになっていた。

 しかし、そこにどんな感情が込められているか――表向きしか見ていなかっただけだったのだ。


「まあ、俺も周りがよく見えていなかったんだろうな。けど、中学生ってのは色々多感な時期で、一方的に引っ張られると反感持つやつも出てくる。で……まあそんな奴の言葉を、偶然聞いちゃったんだ」

「……なん、て?」

「『もう全部秋名にやらせればいいじゃねえか。あいつが全部勝手にやってくれるだろ』ってね。俺としては、自分だけ良ければ、的なつもりはなかったし、実際……今思い返しても、ちゃんと役割分担はしてもらってたつもりなんだけど、それすらあいつらには上から目線に見えたんだろうし……実際そうだったのかも、とは思う」


 自分だけが良ければ、と思ったことはないはずだった。

 だが、本当にそうだったのか。

 同じ言葉でも人によって受け取り方は違う。そこまでちゃんと考えられていたかは――わからない。


「不登校……とまではならなかったんだけど、それでもかなり落ち込んだ。良かれと思ってやっていたことが全部否定された、と思った。それで、なんか中学時代の人間関係に嫌気がさして、絶対に誰も知り合いがいない今の高校を受験した。で、高校入学にあたって、俺はもう目立つようなことはしない、と決めたんだ。平凡な一学生で無難に高校生活を乗り切ろうってね」

「夏輝君がテストで手を抜いてるのって、それが理由?」

「……隠しても仕方ないか。うん、まあ……そうだね」


 実際それは今のところ上手く行ってたと思う。


 それが変わりつつあるのは、おそらく二年生になってから。

 学級委員になって、明菜がそばにいることでクラスの立ち位置が変わってきている。一般人モブであろうとしたのが、違ってきてしまっている。

 だが、それが心地よいと感じているのも否定できなかった。


「それ、なんか誰も得してないんじゃない?」

「そうかもしれない。単に俺が平凡な学生として終わりたいってだけだったから」

「でも、本当の夏輝君は違うなら、やっぱりそれはいびつだよ。せっかくの一度きりの高校生活なのに。私は……いつもの夏輝君と……星のことを楽しそうに話す夏輝君と一緒にいるのが好きだよ。クラスでも、できればそうあってほしい」


 思わず顔を上げた。

 好きだ、と少なからず心惹かれている女の子に言われて平常心を保て、という方が難しい。


「そう言ってくれるのは……嬉しい、けど。でも、俺はなんていうか、人の称賛を素直に受け取れなくなってしまったんだと思う。その裏に、ありもしない悪意を勘ぐるようになった。なら、そんなもの最初から受け取らない方が楽だって思っちゃったんだ」

「じゃあ、私が褒めちぎる」


 なんてことを言うんだか。


「か、勘弁してくれ。それに俺のいいところなんて、そんなにない」

「そんなことないよ。料理できるでしょ。観測会の時、いつも私のこと気遣ってくれるでしょ。一緒に歩いていてもいつも私のペースに合わせてくれるでしょ。いざとなったらちゃんと女の子庇ってくれるでしょ。勉強だってできるよね。手を抜いてるだけで。運動もそう。体育でたまに見るけど、明らかに全力出してなくてもたいていのことこなしてるの、見る人は見てるよ?」

「ちょ、ちょっと待って」


 立て続けに言われると、赤面するしかない。


「あと、星のこと話してる時の夏輝君、凄くいい顔してるんだよ。可愛いというかかっこいいというか。それに学級委員になって、ホントにいろんな人がさりげなく助けられているって、みんな気付いてる。昨日も言ったけど、女子の中では夏輝君、評価結構高いんだよ」

「わ、わかった。わかったから」


 元々褒められるのは嬉しかった。

 しかしあの事件以後、それを素直に受け取れない自分に嫌気がさして、自分が嫌いになった。だから称賛を受けなければいい、と思ってしまったのだ。


「平凡に過ごしたい、とだけ思ってきたんだけどな……」

「今も?」

「そのつもり……だったんだけど……分からない。明菜さんが褒めてくれるのは……恥ずかしいけど、嬉しいとも思うから」

「じゃあこれから毎日そうしようか?」

「そ、それは勘弁してほしい。ただでさえ、明菜さんと一緒にいるといつも嫉妬の視線のシャワー浴びて、胃がキリキリするんだから」


 すると明菜は、形の良い顎に指を当て――心底楽しそうな笑みを浮かべる。


「じゃあ、いっそ付き合ってみる?」

「はい!?」


 一瞬思考が停止した。

 いや、正しくは全思考が吹き飛んだ。


「そうすれば、夏輝君の高校生活、色々波乱に満ちてくれそうだし」

「いやいや、それ誰にメリットがあるのさ」

「んー。私と付き合うのは嫌?」

「そ、そういう事じゃなくて」


 付き合いたいかと問われてノーと言えるかといえば、それは無理だ。

 容姿もそうだし、この数ヶ月一緒にいて、明菜がとても魅力的な女性だという事はよくわかっているし、何より一緒にいて楽しい。

 惹かれているのだって自覚している。


「あはは。まあ、今ここで返事することでもないよね。でも、気はまぎれた?」


 言われてから気が付いた。

 帰ってきた時より、気持ちがずっと上向いている。


「なんか落ち込んだ状態でご飯作ってもらうと、美味しくなさそうだしね。元気になってくれたなら、よかったよ」

「……もしかしてこの一連、料理のため?」


 すると明菜は、先ほどと同じ、悪戯いたずらっ気たっぷりの笑みを浮かべて。


「さあ、どうでしょう?」


 その顔は、とても魅力的に思えた。



 ちなみにオムライスは過去最高の出来で、とても美味しかった。

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