アリとキリギリスの背比べ

貧乏神の右手

将来の夢

 自信を持って何かをできる人を、羨ましく思うときがある。


 失敗は怖くないのだろうか。成功を確信しているのだろうか。別にどちらでもいいけれど、その気持ちは俺にはよくわからない。


 確かに、自分のことを「才能人」なんて純粋な心で思っていたこともあったけれど、そんなものは過去の話。例え学校一の事を成し遂げても、世界を広く見てみればそれを当たり前のように出来る人は沢山いる。


 高校生にもなれば、自分が持っていない側の人間だという自覚が芽生える機会はあって、他人を羨むことさえあった。


 小さな成功なんて努力の過程でしかなく、夢を達成出来なければ積み重ねてきた小さな成功も失敗となんら変わらない。


 それはまるでドミノ崩しのようで、倒してしまい、完成を諦めたくなる気持ちとよく似ている。きっとここで奮起し立ち上がる人こそが成功者なのだろう。才能というのは、ドミノを崩してしまう回数が少なかったり、常人には考え付かない並べ方をする人のことを呼ぶのだと俺は思う。


 冬は過ぎ去り、4月ともなれば草木の芽吹きを感じさせながら街はすっかり春めいていた。桜にはやや早いこの時期に、そんな夢のないことを考えながら、俺はもう雪のない道に自転車を走らせた。


 春休みを終えて、人によっては待望の始業式だろうか。乱れた生活習慣を治すには至らず、俺は憂鬱に自転車のハンドルを握りしめていたが、憂いているのは今日の始業式が理由ではなかった。


「それで、始業日から遅刻とはどういうことかな。もう君たち、3年生でしょう」


 遅刻した。


 しかも、よりによって学年主任に捕まった。生活指導でよく生徒を叱っている、歳だけ食ったような男教師だ。小太りでいつも偉そうに生徒を叱っている。


「それに、君に関しては文芸部の部長でしょう」


 まあそうですけれども。


「今日の放課後、反省文を書いて提出しなさい。以上、解散」


 教師が立ち去り、教室へと向かう最中ふと隣を見ると、見覚えのない女子生徒が不貞腐れていた。一瞬目が合って、「あ」とだけ彼女は声を漏らして、途端に目の色を変えながら。


「ひょっとして、けーくん?」


 どこか嬉しそうに、名前も知らないこの女子生徒は俺の名前を呼んだ。知り合いは多くないため、新しいクラスでも顔と名前が一致することはそうないと思っていたけれど、意外にも彼女には知られていた。


 誰だろう。


「あたし、立花秋音。これからよろしくね」

「ああ、うん。よろしく」


 見覚えがあるようなないような。

 立花とはクラスが違ったので一緒にはならなかった。

 そっと息を殺して教室に入ったけれど、担任教師は思いのほかユーモアのある人で、遅刻したことを豪快に笑い飛ばしてくれたことがせめてもの救いだったかもしれない。



 ◇



 罰をすっぽかすわけにはいかない。

 俺と立花は学年主任の元へ赴いて、それから原稿用紙を受け取った。


「俺は文芸部室で書こうと思うけど、立花はどうする」

「じゃああたしも部室行っていい?」

「別にいいけど、戸締りはお前に任せることになると思うぞ」

「ん?」


 どうしたって、文章を作ることに慣れている人とそうでない人とでは書き終える時間に差は生まれてしまう。


 本校舎から少し離れた文科系の部室棟。入学者の減少により使われなくなった一般教室が今では部室として使われている。


「本がいっぱいあるね。全部けーくんの?」

「いや、先輩たちが置いていったものもあるよ」


 そうやって受け継がれてきた。

 立花が本棚を見ているところ、俺は筆記用具を取り出し反省文を書き始めていた。


「ねえ、文芸部ってなにするとこ?」


 本棚の物色に飽きたのか、今度は部について訊いてきた。


 書きながら受け答えは難しい。どうせ後で訊かれるのならと思い、俺は一度ペンを置いた。


 文芸部としてやれることは大抵は家でも出来るため、無理をして通う必要はない。実の所、我が文芸部は今年度をもって部員が俺一人となった。今年はまだ無事。けれども、来年までに部員が入らなければ、残念ながら廃部となる。


 先輩はそれで構わない、と何度も釘を刺してきたものだが、部長と銘を打たれてしまった今ではなんとも居た堪れない想いでいっぱいだ。


 活動内容は特に決まったことはない。だが、パソコンを持っていると便利ではある。俺も許可を取って部室に置いてもらった。


 絶対にやらないといけないことは、夏休み前にある文化祭の出し物として文集を出すくらいか。毎年学校誌として販売するため手は抜けないが、そうは言っても下地は整っているためそれほど苦労はない。


「それで、今年はその誌面に何を掲載するの?」

「うーんと、娯楽的な要素が強めで、各クラスにページを作ってもらったり、クイズコーナーや学校にまつわるコラムを調べて書いたり。あとは……」


 俺が言い淀んでいたところ、彼女は自信を押し出すように答えた。


「小説、去年載ってたよね!」

「そんなこともあった気がする」

「気がするんじゃなくて、載ってたの。恥ずかしいからってとぼけないでよ」

「別に。とぼけるつもりはないけど」


 確かに俺は去年、自分の書いた小説を掲載してもらった。けれど、名前は伏せてある。バレてはいないだろう。口振りからして読んだわけでもないだろうし。


「で、立花。そろそろ反省文を書いたらどうだ」

「まだけーくんも終わってないし、問題ないでしょ?」


 見せると、立花は大袈裟なくらい口を開けて唖然としていた。


「書くの早すぎない? さすが文芸部」

「初めてすらいない人に言われてもな」

「これでも一応考えてはいたんだよ。でも、謝るだけで書くことなんかないじゃん」


 そう言うと立花は、俺の用紙を奪って勝手に読み進めた。


「ちょっと、勝手に読むなって」

「ふむふむ……なるほど」


 何かを感じ取ったみたいで、立花はぱっと明るい笑顔をこちらに向けた。表情の移り変わりが激しい人だ。


「やっぱりそうだよね」

「はあ」


 なんのこっちゃさっぱりだが、書くヒントを得られたのならそれはそれで。こっちはもうすでに書き終えていたため提出に行こうとしたが、立花がそれを止めた。


 言い分は、「ここが文芸部室だから」だそうだ。初めこそ鍵の管理を任せて先に帰ろうしたが、あとで失くしただなんだとトラブルになっても面倒か。別室で、とも思ったが断わられることは目に見えている。


「うーん。書けないよ」


 唸るように言って、目を向けてくる。


「けーくんってさ、小説書いたことある?」

「藪から棒になんだ」

「なんとなく。で、ある?」


 ある、とは今は言いたくないな。


「先輩は書いてたよ。来週、文庫化されたものが発売される」

「あ、そうなんだ」

「楽しみでさ」


 俺がそう言うと、立花は幼気な子どもでも見るような目で微笑んだ。


「なにがおかしいんだ」

「笑ってたから。ホントに本が大好きなんだなって」


 無意識だった。けれど、否定はできない。


「早く終わらせてくれよ」


 そう意地悪く言って、ぼうっと窓の外を眺めていた。


「はーい」


 気だるげな返事が、ぼんやりと耳に馴染んだ。

 

 

 ◇

 

 

 新学期が始まること数週間。


 新入部員がいるよ、と顧問に伝えられた俺は、放課後になると足早に部室へと向かった。毎年、新しく入ってくる部員のほとんどは学校詩を読んで憧れた人が多数だから、もしやと浮かれていたのかもしれない。


 ところが、待っていたのは例の女子生徒だった。なにやらこの教室の立地に特別感を見出しているらしい。まあ確かに、元物書きとしては共感できなくもない。


「冴えない男子と少女が恋愛するにはもってこいだもんね」

「自信家だな」

「創作って理想を押し付けるもんでしょ」


 人を小馬鹿にするように、立花はにやついた。


「ただの文芸部員だからな。俺は書いたことないからわからん」


 やや思うところがあったが、それだけ言って誤魔化すように話題を変えた。


「えらく早かったな。先に鍵を借りられてるとは思わなかった」

「さっき移動教室でさ。言ったら貸してくれた」


 ふうん、と相槌を打つ。さして興味はないし、立花もそれ以上は何も無い様子だった。


 それに、こいつに構っている暇もない。


「これから新入部員を迎えるんだ。部員でもないお前は出ていってくれ」


 そう告げて、まっすぐに教室の扉を指差した。 ところが、それには驚いた様子。

 それを見て嫌な連想に至った。


「ねえ、けーくん」

「なんだ」

「あたし以外にも新入部員がいるの?」


 案の定、立花は鞄から一枚の紙を取り出して、こちらにそれを差し出してきた。『文芸部希望』と、尖って繊細な字で書かれている。入部届だ。


「いや、顧問は1人だけと言っていた」


 考えたくはないけれども。

 数日前も文芸部について尋ねてきたため、もしやとは思っていたがまさか。


「入部したところでメリットはないぞ」

「学校誌を書けるって十分なメリットだよ。それに、あたし小説も書いてみたいし」


 少し意外だった。こんな陽気な人でも書くことに興味を持つんだと。普通、創作物はドラマや映画を観るだけで留まるもので、作る側の人間は決して多いとは言えない。


 複雑だった。


「人目に触れれば酷評を浴びることになるかもしれないぞ」

「うーん、別に。特に気にしないよ」


 健気で向上心が高いのは立派なことだが、ダメ出しですらない粗悪な感想を気にせずにはいられないことをこいつは知らないのだろう。


「入部は認める。ただ、小説を書いて誌面に載せてもらうことはしない。そのことは念頭に置いておいてくれ」

「えー。今年は書かないの。けーくんは書かなくてもあたしは書きたいよ」

「勝手に書けばいい。趣味の範疇なら誰も文句は言わない」


 仲間内でだけ楽しめばいい。プロを目指しているわけではないんだ。苦しむ必要はないだろう。


 そこまで言うと、立花はようやく口を噤んで黙り込んだ。どうやら、諦めて読書を始めたらしい。鞄から出した文庫本を開いて中の栞を抜き取ると、本の世界に吸い込まれるように集中していた。

 

 換気も兼ねて開けておいた窓から、花弁を連れ立った涼しげな風が入り込む。今日は特に活動はないため、俺も同じように鞄から文庫本を抜き取り、買ってきた本を読み進めることにした。


 立花と買ったものは同じだった。


 気になりはするが、訊くにも先ほどまでの態度が悪い自覚はあるため、言い出しづらい。それに、本をめくる手を止められて良い思いをする人はいないのは、自分がよくわかっている。


 おとなしく待つことにした。


 陽を塞ぐカーテンが揺らめいている。夕暮れ時、すっかり風も冷え込んできた。夏にはまだ早すぎる肌寒さだ。


 どれだけの時間が経っただろうか。時計の針は気づけば18時を回っていた。あと30分もすれば下校時刻となる。


 ふと立花を見れば全て読み終えた様で、どこか満足そうに唸っていた。


「いいね、これ。すごくいい」


 本の表紙を見せながら、ぽつりと呟いた。


 そうして悔しそうに。その表情は夕陽に溶けて影が出来るほどの暗さを見せた。


「あたしも書いて応募しようとしたの。でも自信が持てなくて、結局出すのはやめた。ていうか、完成すらしてないんだけどね」

「文芸部に入ればよかっただろ。去年までなら部員もいたし」

「え、あー。そっか」


 なにが。そう言う前に、先程までとは打って変わって至って表情は真面目だった。


「あたし、こう見えて知り合い多いんだ」

「へえ」

「明るいグループの付き合い。あとはなんとなく、想像つかない?」


 確かに、と納得。

 周りに小説、それも書く側の趣味があるとは言えなかったのだろう。趣味なんてなんでもいいとは思うけれど、中には読書をする人は物静かで好きじゃない、と嫌う人もいる。学校で目立つ明るいグループと関わりがあれば尚更かもしれない。 SNSにもそういう人はよく見かける。


 影でこそこそやるにしたって、一人では勇気が出せない人もいる。気持ちはよくわかる。


 作品を多くの人に読んでもらいたい。叶うなら、感想が欲しい。立花はただ書くことに興味を持って、でもその一歩が踏み出せない。


「それでね、この本を買ったのは基準を知りたかったからなんだ」

「基準?」

「うん。書籍化されるほどの作品ってどれくらい面白いのかなって」

「ああ、なんとなく気持ちはわかるよ」


 まるで昔の自分を、文芸部に入る前の自分を見ているような気がした。

 だから、というわけではないが。


「書いたやつ、見せてよ」

「え?」

「だから明日、部室に持ってきて」

 

 それだけ告げて、戸締りをしたいからと是非を言わせることなく急かした。


 俺も似たようなことを考えてこの本を買った。

 俺の作品よりつまらないものが入賞してたら、と思った。自分でもよくわからないプライドだと思う。もちろん先輩とのこともあるけれども。


 で、今日読んだ。


 俺も思ってしまったんだ。

 悔しいくらいに、これ、すごく良い。って。

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