永遠の命
森本 晃次
第1話 不老不死
この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
人類の永遠のテーマとして、何を思い浮かべるであろうか?
世界平和? それとも、タイムマシンのような過去と未来を行き来できたり、ロボット開発のような科学? どれにしても、いずれは達成できるようなものであるように思えるが、
――まず無理だろう――
と思っている人は少なくない。
そして、もっと単純に考えるとすると、「不老不死」という考え方に集約されてもいいのではないだろうか。
世界平和になって、戦争がなくなると、人が無慈悲に殺されることもないだろう。タイムマシンにしても、開発されれば、未来に行って、現在不治の病として医者がさじを投げるような病気も、不治の病ではなくなっているかも知れない。その時代から薬を持ってくれば、あるいは、開発研究の資料を持ってくればすむことである。
ロボット開発にしても、人間がやっていた危険なことはロボットにやらせればいいだけで、不老不死の研究に没頭できるというものだ。
しかし、そうはうまくは行かない。
世界平和と一口に言うが、そもそも、「平和」というのは何を持って平和というのであろうか?
戦争がないこと?
確かに、戦争がなくなれば平和になり、人がむやみに死ぬことはないだろうが、それは国家間の問題であり、もっと狭い意味ではいかがなものか。例えば企業においての出世競争、高校生や中学生の受験戦争。そこで起こる一人一人の葛藤は、世界が平和になったからと言って、消えるものではない。
また、タイムマシンが開発されたとしても、その実用化には、
――超えなければいけない壁――
というものが存在する。
いわゆる「パラドックス」と言われるもので、直訳すると「逆説」ということになる。しかし、この場合のパラドックスは「矛盾」という意味である。タイムマシンというのは、過去、現在、未来を自由に行き来できるという発想のものだが、果たして可能なのだろうか?
よく言われるのが、過去に行った場合のパラドックスである。
自分が生まれる前の親の前に現われたとする。その時、
「結婚するはずの両親の前に現われて、自分の母親が自分に恋してしまったら?」
などという場面がよく映画やドラマで描かれたりするが、要するに、
「過去に戻って、自分が歴史を変えてしまうと、どうなるか?」
ということである。
自分の親の結婚を邪魔して、親が結婚しなければ、自分が生まれてくることはない。ということは、過去に戻る自分がいないということになるので、両親は無事に結婚して、自分が生まれることになる。
しかし、自分が生まれてしまうと、将来タイムマシンで過去に行って、両親の結婚の邪魔をすることになる……。つまりは、堂々巡りを繰り返してはいるが、辻褄が合っていないのだ。
それを、「タイムパラドックス「という。
また、ロボット開発についてはどうであろうか?
ロボット工学に関しては、半世紀前からその論争はある。あるアメリカの作家が「ロボット工学三原則」というのを唱えた。それには、ロボットが守らなければいけない三原則が掲げられているのだが、その三原則には、明らかな優先順位が存在する。
元々、この三原則の発想は、「フランケンシュタイン・コンプレックス」というものに由来している。
「フランケンシュタイン・コンプレックス」とはいくつかの考えがあるが、その中の一つに、
「ロボットが人間に代わって、この世を支配する」
という発想である。
つまりは、ロボットを開発しても、ロボットにどこまで意志を持たせるかということで、人間に対して危害を加えないようにするかが問題である。
ロボット開発というのは、人間にできないことや人間でなくともできることをロボットにやらせるという発想で、ある意味、誰にでもできることをロボットがすることになるので、単純作業しかできない人は不要だということになりかねない。下手をすれば失業問題に関わってもくるのだ。
だが、もっと問題なのは、人間が開発したロボットが知能を持ってしまうと、持った知能が人間のように、欲や嫉妬を持つようになると、自分の立場に疑問を持ち、そもそも人間よりも頑丈にできていて強いロボットなので、人間を支配することくらいは容易なことに思えてくる。
そのため、ロボットに守らなければならない戒律を定め、人間に対して絶対服従であり、危害を絶対に与えることがないという確証がなければ、ロボットを開発する意味はない。そして、ロボットが身を守るのは、自分でしかないという発想を設けることで、三つの原則が完成する。それに優先順位をつけることで、さらに強固な戒律にしているのだが、その三原則にこそ、矛盾が潜んでいることを、三原則を提唱している作家は、自分の小説で描いているのだった。
つまり、世界平和にしても、タイムマシンやロボットの開発にしても、人間の永遠のテーマと言われるのは、求めるだけではダメで、その裏に潜んでいるパラドックスをいかに解決するかということが一番のネックになっているのだろう。
そういう意味では、不老不死も同じことである。
現代のように科学万能と言われる時代であっても、不老不死には矛盾が潜んでいる。これは、今提唱した永遠のテーマよりも明らかに分かりやすい矛盾ではないだろうか。
不老不死というものが実現すれば、確かに死という恐怖から逃れることができるだろう。もちろん、不老不死を手に入れるのが一人であれば、その人は永遠に死ぬこともなく、年を取ることもない。
そうなると、自分に関わった人は皆年を取っていく。若くて綺麗な女性に恋をしたとしても、自分だけ若くて相手はどんどん年を取る。一緒に年齢を重ねていけば、同じ目線で相手を見ることができるだろうが、相手だけが年を取ってくると、果たして今までのように相手を愛することができるだろうか?
「できるに決まっているじゃないか」
という人もいるだろう。
しかし、その根拠がどこから来ているのか分からない。実際に二十歳くらいの男性が、五十歳になったまるで母親くらいの年齢の人を、愛し続けることができるとどうしていえるだろう?
同じくらいの年齢の女性で、かつて愛した女性と同じ雰囲気の女性が目の前に現われれば、どんな気持ちになるか、ハッキリと分かるだろうか?
きっと、自分の良心に訴えると、かつて愛した人を裏切りたくはないと思うだろう。しかし、実際に人間には性欲という欲望があるのだ。二十歳の健康な男性が、いくらかつて愛した女性だとはいえ、五十歳になった相手と、目の前に二十歳のピチピチした女性がいたとしたら、身体はどちらに反応するだろう?
精神と肉体との間のギャップが、本人を苦しめる。不老不死であるがゆえに、このギャップからは逃れることはできない。
精神が打ち勝って、好きだった人を愛し続けたとしても、その人は永遠の命はないのだ。寿命がくれば死が訪れる。それが人間として避けることのできない宿命なのだ。
それでも、不老不死の人間は行き続けなければいけない。死ぬことを許されない彼と、生きることを許されずに寿命がくれば死んでしまう普通の人間とでは、どちらがいいというのだろう?
「それこそ、生き地獄だ」
と思うに違いない。
そして、こうやって想像するよりもはるかに辛い思いが、不老不死の人間には用意されていると思うと、ゾッとしてしまう。
「じゃあ、すべての人間が不老不死になればいいじゃないか」
と言われるかも知れないが、それこそ発想が愚の骨頂である。
誰もが不老不死であればどうなるだろう?
人間は、年も取らずに、そのまま生き続ける。しかし、子供を産むという機能が残っているのであれば、今の人間からさらに子供の人口が増えてしまう。
その子供は生まれもって不老不死というわけではないだろう。不老不死になるには、ある程度の年齢になって、どこから先が、年を取らない不老であるかを選択する義務が生じることになる。
ただ、その時、今までの人間のように、不老不死にならずに、寿命がくれば死んでいくという権利も与えられているであろう。
そんな人がどれだけいるかである。
不老不死に一度なってしまうと、元に戻ることはできない。
永遠に年を取らずに生き続けるのだから、当然、人口は増え続け、食糧問題や住宅問題など、将来において、住む場所や食べ物がなくなってしまうことになるだろう。
そうなると、他の土地を侵略するという発想になる。今であれば戦争である。
戦争というと、
――殺し合い――
であるが、相手も不老不死なら、いくら攻撃しても同じことだ。却って貴重な資源を壊してしまうだけになり、何の解決にもならない。
戦争すらできない環境で、これから先、明るい未来などあるというのだろうか?
それなのに、昔から不老不死は人類の永遠のテーマとされてきた。ただ、それは社会全体の問題ではなく、一人の人間、あるいは妖怪の考えであり、
「自分こそ、不老不死を手に入れる」
と考える妖怪がたくさんいることで、いろいろな物語が生まれてきたのだ。
物語性としてのファンタジーが、不老不死の発想だとすれば、それはそれで面白い。しかし、それを本当に追い求めている人がいるのだとすれば、昔から描かれているファンタジーは、そういう連中に対しての警鐘ではないだろうか。
あえて物語の中で不老不死を求める妖怪を登場させ、主人公にやっつけさせる。考えてみれば、不老不死が実現した話など、小説としてあったであろうか? あくまでも追い求めているだけで、その実現はいくら小説とはいえ、書かれているものはない。
不老不死を手に入れた者がどうなるのかということこそ、永遠のテーマであり、それをあえて話にしないというのは、作家のせめてもの、
――小さな抵抗――
と言えるのではないだろうか。
それが何に対しての抵抗なのか分からないが、抵抗こそが、不老不死を物語りにする意義だと思える。
不老不死がパラドックスであるとすれば、人生の永遠のテーマというのは、すべてがパラドックスのような気がする。
考えてみれば、
――太古の昔から永遠のテーマとされていることを現在でもまだ達成できていないからこそ永遠のテーマなんだ――
と言えるのではないか。
一つでも達成できていれば、永遠のテーマなどというものは、すでに存在していないように思う。少なくとも、
――将来において達成できるであろうテーマ――
という発想にはなっても、永遠と言う言葉にはならない。
言葉になるとすれば、
――限りなく永遠に近い――
という表現にとどまるであろうが、この言葉自体が矛盾しているように感じられる。
そういう意味では永遠という言葉は、
――限りなく矛盾を含んでいるもの――
と言えるのではないだろうか。
永遠という言葉を好きではない人は結構いるのではないか。なぜなら、
――半永久的――
という言葉がある。
これは、永遠に限りなく近いものとしての印象であるが、永遠という言葉は、ありえないことや願望から成り立っている言葉で使用するものであって、それ以外の現実的なことは、この半永久的という言葉が使われることが多い。
それだけ、永遠という言葉に対して、人間は憧れや願望を持っている反面、怖いものであるということも分かっているのだろう。
ほとんどの人は意識することなく使っているが、その中でも無意識に使い分けている。人間というのは、それほどバカではないということの証明なのかも知れない。
また、人間が永遠という言葉を使う時は、
――孤独――
という思いを抱いた時ではないかと考える人もいる。
孤独と寂しさは似たようなものだという発想もあるが、決して同じではない。寂しさに対して明るい発想はないが、孤独に対しては明るい発想を持つことができる。
一人でいることを孤独という表現をするのであれば、孤独は決してマイナスイメージばかりではない。一人でいることで、他人と関わらずにできることだってある。
下手に他人が関わってくると、自分を見つめることもできず、自分が何をやりたいのか分からないまま、人生を過ごしてしまうこともあるだろう。
――孤独こそが、自分の唯一の味方だ――
と考えている人もいるに違いない。
K大学の心理学研究書に、新宮教授という名誉教授がいる。
彼は、心理学の世界では、世界にも通用するだけの名声を持っていた。彼の考えはいつも奇抜で、
「心理学者たるもの、普通の考えをしていたのでは、新しいことを見つけることなどできるはずはない」
と言っていた。
一種の変人と言ってもいいのだろうが、まわりの人も、
「いかにも心理学の先生らしい」
と、褒め言葉なのか皮肉なのか、どちらとも取れる言葉を彼に与えていた。
新宮教授は、今年六十歳になっていた。
五十歳代までは、気力体力、どちらも衰えを感じていなかったが、六十歳になった途端、自覚するようになっていた。もっとも、その自覚をまわりに示さないのは彼の意地なのか、その分、毒舌も激しくなっていた。
しかし、学会でも一目置かれている新宮教授は、研究生から見れば雲の上の存在であり、その言葉の重みは誰よりも感じていた。崇拝していると言ってもいいだろう。そういう意味では研究生たちも他の人たちから、
――変人グループの一人――
という見方をされていたようだ。
もちろん、あからさまにそのことを表に出す人はいなかったが、さすが心理学を専攻している研究生、まわりの人が何を考えているかなど、すでにお見通しだった。
だからと言って、まわりに対して過剰反応を示さない。あくまでも冷静で、
「冷静こそが、心理学の第一歩」
と位置づけていたほどだった。
新宮教授は、大学の講義も一週間に一時限ほどで、後は自分の研究に勤しんでいた。彼には名誉には固執するところがあったが、地位には固執していなかった。そのため、学部長選挙には一度も立候補することもなく、学閥などにも参加していない。まったくそんなことには興味を持たなかった。
「あの人は研究一筋で、変人ではあるが、彼こそ一番人間らしいのかも知れないな」
と言って、他の教授連中の中には、彼を尊敬している人も少なくなかった。
しかし、彼は他人との接触を拒むところがあり、いつも一人で研究をしていた。
「学者なんだから、一人で黙々と研究しているというのは、別に珍しいことではない」
という人もいたが、それにしても新宮教授の場合は、秘密主義が多かった。
同じ研究室の仲間にも秘密にしていることが多かったようで、彼が何を研究しているのか、いつも研究が成就してからでしか、まわりに公開していなかった。やはり変人と言われるゆえんはそのあたりにあったのだろう。
新宮教授は孤独だった。しかし、寂しいとは思っていないようで、そのことを知っているのは、まわりのごく一部の人だっただろう。勘のいい人は気付いたかも知れないが、まわりからあまり気にされない教授は、普段から気配を消すように黙々と研究を続けていた。それが彼のポリシーなのかも知れない。
新宮教授には、信頼のおける助手が一人いた。彼の名前は、黒崎助手と言った。
――黒崎を見ていると、昔の自分を思い出す――
と新宮教授は考えていたが、実際の昔の新宮教授と黒崎助手とでは、少し違っていた。時代の違いがそう感じさせるのかも知れないが、新宮教授の中では、
――昔を思い出すことができても、彼が自分の昔と似ているとは思えない――
と感じていた。
昔の新宮教授は、野心などまったくなく、研究一筋であった。その先に見えるものが何であるかなど気にしているわけではなく、自分の将来に対しても固執しているわけではなかった。
「研究を黙々と続けられればそれでいいんだ」
といつも豪語していたが、まさにその通りだった。
中には、
「そんなことを言いながら、本当は野心を隠しているだけではないか?」
という疑いを持っていた人もいたが、注意して見ていると、教授にそんな考えがまったくないことが分かってくる。そういう意味で変人と言われるのだろうが、一度注意して見た人には、教授を変人だとは思わない。
「まわりがどう言おうが、新宮教授は研究熱心なだけなんだ」
と断言できるほどだった。
黒崎助手も、同じように研究熱心だった。黙々と研究している姿は健気にも見え、野心などどこにもないように思えたが、実際には野心は人並みに持っていた。教授と比較されるから野心がないように思われるが、実際に蓋を開けると、野心の塊のように見えるかも知れない。
しかし、それも偏見であり、だから、彼は余計に自分の腹のうちを隠そうとしているのだろう。
ただ、黒崎は女性に興味を持っていなかった。朴念仁ともいえるかも知れないほどで、合コンの誘いもすべて断わっていた。知らない人は、彼に彼女がいて、その人への執着から合コンを断わっているように思われたが実際にはそうではなかった。
女性に対してまったく興味を持っていないのである。
大学に入ってすぐくらいに友達になった人に、女性に関しては手馴れていると自分で思っている男がいて、そんな人から見れば、黒崎に彼女がいないこと、そして女性っ気を感じないことから、彼が女性に興味を持っていないことをすぐに看破した。
彼にとって、黒崎のような男の存在は鬱陶しい存在ではあったが、貴重な存在でもあった。彼のように女性に対して人一倍の興味のある人が心理学を志すと、結構女性の気持ちに近づけるもので、その分、女性に対する男性の心理についても長けていた。
確かに最初は鬱陶しく感じられた黒崎助手に対して、彼は次第に興味を持つようになった。
何しろ自分とは正反対の性格で、女性に対してどうして興味を示さないのか、どうしても分からなかった。彼の場合の考え方として、まず肉体ありきであり、身体の反応が精神を動かすと考えていた。
思春期になって、女性に興味を持つのだって、男としての本能が心身を突き動かすのだ。まず身体が反応することで、今までになかった身体の変化にビックリし、まわりの好奇心に満ち溢れた話や、ビデオ、いわゆるエロ本と呼ばれるものを媒体に、解消するすべを知ることで、自分が女性に興味を持っていることを思い知る。
思い知ったところから精神が女性を求めてくる。そこからが心理学の入り込む要素だと思っていた。
しかし、実際には身体が反応するところから心理学というのは始まっているのだ。身体と精神のどちらが先に動き出すとしても、最初の取っ掛かりからがすべてであり、心理学はそこから始まる世界でもあるのだ。
そのことを理解するまでに、何年も掛かる。言葉でいくら説明しても、自分で納得がいくまでには、かなりの時間が掛かるのも心理学の特徴である。
彼は黒崎助手に興味を持ったが、その興味は一種のサディスティックな部分を表に出すことでもあった。
まず女性に興味を持たせるには、精神よりも肉体からだと考えたのは、彼が思春期に対しての考え方が、理解できていたからである。
「何と言っても身体ありきなんだ」
というのは彼の持論でもあった。
彼は黒崎助手に対して、
「今夜呑みに行こう」
と誘いをかけた。
黒崎助手は他の人であれば、断わっていたかも知れないが、彼に誘われると別に嫌な顔をすることもなく、
「いいよ」
と二つ返事で答えた。
しかし、実際の理由は、
――別に断わる理由がないからだ――
というだけのもので、呑みに行くことを承諾した。
黒崎助手は、本当は誘われれば別に断わることをしない。誰とも一緒に呑みに行くことがなかったのは、まわりが彼を誘わなかったからだ。黒崎助手に対しての見方は、
――誘ってもどうせ来るとは言わないだろう――
という思いがあるからで、いわゆる皆、
――食わず嫌い――
だっただけのことである。
彼は、最初に居酒屋に誘った。軽く焼き鳥などを食べながら、会話の内容は彼の愚痴からだった。実はこれも彼の作戦で、自分の愚痴を露骨に嫌がって聞いていれば、これ以上誘っても無駄だということがすぐに分かるからだった。しかし、黒崎は彼の愚痴を嫌がらずに聞いていた。途中簡単ではあるが、助言などを交えていたが、その助言が実に的を得ていたことを彼は驚かされた。元々、愚痴を真剣にこぼしているわけではないので、冷静に見ることができると、黒崎の考えが何となくではあるが、見えてくるような感じがしたのだ。
そのうちに、
「黒崎、君は童貞なんだってな」
と、露骨に彼は口にした。
それを聞いて黒崎は嫌な顔をすることもなく、
「ああ、そうだよ」
「君は女性に興味がないのか?」
と聞くと、
「ああ、興味があるわけではないね。だからと言って、嫌いというわけではないんだよ」
「じゃあ、童貞なのは、好きな人が現われていないだけということなのか?」
「少し違うけど、別に童貞だろうが違おうが、僕はそのことについて、必要以上に固執しているわけではない」
「もし、今から童貞をなくしにいこうと誘えば、一緒に行くかい?」
と聞くと、
「いいよ」
というあまりにもアッサリとした答えが返ってきた。
本当であれば、こんな生臭い話をしているのだから、重厚な湿気を帯びた空気が漂っていそうなのに、黒崎の雰囲気があまりにもアッサリとしているので、却って空気が薄く感じられるほどだった。
彼は、黒崎を風俗に連れて行った。彼には馴染みの風景だが、黒崎には初めての光景だったに違いない。
「おや、高田さんじゃないですか?」
高田と呼ばれた彼は、考えてみれば、今まで黒崎から名前で呼ばれたことがなかったのを思い出していた。
店の前で掃除をしていた男性スタッフから声を掛けられた高田は、
「こんばんは。今日は同僚を連れてきました。彼は童貞なので、そのあたりよろしくお願いしますね」
と言って、含み笑いを浮かべた。
スタッフもそのあたりはよく分かっているのか、高田と同じような含み笑いを浮かべ、無表情の黒崎に顔を向けた。
――おや?
黒崎は少し訝しい気分になった。
今までデあれば、ここまで無表情になれば、露骨に無愛想に相手が感じて、相手もその感情を隠すことなく、露骨な表情を返してくるだろうと思っていたのに、このスタッフはそんな意識などまったくないかのように、笑顔で応対していた。
「じゃあ、行こうか」
と言って、店の中に入った。
店は思ったよりもこじんまりとしていて、まるで取ってつけた小屋のようで、いかにも風俗という感じがした。
待合室で待っていると、十五分ほどして、
「こちらのお客様、どうぞ」
と言って、黒崎が呼ばれた。
さっきまで平然としていた黒崎だったが、この時初めて、表情が変わった。怯えのような雰囲気があり、一人スタッフに呼ばれて席を立つと、座っている黒崎の方を見返した。
――さすがの黒崎君も臆したかな?
と感じたが、その時高田は初めて黒崎の人間臭いところを見たようで、嬉しくなっていた。
今まで黒崎のことを、
――人間らしい――
と思っていたが、初めて、
――人間臭い――
と感じた。
人間臭さは、今までの黒崎に感じられなかったことであり、それだけ別の人種のように思えた。高田が黒崎に近づいたのは、黒崎の仮面の下を覗いてみたかったからで、その一端をこの時初めて見た気がした。
「がんばって来いよ」
と言われて、黒崎は初めて腹が座った気がした。
さっきまでから考えて、こんなに何度も気持ちに変化が一瞬にして起こるなど、思ってもみなかったことだった。自分の中に変化が起こったのを感じた黒崎だったが、その変化を最初に感じたのは、身体なのか、それとも気持ちなのか、すぐには分からなかった。
――これが思春期というものか――
と感じていた。
「いらっしゃいませ」
目の前に鎮座している女性は、和服を着ていた。
和服の似合う女性を黒崎は今までに一人だけ知っていた。
「お姉さん」
それは、自分が小学生の時に亡くなった自分の姉に似ていたように感じたからだ。
姉とは年齢が十歳以上も離れていたので、姉というよりも、母親に近い存在だったのかも知れない。いつも何があっても庇ってくれたのは姉だった。小学生の頃は成績も悪く、勉強にはまったく興味を抱いていなかった、そんな黒崎を、両親は蔑むように見ていた。
「あんたがちゃんとしていないといけないのよ」
というのが母親の口癖だった。
今から思えば、余命幾ばくもない姉のことを分かっていたから、姉が死んでからは長男の黒崎にしっかりしてもらわなければいけないという親心だったのだが、姉の余命を知っているわけでもなく、まだ小学生だった黒崎に、親の気持ちなど分かるはずもなかった。
そんな黒崎に優しかったのが姉だったというのは皮肉というよりも、黒崎にとっては、
――どうして、そんなに優しくできるんだよ――
と感じられた。
姉が生きている間は、その優しさに甘えていたが、亡くなってしまうと、姉に対しての想いが余計に募ってしまって、自分を追い詰めるようになっていた。
――俺がしっかりしていれば――
と後悔しても遅いのだが、考えてみれば、それこそ母親の言っていた、
「あんたがちゃんとしないといけない」
という言葉を裏付けているのだった。
こんなことなら、どうして自分に本当のことを話してくれなかったのかと思うのだが、何しろ小学生の子供なので、そうもいかない。姉の余命は本人は知らないと両親も思っていたようだが、姉は密かに知っていたようだ。
黒崎はあとから思えば、
――そんなことなら、最初から誰も秘密になんかしなければよかったんだ――
と悔しがった。
最初から皆了解済みであれば、いくらでも言いたいことが言えたであろうに、秘密にしていたことで、本音を言えずに、結局自分の中の気持ちにウソをついてしまったり、重いとは別の行動をしてしまったりと、残るのは後悔だけであった。
姉が亡くなって、四十九日が過ぎると、もう誰も姉のことを口にしなくなった。姉のことを口にしても、亡くなった人が帰ってくるわけではない。それだけが事実であった。いつまでも引きずっているわけにはいかないというのが、暗黙の了解だったのだろう。
しかし、少なくとも黒崎少年にはトラウマが残ってしまった。
――知らないということがどれほどの不幸なことなのか――
というトラウマである。
――「知らぬが仏」という言葉があるが、そんなのは俺には当て嵌まらない――
一度、知らなかったことで後悔し、その後悔を二度と取り返すことができないという想いがトラウマになってしまうと、この思いは一生消えない傷となって残ってしまうことが確定しているように思えた。
その時の思いから、黒崎は心理学を勉強するようになったのだ。
そして、中学高校という間に彼には孤独が似合う性格になっていた。人と関わることをなるべく少なくし、自分の意見や考え方が一番だという思いに至っていた。そのために心理学を勉強し、人と関わらなくても自分ひとりで生きていけるだけの精神力を持ちたいと思うようになっていた。
中学高校時代というと思春期である。
まわりの男子は皆、女の子に現を抜かしているようにしか見えなかった。公然と女の子への思いを口にしているやつもいれば、一人で悶々としているやつもいる。どちらも見ていて嘔吐を催してくるほど気持ち悪いものであったが、どちらが気持ち悪いかというと、一人で悶々としているやつの方が気持ち悪かった。
――何を考えているのか分からない――
という想いが強かった。
まわりから見れば、自分も同じなのかも知れないが、
――あんな連中と一緒にしないでくれ――
と言いたいのだが、結局は、表向きには大差がないだろう。
そうなると、そんな目で見ている連中も気持ち悪く思えてくる。そのうちに人間嫌いになってきて、どんどん孤立を深めていくことになる。
身体が思春期の反応を示さなかったのはどうしてなのか分からなかったが、ひょっとすると、自分の中にはまだ姉が生きていて、
――姉ほどの素晴らしい女性はいない――
と思っていたからなのかも知れない。
その思いがあったからこそ、同じくらいの年齢の女性を見ても、感情の高ぶりはなかった。大人の女性を見ていても、
――なんてふしだらな――
どこがふしだらなのか分からないくせに、どうしても死んだ姉と比較してしまい、女性すべてに対して、自分の中で結界を作っていたのだ。
思春期を何も感じずに過ごした黒崎を、まわりの人間はきっと気持ち悪い目で見ていただろう。その視線を黒崎は歴然とした目で感じていた。
――どうせ、蔑んだ目で見ているんだろうが、あんな連中からそんな目で見られる方が本望だ。あんな連中と一緒にされるよりはマシだ――
と考えていた。
男性からというよりも、女性からの視線の方が痛かった。あからさまに気持ち悪さをあらわにしていた。その表情には、
――汚らわしい――
という意識がハッキリと見て取れた。
それでも、黒崎は女性に対して軽蔑という意識は抱いていても、気持ち悪いという思いはなかった。それはきっと、
――女性を知らない――
という意識があったからだ。
黒崎は、
――知らない――
ということに対して一目置いているところがある。
「知らないということは罪である」
というのは、とある大学教授の言葉だったが、もし他の人と同じ心境であれば、損な言葉をいちいち意識することはなかったに違いないが、黒崎は自分が他の人とは違っているという意識を持っていることから、この言葉に過剰に反応していた。
ただ、この言葉を意識しているということを表に出さないようにしていた。自分はあくまでも、人と関わりたくないということを最優先にまわりに感じさせたかった。そのためには、知らないことを罪だと思うことは、まわりを意識しているということを暗にほのめかしているかのようである。
中学高校まではそれでもよかったが、大学に入り、本格的に心理学を勉強し始めると、そんな意識も変わっていった。
――少しはまわりを意識しないといけない――
という思いが強くなってきた。
今までのように人と関わらないわけにもいかない。しかし、それでも黒崎の意識の原点にあるのは、
――他人と同じでは嫌なんだ――
という思いだった。
友達も何人かできた。その中でも自分は異端児的なところを表に出したいと思っていたが、できた友達というのもなかなかなもので、彼らも十分な異端児だった。
その中であれば、自分の存在がかすんできてしまうというのは分かっていたが、一旦友達になってしまうと、そこから離れることは自分を裏切るような気がしてできなかった。友達も同じ気持ちだったようで、黒崎の考えていることを先回りして先制攻撃をしてくるような感じなので、どうしても逆らえない自分がいた。
だが、それも悪くないと思った。
――痒いところに手が届く――
そんな彼らの親切に、心地よさを感じ、少しだけ、
――自分は他人とは違うんだ――
という強いはずの意志が、少しずつ瓦解しているのを感じていた。
それでも、心地よさには勝てなかった。悪い気がしないと思うと、
――どうしてこんな気持ちになってきたのだろう?
という思いが浮かんできて、友達のいうことは、とりあえずは信じてみようと思うようになっていった。
今回の飲み会のあとに誘われたのだって、断わろうと思えば断われたはずだ。しかし、それをしなかったのは、
――せっかく誘ってくれている――
という思いと、
――そろそろ、女性に対しての感情を払いのけてもいいのではないか――
と感じたからだ。
ひょっとすると、身体が反応したのかも知れない。
誘われるまでは、まったく女性に対して何ら意識があったわけではない。つまりは今までと変わらずの感情があるだけで、まったく身体が反応などする余地もなかったのだ。
しかし、友達に誘われて、風俗に行くのだと考えた時、一瞬だが、身体が反応した気がした。すぐに元に戻ったので、
――気のせいだったのか――
としか思わなかったが、友達についていきながら、感情の高ぶりが今までになかったものを感じさせていることに気付いていた。
それでも身体の反応はなかった。しかし、店に入って、
――いよいよ――
という時、身体が反応したのを初めて感じた。
そして、その時、
――思い出してはいけない――
と無意識に感じていたはずの姉のことを思い出してしまった自分に後悔を感じたが、目の前に鎮座している女の子の姿を見た時、姉を完全に思い出してしまった自分に対して、黒崎は戸惑っていた。
――こんな戸惑い、今までに感じたことはなかった――
いつも冷静沈着で、それだけが自分のとりえだと思っていた黒崎だったが、それ以外に何かとりえがあったとしても、それは付属でしかないという意識だった。
たった一つのとりえが、自分の存在価値であり、それだけで十分だと思っていた自分を、誇りに感じているほどだった。生きがいもやる気もどこにあるのか分からなかったが、たった一つのとりえだけで、今は生きていけると思っていたのだ。
三つ指をついて鎮座していた女の子が立ち上がると、今度は黒崎の腕に絡み付いて、身体を摺り寄せてくる。普通の冷静な時であれば、
――これが営業スタイルなんだ――
と、割り切って考えるのだろうが、なぜかそんな思考回路はその時に存在していなかった。
――この人に身も心も任せよう――
と考えたのだ。
それは、全面的に相手に委ねるという考えで、そんな思いをかつて感じたことを思い出していた。
――こんなに気持ちいいものだったなんて――
その思いを感じたのは姉にだった。
自分がまた彼女に向かって、
「お姉さん」
と思わず口にしてしまうのを必死で堪えていた。
最初にその言葉を口にした時、彼女はそのことに触れようとはしなかった。ひょっとすると、彼がまだ童貞であることを瞬時に見抜き、相手に委ねる気持ちがそのまま口から出たのだと思ったのではないかと感じた。
さすがに気持ちは高揚していても、まだ頭は冷静であった。それくらいのことは想像できる黒崎だったのだ。
――でも、それならそれでこっちもありがたい――
と感じた。
姉のことを口にはしたくないという思いがあったからだ。
童貞を捨てる相手が風俗の女性であることに、黒崎自身抵抗はなかった。むしろ、相手にすべてを委ねるという意味で、ありがたいと思っていた。下手に感情移入してしまうと、自分がずっとこのまま相手より下に見られてしまうということを嫌ったからだ。
――男性は絶えず女性よりも上位でなければいけない――
などという古臭い考えを持っているわけではないが、少なくとも自分は女性と付き合うのであれば、優勢である必要があると思っていた。
今まであまり人と関わることのなかった黒崎は、本当は女性という異性が怖いと思っていた。やっと最近友達ができて、思いを打ち明けることができるようになってきたのだが、どうしても、思春期を女性を感じずにやり過ごしてしまったことに臆しているのだ。
後悔しているわけではない。今からでも十分追いつけると思っているのだが、
――それにはもっと心理学を勉強しないといけない――
と考えていた。
心理学は、姉の死によって考えさせられた自分の進む道である。
――これまでの自分の生き方が間違っていなかったということを、きっと心理学が証明してくれる――
という思いを持っているのだ。
風俗のお姉さんは、とても優しかった。自分が相手にすべてを委ねようと思っているから、その優しさが伝わってくるのだと思っている。
彼女は、いろいろと話しかけてくれていたのだが、最初は何を言っているのかわからなかった。しかし、落ち着いてくると、彼女が話してくれているのは、女性というものについての考え方だった。
「今まで女性を知らなかったということは、私には新鮮な感じがしますわ。でも、それはせっかくの青春を楽しんでこれなかったという意味では寂しいような気がしますね」
と言っていた。
その言葉に対して、黒崎は初めて反論した。
「そうなのかな? 僕は僕自身で楽しんでいたつもりだったけど」
と言いながら、
――本当にそうなのか?
と自分に言い聞かせていた。
そのことを彼女は分かっていたのか、すぐには何も言わなかったけど、
「それならそれでいいのよ。自分で満足できればそれが一番いいんだからね」
その言葉は、彼女が彼女自身に言い聞かせている言葉であることを、黒崎は分からなかった。
「そうですね。でも、僕はこれから何をしていいのか分からなくなることが時々あるんですよ」
というと、それに対して彼女は即答で、
「ということは、何かしたいことがあるということですね?」
「ええ、その通りです」
――彼女は、なかなか頭がいい――
と感じた。
「何がしたいのか、聞いてもいいですか?」
今まで誰にも話したことはなかった。話をしようとは思わなかったのだ。
しかし、彼女に聞かれて初めて、
――僕は誰かに話したかったんだ――
と感じた。
どうして誰にも話す気になれなかったのかというと、それは誰も聞いてこなかったからで、必要以上なことを話すことを嫌う黒崎は、聞かれたことしか口にしなかった。
小学生の低学年の頃、黒崎は結構いろいろなことを口にしていた。子供なのだから、少々のことを口にしても、大人は許してくれるとでも感じていたのか、大人の話にでも結構口を出したりしていた。
そんな時、
「大人の話に口を挟むもんじゃありません」
と言われてはいたが、どうして口を挟んではいけないのか分からなかったので、自分が悪いことをしているとは思わなかった。
ただ、それは大人の世界に対してであって、子供の世界ではそんなことは通用しなかった。
「こいつ、生意気だ」
と言って、よく苛められたりしていた。
どうして苛められるのかということを分かっていなかったので、余計なことを口にするのをやめることはなかった。そのうちに余計なことを口にしている自分に酔っていることに気付いたのだが、その時にはすでに遅く、苛めはとどまるところを知らなかった。途中から転校生が来て、苛めの矛先がその転校生に向いたことで、黒崎が苛められることはなくなったが、そのことを機会に、黒崎は余計なことを一切口にすることはなくなった。しかも、口にすることがなくなったのは余計なことばかりではなく、言わなければいけないことも口にしなくなったことで、誰からも相手にされなくなった。
それならそれでよかった。
――孤立しても寂しいと思わなければいいんだ――
という思いが黒崎の根本にあり、この思いが黒崎の中での原点になっていった。
人と関わらなくなった理由の根底は、そのあたりにあったのだろう。
そのうちに大好きだった母親が亡くなった。
――唯一の味方だと思っていたのに――
と思っていながらも、人と関わりたくないという思いが前面に出ていたため、いくら大好きな母親であっても、関わることを自分から否定していた。
――それなのに、死んでしまうなんて……
世の中、本当にうまくいかないものだ。
母親が死んだことはショックだったが、本人は自分では結構速く立ち直れたつもりであった。
やはりその根底には、
――人と関わらない――
という思いがあるからで、その思いが大学生になるまでの時間を、その時々と、後から考えた期間というものに大きな隔たりを感じさせたのだろう。
初めて身体を重ねた彼女は暖かかった。肌のきめ細かさには本当に驚かされた。だが、一つ不思議に感じたのは、肌と肌が触れ合っているところは、まるで火が付いたように熱いくらいなのに、肌が触れ合っていないところを触ると、とても冷たかった。ただ、肌のきめ細かさだけは感じられ、
――きっと、肌が暖かければ、そのきめ細かさには気付かなかったに違いない――
と感じたのだ。
一緒に裸になり、お互いの肌を余計に密着させた。
「こんなに暖かかったんだ」
緊張がほぐれたことで暖かくなっているかも知れないのに、さっきの冷たさを感じていたから、自分に感じていたのと同じ暖かさになっただけで、そんな風に感じられた。再度の密着が、肌の触れていない部分を、さっきまで冷たいと思わせていた部分を暖かくさせたのだろう。
「あなたは、人のために何かをしたいとずっと思っていたようですね」
と、ふと彼女から言われた。
「えっ、そんなことは思っていませんよ」
人と関わりたくないと思っている自分は、これから研究したいと思っていることが結局は人のためになることだとは思っていたが、本心は人のためなどではなく、自分の名声と研究の成功に対する満足感を得るためのもので、それは自己満足なのだと思っていた。
「そうですか? あなたは、それを自己満足に終わらせようとしているんでしょうね」
「そうですね。僕は人なんてどうでもいいんですよ。自分さえよければ……」
と、少し拗ねた言い方をした。
――そうさ。この気持ちが自分の中での原動力さ――
と考えていると、
「私は羨ましいと思います。自己満足がそのまま人のためになることであることに一生懸命になれるあなたが」
と言って、ニッコリと笑った。
「でも、皆同じなんじゃないですか?」
「そんなことはないですよ。人のためになることをしていきたいと思っている人ほど、自己満足すら得ることができずに終わってしまうんです」
「じゃあ、最初から自己満足を目指せばいいんじゃないんですか?」
「だから、あなたが羨ましいと思ったんです。やりたいと思っていることをしているつもりでも、実際にはそうでもないことって結構多いんですよ。誰もが何かをする時というのは、今の自分よりも前を向いていたいと思っていますよね? でも実際には前に進んでいるつもりでも、一度、後ろに下がってしまうと、原点に戻るだけでも結構大変なんですよ。その思いを感じることで、人は自分がその時点でもがいているしかないと感じるんだって思います」
「じゃあ、前に進んでいるつもりでも、原点にも復帰できていないという感覚をあなたは味わっているということですか?」
「そうなのかも知れないわね。でも、人間というのはほとんどがそんな人ばかりなんじゃないかって思います。もっとも、これは自分がほかの人を羨ましがっているから感じることなんじゃないかって思うんですよ」
「なるほどですね。でも、どうしてあなたは僕があなたの感じる羨ましい人間だって思ったんですか?」
彼女の目が次第に真剣になってくるのを感じると、この話題を中途半端に終わらせることはできないような気がしてきた。本当であれば、せっかくの時間なのに、ただ楽しむことだけを考えていればいいはずなのに、どうしてこんな会話になってしまったのかと思うほど、自分がこの場をどうすればいいのか戸惑っていた。
「ハッキリとは分からないんですが、あなたが今まで私が出会ってきた人とは一味も二味も違っている人だと感じたからなのかも知れません。でも、それと同時にあなたと今日初めて出会ったような気がしないのも事実なんですよ。すみません、せっかくのお時間をこんな話に使ってしまって……」
と彼女は、恐縮したような言い方だった。
しかし、その恐縮したような雰囲気を見て、黒崎は余計に彼女をいとおしく思えた。本来なら風俗デビューの相手をもてなしているのだから、立場は逆のはずなのに、いつの間にか立場が逆転していることに、黒崎は興奮を感じていた。
「でも、せっかくのデビューなんだから、満足していただきたいわ」
と言って、彼女はサービスを始めてくれた。
さすがに童貞の黒崎があえなく秒殺で撃沈されたことは、当然のごとくであった。
少しの間、けだるい時間が流れた。
彼女が黒崎の身体に密着している。お互いに汗を掻いていたが、それを拭き取るような気分にはなれなかった。黒崎の胸に顔を埋めている彼女は、うっとりとした表情で時々黒崎を見上げ、その顔を捉えている黒崎も、彼女に対していとおしさを爆発させる気分で見つめていた。
――なんて、余裕のある心境なんだ――
黒崎は、その表情を見つめながら、一瞬ため息をついた。
――これが満足感というものなんだろうか?
快感がクライマックスに達し、果ててしまった瞬間襲ってくる憔悴感のあることは知っていた。
――思った通り、想像していた憔悴感なんだ――
と感じたが、いやではなかった。
憔悴感が漂っている間、彼女に感じたきめ細かな肌が、まるでサメ肌のように、ガザガザしているものに感じられた。果ててしまったすぐあとというのは、身体全体が敏感になってしまい、身体を動かすことが億劫になっている。
――いや、億劫なのは身体を動かすことだけではない――
極端な話、呼吸をするのでさえ、億劫に感じられるほどだった。
鼻が詰まっているかのような感覚に、けだるさの正体が分かりそうで分からないその感覚に黒崎は、
――このまま金縛りにでも遭ってしまうのではないだろうか?
とさえ感じたほどだ。
――このまま眠ってしまえば、どれほど気持ちがいいか――
と感じたが、その思いを打ち消したのが、彼女の言葉だった。
「私ね。本当はさっきのようなお話をすることなんて、ほとんどないのよ。する相手もいないし、もちろん、お客さんにこんなお話できるはずもないですよね。でも、どうしてなんだろう? あなたにはしてしまったの……」
「そういえば、さっき。僕に対して懐かしさを感じるといっていましたけど、それってどういう懐かしさなんですか? 僕のような人を知っているということなんですか?」
と尋ねると、彼女は少し考えてから、
「う~ん、ハッキリとは分からないの。あなたのような性格の人を知っていたような気もするんだけど、それがいつ頃のことで、どんな人であったのか、まったく記憶がないのよ」
「記憶にはないけど、意識として覚えていたということなんでしょうね。ただ、その場合、記憶にないというわけではなく、記憶のどこかには存在していて、自分で記憶という意識がなかっただけなのかも知れないね」
「どういうことですか?」
「意識の中にはいろいろなものがあると思うんですよ。その中には、記憶していることを思い出そうとする意識もあるんですよ。記憶していることを思い出そうとして、思い出すことができないことで、記憶にないと思っているんでしょうけど、人はえてして、思い出したくない記憶を封印しようとする意識が働くこともあるんです。その時は、いくらあとから思い出そうとする意識を働かせても、思い出すことはできない。かつての自分が封印したからですよね」
「そうなんですね。でも、私は思い出したくない記憶というのはないもんだって思っていたんですが、それは錯覚だったんですかね?」
「錯覚ではないと思いますよ。もし、錯覚だと思うのであれば、思い出そうとする時に、何か違和感を感じるんじゃないかって思うんです。だから、あなたが今思い出せないということは、錯覚という意識すらないんでしょうね」
「じゃあ、思い出すことができないんでしょうか?」
「それはないと思いますよ。どんなに思い出したくない記憶でも、自分の中にある以上、それを開けるキーさえ見つかれば、表に出すことができるはずです。ただ、それも自分の中で、思い出したくないということが何であったのかということを再認識する必要があります。それが思い出すためのキーの役割を果たすんでしょうね」
「すごいですね。私はそんなこと考えたこともなかったですよ」
そういって、彼女は黒崎に感動していた。
「そんなことはないですよ。でも、この気持ちは誰にでもあるものだって僕は思っています。ちょっと考えれば分かることでも、自分の中に勝手に常識を作ることで、それ以上先に行けなくなる。いわゆる『結界』というものを作っているんじゃないですかね」
「結界ですか……」
黒崎の胸の上に寝ていた彼女の顔が、少し遠くを見るような目をしていた。
「私は時々、『永遠の命』というものに対して考えることがあるんです。さっき、あなたに懐かしさを感じると話した時、『永遠の命』の発想を思い出しました」
「それはどういうことですか?」
「私は、中学生の頃からSF小説なんかを読むのが好きで、タイムマシンの話だったり、オカルト的な話だったりする本を結構読んでいました。その中で時々テーマに上がる内容として、『永遠の命』というのがあるんですが、それがいつも中途半端に終わっているような気がするんです」
その話を聞いて、黒崎は少し訝しく感じられた。
「プロの小説家の小説なんですよね? プロの人がテーマに掲げている内容を最後に結論を出さずに中途半端に終わらせるというのはどうなんでしょうね? 確かにミステリー小説などでは、最後にぼかして終わることも多いですが、それはあくまでも一つの結論が出てから、最後のどんでん返しに使っていることはあると思うんですが……」
というと、
「その通りなんですよ。あなたのいう通り、小説の最後にはちゃんとした結論が出るんです。でも最初の方は、『永遠の命』という話がその話のメインテーマのように描かれていて、読んでいる方も最後までテーマが変わっているとは思っていないので、完全に意表を突かれた形にはなるんですが、読み終えると、最後には納得している自分がいるんです。それだけこのテーマが重たいもので、それこそ文字通り『永遠のテーマ』なのではないかと思えてくるんですね」
「なるほど、それは私も分かります」
黒崎も、元々SF小説を読むのは好きだった。ただそれは高校生の頃までで、今は敢えて読まないようにしている。大学に入って、SF小説のような内容の話をフィクションだとは思わずに、自分の中の結論と位置付けていくことで、下手にフィクションを読んで、自分の発想に「縛り」を設けたくはなかったのだ。
「私は、あなたに懐かしさを感じるとは思っていますが、あなたのような人をかつて知っていたという意味ではないんですよ」
彼女は、またおかしなことを言いだした。
「実は、私の中学時代の同級生に、SF小説の話をしたら、その人がやけに反発してきたことがあったんです。『そんなことを君は本当に信じているのか?』ってね。私も信じているというわけではないというと、彼は頷いて、少し考え込んでしまったんです。そして『SF小説なんていうものは、誰もその状況を見たことがないから書けるんだよ』と言ったんですね。おかしいでしょう?」
「確かにおかしいですよね。サイエンス・フィクション、これがSFであって、あくまでも架空の話なんですよね。彼がムキになって話しているのを想像すると、まるで自分は架空の話ではないSFを知っているかのように聞こえますよね」
「ええ、そうなんです。彼がムキになればなるほど私は滑稽に感じられ、それ以上話を続けていきたくないという思いに駆られました。それで適当に話を打ち切ったんですが、その時の彼が恨めしそうな表情をしたんです」
「でも、そこで話は打ち切ったんでしょう?」
「ええ、彼もすぐに引き下がったんですが、その時の彼の恨めしそうな表情が忘れられずにいると、それからしばらくして、彼が行方不明になったんですよ」
――それこそ、ミステリアスな話ではないか――
と黒崎は感じたが、それは口にしなかった。
黒崎が口を閉ざしたので、彼女が続ける。
「結局、彼は見つからなかったんですが、私が高校三年生になった時、学校の帰りに彼を見かけたんです。彼は、中学の時と同じ制服を着ていて、明らかに中学生の彼でした。まどけなさの残る表情にニキビが浮かんでいて、私は夢を見ているのかと思いました」
「それから彼はどうしたんです?」
「彼を追いかけて、見つからないように一定の距離を保って歩いていたんですが、角を曲がったので、早歩きで追いかけたんですが、彼の姿は忽然と消えていました」
「どこかの家に入ったんじゃないの?」
「そんなことはありません。曲がった角の家は豪邸で、門は遥か先にあったんです。しかも未知の反対側は空き地になっていて、隠れるところがありません。私は彼が曲がって数秒で、自分も曲がったので、彼が急に消えてしまったとしか思えないんです」
「元々が行方不明者だから、そう思うのかも知れないけど、曲がってから消えたのではなく、最初から幻だったということはないのかい?」
「それも考えました。最初から幻だったという考え方も、曲がってから消えてしまったという考え方も、どちらも同じくらいの意識なんです。だから、どっちも間違っていないようにも思えるし、どちらも違っているようにも思えるんです。つまりは、どちらかではないかという考え方は、私の中にはありません」
「それが、どうして僕に対しての懐かしさになるんだい? その彼に似ているとでもいうのかな? それとも、彼が成長して大学生になったら、今の僕のような感じだって思っているからなのかな?」
というと、彼女は、
「どちらも違います。私は彼を高校三年生の時に見た時、まったく変わっていないという意識がありました。あれから彼が成長した姿を想像することができなくなってしまったんです。彼はずっと中学生のままなんじゃないかってね」
と、即答で返してきた。
「それはまるで君が考えている『永遠の命』に通じるものがあるんじゃないかい?」
「ええ、そうなんです。あなたを見ていると、あなたも『永遠の命』という発想を少なからずに持っていて、私の中にあるその時の彼の面影をくすぐっているような気がするんです。それは似ているというようなわけではないんですよ」
「そういうことなんですね。実は僕もあなたに何か懐かしさを感じているんですよ。それを口にしなかったのは、あなたに懐かしさを感じてはいるが、誰か知っている人に似ているとか、以前に出会ったことがあったとかいうレベルのものではないと実感していたからなんです」
「じゃあ、私と同じ発想だったんですね」
「ええ、あなたのように口にするか、それとも僕のように口にしないかというだけのことだったんです」
「あなたは、自分も同じように懐かしさを感じていると言いましたが、それは私の話を聞いていて、自分の発想と同じようなものだと思えてきましたか?」
「ええ、途中から同じような感じだなとは思っていましたが、話を聞いているうちに、懐かしく感じていることを口にしなければいけないと思うようになりました」
「どのあたりからですか?」
「そうですね。中学時代に行方不明になった人を高校三年生になって見かけたというくだりあたりからですかね?」
「ひょっとしてあなたには、私がその人を見て、まったく年を取っていないということを感じたのを口にするという予感があったんじゃありませんか?」
「ええ、その通りです。だから、僕はあなたに対して、自分の考えていることを口にしておかなければいけないと思ったんです」
「私もあなたの話を聞いて、自分がどうして懐かしいと感じたのか、なんとなく分かってきたような気がしてきました」
という言葉を彼女がしたのを見て、黒崎は完全に緊張がほぐれたのを感じた。
風俗という店で話す内容というのには、少し重たい気がする。。普段でさえ、友達に話したとしても、きっと引かれるに違いない。
それを彼女は受け止めるように聞いてくれた。しかも自分の意見を正直に言って、隠そうとしているところはなかった。
――商売だから、相手の話を聞いてあげようとしてくれているのかな?
と普通なら考えるだろうが、彼女に対して、そんなことを感じては失礼だというというよりも、
――感じてはいけないんだ――
というまるで自分に対しての戒めようでもあった。
「あなたとお話ししていると、時間が経つのを忘れるわ」
「そうだね。僕も同じだよ」
考えてみれば、ここは制限時間がある空間だった。ここまで深い話をしていれば、時間などあっという間に過ぎてしまうという発想になるのだろうが、そんなことはない。
――本当なら、そろそろ時間なんじゃないか?
と思ったが、それを自分から彼女にいうのは、何か違うような気がして、何も言えなかった。
「まるで時間が止まっているかのようだな」
と黒崎が言うと、
「ええ、この空間は時間が止まっているのよ」
と彼女が返してきた。
もちろん、そんなバカなことがあるはずもなく、時間は刻々と時を刻んでいるはずなのに、彼女に、
「時間が止まっている」
と言われると、まんざらでもないように思えてならなかった。
「ねえ、私今ね。あなたと同じことを考えているような気がするの」
実は、同じ思いを黒崎も感じていた。しかし敢えてそれを口にはせずに、
「どういうことなんだい?」
と聞いてみたが、自分でもその言葉がシラジラしく感じられ、思わず吹き出してしまいそうになるのを、懸命に堪えた。
「私ね。あなたに将来どこかで会えるような気がしているの。もちろん、ここではなく、近い将来だとは思っているんだけど、ここ一か月というような具体的な期間ではないんですけどね。何の根拠もないし、口にするだけの力もないのは分かっているんですが、どうしても言っておかなければいけないような気がするんです」
「それを僕も考えていると?」
「ええ、そんな気がしてならないんです」
この時、黒崎は内心ビックリしていた。
――どうして自分の考えていることが分かったのだろう? 彼女は千里眼の持ち主なのか?
と感じたほどだ。
しかし、黒崎は心で感じているほどのショックが、表情に出ているとは思えなかった。無表情とまではいかないが、そのくせ、相手に自分のショックを悟られたくないという思いからの無表情というわけではなかった。
むしろ黒崎は、相手が彼女であれば、
――僕のことは何でも分かってほしい――
という思いを抱いていた。
この気持ちは他の誰にも感じたことのないものだった。
「どうやら、あなたにはウソがつけないようですね」
と言って、気持ちとしては脱帽という思いで、答えた。
すると彼女は、
「そんなことはないですよ。それはあなたがウソをつけない人だからです。黙っているのはウソをついていることにはなりませんからね」
と彼女に言われたが、
今まで黒崎が感じていたのは、
――黙っているとウソだと思われてしまうんだ――
という思いだった。
実際に、黙っていると認めたことにされてしまうことが今までには往々にしてあった。
その思いがあったからこそ、あまり人にかかわりたくないと思うことが多かったのだ。
あれは中学生の頃だっただろうか? 黒崎はただ通りかかった店の前から、同級生が走って逃げ去る場面にぶつかった。彼らは四人グループで、何が起こったのか分からなかったが、そのうちの一人と出合い頭にぶつかって、二人でひっくり返ってしまった。
「こら、待て」
という声とともに一人のおじさんが追いかけてきた。
その時黒崎は、初めて何が起こったのか理解した。
数人の万引きグループのちょうど犯行場面が少し前にあり、誰かがへまでもしたのか、見つかってしまい、逃げる途中だったのだろう。その場面に見つかったことで、黒崎は店主から疑われた。
「お前も仲間なんだろう?」
まるで仲間であることを前提に話している。それは、黒崎に認めさせて、グループをイモずるにしようという計画だ。
しかし、黒崎は黙り続けた。こんなくだらないおやじに、自ら口を開くことを拒否したのだ。すると、おやじは、
「黙っていると認めたことになるぞ」
と言った。
結局後になって黒崎の容疑は晴れたのだが、黒崎にはこの時のおやじは理不尽なくせに、セリフがまっとうだったこともあって、この言葉が気になって仕方がなかった。
「僕って、そんなに正直者なんでしょうか?」
「私はそう思います。だからもう一度会いたいっていう願望も入っているのかも知れないわね」
「いや、それは懐かしいと言っていたさっきの思いが先読みになって、将来に出会うことができるんじゃないかって感じているんじゃないかな?」
黒崎は、自分がこんな発想をできる男だとは思ってもみなかった。人が何を考えているかなど、まったく分からない。特に相手は女である。
「相手が何を考えているかということを考えるよりも先に、自分が何を考えなければいけないかということを思う方が、僕にとっては大切なことだと思うんですよ」
と、かつて誰かに言ったような気がしたが、それが誰なのか、自分ではサッパリ覚えていない。
話が少し落ち着いてきたのか、二人は少し黙り込んでしまった。どちらから話しかければいいのか、お互いにタイミングを計っているかのようだった。そのうちに時間が来てしまったようで、室内電話が鳴る。彼女は、
「お身体を流しましょうね」
と言って、身体を洗ってくれたが、その時には何も話すことがなくて、気まずい空気が流れた。
――もう、話すことってないよな――
時間が来てしまった以上、これ以上の新しい話題を出すことは無理である。ここから話をしようとすると、どうしても形式的になってしまいそうで、お互いに話をしなかったのだろうと、黒崎は感じた。
彼女に部屋の外まで見送られて待合室まで戻ると、高田はすでに戻っていた。
高田の表情は、すがすがしさが感じられたが、果たして黒崎の表情はどうだったのだろう?
「どうだい? スッキリしただろう?」
高田に何かを言われるたびに、それまで感じていなかった罪悪感のようなものがこみ上げてきた。
「ああ、そうだね」
そう言うのがやっとなくらいに気持ち的には憔悴していた。疲れ果てていると言った方がいいかも知れない。
それを察したのか、高田はそれ以上何も言わなかった。黒崎が罪悪感を感じているのが分かっていたのかも知れない。
――最初は罪悪感なんて感じていなかったのに、どうして今になって感じるのだろう?
冷静になって考えてみれば、最初よりも終わってからの方が罪悪感に駆られるのは当たり前のことに思えた。逆にどうしてそのことに、あの時気づかなかったのかという方が、不思議なくらいだった。
これはあとになって思い出したことだが、風俗の彼女が、二人でいると時間を感じさせないと話をした時、
「私は、時々同じ日を繰り返しているんじゃないかって思うのよね」
と言っていたような気がした。
それは黒崎に話しかけていたわけではなく、彼女自身の独り言だったのだ。あの部屋で彼女に身を任せているという意識があったからなのか、彼女の独り言はついつい聞き流してしまっていたようだ。他にも何か言っていたような気がしたが、思い出したのはこのことだけだった。
どうしてあとになって思い出したのかというと、黒崎は同じ日を繰り返しているという意識を自分に感じたことはなかったが、道を歩いていてすれ違う人などに、
――この人、同じ日を繰り返しているんじゃないか?
と、いきなり感じることがあった。
まさかそんなことがあるはずなどないと瞬間で打ち消してしまうことで、感じたことすらすぐに忘れてしまっていた。まるで夢の中の出来事のように、簡単に忘れることができるようだ。
道を歩いていてすれ違った女性がいたのだが、彼女とすれ違った瞬間、同じ日を繰り返している人だと感じた。振り返ってみたが、その人はすでに小さくなっていて、いつの間にか時間が経ってしまっていたのだ。
――同じ日を繰り返していると、永遠の命を与えられたことになるんだろうか?
と感じたが、同じ日を繰り返している人は、意識として同じ日だということを意識できるかどうかで、その人が永遠に年を取らないのかが変わってくる。
黒崎には彼なりの考え方があった。
一日が始まってその日が終わると、人は次の日へのステップを越えることになる。誰も意識をすることもなく超えているので、普通の人はフリーパスなのだろう。
しかし、人によっては、一日の終わりを意識して、そのステップを越えることを自分で選択しなければいけない人がいる。
「明日を迎えるのが怖い」
と思っている人がいるのだ。
一度知っている一日を繰り返してしまうと、翌日に進むことが怖くなってしまう。普通の人は翌日になるのがフリーパスなので、怖いという意識はないのだが、明日には何が待っているのか分からないという思いを、怖いと感じる人がいてもおかしくはない。
明日に広がっているのは、果たして希望なのか絶望なのか、考え方としては二つに一つである。単純に考えれば、二人に一人は怖いと思ったとしても当然のことではないだろうか。
それでも、翌日というのは勝手にやってくるものであって、日を跨ぐことは、
――避けることのできない運命である――
と思っているから、誰も怖いと思わないのだろう。
それは寝ている間であっても起きている時でも、本人が意識することなく働いている心臓のようではないか、
――勝手に動いている――
と言えばそれまでで、止まれば死んでしまうことが分かっているからなのか、止めようと思う人は誰もいない。
しかし、
――心臓が止まってしまったら、どうしよう――
と、普段からずっと不安で仕方がないと思っている人はほとんどいない。それだけ心臓の動きを意識していない証拠である。
それと同じで、次の日へのステップアップを怖いと思わないのは、意識していないからであり、意識しなくてもすむ「潜在意識」というものなのだ。
永遠の命を意識するようになったのは、ちょうどその頃からだった。
「永遠の命の源って、心臓の動きを意識するしないに関わっているんじゃないだろうか?」
心臓の動きを意識したのが、同じ日を繰り返している人を意識したことからの副産物であったことから、初めて永遠の命というものが、自分の身近に感じられるようになったのだ。
ただ、永遠の命がその人に幸運を与えるかどうかというのは別問題である。そのことを将来において気付くことになるのだが、まだその時には考えていなかった。
「どうして、人間には寿命なんてものがあるんだろうな?」
黒崎は、そんな切り口から高田に話しかけた。
「寿命があるのは人間だけじゃないさ。形のあるものはすべて最後には壊れるものさ。それが宿命というものなんだろうな」
「宿命と運命とはどう違うんだろう?」
運命という言葉はよく使うが、宿命という言葉はあまり使わない。急に言われてビックリしたが、そういえば、その二つを並べて考えたことがなかったことを思い出した。
「俺には分かっているつもりだけど、お前はどう考えるんだ?」
「言葉から受けるニュアンスと、本当の意味が合っているのかどうなのか分からないんだけど、何となく分かるような気はしているよ」
今までに考えたことがないだけに、いざ考えるとなると、一から考えることになる。どうしても思いつきの域を出ない。
「じゃあ、話を聞かせてもらおうか」
高田は自分で分かっているつもりなので、完全に上から目線だった。
しかし、その時の黒崎は相手が上から目線になってくれている方が、却ってよかったような気がした。ある意味、気が楽になれたからだ。
「運命って、自分で切り開くものであり、宿命というのは、最初から決まっているもののように感じるんだ。でも、今までの感じていたニュアンスからすると、運命も宿命のように最初から決まっている場合もあるように思えることから、運命は宿命に含まれるというようなイメージだったよ」
それを聞いて、高田はうんうんと頷いていた。
「なるほど、確かにそのニュアンスには間違いはないと思う。でも、運命というところが少し違う。運命も最初から決まっているかのように思えているんだろうけど、それは、自分の意志が働いていないところから、決まっていたと思うのであって、宿命とは違うものだと俺は思うんだ」
「ということは、自分の意志に関わらず巡ってくるものが宿命であり、運命だということだね。そしてそこから先の解釈がそれぞれで違ってくるという風に考えればいいのかな?」
「そうだね。そういう意味では、巡ってくるということを避けることができないのは二つとも同じだけど、宿命というものは、生まれる前から決まっているもので、。運命は生まれたあとに決まるものだという解釈でいいんじゃないかって思うんだ。それがこの二つの言葉の決定的な違いであり、自分の意志が及ぶのは運命だけだと言えるのではないだろうか」
「確かにそれは言えるよね。生まれる前から決まっている宿命に対しては、いくら頑張っても変えることはできなくて、これから迎えることに対しては避けることができないものだと言えるんだろうね。でも、運命というものは、自分の意志やまわりの環境が変わったことで、左右される可能性から、変えることができるもので、避けることだってできるかも知れない」
高田が具体的な例を出して話し始めた。
「それじゃあ、自分がいつ死ぬとかいうのは宿命になるのか、それとも運命になるんだろうか?」
「言葉のニュアンスから行けば、運命という方がふさわしそうに感じられるけど、実際には宿命なんじゃないかな? 人間は生まれる時も、死ぬ時も、選べないんじゃないかって思うよ」
「じゃあ、自殺する人も宿命だっていうのかい?」
さすがに高田のこの質問には即答ができなかった。
「その人が本当に死にたかったのかどうかだと思うんだよ。死ぬ以外に選択肢がないというほど追い詰められていたのだとすれば、そこに本人の意志は関係ないんじゃないかな?」
そういうと、高田は少し違う考えを持っているようだ。
「俺は、自殺も宿命だと思っている。死にたいなんて本気で思っている人なんていないと思うんだ。結局自殺することになる人だって、逆らうことのできない何かに突き動かされて自殺することになるんだ。だから、俺は自殺を卑怯だとは思わない。本人の意志は働いていないと思っているからね」
「それじゃあ、まるで死神でもいるかのようじゃないか」
「そうなんだよ。死神という発想はここから来ているんじゃないかって思うんだ。そしてもっと発想を広げれば、自分たちのまわりにいる背後霊というのが、自分の意志とは関係のない宿命を司るための監視役のようなものだと考えれば、死神も背後霊の一種だとはいえないだろうか?」
「自殺をする人に、死神がついているという発想は、少し奇抜すぎるかも知れないと思うんだけど、背後霊という発想と結びつけると、とう説得力がないわけではない。それを思うと、人が死ぬ時というのは、完全に宿命なんだって思うよ」
と黒崎が答えると、今度は高田が問うてきた。
「あえて俺は人が死ぬ時と表現したけど、それってすべて寿命だって言えるんだろうか?」
それを聞いて、少し訝しく感じた黒崎だった。
「どういうことだい? 人が死ぬ時が寿命じゃないのかい?」
「だけど、寿命というのは、基本的にはその人の人生を全うした時を寿命というものだって思うんだけど、不慮の事故や人に殺された場合は、寿命を全うしたことにならないんじゃないのかな?」
「ここはハッキリとした証明はできないので、個人で意見が分かれることだと思うんだけど、僕は寿命というのは、老衰や病気以外で死んだ場合は、寿命を全うできなかったと思っています。ただ、病気というのも、その人の不摂生であればどうなのかというのもありますけどね」
「俺は少し違うんだ。やっぱり寿命というのは、死んだその時が寿命だったと思うんだ。だから寿命というのは元から決まっていて、どんな死に方をしようが、それがその人の宿命であり、宿命そのものが寿命なんじゃないかって思うんだよ」
という高田の意見を聞くと、
「やはり君は、宿命が運命よりも絶対だという考えを持っていて、人間は文字通り、宿命に宿られてしまっているものだって考えているように思えるな」
高田の考え方は、黒崎から見ると、かなり雁字搦めに見えてきた。
「そんなに厳しく見えるかい?」
「なんだか、宗教の世界を垣間見ているような気がするんだ。全知全能の神がいて、人間はその神によって創られたものだっていう発想だね」
「なるほど、言われてみれば、宗教の世界の発想にも感じられるね。でも、俺は宗教というのは基本的に嫌いなんだ。だから、決して宗教の発想ではないんだ。もしそう思われているとすれば、俺にとっては心外だな」
と、少し語気を強めていた。
「いや、そこまでのつもりはないんだが、少し言いすぎたかも知れない。すまなかった」
と言って謝ったが、
「いや、いいんだ。俺も少し頭に血が昇っていたかも知れないな」
お互いに宿命と運命の話でここまで盛り上がるとは思わなかった。
とにかく、
――避けることのできない運命――
と感じていたが、本当は避けることのできないのは運命ではなく宿命だ。
だが、言葉としては存在している。
――では実際に避けることのできない運命というものは、本当に存在しないのだろうか?
黒崎は、少し考え込んでしまった。
高田と話をしていても、寿命や運命そして宿命に対しての答えは出てこない。
しかし、黒崎の中で、
――最初から結論は出ているような気がするな――
と感じられるものがあった。
もちろん、そこには何の根拠も存在しない。ただ自分が感じているだけだが、そう感じることで、自分の中には人にはない何かが存在しているように思えてならないのだった。
すれ違う人の中に、同じ日を繰り返している人の気配を感じるようになってから、黒崎は、永遠の命の存在を意識するようになっていた。まだまだ他人事ではあるが、不老不死を自分の中で創造することで、今までになかった何かが広がってくるのを感じたのだ。
心理学を専攻したのは、ただの偶然だった。
――別に他にやりたいこともないからな――
という漠然とした考えの中で、
――人と同じでは嫌だという自分の気持ちを自分自身で納得させるには心理学を勉強する方がいい――
という思いがあったのも事実だ。
実際に心理学を勉強し始めると、結構面白い。自分だけのことではなくて、他の人が何を考えているかなどということを垣間見ることができれば、自分の考えていることを正当化できるような気がしてくるからだ。
正当化は自分を納得させる上で重要だ。
心理学を勉強し始めると、本を読む機会が増えた。心理学の専門書ではなく、ミステリーや恋愛小説などの大衆文学である。誰から勧められたというわけではないが、本を読んでいると、落ち着いた気分になれた。勉強の合間の癒しの時間として、その貴重な時間を黒崎は過ごした。
一日のうちの四時間は本を読んでいるだろうか。一日で何冊も読むことがあった。最初はシリーズもののミステリー小説だったりしたが、次第に恋愛小説の方が増えてきた。
――興味をそそらせようとするために描かれているミステリー小説の中に出てくる官能的な部分よりも、恋愛小説の中の深みのある濡れ場の方が、僕にはリアルに感じられるな――
と感じていた。
恋愛小説の濡れ場は、ミステリー小説のような露骨な表現をしていない。読者の興奮を誘うようなことはないのだが、なぜか引き込まれていくのを感じる。
そこにはリアルな情景が、本を読み進むにしたがって想像されていく。純愛であっても、愛欲系の小説であっても、求めるものは同じであり、好きになった相手との幸せな時間であった。
それが情事であれば、求めるがゆえに嵌りこんでしまう愛憎に、自分の身が耐え切れなくなり、考えれば考えるほど、深みに嵌ってしまう。そのため、求めるものは相手の肉体であり、欲望である。そのことをいかに露骨にならないように描くかというのが、恋愛小説の醍醐味なのだろう。
愛憎が募りすぎると、えてして二人はすれ違ってしまったりする。気持ちが盛り上がれば盛り上がるほど、相手は尻込みして、逃げに入ってしまう。せっかく一度交わった二人が一瞬にして離れてしまい、二度と接近することもなく、破局を迎える。
その破局がどのような結末になるかによって、その話のスケールは変わってくるのだろうが。スケールがでかければでかいほど深い愛欲に塗れているとは言えないのも事実である。
――こんな話は男には重すぎるな――
と感じ、読むのをやめようと思った時期もあったが、読み始めると止まらないのも事実で、一度読み始めると最後まで読みきってしまうのも、恋愛小説だった。
ミステリーも、結末が気になるのは同じなのだが、引き込まれるというほどではない。あくまでもエンターテイメントとして読んでいるので、読みやすいが、読み終わってから印象に残っているというのは、稀であった。
恋愛小説も読み終わってから、印象に残っているというシーンを思い出すことはできないが、なぜか余韻だけが残っている。不快感が溢れていて、読み終わってから、
――何とも不完全燃焼な気持ちだ――
と感じるものが多い。
しかし、余韻が残ってしまっていることから、また他の恋愛小説に手を出してしまう。まるでやめようと思ってもやめることのできない麻薬のようではないか。
黒崎が読む恋愛小説のほとんどは、主人公が自分よりも年上が多い。女性の主人公は主婦であり、
――家庭ありき――
の小説がほとんどだった。
恋愛小説の中には、女性が主人公で、その主人公がOLというパターンも少なくはない。むしろ多いくらいに感じられるが、なぜか黒崎が読みたいと思う小説は、主人公が主婦のものが多かった。
黒崎は子供の頃から、家庭というものを意識したことがない。
両親に対しての思いは、肉親であったり、家族だという感情が希薄であった。小学生の頃から、親がどこかに連れていってくれると言ってついていくが、気持ちとしては、
――僕の方が付き合ってあげているんだ――
という思いが強かった。
母親は専業主婦で、いつも家にいて、家事に勤しんでいるという普通の主婦なのだが、その表情に楽しそうな雰囲気を感じたことはなかった。近所づきあいもそれほどうまくこなしているようには思えず、却って近くの主婦に出会っても、どこかいそいそしさを感じさせた。
相手はそんな母を訝しく思っているようで、近所の主婦たちの井戸端会議には入れてもらえてはいなかった。
――だから、ずっと家に籠もっているんだろうな――
と思っていた。
黒崎も、学校から帰ると、部屋に閉じこもったきりで、リビングに出てくることもなかった。
父親は仕事が忙しいようで、小学生の頃には、黒崎が起きている時間に帰ってきたことなどなかった。たまに十二時前くらいに目が覚めてトイレに起きてくると、リビングで食事を摂っている父親を見ることがあるくらいだった。母親は黙々と洗物をしていて、父も何も話すことはないようだ。疲れきっているからなのだろうが、それにしてももう少し会話があってもいいというものだ。
そんな両親だから、休みの日に、
「ショッピングセンターにでも出かけるか」
と父が言い出しても、母はそれを拒否することはない。
「お前も行くぞ」
と、父親から声を掛けられた黒崎に、拒否権はなかった。
拒否権がなかったというよりも、黒崎に拒否という選択肢が自分の中になかったのだ。どんなに面白くないと思ったとしても、ここで拒否してしまうと、大きな山がお誤記そうな気がして、それが恐ろしかったのだ。
――僕の家は、崩してはいけない緊張の上になりたっているんだ――
と思っていた。
もし、その山を崩してしまうと、修復が不可能になってしまうようで怖かった。修復できなかった時のことなど、子供の黒崎に想像できるはずもなかった。
――嫌でも仕方がない――
この思いが、その後の黒崎の性格を司ることになるのだった。
絶えず、両親の顔色を窺っていたような気がする。その時、
――相手の気持ちが分かれば、少しは違うんだろうな――
と単純に考えていた。
その思いが、心理学を志す一つになったと言っても過言ではないが、小学生の頃の黒崎は肝心なことが分かっていなかった。
――相手の気持ちが分かったとしても、自分がどうすればいいのかが分からなければ、どうしようもないんだ――
ということである。
そのことに気付いたのは、それからずっと後になってからのことで、徐々に分かってはきていたのであろうが、ハッキリと分かってきたということを自覚し始めたのは、恋愛小説を読むようになった頃からだった。
心理学を実際に専攻して、本格的に勉強し始めたのは大学に入ってからのことだったが、興味に関しては高校生の頃からあった。専門書を読んでもきっと分かるはずもないのは分かっていたので、とりあえず小説を取っ掛かりにしようと思うようになった。ミステリーを読み始めたのは高校時代からで、受験勉強の合間にミステリーをよく読んだ。
受験勉強の合間なので、それほど難しいものは却って疲れてしまう。それを思えば、ちょうど娯楽として読むにはミステリーはちょうどよかった。
大学に進学し、実際に心理学を専攻するようになると、ミステリーでは物足りない。どうして恋愛小説を読むようになったのかは自分でもハッキリとは分からないが、一冊の目に留まった小説を手にとってみると、カバー裏面にあるあらすじに興味を持った。
主婦である主人公が、いかに旦那を騙して不倫を重ねるかという話の中で、旦那が同窓会で出会った女性と、悪いことだという意識を持ち、W不倫を重ねることになるという、本来ならどこにでもありそうな小説のストーリーだった。
しかし、そんなありふれた内容なのに、ベストセラーになっているという。
――一体どこがそんなに読者を引き付けるというんだ?
というところに興味を持った。
実際に買って読んでみたが、読んでいるうちに次第に不快に感じられてきた。愛欲のドロドロとした雰囲気に、気持ち悪さが身体をゾクゾクさせた。さらに読み進むと、主人公の気持ちの葛藤が、後悔と自責の念に集中しているのだ。
――そんなに後悔するなら、最初から不倫なんてしなければいいのに――
と感じられた。
一方、旦那の方には、最初こそ罪悪感があったようだが、次第に罪悪感が消えていっていた。
それは、相手の女に魅了されているからで、相手の女をその本は、
――魔性のオンナ――
として描いていた。
相手の女は、不倫をそのまま楽しめばいいのに、急に相手の奥さんに自分たちのことを公表したいという衝動に駆られてきた。
それは、旦那の中に罪悪感の欠片も感じられないからだ。
――私は、自分の旦那に対して不倫をしながらではあるけど、罪悪感を感じているというのに、この人は何も感じていないなんて許せない――
というう気持ちからだった。
その感情をどう表現すればいいのか、黒崎は考えた。
――嫉妬や妬みではないような気がするわ――
嫉妬や妬みであれば、相手の奥さんに対しての気持ちであるはずなのに、相手の奥さんに対しては何も感じておらず、不倫相手の男性に対してだけ、恨みが徐々に膨らんでいるようだ。
――独占欲――
そう思えば納得できた。
不倫相手の女性は、自分自身への心境として、
――自分の旦那に後ろめたいという思いを抱きながら、この男性と一緒にいるのだから、私だけのものにしないと許せない――
と思っているのだろう。
もちろん、虫のいい発想ではあるが、不倫というのは、そもそもそういうものなのではないだろうか。
好きになった相手と結婚したが、次第に想いは冷めていく。結婚した時がピークで、それ以上の感情を持つことは不可能だ。
そのことを実感するのは、誰にでもあることだろう。その時にどうするか、人それぞれで、
「私は、結婚したのだから、一人と決めた伴侶のために、少々の犠牲は仕方がない」
と感じている人もいるだろう。
その思いをずっとそのまま維持できる人もいれば、無理を押し通そうとして、結局苦悩から逃れるために、不倫に走る人もいる。
縛りを自らに課してしまうことで、まわりから見て、その縛りを解いてみたくなる男性がいたりする。その男性は、きっと自分の奥さんが同じように縛りを自分に課し、夫に対して結界を設けることで、
――俺にはどうすることもできない――
と地団駄を踏むことになる。
しかし、まわりを見ると、自分の奥さんと同じような縛りを課している他人の奥さんが眩しく見えてくる。まるで、
――俺に助けを求めているようだ――
と感じてしまうと、いても立ってもおられずに、近づいてしまう。
縛りを課した女性は、その包容力であたかも簡単に縛りを解き、それまで感じることのできなかった懐かしい抱擁を感じ、甘美で浮かれたお花畑に身を預けることになる。
――それが不倫だというのなら、不倫のどこがいけないの?
と感じることだろう。
そこから、生まれるのは愛情なのか愛憎なのか、それを描くのが恋愛小説である。
ベストセラーだという目で贔屓目に見てしまったことも要因にあるのだろうが、それからの黒崎は、恋愛小説を読み漁るようになっていた。
――自分が志す心理学も、恋愛小説を教科書とできるほどの学問なのではないか?
黒崎はそんな風に考えた。
恋愛小説を読むようになって、ミステリアスな部分をどこに求めるかというのが、一つのテーマになってきた。
――同じ日を繰り返しているという感覚――
これも、ミステリアスな発想に結びついてくるのだった。
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