雨中の辞令【先生のアノニマ 2(上)〜プロローグ】

 六月中旬。日本時間正午前。東京上空。

 俺の目の前は真っ白闇だった。

 座位の足元周辺には、デジタル化された計器類がすっきりと居並び、身体の左右には整然と並ぶスイッチや操縦桿、レバーなどがあるが、旧型機と比べると圧迫感は少ない。

 キャノピーに投影されている蛍光グリーンの各種飛行データや、その下にあるディスプレイは全てデジタルだ。刻々と変わる計測結果を元に演算処理されたものが律儀に数値化されては、そのデータが投影されたもので、その変化の細かさや精密さについ感心し、呆けてしまう。

 そのハイテク機器の向こう側に展開する白い闇は、前はおろか横も後ろも、何処もかしこも白かった。まるで如何にも、空が天国の在処をアピールしているかのような。それは危うい思考である事は理解しているが、ついぼんやりする程に、この機体は殆ど何もする事がなかった。それでも一応、刻々と変化するキャノピー越しの状況を、データ毎捉えて離さないようにはしている。最後に頼りになるのはやはり自分の目である事を、一応それなりに経験してきた身だ。一般的な飛行機乗りなら普通それは逆で、最後は計器を頼るのだが。俺が乗る機体は、大抵そんな出来た連中ではなかった。が、今乗っているのは、まるで優等生だ。

 機体は既に、米空軍横田基地の管制下【横田進入管制区】に入っていた。ぼんやりしながらも耳はその管制官の声を聞き取っており、口はそれに応答している。周辺はひどい風雨らしい。

 ——と、言われても。

 相変わらずの白闇だ。確かに只ならぬ湿気を感じはしている。が、雨はきそうでこない。高度はちょうど一万フィートを切ったところだ。後一〇分もあれば着く、

 ——か。

 と思っていると、キャノピーにうずら卵大の雨粒が一滴、破裂せんばかりの勢いでぶち当たった。

「な——!?」

 一つ瞬きするとそれが一気に十数に増え、驚きついでにもう一つ瞬くとキャノピー全体が水膜に覆われてしまっている。着陸間際でいくら速度を落としているとはいえ、あっという間に水が纏わりついて離れなくなった。しかもその一滴一滴が割れんばかりの勢いで、これが雹なら本当にキャノピーが破られるのではないか。加えて正面からの突風がまた凄い。

「おいおい」

 自慢のステルスコーティングは雨や傷の手入れを怠ると、その性能を著しく落とす。只でさえ整備に時と金と手間を要する機体だ。そう思うと、整備に携わる人間に対して罪悪感しかなかった。久し振りの日本だと

 ——いうのになぁ。

 何やら風雲急を告げる展開だ。

 それでも、デジタルFBW(フライ・バイ・ワイヤ)システムが当たり前の最新鋭機の事ならば、殆ど勝手に機体を制御してくれる。そもそもが、それに頼る必要がない程の自律安定性をもっている機体だ。人間が座って操縦する事の意義を失っている、と言わんばかりのそれは、

「こりゃ客車だな」

 その暴言を独り言ちるには十分な性能を、まざまざと俺に見せつけてくれたものだった。これまで自分が乗ってきた物と比べると、まるで暴れ馬と乳母車程の違いがある。

 その嵐の中を悠然と揺蕩う世界最強の猛禽F-22 Raptorラプター。その単機を襲う滝のような雨は、これから俺に課せられる数奇な任務の序章に過ぎなかった。


 約一〇分後。

 予定通り着陸後、機体をハンガーまで移動させると、早速整備士達がずぶ濡れになったそれに取りついて来た。こうも濡らしてしまってはステルスもクソもあったものではなく、手入れも大変だろう。これでも一応、雨雲を回避しながら降りて来たのだが。レーダーを掻い潜るのは得意な機体でも、自然には敵わない。それにしても日本は、一昔前の梅雨時より雨の降り方がひどくなっているような気がするのは気のせいなのか。

 何にしても、せめて整備の邪魔をしないようそそくさと降機していると、駆け寄って来る若い男の姿があった。その男が、

「お待ちしておりました! Ysイース少佐!」

 と、俺の通称に階級をつけて、当てつけがましく絶叫する。普通、階級をつけて相手を呼ぶのなら、本名で呼ぶものだ。上官が下官を呼ぶのならまだ分かるが、直接的な上下関係もなければ親しい間柄でもない。これまで見覚えもないヤツの事ならば、つまりは嫌味だ。何処へ行ってもいつもの事で、すっかり慣れてはいる。一応パイロット業務用の【コールサイン】も持ってはいるが、それを知る者は軍内に数える程しかいないし、それを認識してもらえる立場ではない事も理解してはいる。のだが、

「人違いでは?」

 階級を下に間違われる事はあっても、上は初めてだった。大袈裟に大将だの元帥だのと笑い飛ばされるのは別にして、あえて間違いを言い放ったその男が着ている緑色の繋ぎの飛行服の肩には、ローマ数字の二に似たような飾りがついている。大尉の階級章だ。一見して俺よりも若そうなその男の暑苦しい勢いに、思わず仰け反る俺の肩にも同じ物がついているのだが。階級が分からない軍人などいる筈もなければ、随分と明け透けな嫌味をかましてくれるものだ。

 が、男は思いがけない事をつけ加えてくれた。

「本日付けで少佐に昇進されました」

 辞令が出ている、らしい。

 ——何だそりゃ?

 聞き返そうとしたが「知らないのか」と言わんばかりの男の顔を見てしまうと、その気も萎えた。

「はぁ、そうですか」

 代わりに冴えない返事をしてやると、一瞬だけあからさまな呆れ顔を見せてくれたが、一応そこは上下関係に厳しい軍の事だ。すぐ様姿勢を正した男が慇懃な敬礼をすると、

「長旅のお疲れのところ申し訳ございませんが、司令官がお待ちです」

 ご案内を仰せつかっている、とのフレーズとはチグハグな強引さで、バタバタと何処かへ連行され始めた。

 その道中、辛うじて耐Gスーツを脱げたぐらいの慌ただしさで連れ込まれたのは、横田基地所在の米第五空軍司令部だ。

「おー早速すまんな。まあ座ってくれ」

 その一角の大仰な部屋に押し込まれると、待っていたのは青色の制服の肩に星を三つつけた、それなりの風格を備えた鷹揚な男。

「エドワーズ以来だな」

「はい」

 決して名前で呼ぶ事など敵わぬ雲の上の存在。在日米軍及び第五空軍司令官たる中将だった。

「今日はちょっと忙しくてな。すまんが食いながらだ」

 と、司令官が吐いた尻からランチプレートが二つ運び込まれてくる。ハンバーグステーキセットのようで、メインディッシュのそれが、まだ鉄板皿の上で焼ける音を立てていた。

「アラスカを出たのは何時だった?」

「昨日の午後四時です」

「なら君的には晩飯だな」

 夏時間のアラスカと東京の時差は、一七時間後者が進んでいる。直線距離は精々六〇〇〇km程度だが、途中で日付変更線を跨ぐためだ。それに飛行時間も加えた東京時間の今は、翌日正午過ぎだった。

「エルメンドルフは涼しいだろう?」

「横田は蒸し暑いですね」

 日本の梅雨特有の纏わりつくような湿気に加えて、何でも季節外れの台風が太平洋側を東進しているらしい。その煽りを食らっている日本各地は、生憎の荒れ模様らしかった。

「後で私服に着替えてもらうからな」

 その形じゃあ流石に暑くて敵わんだろう、と言う司令官は、既にハンバーグを半分食らっている。

「もうすぐ在日大使館のモンが来る事になっている」

「大使館? ですか?」

 どうやら忙しい事に託けて、何かの話を歪めようとしているのか。口を開きかけると、

「その調整でバタバタし通しでな」

 司令官室のドアがノックされ、今度は端正なビジネススタイルの男が入室して来た。

「おお、もうそんな時間か!」

「ご案内に上がりました司令官!」

 新たに現れた別の男と共に、何処かで見たような軍のズダ袋が別の者によって放り込まれるように持ち込まれる。先立って送っていた俺の私物の大半だ。着る物メインで大した物は入れていないが、それにしてもあからさまに雑に扱ってくれているように見えるのは、気のせいではないだろう。

「悪いがもう食ってる時間がなくてな」

 とにかく慌ただしい、の一点張りで司令官がプレートを下げようとするので、

「も、勿体ないですよ! 急ぎますから!」

 細やかな抵抗ではないが、俺が突いていたプレートをテーブル上から掻っ攫ってやった。どうせこの分だと、ろくに事情も明かさないまま、いいように使い倒すつもりなのだ。ここで食いそびれると、この後いつ何処で何を食えたものか頗る怪しい。こういう時は、

 食える時食っとけ——

 だ。

 荷物を開けて私服を取り出し着替えながらも、俺はそれを食い切ってみせた。


 更に一〇分後。

 今度は在日米国大使館の車の後席で、大雨が打ちつける車窓を眺めていた。戦闘機でそれを見てから、まだ三〇分程度しか経っていないというのに。何ともせせこましい扱いだ。色々と出鱈目過ぎて、最早呆れる外ない。

「くあぁ——」

 思わず盛大な生欠伸が出たが、それぐらいは許されてもいいだろう。

「申し訳ありません」

 と隣に座る男は、先程司令官室に乱入して来たビジネススタイルの男である。

「一体どうなってるんですかね?」

 今日はあっても明日はない。確かにそんな生活を長年送ってきた。振り回されるのはいつもの事で、諦めてはいたのだったが。

「何か、いつもと違うというか——」

 緊迫感の種類が何処か違う。滝のような車窓に愚痴を吐いていると、

「ラプターはいかがでした?」

 男が話をすり替えた。

「私が知る限り、純アジア圏出身者であの機体を操縦したのは、あなたが初めてです」

 と言う男は、駐在武官付の空軍士官だそうで、

「羨ましい限りですよ」

 元々は、ファイターパイロットを志願していたらしい。

「そう、ですか」

 俺はそれ以上、口を挟めなかった。羨ましがる男に、何を言ったところで慰めになる訳もない。精々嫌味にならないよう、気を配るのみだ。俺は俺でそれなりに苦労してきているのだが、受けるのは僻みややっかみばかり。事実として言える事は、現状は決して自分が望んだものではない、という事だ。気づいたらこんな事になっていた。それだけだ。それを他人が聞けば「運がいい」とか「贅沢だ」とか罵るのだろうが。

 そんな妙な星回りの俺の近々の振り回されっ振りは、たまたま輸送用務でアラスカのエルメンドルフ空軍基地を訪ねたところから始まっていた。

 同基地はF-22数十機を有する米第一〇、一一空軍が居を構える空軍一大拠点の一つだ。そこへ俺が訪ねた折、そのハイテク機の一部が極東情勢牽制のため日本の横田基地に派遣されていた。のだが、その派遣中の何機かに深刻なシステムエラーが発生したとか何とかで、急遽別機体の追加投入が決定する。が、各隊の都合で適当なパイロットが算段出来ない。で、

「ちょっと行って来てくれんか? エドワーズの許可は取りつけている」

「そういう事でしたら」

 一兵卒の俺だ。是非もない。

 お遣い感覚で、俺にその輸送用務の御鉢が回ってきた。それだけの事だったのだ。幸か不幸か、俺はそれを操縦出来た。

 で、横田まで行く事が決まるや否や、

「輸送用務後はエルメンドルフに戻らせて、穴が空いている機体と人員分の運用シフトのいくらかを手伝わせろ」

 とか、

「そのまま横田で、極東支援のシフトを手伝わせろ」

 などと、エルメンドルフを出発する前から人ごとをよい事に運用が揺れに揺れる始末。自分で言うのもなんだが、毎度使い勝手の良い身の上のせいだ。ほんのそこまでのお遣いだった筈が、俄かに風向きが怪しくなり始めると、当の本人が飛んでいる時もその本人を差しおいて勝手に話を膨らませていたのだろう。挙句の果てが、輸送終了直後の昇進辞令、ときたものだ。

 一体全体、何がどう転がればこの短時間でそこまで話が飛躍するのか。この一連の流れをどう捉えれば「羨ましい」という思考が生まれるのか。その上、このドタバタで昇進などと。胡散臭いにも程がある。

 ——で。

 とどのつまりが、

「コードネームは先方に伝えていますので——」

 偽名だ。

「これから先当面は、その名で呼ばせていただきます」

 と言った男は、

「——シーマ少佐」

 とつけ加えた。が、目は合わさず、移動中だというのに膝元のノートパソコンのキーボードを忙しく叩いている。

「ステータスも、今送信しました」

 と、いう事らしい。

 今度は——

 どんな役回りなのやら。

 司令官室で【Reyレイ C'maシーマ】に改名させられた俺に与えられた裁量は、次の任務におけるその【コードネーム】を決める事だけだった。それも着替えながら、飯を食らいながら、という無茶振りだ。何がそれ程の無茶を押し通すのか。そもそもが、何の任務を負わされるのか。それすら開示されない。

 が、あえて俺は聞かなかった。このタイミングで昇進した、という事は、少なくとも今のところは、何かと都合の良いこの身の上を、国や軍が「まだ使える」と考えているのだろう。昇進の理由が、今までに対する慰労なのか、先に対する激励なのか。それは分からない。あるいは、

 散り際の名誉でも——

 与えてくれたものか。

 それにしても、ひどい雨だ。車窓に打ちつける雨の量は只事ではなく、天井からバケツの水をずっとひっくり返している、そんな具合だ。その水膜のせいで久々の日本だと

 ——いうのになぁ。

 景色など見えたものではない。

 今度は何をやらされたものか。

「くあぁ——」

 生欠伸が止まらない。

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