第6話 いやだ
チョークが黒板に擦れる音が響いている。換気のために開けられた窓の隙間からは五月の爽やかな風が流れ込んでくる。その風に運ばれて、選挙カーの拡声器越しの音声が空気を震わす。
昼食後の授業なこともあって教室はのっぺりとした雰囲気に包まれていた。机に顔を伏せている生徒が点在していた。
私の右斜め前の席に座るケイゴは、そんな生徒たちとは対照的に、背筋をピンと伸ばして板書をノートに取っていた。
私の懸念とは裏腹に、学校はいつもとなんら変わりはなかった。ケイゴの態度も表情もいつもと変わらないし、ほのかちゃんや倉野さんも私がケイゴと一緒に帰ったことを茶化しはしたものの、私がケイゴに告白されたということは知らない様子だった。小学校の頃は誰が誰に告白したという情報はすぐに広まって当人たちが茶化されイジられるのを他人事のように眺めていたけれど、当事者になった今それがないということはどうやらケイゴはかなり口が堅いようだった。
あまりにいつもと変わらないので昨日あったことが夢か何かのように感じられる。けれど恐らく、いや絶対に昨日起こったことは現実だ。だって私はありありと、告白する時のケイゴの澄んだ瞳や熱情に震える声を思い出すことができる。
昨日のケイゴは以前の私と同じように熱情に囚われていながら、それでいて誰よりも純粋だった。この前私の身体を支配した熱情はあんなにも綺麗なものだっただろうか?やはり「好き」という言葉を介すと熱情は途端に綺麗なものへと変化を遂げるのだろうか?
分からない。分からないけれどひとまず私が考えるべきなのは自身の熱情についてではなくケイゴが私に向ける熱情にどう向き合うのかということだった。
私はもう一度ケイゴに視線を移す。爽やかに刈り上げられた短髪に切長の目、整った顔立ちに微かに残るニキビの跡。捲られたシャツからはみ出た腕の筋肉は健康的に盛り上がっていて背中は同級生のそれと比べると一段と大きく見える。姿勢の良さが更にそれを際立たせて凛とした印象さえも与えていた。
ケイゴについて悪い噂は聞かない。むしろ、少し辛口なほのかちゃんや狩谷さんや倉野さんでさえも少しの毒は混ぜつつも褒めるくらいにはケイゴの評判は良い。私自身も今ではケイゴのことを優しくて面白くて、仲の良い友達だと思っている。
私は想像してみる。彼の大きな身体に包まれるところを。そして彼の薄い唇に自分の唇が重なるところを。その想像の舞台は自然と桜の坂道になって脳裏に刻まれたあの漫画の一コマが私とケイゴに置き換えられる。
バン!
突如教室に破裂音が響く。私は反射でビクッと身体を震わせて音の鳴った方を見る。
「授業は寝る時間じゃないぞー」
どうやら先生が手で黒板を叩いたらしい。先生の手のひらには白色の粉が薄く付着していた。鳴った音の大きさの割に先生の声色は淡白で何もなかったかのように授業は進行した。
私は考え事に夢中で取れていなかった分の板書を急いで手元のノートに書き写した。周囲では音に驚いて飛び起きた生徒が、悠長に伸びをしていた。それに対してケイゴは先程と寸分変わらぬ姿勢で黒板を注視している。
中断した思考の切れ端が脳裏をよぎって私は彼から目を逸らした。彼は告白に対しての返事が欲しいと言っていた。
◇
塗装の剥げた木製のシーソー、チェーンに赤錆の滲んだブランコ。桜が並んでいる盛り土の断面が四角い地面の一辺を成し、そびえ立っている。隣の坂に反して平坦な地面には青々とした桜の葉が積もっている。
坂の中腹にある小さな児童公園。みんなから桜公園と呼ばれているその公園で、背もたれの無い簡素なベンチに座って、私はケイゴを待っていた。
「部活の後、時間ある?」
ケイゴは無言で頷いた。
「この前の返事したいから、桜公園で待ってるね」
「わかった。ありがとう」
ケイゴはいつものように人当たりの良い笑顔を浮かべて頷いた。ただ声だけがいつもと違って少し掠れていた。
私は今からケイゴに告白の返事をする。答えはもう決まっていた。
「ごめん。ケイゴは優しいしケイゴと一緒にいると楽しいけれど私の中でケイゴは仲の良い友達だから」
何回も脳内で繰り返した言葉をもう一度反芻する。間違えないように。不用意にケイゴを傷つけないように。
中断された思考の切れ端。そこに残っていたのは違和感だった。ケイゴと私が唇を重ね合わせることの違和感。いっそ嫌悪感なら良かったかもしれない。それなら私がケイゴのことを好きじゃないのだとそれだけで済む話だから。けれど私はケイゴのことをたしかに好ましく思っていて、それでもなお覆しようの無い違和感が私の心の中に存在していた。
いくら言葉を選んでもケイゴが傷つくこと、それは避けられないだろう。そのことに私は自分勝手な痛みを感じた。どうして私は好きな人を、仲の良い友達を傷つけなければいけないのだろう。
しかも、友人を傷つけるのは今回で二度目だ。私は部活に入ると告げた時のかんざしの縋るような瞳を、絞り出すように呟いた「がんばれ」という言葉を思い出す。
かんざしが無性に恋しくなった。そもそもどうして私はかんざしと距離を置いたのだろうか。そうだ。自分がまたあの醜い熱情に支配されるのが怖くてだからかんざしから逃げ出したのだ。けれど、ケイゴが私に向ける熱情は綺麗で純粋性まで感じられて、それは多分熱情が「好き」という言葉に根ざしているからで......
葉が地面に擦れる音が響いた。私はその音の鳴った方を見る。夕焼けを背にしたケイゴが足音を伴ってこちらへと歩いてきていた。逆光が眩しくて私は思わず目を細めた。そのせいでケイゴの表情を伺うことはできなかった。
「お待たせ」
ケイゴが私の隣に腰を下ろす。ケイゴの声はもう震えていなかった。ケイゴの横顔には決心を固めた表情が浮かんでいた。そして彼の瞳は夕焼けを反射して真っ赤に燃えていた。彼のその鏡のように澄んだ瞳を捉えた瞬間に用意していた言葉はどこかに飛んでいって代わりの言葉がするりと喉から零れ落ちた。
「ごめん。私、好きな人がいるの」
その言葉は昔から当たり前に自分の中に根ざしていた事実のように、私の胸にストンと落ちた。そうだ。私には好きな人がいる。そう思った。
一瞬の沈黙の後、ケイゴはゆっくりと口を開く。
「そっか。そうだよな」
私の言葉にケイゴは表情を変えなかった。その呟いたような声には穏やかな調子まで感じられた。
「ごめん。いきなり」
「大丈夫。それになんとなく分かってたよ。とまりが俺以外の人を好きだって。そういうのって思った以上に分かるもんなんだよ。だから前も言ったけど本当は言うつもりじゃなかった。けどあの日が楽しすぎてそれで思わず言ってしまって。けど今は、直接とまりの気持ちが知れて良かったと思ってる。だから、その、ありがとう」
私の罪悪感を見透かしたような言葉の後ケイゴは薄く笑みを浮かべた。自分は傷ついていないから大丈夫、と私に伝えるように。本当は自分が一番辛いはずなのに。一体どこまで優しいのだろう。私はこんなにも優しい友人を傷つけてしまった事実を胸に焼き付けた。
それから私が傷つけたもう一人の女の子のことを思い浮かべた。ケイゴの瞳に映る自分を見て私は気づいた。
私はかんざしのことが好きだって。
だから私はケイゴのように自分の気持ちを伝えてみようと思う。「好き」という言葉に自分の熱情を包んで、彼女に伝えてみようと思う。
自分から距離を取って彼女を傷つけた私には、本来そんな権利はないのかもしれない。けれどその逃げた経緯も含めて全てを彼女に伝えてみよう。私が彼女に向ける全てを彼女に拒まれたとしても。それが私のするべきことだ。いや、それが私のしたいことだ。そして、それに気がつけたのは間違いなくケイゴの気持ちに触れることができたからだ。
「ううん。こちらこそ伝えてくれてありがとう。私もケイゴの気持ちが知れて良かった」
私はケイゴの顔をしっかりと見据えてそう言った。ケイゴはその言葉に初めて顔を歪めて泣き笑いのような表情を浮かべた。
私の言葉は残酷だったかもしれない。ケイゴを無闇に傷つけたかもしれない。けれどその感謝は紛れもない私の本心だった。
こんな風に嘘偽りのない気持ちを彼女にも伝えたいと思った。
◇
黒板の上に取り付けられた丸時計が刻む秒針の音がやけに大きく聞こえた。女教師の流暢な発音の隙間から、その音が私の鼓膜を揺らした。
あともう少しでチャイムが鳴る。六限が終わる。それからHRが終われば放課後だ。今日は職員会議で部活が無い。それに今日を逃せばもうしばらく部活が休みの日はない。だから今日、私は彼女に伝えなければいけないのだ。私は自分に言い聞かせる。
今日は一日気が気では無かった。昨日の高揚感は時間が経つにつれてどんどんと薄れていって、その代わりに不安がどんどんと募った。
全てを彼女に伝える。私が決心したそれはとても難しいものだった。私の熱情もそれを包む好きだという気持ちも全てを彼女に知られる。それはとても怖いことだった。
第一私ですらもまだ自分の好きという気持ちに気づいたばかりでそれを消化しきれていない。そもそも好きというのはなんだろう。私にとってその気持ちには未だに不明な点が沢山ある。ただその気持ちが、彼女に拒絶されることを想像するだけで背筋に寒いものが走った。胸がキュッと硬直した。
それから昨日私は全く同じことをケイゴに対してしたのだと思い返して改めてケイゴに対して申し訳なくなった。
けれど私の気持ちがケイゴにではなく彼女に向いていること。それは私にすらどうにもできないことで。だから仕方がないと思う。そんな諦念が私にはあった。ケイゴの熱情を受け入れることへの違和感。彼女へと向けられた熱情。気持ちというのは並大抵の努力では覆すことのできないどうしようもないものなのだと思う。
そんな真理が実感として分かってしまったから、だからこそ怖いのだ。だって私に起こったことが彼女に起こらないとどうして言えるだろう。
自分勝手に彼女に距離をとった私への嫌悪感や、その行動が得体の知れない熱情に根ざしたものであったという真実への嫌悪感、私の好きという気持ちを受け入れることへの違和感、それらの気持ちが彼女に発生しないと、どうして断言できるだろう。
昨日私を包んでいた開き直りの心境はどこかに消えていて恐怖だけが心を取り巻いていた。弱気な自分が何度も、告白をやめてしまおうと囁いた。
それでも伝えなければと思う。ケイゴが私に伝えてくれたように私も彼女に自分の気持ちを伝えなければと思う。それは一種の罪滅ぼしのようなものなのかもしれない。ケイゴの気持ちを受け入れられなかったことへの罪悪感を彼女に到底受け入れられそうにない真実を伝えて拒絶されることで払拭しようとしているのかもしれない。
けれどそれすらも口実にしてしまうほどの熱量を持って自分の気持ちを伝えたいと、心の底から願う自分もいた。淡くて甘い期待は罪滅ぼしなどではなく、その気持ちが成就することを求めていた。
自分の気持ちが何も分からなかった。何が真実で何が嘘なのか。全部真実で全部が嘘なのか。ただ唯一真実だと断言できるものは、私を突き動かす衝動、それだけだった。彼女に自分の全部を伝えて、理解されたいという衝動。
思考は時間を置いてきぼりにする。ふと私が黒板の上を見上げると、時計の長針がピクリと震えた。それと同時にチャイムが鳴った。
「じゃあ今日の授業はこれで終わりね」
先生の言葉に間髪いれずに委員長が授業の終わりを告げる。
「起立、礼」
私は腰も折り曲げずにその場で立ち尽くしていた。それから机の横に吊り下げた鞄を机に置く何気ない仕草の隙間でふと彼女の方を伺った。彼女はいつものように本へと向かっていた。そんな姿を見るだけで鼓動が早くなった。今から彼女に気持ちを伝える、そのことへの実感は未だに湧かなかった。私の気持ちが受け入れられるだろうという予感も。
「よっ、かんざし」
私の気分とは対照的な明るい声が私に向けて投げかけられる。
「よっ」
私は無理矢理にテンションを引き上げほのかちゃんに返事をする。いつも通りのやりとりを心がける。けれどほのかちゃんは私の取り繕った態度の綻びを感じ取ったのか怪訝そうな表情を浮かべる。けれどその表情がほのかちゃんを覆ったのは一瞬ですぐにいつもの明るい顔に戻る。その表情の変化には無言の気遣いが感じ取れた。
それから程なくして狩谷さんと倉野さんも私の席の周りに集まった。HRの前のいつもの時間。ただ彼女たちの会話は私の鼓膜を揺らすだけでその内容は頭の上を横滑りしていく。上手く会話に集中することができなかった。私は何度も脳内でかんざしに声をかける自分をシミュレーションしていた。それに必死だった。
「今日どうする?久々のオフだしどっか遊び行こうよ」
「ええなーそれ」
「とまりも来るよね?」
「ごめん。今日はちょっと用事あるから」
急に会話のお鉢を回された私は思わずテンションも態度も何も繕わずに剥き出しの本音だけを差し出してしまう。一瞬空気が疑問で固まった。
「そっか。じゃあしょうがないね。てことで今日はオフの日に用事も何もない暇人だけで楽しむとしますか」
すかさずほのかちゃんが狩谷さんと倉野さんに両腕を回しておどけた口調で場をフォローするようにそう言った。私も急いでそれに乗っかる。
「そうそう。暇人たちで楽しんできてよ」
「なんや腹立つ言い方やなー」
「ほのか、重い」
「重いってなんだー!」
ほのかちゃんと狩谷さんが戯れ合う。何とかいつも通りの雰囲気に戻った。私は胸を撫で下ろしながら感謝の意を込めて上目遣いの目配せをほのかちゃんに送った。ほのかちゃんはそれに気づいて狩谷さんと戯れながら穏やかな笑みを送ってくれた。
それからいつも通り四人でたわいもない会話を交わしていると、前のドアが開いて先生が教室に入ってきた。
「遅れてすいません。それではこれからHRを始めます」
「じゃあ」
そう言ってほのかちゃん達は各々の席に戻っていく。騒々しかった教室の空気が徐々に落ち着いていく。それを見計らって先生は話し始める。私は再び思考の海に沈む。
先生の話が終わって委員長が号令をかけて帰りの挨拶が終われば私はまず振り向いて彼女の席に向かう。彼女はすぐに帰ってしまうから置いていかれないように。それから彼女に声をかける。一緒に帰る約束を取り付ける。そしてあの坂道を一緒に下りながら私は......
緊張から生じた胸の詰まるような痛みを抱えながらそんなことを考えていると、突然私の耳に彼女の名前が飛び込んできた。
「じゃあ今日はこれで終わります。あと広田さんは少しお話がありますので教室に残っていてください。それでは今日も一日お疲れ様でした。紫月さんお願いします」
「起立、礼」
さようなら、という声が教室に響きHRが終わる。私の頭は混乱したままで無意識にシミュレーション通りにかんざしの方を振り向く。しかし足を踏み出すことはできない。かんざしが先生に呼び出される。そんな事態は想定していなかった。私は莫大な情報処理に追われたPCのように機能不全を起こしてかんざしの方を向いたままその場に立ち尽くしていた。そうすると視線は自然とかんざしを捉える。
かんざしは帰りの挨拶をした状態のままで何かを考えるように下を向いていた。しかし私の視線に気づいたのか不自然な動作で顔を上げた。
視線と視線が交錯した。かんざしもまた私と同じようにその場で立ち尽くしたまま身動き一つ取らなかった。
私はしばらくかんざしの視線に見入っていた。互いの意識が交わったというただそれだけで喜ぶ心臓が私の中心にはあった。しかしそんな陶酔も長くは続かなかった。私は不意にかんざしを見つめ続けている今の状態が側からみると相当奇妙なことに気づいて慌てて視線を外した。さっきまで機能を停止していた思考がやっと回り出して、それによってもたらされた客観視が視線をかんざしから外させた。
私がかんざしから視線を外すとそれと同時に、先生が私の横を通り抜けて彼女の元へと向かった。
私はそれをぼんやりと目で追いながら計画が瓦解したことを思い出してこれからどうしようかと思考を働かせていた。すると
「とまり大丈夫?」
柔らかい声が私に投げかけられた。私はその声のした方へと振り向いた。
ほのかちゃんが心配そうな目で私を見つめていた。
「大丈夫だけど、どうしたの?みんなは?」
見たところ狩谷さんと倉野さんは教室にはいない。
「つばめとしおりは先に行っててもらってる。なんかとまりの様子が変で心配だったから。大丈夫かなって思って」
「全然大丈夫だよ」
私はいつもの調子を心がけて明るくそう告げる。筈だった。私の意思に反して語尾は弱まって、か細い声が最後の余韻となって響いた。語るに落ちたと思った。
「ならいいんだけど」
そう言った後ほのかちゃんは少し逡巡するような素振りを見せた。それから意を決したように再び口を開いた。
「もしかしてケイゴと何かあった?」
「どうして?」
私は思わず尋ねる。
「何となくだけど二人の様子がいつもと違うなって」
色々なことを考え続けて衰弱しきった心が助けを求めていた。かんざしのことについては流石に話すことはできないけれどそれに至るまでの過程を誰かと共有したかった。ほのかちゃんの優しい声色が私にそう思わせた。私は教室を見渡す。教室に人気はほとんど無くて遠くの席で日誌のようなものを書いてる女子と、談笑をしている女子の二人組の他に残っている生徒はいなかった。かんざしと先生ももうどこかに行ってしまっていた。
「他の子には言わないでね」
私は小声でそう切り出した。ほのかちゃんは真剣な眼差しで頷いた。この前口上を素直に守ってくれる人がほとんどいないことは分かっているけれど、それでもほのかちゃんならその言葉通り本当に他の子に口外はしないだろうという信頼感が私の口を開かせた。
「この前ケイゴに告白されたの」
「何となくそうかなと思ってたけど、やっぱりそうなんだ。それで、その返事に悩んでるの?」
ほのかちゃんは真剣な表情で尋ねる。
「いや、もうそれは断ったんだけど」
「え、断ったんだ。ケイゴととまり仲良いしお似合いだと思ってたんだけど。もしかして他に好きな人でもいるの?」
ほのかちゃんは私の言葉を遮って食い気味にそう尋ねる。私は思ったよりも速い展開にどうしようかと悩む。かんざしのことを言ってしまうかどうか。
正直ほのかちゃんは良い人だしそういった偏見も無さそうだし言ってしまってもいい。言ってしまっても私とほのかちゃんの仲が変わるということは無いと思う。言ってしまえばその分楽になるとも思う。ただ、私の中のかんざしという領域にほのかちゃんが少しでも含まれることに違和感があった。その違和感は私がケイゴの気持ちを拒む原因になった違和感と同じ性質を纏っていた。それは理屈じゃなくて感覚に根ざした違和感だった。ケイゴとほのかちゃん、狩谷さんや倉野さん。そういった人たちとかんざしは私の中で隔たった場所にいた。
だから結局私はほのかちゃんにかんざしについての悩みを打ち明けることはできなかった。それなら他に何か。ほのかちゃんに打ち明けることのできる悩み。他人を介することでしか知ることのできないものが。逡巡する素振りを見せながら私が頭を捻っているとふと、先ほどの思考が頭に流れ込んできた。
そもそも好きというのは何だろう。
「ほのかちゃんは好きな人いる?」
「自分の好きな人は黙秘なのね」
私の唐突な問いかけにほのかちゃんはそう言って笑う。それから私と同じように答えるかどうか逡巡する素振りを見せる。私がさっき悩んだのと同じくらいの時間が流れる。それで私はほのかちゃんにも好きな人がいるのだと察した。
少ししてほのかちゃんは悩んでいたのが嘘のように軽々と口を開く。
「悩めるとまりの為ならしょうがないなー」
いつもの明るい口調でほのかちゃんはそう前置きする。
「いるよ。好きな人。誰かは私も言えないけどね」
さっきまでの明るい口調とは打って変わって真剣な口調でほのかちゃんは告げる。口調とは対照的に顔には穏やかな微笑が浮かんでいてその表情がほのかちゃんのその人への気持ちを物語っていた。
「それはどんな人?どこが好きなの?何で好きなの?」
私は思わず必死になって尋ねる。ほのかちゃんは私よりも好きという感情に慣れていると思ったから。
「質問が多いなー。そうだね。どんなって言うと難しいけれど、どれだけ走っても追いつけない子かな。その子は近くにいるようで私のずっと先を走ってて、私はその子に追いつきたくて、だから好きなんだと思う。どこがとか何でとかは分からないけれど」
彼女はそこで言葉を区切って息継ぎをする。それから再び口を開く。
「多分、好きって理屈じゃないんだよ。気がついたら目で追いかけてる。隣にいたいと思ってる」
「うん」
私は思わず大きく頷いた。好きは理屈じゃない。その言葉はストンと胸に落ちた。その言葉に、少しの疑問も違和感も湧かなかった。その言葉は私の気持ちを肯定してくれるように感じた。
好きが何か分からないまま、ケイゴの熱情を拒んだこと。そしてかんざしへ抱いた熱情を好きという言葉に乗せて伝えようとしていること。
その言葉を聞いて、感情に根ざしたそれらの選択が決して間違っていないと、そう思えた。
「って頷くだけじゃなくて何か言ってよ。なんか私めっちゃ恥ずかしいこと言った気がするんだけど」
「ごめんごめん。それと、ありがとう。ほのかちゃんのおかげでだいぶ楽になった」
「まあそれなら良いんだけど。私もこの話したのとまりが初めてだったからなんかちょっとスッキリしたよ」
「それは良かった。まあ今思い返せば確かにほのかちゃんちょっと恥ずかしいこと言ってた気もするけど」
「うるさいなー。せっかく恥を忍んで色々と答えてあげたのに」
「うそうそ。本当にほのかちゃんのおかげでめちゃくちゃ楽になったよ。何回も言うけど、ありがとう」
「馬鹿にするか感謝するかどっちかにしてくれないかな。まあいいや。とりあえず、お互い頑張ろうよ。色々と」
そう言ってほのかちゃんは手を差し出してきた。私はその手をぎゅっと握って
「うん!」
と返事を返した。語気が少し強くなった。それを見たほのかちゃんは笑って頷いて
「じゃあ、つばめとしおり、いい加減待ちくたびれてるだろうから」
そう言って手を離してドアの方へと向かっていった。
「遅くまでわざわざありがとう」
「優しいほのかちゃんに感謝してね。てことでバイバイ」
そう言ってほのかちゃんは教室を出ていった。
「バイバイ」
私はその背中に向けて言葉を送った。日誌を書いていた女子が顔を上げてほのかちゃんと私を交互に眺めていた。それからその女子は顔を再びノートに落とした。
私はほのかちゃんの言葉で幾分軽くなった心を携えて教室を出た。廊下に出ると階段の踊り場に向かうほのかちゃんの背中が見えた。私は別れの挨拶を交わした手前、その背中に追いつくのも決まりが悪いような気がして歩調を緩めた。ゆっくりとした歩調の中で私は自分がこれから成すことを整理する。
とりあえず私も靴箱へと向かおう。そして正門でかんざしを待とう。それから当初の予定通り坂道を下りながらかんざしに私の想いの全てを伝えよう。
再び緊張が胸を支配する。いくらほのかちゃんと話して楽になったからといってそれは変わらない。
けれどその緊張の性質は少し違っていた。さっきまで感じていた胸を締め付けられるような痛みはもうなくて、ただいつもより大きくて速い心臓の鼓動があるだけだった。それは指を白線の上に置いてスタートの合図を待つ時の鼓動に似ていた。
私は思わず駆け出しそうになる足を抑えてゆっくりと踊り場から螺旋状の階段を降りる。足音と鼓動が混ざり合って私の鼓膜を揺らす。それから階段を降り切って靴箱の置かれた玄関へと続く廊下を歩く。
吹きさらしの靴箱は外靴が入れられているかどうかで一目でどの生徒が学校に残っているのかを確認できる。靴箱にたどり着いた私は無意識にかんざしの靴が残っているかを確認する。周りに上履きが並ぶ中でかんざしの場所にはしっかり外靴が残されていた。それを確認して私がほっと息を吐くと
「とまりちゃん」
そう呟く声がして私の頭は真っ白になった。その声で無条件に心臓が甘い悲鳴を上げた。声の方を向くとそこにはかんざしが立っていた。
「かんざし」
私は思わず呟いた。
時間が静止する。私もかんざしもお互いにその場で立ち尽くしていた。頭はまだ真っ白なままだった。心がかんざしと相対して話しているという現実を上手く消化できていないみたいだった。喉が塞がれてしまったかのように上手く声を出すことができなかった。いざその時が来たらシミュレーションなんて少しも役に立たなかった。
そもそも私は、かんざしと会ったらまず何を言おうと思っていたんだっけ。混乱した頭で必死に考えていると
「その、とまりちゃん。一緒に帰らない?」
その答えをかんざしがくれた。かんざしはそう言って私の方へと近づいてくる。私はかんざしの靴の前に立っていたことを思い出して慌てて横に移動して自分の靴を取り出し履き替える。しゃがんで履き古した運動靴の踵に指を差し込みながら私は先ほどのかんざしの言葉を思い返す。
正直、私はかなり驚いていた。だってかんざしが自分から私に何かをしようと誘いかけてくるのは相当に珍しいことだから。大抵何かをしようと誘うのは私の方で、だから今回も私が声をかけなければと思っていたんだけれど。靴を履き終えた私はかんざしの方を見る。
かんざしは先ほどの私と同じようにしゃがんで靴紐を結んでいた。制服のスカートから覗く足は真っ白だった。昔と変わらない華奢な身体は気付かないうちに随分制服と調和していた。
「お待たせ。じゃあ行こうか」
靴紐を結び終えたかんざしはそう言って正門の方へと歩き始める。私はその背中を追いかける。やっぱり今日のかんざしは何かが違う。私はいつもと違うかんざしの雰囲気に完全に呑まれていた。
こんなんじゃいけない。だって私は今日、これからかんざしに想いを伝えるんだから。
私は心の中でそう唱える。自分がこれからすることをもう一度確認する。それからいつもより歩調の早いかんざしに追いついて隣を歩き始める。
部活が無い日なこともあって正門の周りには誰もいなかった。人が居なくても玄関と正門の間のスペースはかなり狭くて入学式の日は良くあれだけの人が移動できていたものだと思った。
そんな正門を抜けて私たちはいつもの坂道を下る。二人で坂道を下るのは随分と久しぶりだ。一番新しい記憶でもまだその時は桜の花びらがピンクを纏って舞い散っていた。今はもうピンク色の面影は少しもない
「なんか久しぶりだね。一緒に帰るの」
私はそう言った。
「うん。本当に久しぶり」
かんざしもそう言って頷く。以前と比べてかんざしの顔の位置が私に近づいている気がした。
「てかさ、かんざし背伸びたよね、多分」
「うん。この前の診断で小六の時より五センチ伸びてた」
「すご、めちゃくちゃ伸びてるじゃん。私も一応二センチは伸びたんだけどなー」
私は不安を紛らわすためにそんなたわいもない話を続ける。そうしながらどこかで話を切り出すタイミングを伺っていた。
いまこの瞬間、心を言葉にするだけで私の想いは全てかんざしに伝わってしまうんだ。心臓がドクドクと脈を打つ。何か別のことを口にして気を紛らわさないと息が詰まりそうだった。
「ていうか今日先生に呼び出されてたよね?何かあったの?」
「何かってほどじゃないんだけど。生物係の仕事で観察日記つけてた幼虫が死んじゃって。それで先生に謝られてた」
「ああ、そういうことだったんだ。私てっきりかんざしが先生に呼び出されて怒られるくらいの不良になったのかと思ったよ」
そう言って私は大袈裟に昔の調子を取り戻すように笑う。しかしかんざしは昔のように花が咲くように笑ってはくれなかった。かんざしは思い詰めたような表情を浮かべてそれから逡巡を振り解くように口火を切った。
「ねえ、とまりちゃん。もう一回、私と友達になってくれないかな。昔みたいに私とだけ一緒にいなくてもいいから。特別じゃなくてただのその他大勢のうちの一人でいいから。だから私ともう一度友達になってくれないかな?」
ああ、かんざしもこんな想いを抱えていて、だからいつもと雰囲気が違ったんだ。私と同じように想いを伝えようと決心していたから。真剣な表情で想いを打ち明けるかんざしを見ながら私はそんなことを思った。
隣を歩くかんざしは顔をこちらに向けて不安に揺らめく瞳で私をじっと見つめていた。その瞳は答えを欲していた。その瞳に吸い込まれるように私の口は一人でに動いた。
「いやだ」
そんな言葉がするりと喉から零れ落ちた。それから、それに呼応するように喉にぎゅうぎゅう詰めになっていた言葉が、押入れの扉が開かれたようにかんざしの方へと雪崩れ落ちていった。
桜公園の横をちょうど通り過ぎた時だった。
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