日常29(飯島比呂、城戸我意亞他)

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 ・ダンジョン探索者協会池袋本部。某階、男性トイレ


 城戸我意亞は協会本部の小綺麗な洗面所…つまりはトイレで入念に髪に櫛を入れていた。メカニカルな腕を掲げ、表面の曇りをハンカチで拭う。PURBERRYパーバリーのハンカチである。我意亞が恋人から貰ったものだった。


 頭を軽く振り、赤く染色した髪の毛の美しさに惚れ惚れとする。我意亞は赤色が好きなのだ。情熱の赤、激情の赤、怒りの赤、秋の夕暮れの赤だからだ。


 鏡の前で、にやりとニヒルな笑みを浮かべる。

 輝く真っ白い歯の並びに我意亞は夏を視た。


 軽く顔を背ける。

 涼し気な切れ長の目が際立ち、そこには冬の気配が漂っていた。


 横を向き、鋭いハイキックを宙に放つ。

 トイレの空気が引き裂かれ、攪拌される。

 そよとした風が我意亞の頬を撫でた。


 ──これは春の風だぜ


 びたりと爪先を頂点で止め、余韻を味わう。

 全身に四季を宿す男なんていかにもミスティックで、ストロンゲストではないだろうか?


「俺は野獣、美しき野獣だぜ…8月10日だしな…野獣…つまり、俺の日って事だ」


 そんなアホな事を言っていると、ふと背後に人の気配を感じた。

 我意亞ははっと振り向く。


 そこにはダークブラウンの髪の毛をしたガーリッシュな男、あるいはボーイッシュな女が立っていた。飯島比呂である。綺麗な二重の目が困惑に揺れていた。肌は白く、思わず触れてしまいたくなるほどだ。唇も赤味を帯びて艶めかしい。


 ちなみに比呂と我意亞は初対面である。


 メイクでもしているのかと我意亞は瞬時に視力を拡張させた。この男は腕だけではなく眼も弄っているのだ。


 ──いや、してないな。ナチュラルだ。馬鹿が、この日差しなのに日焼け止めも塗らないとはな。だがノーメイクでこれか。男か、女か。男だな。骨格が男のモノだ。身長は175㎝、体重は60㎏台後半か。いや、70はあるか。腕を見てみろ。筋影に凶相が浮かんでいる。ありゃあ余程鍛えていないとああはならねぇ。脚はどうだ。パンツの下だろうと俺の眼からは逃れられねえぞ。俺の眼は体温の変化を感じ取る。熱量からみて随分鍛えこんでいるな。ここにいるってことは探索者だ。だが丁級以下って事はない。だが乙級でもない。俺はあの佐古のおっさんを知っている。あのレベルじゃあない。つまりこのガキは丙級…この年で丙級という事は噂の三人組か?確か連中は2人が女、1人が男…名前も覚えているぜ、ライバルだからな。なるほど、つまり…。どうだ、俺はなんでも分かるんだぜ。これがガイア・スキャン…


 数秒間の視線の交錯の間に、我意亞は洞察の網を張り巡らせる。馬鹿げた所を見られてしまった羞恥の感情が我意亞の思考を加速させていた。


 我意亞は先日の探索でStermが傷つき、不具合が起きてからでは遅いとおもって修理申請のために協会を訪れていた。そして用件も済んで軽く小便でもぶっぱなそうとトイレに来たところ、鏡にうつった自身のハンサムっぷりに少々見惚れてしまっていただけなのだ。そこへ比呂が来てしまったという仕儀である。


 張り詰めた沈黙が二人の間にきりきりと満ちる。

 トイレでハイキックの型のまま停止している赤髪の男、これをどう判断するか…不審者以外の答えは無いだろう。


「そこで何を…しているんですか?」


 恐る恐る、といった様子で比呂が尋ねる。我意亞は "もっともな質問だ" と頷いて答えた。


「…技の型の確認をしていただけだ。俺の心はいつでも戦闘モードなもんでな。飯を食っていようと便所でクソをしていようと、次の瞬間そこがダンジョン化しても俺はうろたえないだろう。お前はどうだろうな、飯島比呂」


 それだけ言って、我意亞はトイレを出て行った。

 比呂は我意亞の背を見送り、目を細めた。


 ──凄い蹴りだった。まるで稲妻の様な。あんな人もいるのか。佐古さん程じゃないと思うけど、あの人も強者だ。俺の事も知っていた。情報収集も怠っていないらしい…


 だが、と比呂は首をかしげる。

 なぜトイレで技の型の確認をする必要があったのだろうか?と。


 ■


 比呂はトイレを出て、オープンスペースへと向かった。

 オープンスペースとは買い取りセンターの隣にあるマーケットのイートインにも似たスペースの事だ。探索者はそこで自由に飲食したり、休憩したり、あるいは臨時の仲間を募る事も出来る。ゲーム風に言えば冒険者の酒場といった所だろうか。とはいえアルコールは禁止されているが。


 オープンスペースには何台かのドリンクバーが設置されており、成分が市販の数倍濃厚なエナドリやら2000キロカロリーを誇る栄養ゼリーやらが500円程で販売されている。

 金や時間がないものが取り合えず1日生きていく為に必要な栄養を摂取出来るので、貧乏人にとっては生命線になったりする。特に探索者になりたての低級探索者にとっては。


 ただし味は酷い。

 栄養ゼリーなどは生魚と牛乳をミキサーにかけたような味がするし、エナドリはセロリだとかパクチーだかの絞り汁に炭酸を加えた様な味がする。


 というのも、協会が故意に不味く作っているからだ。何故かと言えばこんなものを美味しくつくってしまえば、オープンスペースに常駐して三食を栄養ゼリーだのですませてしまおうと考える者が出てくるからである。とっとと稼げるようになってマシな飯を食えという協会の親心の発露、それがクソまずドリンクなのであった。


 ちなみに協会所属の探索者は副業が出来る。扱いとしては非常勤職員であるからだ。公務員の兼業は「内閣総理大臣及びその職員の所轄庁の長の許可を要する」と制限されているが、非常勤職員は「職員の兼業の許可に関する政令」の第3条で、その条文の適用が除外されている。


 では他団体はどうかといえば、これは当然非常勤職員扱いではない。それどころか公的には無職ですらある。国はダンジョン探索者協会所属の探索者以外を "有職者" と見做していないのだ。ここで困るのは例えばローンを組んだり、部屋を借りたりする時である。その辺は所属団体がどうにかフォローしてやるしかないというのが現状であった。


 しかし大手を振ってアルバイトができるといっても、多くの協会探索者はそれをしようとしない。なぜならば金に困らず、ハングリー精神に欠ける探索者というのは全く伸びない事が周知されているからだ。


 良い暮らしがしたいから、逞しくなりたいから、美しくなりたいから、男になりたいから、女になりたいから、強くなりたいから、とにかく何でも良いが渇望…つまるところハングリーなマインドが無ければ探索者は伸びない。


 逆に渇望さえあるならいつか願いが叶う可能性がある。


『我々探索者の間にはダンジョン探索という言葉がある。ではダンジョンで何を探索するのか?それは高額な素材かもしれないし、未知の生物、未知の現象かもしれない。だが私は敢えてそれらの全てに否を突きつける。我々がダンジョンで探し求めるのは自身の願望の欠片だ。人外跋扈する異界で願望の欠片を拾い集め、それを修繕する事。それをダンジョン探索という。人の夢は儚いと書く。であるならば我々は人を超越すれば宜しい。超人となるのだ。凡人には夢で終わる事でも、超人ならば手の届く目標となるだろう。探索者諸君、奮起し、探索せよ』


 これは協会所属のとある甲級探索者の演説内容である。


 この翌年、極めて強力な氷結系PSI能力者である彼女は、同級の風流系PSI能力者の男性と共に、日本に接近しつつあった超巨大台風を人工的に消滅させた事がある。


 日本列島に直撃すればかつての伊勢湾台風の日ではない膨大な被害が発生すると試算されていた所の偉業だ。


 もっとも当の2名は力を使い果たし、偉業後まもなく衰弱死してしまったが。


 ともあれ、そういう事情もあって貧乏探索者はしんどい状況も成長のチャンスと思い、苦しみながらも希望に満ちているというようなちょっとラリラリな精神状態で探索を重ねていたりするのだ。


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 比呂がオープンスペースに入ると、そこは探索者たちで溢れていた。彼らは思い思いに雑談をしている。ここはダンジョン、探索者界隈の生の情報が聴ける。当然取捨選択は必要だが、それでも情報一つが生死を分ける事もあるのだ。


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 ──北口GEOダンジョン、この前協会に潰されたみたいだね。一回潰してまたGEOを建てるらしいよ。普通のGEOがたてられたらまたパパ活の待ち合わせ場所になるのかな


 ──如月工業の武器って使った事ある?なんで変なものばっかり作るんだろう。自走式芋虫爆弾ってなんだ?


 ──来週アニメイトに行くんだ。誰か一緒に行かないか?…え?ダンジョンが出来たのかって?いや、ダンジョンじゃないよ。普通のアニメイトさ


 ──桜花征機がカッターブレイドっていうのを開発したみたいだよ。折れやすいのを逆手にとって、カッターみたいにポキポキ折りながら使うんだって


 ──馬鹿じゃないの?


 ──なあきいてくれよ、荷物持ちで雇われたんだけど、昨日急に追放されたんだけどさ。やっぱり目の前でモンスターに襲われてる仲間を眺めてたのが不味かった?でも俺、荷物持ちしかやらなくていいって言われたんだぜ


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 比呂は少し首を傾げた。耳にはいってくる情報が探索者として役に立つ情報かどうか疑問を覚えたからだ。


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