春を摘出

左原伊純

 植田天音は大学二年生の初日を何事も無く終えた。本格的に将来を考えるのは三年生からでいい。


 天音にとっては苦手な春をどう乗り切るかの方が重大である。


 冬が完全に死ぬ前から春は準備をし始めて、至るところに潜む。


 桜の時期と前後して空気中の春の粒子が開花する。意思の無い虫達を目覚めさせる。


 その生命らしさがどうにも気持ち悪くて好きになれない。


 春になれば命に溢れた風が死にゆくものを蹴り飛ばしていく。


 陽気で、麗らか。影と停滞を許さない。鋭利なフレッシュさが満ちる街。新品が似合う光。

 

 春の夜、暴風が学生向けの安い木造アパートを揺らす。がたがたと、一階も二階も構わず建物全体が揺れる。


 胸の内が不安になる。秋や冬の不安は胸に何かが詰め込まれ過ぎるような不安だ。


 春の不安は胸の内が空になるような不安。本当に気持ち悪い。


 夜中に何度も目覚めたが未だ午前二時。もう眠れないと諦めた天音は灯りを点けて電気ポットのスイッチを入れた。コーヒー以外が無いので仕方なく白湯を飲む事にした。


 マグカップをなんとなく両手で持つ。指先を温めながらちびちび一口ずつ飲む。早く春が終わればいい。


 十九回目の春でこの有様なのだから、寿命が来るまで後何回耐えればいいのだろう。さすがに早死にはしたくないのだが、長生きする自分を思い描けない。


 何歳まで生きれば早死にではないと言えるのだろう。夜中に考える事に意味はない。むしろ気分が落ちていくだけだ。


 マグカップの中のお湯を体内に取り込んでいく。少しは命が慰められるだろうか。


 小さな命は春の嵐になすすべもなく揺らされる木造アパートの一室に、なすすべなく存在するしかなかった。



 四月の半ば。サークルの新入生歓迎会が盛んに行われ、居酒屋が賑わう季節だ。周りへの迷惑が関係ないくらい、周りも大騒ぎ。


 寒さが和らいだ夜は怖さより油断を人々に感じさせる。


 飲み会は得意ではないが、天音は春の夜の孤独を紛らわすために参加を決めた。


 新たな顔ぶれも、前からいる者も春服だ。春の服もまた、浮かれた表情をしていて苦手だ。天音はグレーのニットにデニムと、季節が関係ないファッションに身を包んでいた。


「よろしくお願いします」


 隣の新入生、北條翔太が自己紹介を求めてきた。明るい笑顔と声色に、染めたばかりだろう綺麗な茶髪。菜の花を思わせる黄色のパーカー。


 この男の子は春の一部みたいだと感じて、天音は彼を苦手に思った。


 だけど隣にいるので話しかけられれば答えなければならない。


「岩手から来たんです。東京はもう春の最中って感じですね」


「そうだね」


北国なら春の力は弱まるのだろうか。


「春の気候が大好きなんですよね」


「どうして?」


突如不穏な響きの声を出した天音に、北條は驚いて身を竦ませた。


「うまく言えないけど、心まで上向かされるような空気感が好きなのかな」


心が上向かせられるのか。そういう人もいるのだと天音は深く頷いた。


 自分と真逆の感性を持って生きる人もいる。共有したいとまでは思わないが彼の目で見る世界はどのようなものかと思いを巡らせた。


 想像が大きくなり、つい小首を傾げた天音のボブの髪が揺れた。


 その様子をメロンソーダを飲む合間に見つけた北條は真剣な顔をした。


「植田さんは春が苦手なんですか?」


「よく分かったね」


北條はメロンソーダを置き、料理にも手を付けずしばし何かを考え込んでいた。


 そして締めのうどんが運ばれて来る頃、静かな面持ちで天音に手招きした。


 耳を貸してという合図だ。いきなりどうしたのだろうか。不審に思いつつも天音は大人しく従った。


「バイトしている研究所で季節の実験をするんですけど、よかったら協力して頂けませんか?」


「え?」


「春の苦手が治るかもしれませんよ」


春の苦手が治るとはどういう事なのか。分からないが、それでも、心惹かれた。




 桜が舞う河川敷でサッカークラブが練習をする声が、道路まで響いてくる。


 今まで室内で練習していた退屈を振り払うように声を出している。これもまた、春だ。


 バスの車窓は春ばかり。視覚の情報だけで匂いまで脳裏に蘇りそうになるのは、繰り返して体に染み込ませられているから。


 北條から聞いたバス停まであと三つ。



 バスを降りた天音は車のいない道路の赤信号の横断歩道の前で、不本意ながら立っていた。


 隣に黄色い帽子の集団下校の列。青になるのを待ち、車が一台もいない道路を元気に手を上げて渡って行った。


 私一人ならさっさと渡ったのに、と天音は苛立った。


 柔らかな青空の下、白くて四角い箱のような『糸原季節研究所』が佇む。


 季節を研究しているはずだが庭には花の一輪も無い。


 季節を研究するなら自然の物が無いと不自然に感じるのはおかしいだろうか?


 研究所から白衣の青年が出て来た。

 北條だと分かるまで束の間の時を要した。


「改めて、北條です。よろしくお願いします、植田さん」


「はい」


北條は悪い人には見えないが、季節の名を冠するのに花が一つもない研究所の不自然さがどうにもひっかかる。


 北條が天音の視線の鋭さを真正面から捉えず、横からそっと覗くような柔らかい笑顔を見せた。


「中にお入りください。糸原博士がいらっしゃいます」


北條に続き、天音は無機質な箱に入る。


「ようこそ! 我が研究所へ!」


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