パパ
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歳三は欠片も全く全然何一つこれっぽっちも感じなかったが、蒼島はまるでこの場の空気が俄かに質量を持ち始め、自身を押しつぶそうと膨れ上がっているような錯覚を覚えた。
──な、何が起きている!?
マリの仕業かと思ったが、当のまりも今起きているこの"なにか"に驚愕しているようだった。
──佐古さんが何かしているのか?
そう考えては見たものの「どうしたんですかい? 早く行きましょうや」と自覚がないように見える。
だが蒼島が知覚できたのもそこまでだった。意思までもは感じ取ることができない。
それを感じることができるのは、この場ではマリだけだった。
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"それ"は強い不快感を示している。
"ソレ"は無理もないことだと思った。
なぜならばある"意思"にとって他の"意思"の領域内というのは、これは人間で例えて言うならばその血肉に浸かっているようなものだからだ。
親兄弟といえども、その臓物に触れてみたり、血肉に浸かったりしてみたいと思うものがいるだろうか。
加えて、"それ"はどういうわけかただ一つの個体に執着している。
ちなみにマリとはこの巣鴨プリズンダンジョンの"意思"の端末の一つだ。
こういった端末はダンジョンの各所に散らばっており監獄エリアの看守もまた端末の一つである。
端末はモンスターとはまた違った存在だ。
基本的にモンスターという存在はダンジョン化現象に伴って、外の世界の生物や物質が変容したものを指すが、端末は"意思"そのものから分かたれており、言ってみれば仏教用語で言う化身のような存在である。
そう、だから"同種"だとはいえ格差はあるのだ。
◆
"それ"の敵意が形を帯びた。
つまりこの敵意の向け先を害してやろうという害意へと変化した。
その瞬間、蒼島は極めて強大なPSI能力の発現を察知する。
あっ、と声があがる──……マリの声だった。
ごくりと蒼島が息をのむ。
蒼島の目はマリにたかる黒い何かがうすぼんやりとだが見えていたのだ。
気が狂いそうになるほどの虫の羽音が、蒼島の耳朶を打つ。
──あ、頭が割れそうだッ……! これは聴いているだけでぼ、ぼ、僕らを
意識が遠くなるが、もしここでこの精神波に屈して意識を手放してしまえば、次目覚めた時には今の自分でいられなくなるだろうという確信があった。
もはやまりのことも歳三のことも気にしている余裕はない。
蒼島は必死で心を閉ざそうとするが、心の隔壁の隙間から黒い何かが滲み込んでくる。
もうだめだと思ったその瞬間、背に分厚く暖かい何かが当てられたのを感じた。
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「おいおい、大丈夫ですかい? 閉所恐怖症ってヤツかな。ほら、大丈夫だ。ここはちぃと狭いですがね、押しつぶされたりはしないですぜ。なんたってコンクリートだからな。鉄筋も入ってるのかな、俺にはわからんですがね」
暖かいと感じたそれは歳三のぼってりとした手のひらであった。
指の第一関節、第二関節、まんべんなく指毛がもじゃ散らしている不細工な手であった。
◆
蒼島の意識が不意に明瞭になった。
心を満たすのは快楽すら伴う安心感である。
蒼島の脳裏に幼き日の記憶、今は亡き父の姿が蘇った。
何かにつけ要領が悪かった父親、そんな父親をこの人を優しい人だからと言って愛した母。
一軒家を買うどころかファミリーマンションは賃貸する余裕もない貧しい家庭。
狭いアパートで家族3人で暮らしていたあの時。
幼少時から蒼島翼という少女は天才肌で鳴らしていた。
彼女はある意味で非常に貪欲で、次から次へと新しい知識を、進んだ知識を吸収しようとした。
それは学校の勉強という狭い世界に留まらず、あらゆるジャンルの様々な知識を求めたがった。
そして可愛い1人娘のお願いを聞いてあげたくなるのか親心というやつで、蒼島の両親は貧しいながらも金を工面して、彼女の教育費を賄った。
しかし小学校、中学校、高校。進学するにつれ、蒼島の欲求は高まり、とどまるところを知らない。
そしてそんな彼女の"お願い"をかなえてあげられなくなる時がやってきた。
留学をしたいという蒼島の望みが金銭的な理由からかなわないものとなったのだ。
蒼島も当然アルバイトなどをして金策をしたが、彼女が希望する国、そして大学の費用はアルバイトの給料程度では焼け石に水だった。
蒼島も理屈では理解してはいる。
理解はしているが、自分の願いを叶えてきてくれた両親に内心では大きな期待を寄せていたのか、蒼島は父親をひどい言葉に投げかけてしまった。
それは父親としての存在意義を問われるようなそんな言葉だった。
だがそんな蒼島の父親は何を思ったか、中年と呼ばれる年をだいぶ過ぎているという探索者として稼ごうとし、そして。
結果は未帰還。
蒼島の母は嘆き悲しみ、彼を責め、今では親子関係は完全に崩壊している。
成長するにつれ蒼島は理解していった。
つまり"足りないから"いけなかったのだと。
色々なものが足りなかった、と蒼島は思う。
金も能力も何もかもだ。
金があればこんなことではならなかったし、自分に能力があれば金がなくともそれをまかなうだけの何かができただろう。
金もなく能力もなかったとしても、せめて人並みの察しの良さみたいなものがあれば父親の、そして母親の気持ちを察することができ、自分が無理を言っていると、両親はすぐに十分頑張ってくれていると理解できただろう。
そうなれば家庭も壊れなかったに違いない。
何もかも全ては"足りない"せいなのだ──……そう蒼島は考えた。
だから彼女はかなりヤケクソめいた勢いに押されたのもあったが、探索者となったのである。
探索者は一般人とは違う。探索者として励めば励むほど、自分の理想に近づいていく。
完璧な存在に、足りないものがない存在になれる。
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不器用だが気遣わしげに蒼島の背を撫でる歳三に、蒼島は亡父を重ねて、そして──……
「パパ……」
と思わず言ってしまった。
それを聞いた歳三は「錯乱してやがる。マリさんもさっきから叫んでいるし、みんな少し休んだほうがいいかもな」と言って蒼島の頸動脈当たりにぐりっと拳をねじ込んだ。
次瞬、蒼島は意識を失って崩れ落ちた。
これは歳三オリジナルの胡散臭い技ではなく、彼がミューチューブで少林寺拳法の動画を見た際に学んだ借り物の技である。
「あとはマリさんか。あんたにも寝てもらうぜ……って」
うおっ、と歳三は声をあげてしまう。
マリの肌がぼこぼこと泡立っている様に見えたからだ。
マリの皮膚の下で何かが蠢いていた。
そして気泡の様なそれの一つがバリと破れ、中からは黒い甲虫がうじゃり、うじゃりと這い出してきたではないか。
「だ、大丈夫なんですかい……?」
歳三が恐る恐る尋ねる。
当然大丈夫なはずがない。
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