Angraecum
宵待なつこ
第1話
何もかもがあいまいで
ぼんやりとした夢の世界から
ようやくあなたを見つけることができた
あなたは考えもしなかったでしょうけれど
私はあなたをずっと探していたの
雨の日も
風の日も
雪の日も
ずっと、ずっと
あなたが忘れてしまった大切なこと
思い出して。あなたがおかした罪を
思い出して。あなたのうそを
思い出して。あなた自身を
私はアングレカム孤児院で
あなたを待っている
必ず会いに来て
私はいつもそこにいるから
私の大すきで大きらいなジェニファーへ
ジェニファーがその手紙を見つけたのは、学校の授業が終わり、寮の自室へ戻ってきたときでした。
学校が建てられた当初から何も変わっていないといわれる古い木造の寮には、代々の寮生に継がれてきた本棚やクローゼットが備え付けられていて、それらと並んで置かれた小机の上に、手紙は置かれていたのでした。
「誰からの手紙?」
同室の親友から訊ねられて、ジェニファーは手紙を見直してみましたが、何の署名もありません。
「わからないわ。名前が書いてないの」
「悪戯かしら?」
「……いいえ、たぶん違うと思う」
手紙の文面に書かれた『アングレカム孤児院』という箇所、かつて幼いジェニファーがそこに身を寄せていたことは、この親友にしか話していないことでした。
「この手紙は、いつ?」
「さっき廊下で寮母とすれ違ったときよ。ジェニファーに手紙が来てたから、渡してあげてって」
「誰からって言ってなかった?」
「いいえ。何も。私も聞かなかったし……」
ジェニファーは視線を手紙へ戻すと、改めて文面を読み直してみました。
あなたが忘れてしまった大切なこと
思い出して。あなたがおかした罪を
思い出して。あなたのうそを
思い出して。あなた自身を
──あなたは誰? 私に何を思い出せというの?
眉間にしわを寄せながら考え込むジェニファーをいたわるように、彼女の肩へ親友の手が優しく置かれます。
「そんなにいかめしい顔をしていたら、すぐにお婆さんになっちゃうわよ」
冗談めかした言葉に少し救われた気がして、ジェニファーは相好を崩しましたが、明日のことを考えて、またすぐに表情を曇らせました。
「ごめんなさい……。明日の
部屋を見回すと、翌日の復活祭のために用意されたイースターエッグや花籠などがささやかに飾られていて、二人で過ごす復活祭を、ジェニファーがどれだけ楽しみに待ちわびていたのかを表しています。
けれどもこんな手紙を受け取ってしまった以上、放っておくわけにもいきませんし、無理に無視しようとしても気になって心から楽しむことなどできないでしょう。
手紙を送ってきたのが誰であれ、ジェニファーは確かめなくてはなりません。
「何言ってるの。約束したでしょう? 私たちはずっと一緒だって。またいつでも機会はあるわ」
そう言いながら、親友はジェニファーのおでこに軽くキスをして優しく微笑みかけます。
ジェニファーはこの瞬間が大好きでした。親友の、エメラルドグリーンの瞳と白に近い淡い金髪を間近に感じながら優しく抱かれていると、あたかも白い花が満開に咲く庭園で陽光に包まれているような、穏やかで満たされた気持ちになるのでした。
「さあ。紅茶にしましょう」
*
翌朝、ジェニファーは準備を整えて寮を出ると、今やほとんど降りる者のいない「アングレカム孤児院前」の停留所でひとりバスを降りました。まだ朝の早い時間とあって、辺りを囲う木々のこずえには
濡れた葉と湿った土のにおいの中、薄白い小道の奥へと歩みを進ませながら、ジェニファーはなつかしさと同時に物悲しさを感じずにはいられませんでした。そこには友だちとの楽しい思い出ばかりではなく、いつも不安と孤独とさびしさがつきまとっていたからです。昼に友だちとどれだけ楽しく過ごそうと、夜、眠る前のベッドの中でいつも考えることは「私はいつかひとりぼっちになってしまうんじゃないか」という怖れでした。両親もきょうだいも知らない彼女は、自分がいつから、何故この場所にいるのか、その理由さえ分からず、孤児院で過ごした年月を振り返るとき、『私にとって特別な誰か』と『誰かにとっての特別な私』を結びつけるような、そんな強い絆をいつも求めていた記憶ばかりが思い起こされるのでした。
「ここへ来たのはいつぶりかしら……」
錆びついた門扉の前で足を止め、ジェニファーは霧煙る孤児院へ視線を巡らせました。閉院になって長く経っているにもかかわらず、古く、簡素なヴィクトリア様式で建てられた孤児院は、最後に目にしたときと変わらずひっそりと佇んでいました。
──ここに、私を待っている人がいる。
ジェニファーがその手に力を込めると、門扉は小さく軋んだ音を立てながら、気味の悪いくらい軽やかに開きました。まるで彼女を誘うように。
草いきれと炭が混ざったようなにおいの中、ジェニファーは正面玄関から中へと足を踏み入れました。辺りをゆっくりと見回しながら彼女がエントランス中央で立ち止まると、弱い、灰色の陽光を背中から受けて、ぽつんと立ったジェニファーの影をぼんやりと眼前に生み出します。
その視線の先、光の届かない薄暗闇の中に、しゃがみこんでいる誰かの小さな影がおぼろ気に目に映って、ジェニファーは小さく息を飲みました。
「だれ……? 私をここへ呼んだのは、あなたなの?」
恐る恐るジェニファーが影へと近付くと、その影は白いクレヨンか何かで一心に床に何かを書き綴っています。
大すき 大きらい 大すき 大きらい 大すき
ジェニファーがその文字を目にした瞬間、小さな影が急に立ち上がって、彼女を置き去りにしたまま奥の方へと駆け出しました。
「待って!」と、とっさに叫びながら、ジェニファーも後を追います。
暗い廊下を走る二人分の足音が静かな空間に
どうやらそこは中庭のようで、白く可憐な花が群生する中、ジェニファーの目の前に小さな女の子──おそらく先ほどの小さな影の正体──が、こちらに背を向けて立っていたのでした。
「あなたね? 私に手紙を送ってきたのは。ねえ、教えて。あなたはいったい──」
誰なの? と言いかけたジェニファーは、不意に振り返った女の子の姿を目の当たりにして、思わず言葉を詰まらせながら後ずさりしてしまいました。
「そんな……。まさか──」
ブラウンの髪を短く切り揃え、肌は静脈がうっすらと蒼くにじむほど白く、加えてその華奢な身体つきから、一見すると儚い印象の彼女ですが、動揺を隠せないジェニファーに対して、彼女はまったく臆することなく、視線をジェニファーへまっすぐに向けてきます。
「久しぶりね。ジェニファー。私のこと、覚えてる?」
「ウェンディ……なの?」
まだジェニファーが孤児院にいたころ、いつも彼女の後をついて回っていたひとつ年下の女の子がいました。ウェンディという名前のその女の子は、孤児院では一番幼く、ジェニファーのことを実の姉のように慕って片時も離れようとしなかったのでした。
さみしがりやで甘えんぼの妹、ウェンディ。
今、ジェニファーの目の前にいる幼い女の子は、その顔も、髪も、ブラウスも、スカートも、小さなローファーも、見間違えようもなくウェンディとしてそこに存在しているのでした。何もかもが最後に見たときの、六歳の姿のままで。
「どうして……。だって、あなたは……」
この奇妙な再会に、ジェニファーの頭は、あたかも目覚めた後で夢を思い返すときのように、思考の断片が剥がれ落ちていって、とりとめもなく、考えがまとまらなくなってしまいました。
その様子をじっと見つめていたウェンディの瞳は、その愛らしい顔には不似合いな憂いに満ちていて、怨みとも、憐れみともいえない表情でジェニファーを見据えています。
ジェニファーは何が何やらわからないまま、動悸する胸を押さえているだけでしたが、そんな彼女へかまうことなく、ウェンディは無造作にしゃがみこむと、辺りに生えている白い花を摘み始めました。
「ウェンディ……?」
恐る恐る距離を縮めようとするジェニファーに、ウェンディは突然立ち上がって、両手いっぱいの花束をジェニファーへ差し出しながら、幼い少女らしい無邪気な笑顔を──初めて──向けました。
「ジェニファー。私と、ずっと一緒にいてくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、ジェニファーは強いめまいとともに、視界が歪んで立っていられなくなりました。
──私は、ずっと前に同じ言葉を聞いたことがある。そう、あのときのウェンディから──。
頭を抱えたまま、ジェニファーの意識はだんだんとぼやけていって、肌に当たる風や草花の感触もあいまいに、現実感を失ってゆくのでした。
*
「ジェニファー、こっちへきて。いっしょにイースターエッグをつくりましょ」
孤児院の遊戯室で、ジェニファーが他の友だちと色紙でお飾りを作っていると、やってきたウェンディが彼女の手を取って他の部屋へと連れ出してゆきます。
明日は年に一度の
ジェニファーもみんなの輪に交じって、おしゃべりをしたり笑い合ったりしながらお飾りを作っていたのですが、ウェンディに半ば強引に手を引かれて、その場を離れます。
「ジェニファーのぶんも用意しておいたわ」
そう言ってウェンディは、卵や絵具や筆が並んだテーブルへジェニファーを案内すると、向かい側に座ってにっこりと微笑いながら作業を始めるのでした。
半年ほど前に来たこのウェンディという少女は、ジェニファーよりもひとつ幼い、内気な少女でした。頭がよく、先生の言うことをよく聞く子でしたが、ジェニファーの姿が見えなくなるととたんに落ち着きを失い、泣いてしまうこともあって、それはあたかも、自分の知らない間にジェニファーが消えていなくなってしまうのではないか、と怖れているかのようでした。
ウェンディのそうした不安やさびしさ、心細さは、
それでも白い卵にさまざまな色合いで模様を描いてゆくことはとても楽しく、ジェニファーもウェンディもお互いに作った卵を見せ合いながら笑顔を交わしていると、金髪を三つ編みにした碧眼の少女が二人の元へやって来ました。
「あら二人とも、上手に出来たわね。その模様、とっても素敵よ」
「クララ!」
クララと呼ばれた少女はジェニファーよりも十歳上で、院内では最年長でもあることから、みんなのお姉さんとして誰からも慕われていました。
中でもジェニファーは何度も「わたしの本当のお姉さんになって」とお願いするくらいで、その度にウェンディからやきもちを妬かれ、ジェニファーとウェンディは、ふたりしてけんかになることもしばしばでした。
けれどもジェニファーが求めていたのは、甘えてくる誰かではなく、甘えられる誰かなのでした。ジェニファーもまた幼い女の子だったのです。もちろん、ウェンディのことは大切に思っていましたが、ジェニファーはクララに特別な親愛を感じていて、また相手からもそれを求めていたのでした。
「クララもいっしょにつくりましょ」
ジェニファーは満面の笑みを浮かべながらうきうきして言いましたが、クララはなだめるように微笑み、ごめんなさいと首を横に降ります。
「院長先生から大事なお話があって、すぐに行かないといけないの」
また今度ねと去ってゆくクララを、ジェニファーはしょんぼりとした気持ちで見送ると、再び卵に向き合います。そこに先ほどまでの楽しい気持ちはなく、無念さと残念さを隠そうともしない、つまらない顔つきで、何かの義務のように筆を動かすのでした。
そんなジェニファーの様子を、黙ったままジッと見つめるウェンディの視線には、まったく気づくこともなく。
すべての卵に色を塗り終えて、ジェニファーは席を立ちました。
どこへ行くのと声をかけてくるウェンディに構うことなく、ジェニファーはひとりで廊下を歩き、部屋を越え、角を曲がり、考えごとをしながら歩みを進めます。
──クララは最近よく院長先生に呼ばれているけれど、いったい何の話をしているの?
クララは院内の子供たちの中でも最年長であるため、先生からよく仕事や年少の子たちの面倒を頼まれています。けれども院長先生からのお話というのはめったになく、しかも頻繁に呼ばれるということも珍しいことで、ジェニファーは何故ということもなく沸き起こる胸騒ぎを感じずにはいられなかったのです。
そうしてひとつの扉の前まで来ると、ジェニファーはその小さな手にきゅっと力を込めて、扉を見据えながら彼女を待ちました。
「では、失礼いたします」
「クララ!」
退室の挨拶とともに出てきたクララにジェニファーは思わず抱き付いて、クララを驚かせます。
「ジェニファー? どうしてここに?」
どうして、といわれてもジェニファーにもよく分かりません。ただ何となくクララを遠くに感じて、焦りにも似た気持ちでここまでやって来たのです。
「さみしかったの?」
ジェニファーが上手く答えられないでいるのを誤解したのか、クララは微笑みながらやさしくジェニファーの頭を撫でてくれます。いいえ。それは誤解ではなかったのかもしれません。頭を撫でられている間、ジェニファーの心は安らぎと安堵で満たされていって、さっきまでの不安や焦りが気のせいのようにさえ思えてくるほどでした。
けれどもその手が離れた瞬間、胸のぬくもりは急速に遠のいていって、暗い大きな穴から怖いほどの冷たさが吹き込んでくるのを、ジェニファーは感じずにはいられませんでした。クララと一緒なら何も怖くない。何も心配することはない。そのはずなのに。
「ねぇ……クララ。クララはずっとここにいてくれるよね? 私のお姉さんにはなってくれなくても、この孤児院でずっと一緒にいてくれるよね?」
「ジェニファー……」
「約束して、クララ。ここから離れないって。ずっと一緒にいてくれるって」
今にも泣きそうな思いで必死にお願いするジェニファーに、クララは視線を合わせたまま、さびしい微笑みを浮かべながら首を横に降ります。
「ごめんなさい、ジェニファー。それは出来ないの。この院には規則があって、十八歳になって学校を卒業したら、院を離れてひとりで生活していかなくちゃいけないのよ」
「そんな規則なんて知らない! どうしてそうなるの!? 一緒にいたっていいじゃない!」
とうとう泣き出したジェニファーは、クララに抱き付いた手にぎゅっと力を込めて、離れまい、離されまいと、すがり付くように大きな声を上げます。
「大丈夫よ、ジェニファー。ウェンディや他の友だちがいるじゃない。私がいなくてもさびしくなんてないでしょう?」
「ウェンディよりクララがいい!」
残酷なほど純粋に、ジェニファーは言い放ちました。涙でぐしゃぐしゃになった顔をぬぐうこともせず、いやだいやだと繰り返すジェニファーの背中をクララは優しくさすりながら、その額に軽く口付けて言いました。
「ジェニファーのこと、私は絶対に忘れないから。約束するわ」
あなたは特別と言われたような気がして、ジェニファーは一瞬胸の奥を暖かくしたものの、同時に変えようのない事実であることを突き付けられたのだと気が付いて、混乱と、戸惑いと、訳のわからない焦りとがぐちゃぐちゃに渦を巻いた頭を抱えながら、彼女はクララの腕を振りほどき、衝動的に駆け出しました。
先生も友だちも、みんな復活祭の準備で遊戯室やホールにいたせいもあって、ジェニファーが走り抜けてゆく廊下や教室前には誰もいません。涙で歪む視界を気にもせず、向かう場所も分からないまま、気付けばジェニファーは中庭にたどり着きました。
日当たりのいい、四方を建物に囲まれた空間はどこか秘密めいていて、ひとり佇むジェニファーの気持ちを少しずつ落ち着かせてくれます。
「ジェニファー」
不意に後ろから声をかけられてジェニファーが振り向くと、ウェンディが少し険しい顔つきで近寄って来るところでした。
「クララと何を話していたの」
いつもはジェニファーに微笑いながら甘えてくるウェンディですが、このときの彼女の声は冷たく、ジェニファーは何だか理由も分からず責められているような気持ちになって、別に、と口ごもってしまいます。
「当ててあげましょうか。わたしとずっと一緒にいて、ってお願いして断られたんでしょう」
「……見ていたの?」
ウェンディはそれには答えず、口の端を吊り上げて、大人びた嫌な笑い方をすると、辺りに生えている小さな白い花を摘み始めました。そうしてジェニファーへ背中を向けたまま、ぽつぽつと話し始めます。
「ここへ来る前、わたしはママと二人で暮らしてたの。わたしのためにママは毎日いつもお仕事ばかりしてて、うちに帰ってくるのは夜おそくになるのもしょっちゅうだった。
ひとりでおるす番してるとき、かなしくて泣きそうになっても、ママはお仕事なんだからがまんしなきゃって思って、ずっとうちで待ってたわ。
だけどだんだん不安になってくるの。もしかしてママはわたしを捨ててどこか遠くへ行ってしまったんじゃないか、もう二度とママには会えないんじゃないかって。
そうして夜中にママが帰ってきたとき、わたしもよくママに言ってたわ。『どこへ行ってたの? ぎゅってして。離れないで』って。ママはそのたびにわたしを強く抱きしめて、離れないよって言ってくれた。
どんなにさびしくても、どんなに不安な夜でも、ママがそう言ってくれたら安心できたし、ママさえそばにいてくれたらすべて良くなると思ってた。
だけどそう思ってたのはわたしだけで、ママはよくわたしに隠れてひとりで泣いてた。わたしはママが泣いてる理由が分からなかったけど、いつもママがわたしにしてくれるみたいに『大丈夫だよ。ウェンディはここにいるよ』って声をかけたら、何だかよけいにかなしそうに笑いながらわたしの頭をなでてくるの。だからわたしはママが泣いてる間、ずっと寝たふりを続けていたわ。どうしていいか分からなかったから。
だけどある日、ママが珍しくお仕事に行かず、うちにずっといたことがあったの。今日はお仕事はお休みよってママが言ったから、わたしはすごく嬉しくなって、いっぱい甘えたわ。一緒に遊んだり、絵本を読んでもらったり、ごちそうをたくさんつくってもらったり、夢みたいに楽しい時間だった。
そうして夜が来て、もうお休みしないといけない時間になったとき、ママがわたしにいくつかの白い粒を渡して言ったの。ぐっすりよく眠れるお薬よって。
ママはどうしてそんなものを渡してくるんだろうって思ったけど、飲みなさいって言われたから飲んだの。だけどそれを飲んでからすぐに気持ち悪くなって、目が回って、全部飲むまえにわたしは眠っちゃったみたいだった。
次の日、目が覚めてもまだ気持ち悪くて、わたしはママを起こそうとしたけど、どんなにゆすってもママはぜんぜん動かなかった。それだけじゃなくて、すごくつめたくて、固いの。
何だかおかしいって思ったけど、わたし、どうしたらいいのか分からなくて、泣きながら外へ助けを呼びにいったわ。そうしたら通りがかった人が気付いてくれて、そこからは救急車が来たり、警察の人が来たり、大勢の大人たちが怖い顔つきでいったり来たりしながら話し合ってる姿を見ているうちに、わたしもよけいに怖くなってきて、ずっと大声で泣くことしか出来なかったの。ママはどうなったの、ママに会わせてって。
大人たちはだれもわたしの相手をしてくれなかったけど、ひとりの婦警さんがただ黙ってわたしを抱きしめてくれたわ。そしてそのやさしさで分かったの。ママは死んじゃったんだって」
長い語りを終えてウェンディは振り返ると、詰んでいた白い花を両手いっぱいに抱えたまま、ジェニファーの正面に向かい立ちます。
「ジェニファー……、大好きな人とどんなにずっと一緒にいたいって思っていても、いつか人は離れていってしまうわ。わたしのことをあんなに愛してくれたママでさえ、わたしを置いて死んでしまったんだもの」
でもね、とウェンディはさらに一歩踏み込み、抱えた白い花の束をジェニファーに差し出しながら続けます。
「わたしはちがうわ。わたしは絶対にジェニファーを置いてどこかに行ったりしない。ひとりにしない。さびしい思いもさせない。
だからジェニファー、わたしと、ずっと一緒にいてくれる?」
甘く、かわいい、満面の笑顔でウェンディはジェニファーにお願いします。まるでこうすれば断れないでしょうと言っているかのような、隙のない、完璧な彼女の笑顔はしかし、完璧であるがゆえに自分ひとりの思いだけで完結していて、そうした一方的なウェンディの要求に、ジェニファーは幼いながらも違和感と不快さを感じて、差し出された花々を「いや!」とはたき落としました。
「わたしはクララといっしょがいいの!」
もっとも求めていた言葉をクララに否定された直後にウェンディから聞かされることに、ジェニファーはやるせない怒りを押さえきれず、ほとんどやつあたりのようにウェンディへ感情をぶつけました。
茫然とするウェンディの無表情な顔に、自分が彼女を傷付けてしまったことを悟ったジェニファーでしたが、もう後には退けず、居心地の悪さに堪えられなくなって、逃げるようにその場を走り去りました。
取り残されたウェンディを振り返ることもなく。
*
記憶の幻影から意識を
過去から現在へと急速に動く意識の流れを地面に這うようにして堪えていたジェニファーへ、ウェンディがすぐ間近からジッと見つめてきます。逆光を受けて
「ねぇ、思い出した? あなたの態度がどれだけ私を傷付けたのかを」
「……ごめんなさい。私──」
これが私の犯した罪なのだろうか、ウェンディは未だに私を許せないのだろうか。
俯いたまま、ジェニファーが続く言葉を言い淀んでいると、ウェンディは不意に、本心の読めない乾いた声で「冗談よ」と、白けたように言うのでした。そうして戸惑うジェニファーにはおかまいなしに、彼女は中庭から建物の中へと入っていきます。
「ま……待って!」
ジェニファーも立ち上がると、ウェンディの後を追ってアーチ状の出入り口から中へ入りました。中庭に沿った廊下は薄暗く、外の明るさに比べて歩みを一瞬ためらうほどでしたが、目が慣れてくると、所々に施された天窓から射す明かりが斜めに辺りを照らし、舞い上がる埃を灰色に染めている様が、ぼんやりと浮かび上がります。
暗がりを
──それにしても──。
と、ジェニファーはウェンディの後を歩きながら考えました。
──ウェンディは何を考えているんだろう。
私をここへ呼び出して。過去のことを思い返して。何の目的があってそんなことを? 私のことを恨んでいて、仕返しか何かするつもりなのだろうか。……わからない。そういえば、あの手紙には『あなたが忘れてしまった大切なこと』って書かれていたけど、私がその大切なことを思い出せずにいるってこと? それはいったい──。
そこまで考えた瞬間、突然刺すような強烈な頭痛に襲われて、ジェニファーは思わずたたらを踏みました。大事な何かを思い出せそうな気がしたものの、ばらばらの記憶の断片が全体の像を形成する前に、引きつった痛みによってかき乱されてしまうのでした。ただひとつ漠然と分かったことは、何かとてもかなしいことがおこったのだということだけで、それが何を意味するのか、意識を集中させていたジェニファーは、ふと前を歩くウェンディの足音が止まっていることに気付いて、顔を上げました。
そこは廊下のつきあたりで、二階へとつづく階段がある中途半端に
「ウェンディ? どこにいるの?」
辺りの静寂を破ってはいけない気がして、ジェニファーの声は自然とひとりごとのようになります。
薄暗くほこりっぽい中、ウェンディを探してあちこちに首をめぐらせていたジェニファーは、階段を見上げたとき、思わず声をもらしそうになった口をあわててふさぎました。階段の二階近く、手すりから身を乗り出すようにして下を覗いている少女の姿があったからです。一瞬、ウェンディかと思ったものの、服装や髪色が違いますし、何よりその横顔は──。
──幼いころの私自身だ……。
ジェニファーは自分の今いる場所が、先ほどと同じように過去の自分に潜っているのか、現在の自分が過去の自分をたどっているのか判然としないまま、少女から視線をそらすことも出来ず、食い入るようにその姿を見つめていました。
少女は変わらず、ジェニファーに気付くこともないまま、彼女が立っている場所のすぐ真下を見続けています。その視線の先を追っていくと、階段の裏側に小さな女の子がこちらに背を向けてしゃがみこんでいる姿が、陰越しにわずかに見えます。
──ウェンディ……なの?
そこは辺りから少し外れた目立たない場所で、自然と隠れられるようになることから、女の子たちは恋の話を、男の子たちはいたずらの相談をしたりする、孤児院みんなが知っている秘密の場所でした。ジェニファーにもなじみのある場所でしたが、今そこに、うずくまるようにして背中を丸めているウェンディらしき人影からすすり泣く声が聞こえたような気がして、ジェニファーはそっと聞き耳を立てました。
それはやはりまぎれもなくウェンディの声で、しかし時おり肩を揺らせながらしゃくりあげるその合間に、もうひとり別の女性の声もかすかに聞こえてきます。もっとよく姿を見られる場所へと、物音を立てないよう慎重に移動し終えたジェニファーは、その人物を目にして、無意識のうちに服の胸元をきゅっと握りしめていました。
──クララ……!
薄暗がりの中にあっても、彼女がいつも着ていた白いブラウスと明るい金髪が、声の主を鮮やかに告げています。
なかば予想していたとはいえ、ジェニファーはこの三者の邂逅に何故だか不穏な気配を感じずにはいられませんでした。肩は強張り、握った手は汗ばみ、速くなる鼓動に呼吸を乱され、なおも悪いのは、先ほど一瞬感じたあの刺すような頭痛が今度は継続的に脈打ちながら再び襲ってきて、その度に過去の記憶の断片を、あたかも暗い部屋で映写機を回すようにまとまりもなく頭の中へと流し込んでくるのでした。
それでもジェニファーは二人が何を話しているのか、慎重に耳を
「ウェンディ。泣いてばかりじゃ、分からないわ。何があったの?」
あやすようなクララの声が、ウェンディの泣きじゃくる声の合間から聞こえてきます。そのやさしさにうながされて、ウェンディはたどたどしく話し始めました。
「わたし……、ジェニファーに言ったの……。ずっとわたしといっしょにいてって……。クララに言われたとおり、花束をわたして、わらいかけて。……でもジェニファーはいやだって……。クララといっしょがいいって……」
距離が離れているうえ、泣き声混じりに話すのでよく聞き取れないところもありましたが、どうやら先ほどウェンディがジェニファーに「いっしょにいて」と言ってきたのは、クララからのアドバイスのようです。
「ジェニファーは……、わたしのこと好きじゃないんだ……」
「そんなことないわ。ジェニファーもウェンディのことが大好きよ」
「うそ! だって話しかけるのはいつもわたしばかりで、ジェニファーからわたしに来てくれたことなんて、ほとんどないもの! それにジェニファーは言ってたわ。わたしなんかよりもクララといっしょがいいって……」
泣き続けるウェンディにクララは困ったような微笑みを向けると、彼女の頭を抱き寄せて、その額にやさしくキスをしながら何かをささやいています。
顔を間近にして
幼いジェニファーは茫然としたまま何も言わずに立ち上がると、どこかへ歩き去ってゆきます。
──まって!
クララに手を引かれて場を離れてゆくウェンディを見送ると、ジェニファーもまた、胸を押さえながら階段を上がり、幼い自分のあとを追いかけてゆきました。
すぐに追い付くことは出来たものの、ジェニファーは幼い自分に何と声をかけていいのか、いやそもそも声をかけることが許されるのか。ためらっている間にも前を歩く少女は歩みを変えません。
そうして二人が着いたのは寝室でした。孤児院の子どもたち全員が共に眠る広い部屋にはたくさんのベッドが並んでいて、しかし皆が明日の準備に忙しくしている今ここには誰もおらず、がらんとした部屋はさびしいような、もの悲しいような雰囲気が漂っていました。
幼いジェニファーはまっすぐ自分のベッドへ向かうと、まるで昆虫が冬眠をするように頭から蒲団をかぶって身動きひとつ取りません。
その様子を見たジェニファーは、知らず相好を崩していました。幼いころの記憶が少ない彼女でも、この癖には覚えがあったからです。
──孤児院に入ったばかりのころ、さびしい思いを抱えてこんな風によく泣いたっけ……。その度にクララが私を抱きしめながら慰めてくれた。私の頭をやさしくなでて、キスをしてくれて、絵本を読んでもらって……。クララのやさしさと暖かさにどれほど救われたか。
ジェニファーはベッドまで歩み寄ると、幼い彼女が眠る蒲団越しに、背中から抱き寄せるようにして並んで横になりました。かつて自分がクララにしてもらったように、今度はジェニファーが幼い自分自身を慰めるために、彼女をやさしく撫でるのでした。そばにいるよ、何も心配いらないよと心の中で声をかけながら──。
*
それからどのくらい時間が経ったでしょうか。ジェニファーはハッとして目を覚ますと、ぼんやりとした頭を巡らせました。
──いけない。私、いつの間に眠って──。
今が何時でどこにいるのかをめまいのする頭で思い出しながら、
──私、こんなに眠っていたのかしら──?
怪訝な気持ちで瞳の焦点を合わせていったジェニファーは、ふと視線を窓辺に移したとき、暗がりの中で身じろぎもせず立っている人影を目にして、思わず全身の毛を逆立たせました。
雲が流れ、月明かりが窓を照らすと、そこには荒野の枯木を思わせる佇まいで、心持ち首を下に傾けながら絵本を読んでいる幼いジェニファーの姿が、漆黒に染められたシルエットをそのままに、妖しく浮かび上がってくるのでした。
言葉もなく彼女を凝視していたジェニファーは、やがて暗闇に目が慣れてくると、彼女が読んでいる絵本が、かつて誕生日にクララから贈られたものであることに気付きました。幼さゆえに読めない字や意味のわからない言葉をクララに教わりながら、大切に、大切に読んできたものでしたが、幼いジェニファーがなぜ、こんなに真っ暗な夜に明かりもつけず、まるで憑かれたように絵本を読んでいるのか、その理由が判然としません。しかも──。
──どうしてあの絵本なんだろう。贈られたいくつかの絵本の中で、あのお話だけが不幸な終わりかたをするから、一度読んだきりで、あとは目につかないところにずっとしまっておいたのに──。
そう思っている間に、幼いジェニファーは絵本を閉じると、音もなく歩き始めました。ジェニファーも彼女の後を追いかけようと足を踏み出しかけましたが、室内の異質な違和感に気付いて、またも総毛立ちになりました。
冷や汗が一筋、ジェニファーのこめかみを伝い落ちます。硬直した身体で視線だけを巡らせると、さっきまでは誰もいなかった寝室に、いつのまにか多くの子供たちがベッドで眠りについていて、ぼんやりと灰色の月光に照らされたその姿は、あたかも墓場の石像のように微動だにしません。彼らを護るためか、寝室は沈黙で覆われていて、自分自身の呼吸やわずかに動いた際の衣擦れの音でさえ、石棺の中で蠢く虫を連想させられて、その何とも言えない不穏な気配に、ジェニファーは思わず足音を忍ばせながら、ゆっくりと少女の後をつけてゆくのでした。
そうして角を曲がり、階段を降りて、暗い廊下を歩いた先に二人が着いた場所は、あの遊戯室でした。学校の教室より少し大きめのその部屋は、窓から入る月明かりによって廊下よりはいくぶん明るく、ジェニファーは夢うつつな気持ちで視線をめぐらせました。
大きな黒板、アップライトピアノ、壁にはみんなが描いた絵が貼られ、机の上には粘土で創られた恐竜や折り紙の動物がところ狭しと並び、壁にかけられた花輪や、色とりどりの卵、編みかごに入れられた果物などが空間を華やかに飾り付け、次の日の
──あの子はこんな時間に、何をしにここへ?
ジェニファーが疑問に思っている間にも、幼い彼女はまっすぐに教室の正面、大きな暖炉がぽっかりと黒い口を開けている場所へ行くと、脇に置いてあるマッチを手に取りました。
ジェニファーの頭にまたも差し込むような痛みが走ります。同時にいくつもの過去の記憶の断片が高速で巡り、しかし映像があまりに速く移り変わるので、まとまった答えは得られません。
ただひとつのことを除いて。
──まって。ダメよ。
少女はマッチを擦って小さな火を灯すと、ぼんやりと夢見がちなまなざしで炎を見つめます。先ほど彼女が読んでいた『マッチ売りの少女』の行動をなぞるように、ゆらめく
けれどもマッチの灯火は一瞬で燃え尽き、
幼いジェニファーは、焦るように、焦がれるように、次々と新しいマッチを擦っては無造作に捨ててゆきます。
──やめて! お願い! やめて!
ジェニファーの悲痛な願いも、のどの奥に引っかかったまま声になりません。身動きも取れず、ただ動悸だけが速く高鳴る中、失っていた過去の記憶が目の前の情景と交錯するように、幼いジェニファーが捨てたマッチの残り火が机に置かれていた折り紙の動物たちに燃え移りました。炎はテーブルクロスから果物を入れた網かご、粘土の恐竜へと、あっという間に燃え広がり、炎でいっぱいになった机から火の粉が舞うと、さらに窓際のカーテンへとその領域を瞬く間に広げてゆきます。
遊戯室はいまや炎に取り囲まれ、ゆらめく熱風と古く乾いた木材の
──
*
深い水の底から這い上がるように、ジェニファーは空気を求めて大きく息を吸い込みました。
肺が驚き、咳き込んだせいで少しのあいだ頭がくらくらしましたが、しだいに呼吸が落ち着いてくると、少しずつ視界の
こめかみや背中を伝う冷たい汗の感触、消えない手のしびれ、不規則に乱れる鼓動など、不快な感覚はいまだ残っていましたが、それでも今はいつで自分がどこにいるのか改めて確認しようと辺りを見回したジェニファーは、その違和感に、またも血の気が引いてゆくのを感じずにはいられませんでした。
ジェニファーが訪れた孤児院は、所々くたびれていたり古くなったりしていたものの、自分がいたころとそれほど大きな変化はありませんでした。
とこらが今や屋根は崩れ落ち、壁は穴だらけ、中庭は雑草が生い茂り、かろうじて建物の原形を留めているのが不思議なくらいです。
わずかのあいだに、まるで何十年も時が経ってしまったかのような光景にジェニファーが困惑していると、少し離れたところから「思い出した?」と、聞きなれた声がします。
「ウェンディ……」
声のした方を振り向くと、ウェンディは先ほどと変わらず涼やかな顔でジェニファーのもとへ歩み寄り、しかし瞳だけは、怒りなのか、かなしみなのか、判然としない感情で細められていて、ジッとジェニファーを見据えています。
「……あなたが言っていたのは、このことだったのね」
「そうよ」
先ほどの情景を頭の中で思い描きながら思わず視線をそらしたジェニファーに、ウェンディは間髪入れず、彼女を逃すまいとしているかのように続けます。
「──あなたのせいで、みんなが死んだわ。クララも、院長先生も、エイミーも、ベイジルも、デズモンドも、アーネストも、ファニーも……私も。逃げ場もなく、燃え盛る炎に焼かれて、みんなみんな誰が誰だか分からない人の形をした黒焦げの炭になって焼け死んだわ。……無惨に。酷たらしく」
あまりの衝撃に、ジェニファーは脚の力を失い、その場に膝から崩折れました。罪悪感に満たされた動悸が胸を突き、鼓膜を裏から叩き、全身を震わせ、視界を
「……私だけが、生き残って──」
自分の犯した罪を何もかも忘れて今までのうのうと生きてきたのかと思うと、申し訳なさと恥ずかしさにジェニファーは身の縮こまる思いをしながら、悔いるように、罪の大きさにおののくように、震えの
「ウェンディ……。教えてちょうだい。私は、どうしたらいいの? 私の
救いを求める気持ちでウェンディを見上げると、この場所で出会ってからずっと毅然とした佇まいを崩さなかったウェンディの瞳が、初めて揺らいでいることにジェニファーは気が付きました。
「ジェニファー……。あなたはまだ本当の自分を取り戻していない。思い出して。本当のあなた自身を」
手紙に書かれていた文言を再び口にして、ウェンディはゆっくりとジェニファーのもとへにじり寄ってきます。
「どういうこと……?」
得体の知れない凄みに気圧されて、ジェニファーは思わず地に手をついたまま後ずさると、水たまりから跳ねた水が手にかかり、その冷たさに、彼女は指の先から身体が凍り付いてゆくような錯覚を覚えるのでした。
「ジェニファー、今のあなたは何?」
「何って……私は、学生よ。クララが行っている聖クレメンス女学院に私も入りたいって、前に話したでしょう?」
「入学したのはいつ?」
「それは……」
「答えられないの?」
ウェンディの詰問から身を守るように、ジェニファーはとっさに立ち上がりました。それは意識して心を鼓舞したというよりも、先ほどの話とは別の、何か空恐ろしい予感を感じずにはいられないからでした。
「そうじゃない! 急に聞かれたから戸惑って忘れちゃっただけ! だいたい、そんなこといちいち普段から意識していないもの!」
「いいえ。あなたには答えることが出来ないのよ。何故ならあなたはクレメンス女学院の生徒なんかじゃないから」
「何を……!」
言っているのだろうかとジェニファーは戸惑いつつも、確信に満ちたウェンディの言い方に怯まずにはいられません。彼女の詰問に対抗するように声を張って答えたジェニファーでしたが、続く言葉に気勢を削がれてしまいます。
それでもジェニファーは、あたかも暗い場所で恐怖心をかき消すために大声を出すときのような心持ちで、さらに声を張りました。
「あなたは知らないでしょうけれど、私には親友だっているの! ルームメイトで、いつも私のことを気遣ってくれて……。私が嘘をついているというのなら、ここへ連れて来ましょうか!?」
「そうね。それもいいけれど、ひとつ教えてもらえる? その子とどうやって知り合ったのかを」
「それは──」
「これも答えられないの?」
「今、思い出してるの!」
「だったら名前を言って頂戴。これならすぐに答えられるでしょう?」
──名前? あの子の名前は──。
いつも一緒に過ごしているルームメイト、嬉しいときもかなしいときも、喜びを共に感じ、涙を分けあった親友の名前が、どうしたことかジェニファーにはどうしても思い出せずにいます。
「どうしたの? はやく教えて頂戴」
真意の読めないウェンディの瞳に、焦る心と記憶をもがくほどに手繰り寄せてみても、やはり──いつも一緒にいて簡単に言えるはずの──親友の名前を思い出すことが出来ません。ジェニファーの困惑は次第に恐怖へと移り変わり、刺すような頭痛とともに動悸が速まってゆきます。
「まだ思い出せないの? それなら私が思い出させてあげましょうか」
「思い出させて──?」
ジェニファーの頭の中を何かがけたたましい音を立ててかき乱し、警告を発しています。この先を知ってはいけない気がして彼女は無意識に耳をふさぎましたが、どういう訳か、ウェンディの声は頭に、心に、直接響いてきます。
「白に近い淡い金髪で──」
──待って。
「エメラルドグリーンの瞳──」
──どうして。
「落ち込んだときにはいつも、おでこにキスをしてくれる──」
──────。
「──クララ」
思い出した親友の名前を口にした瞬間、ジェニファーはその違和感に、あたかも世界の輪郭が大きくずれてしまったかのような強烈なめまいを感じて、思わずよろけてしまいました。
「そんな……。どうして。だってクララはずっと年上で、お姉さんで、みんなの憧れで……。でもあの日の火事で──。それなのに私の親友で、同い歳で、ルームメイト……?」
ちぐはぐな記憶と噛み合わない現実に、思わずその場に屈みこんだジェニファーは、足元の水たまりに映った自身の姿を見て愕然としました。
その灰色がかった蒼い瞳も、癖っ毛のある髪も、小さな手のひらも、胸元を赤いリボンで飾った白いスモックワンピースにいたるまで、そこに映っていたのは、孤児院にいたときと何ひとつ変わっていない、七才の幼い自分自身の姿なのでした。
何もかもがあいまいで
ぼんやりとした夢の世界から
──そうか……。私だけが生き残ったんじゃなくて、私だけが──。
ふと思い出された手紙の冒頭を心の奥でなぞると、霞みがかっていた記憶や景色が、徐々に色味を取り戻してゆきます。
──ずっと夢を見ていたのね。アングレカムの花が薫る、やさしく、甘く腐ってゆく夢を──。
水たまりに雫がひとつ、ふたつと落ちて、小さな波紋を形成すると、ジェニファーは自身が泣いていることに遅れて気が付きました。
──この手で皆を殺しておいて、私だけが、事実を忘れ、罪を忘れ、真実を歪ませ、自分だけに都合のいい
「なんて……。なんて──」
卑怯なのだろう。
愚かだったのだろう。
言葉にならない自責の念が後から後から溢れてきて、涙は留まることなく頬を伝います。
けれどもつぐないの手段すら持たないジェニファーには、それさえも単なる自己憐憫のように思えて、せめてこの涙のひと粒ひと粒には、自分の正直な気持ちが込められていますようにと思っていたとき、うつ向いていた頭を、そっとやさしく包み込む何かがありました。
「大丈夫……。ジェニファーはきっと大丈夫だから」
ウェンディの声にはそれまでの攻撃的な態度は一切なく、ジェニファーを抱く腕のぬくもりも、髪をなでるその手つきにも、心からの誠意と、思いやりと、暖かさがありました。
「もうみんな、ここにはいない。この世界で私たちのことを知っているのは、お互いしかいないわ。でも心配しないで。私はジェニファーのそばを離れない。もしもあなたがまた迷ってしまっても、私が必ず見つけ出してあげるから。どこへ行っても、どれだけ時が過ぎても、私たちはずっと、ずうっと一緒よ」
ウェンディにそう声をかけられたジェニファーは、凍えながら小さく震えていた心の片隅に、ほのかな明かりが
「ウェンディ……」
懐かしさと、罪の意識と、ぬくもりと、自責の念と──。伝えたい想いはいくらでもあるのに、ジェニファーに口に出せたのは、ただ最も大切な人の名前をつぶやくことだけでした。
けれど、それで十分だったのかもしれません。二人がお互いを強く抱き締めあうと、霧の晴れた
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