*⋆꒰ঌ┈ 8月15日:助けられた野良 ┈໒꒱⋆*


 僕は、お母さんのベッドで丸くなってため息をついた。


 ユズの恋人が戻ってきた。

 ユズは今、幸せなんだ。


 僕の頭の中を、その言葉だけがぐるぐる回っていた。もちろんユズが幸せなのが一番なのだけれど、僕がユズを幸せにしたかったという思いが奥深くから顔をのぞかせる。まるで、何人もの『僕』がいるようだった。

 ユズが会いに来てくれてから、僕はどうかしてしまった。病気になったのだろうか。僕は、枕に顔をこすりつけた。


 外は、ぼんやりと薄明かり。そろそろユズが来る時間だ。

 体がだるく、起き上がるのがおっくうだ。一日くらい、会わなくても問題ないだろう。そう思う一方で、別の『僕』が何か言っている。


 クロがいなくて寂しい僕のために来てくれているのに、男らしくないよ。


 もう一人の『僕』の主張はとても弱々しいものだったけれど、彼の言葉に従った。そうだ、男らしくない。

 僕は、ゆらゆら立ち上がって、窓に向かった。


「遅いわよ。」


 ユズはもう来ていた。


「こんなに美しいレディを待たせるなんて、男、失格よ?」


 僕は、バツが悪くなって下を向いた。


「ごめん。ちょっと、朝寝坊しちゃって。」


 いじけていただなんてさすがに言えず、僕は少しだけ嘘をついた。ところがユズは笑っていた。


「朝寝坊ですって? 猫なのに?」


 やはり、ユズに会いに来て正解だった。


「朝寝坊、しない? 僕はたまにあるよ。お母さんに起こされたこともあるんだ。」


「猫はね、夜行性だから日中寝るものなのよ。それなのに夜から朝まで寝るだなんて。」


 ユズが笑った理由がようやく分かった。そうか、猫は夜行性なのか。

 僕は、猫をもっと知りたくなった。


「家族はみんな夜に寝るから、夜は寝るものだと思ってたんだけど、違うんだね。」


「そういえば健太、確か猫嫌いよね。それならもちろん、他の猫と話したりしないわよね?」


 ユズの彼氏は、とても物知りだと言っていた。僕は、そうだと短く答えてユズの言葉の続きを待った。


「彼が言ってたわ。他の猫とのふれあいが少ないと、人間と似たような生活スタイルになるそうよ。健太は猫嫌いで他の猫とのふれあいが少ないから、仕方ないのかもね。」


「そうなんだ。じゃあ、心配しなくていいんだね?」


 穏やかな風が、網戸の隙間を通る。

 僕の不思議な気持ちは、心地よい風が持って行ってくれた。僕たちは、このままでいいのかもしれない。そして僕は、ユズの幸せを願った。


「そうそう。」


 ユズの声が、僕を現実に引き戻した。


「この前ね、大変なものを見ちゃったの。健太に教えてあげる。」


 空気が張り詰めた。ユズは振り返って、人間の住む街の方に目をやった。クロとは違い冷静沈着ではないけれど、少しのことでは動じない強さを持っている。


「お散歩中、とある家の前を通ったときのできごとよ。」


 ユズの真剣な声と顔に、僕はあえて口を挟まず話を聞いた。


「ちょうど今頃の時間だったかしら。そのお宅が騒がしかったから、ちょっと気になってこっそり入ったのよね。庭先に、その家に住むおばさまが、まっすぐ何かを見ていらっしゃったんだけど、なんだかとても慌てていらしたの。」


 ユズの声が途切れた。何かを思い出したのか少し震えているように見えた。


「聞きなれない音がしたわ。そうね、金属のこすれるような音だったと思う。薄明かりだったから、ちょっと見えづらかったんだけど、目を凝らしてなんとか見てみたら、そこにいたのは猫だった。でもね、なんか様子が変なのよ……。」


 そこまで話して、ユズの言葉は再度止まった。


「大丈夫?無理、しなくていいよ。」


 ユズは、大きく身体を震わせた。


「大丈夫よ。どうしても、伝えたいの。きっと何かの役に立つわ。あなたの、これからの猫生に。」


 真剣に僕を見る眼差しは、今までにない強さをひめていた。


「その猫の手の先に、何かついていたの。おばさま、携帯電話で誰かに連絡をしていたのよ。それで、猫の手についていたのがトラバサミだって判ったの。知ってる? 人間が、生き物を捕まえるために使う金属の罠よ。その猫、それに挟まれたみたい。見たところ野良猫ね。でもその子、おばさまと面識があったみたいで、『ゴンちゃん』って呼ばれていたわ。ゴンちゃんの手、何倍にも膨れ上がって、爪もあちこち向いて痛そうだった。でも、おばさまはトラバサミの外し方を知らなかったのね。おまけに、ゴンちゃんが暴れるもんだから、捕まえることもできなかったみたい。しばらくすると、騒ぎを聞きつけた近所の人たちが集まってきたわ。」


 ユズは、そこで言葉を切って一息ついた。そして少しつらそうな表情を浮かべた。


「たぶん違うわ。」


 そして、青空を仰いで続けた。


「シェリーのことを、死なせたくなかったんじゃないかしら……。」


 それはいったいどういうことだろうと疑問に思ったけれど、僕はあえて何も言わずにユズの言葉を待った。


「シェリーのお父様ね、亡くなったのよ。ご家族と一緒に。」


 僕の心臓は、破れてしまいそうな音を立てている。僕はこの前見た、テレビのニュースを思い出した。


「もしかして、一家心中……?」


 僕は、震える声で聞いてみた。何かの間違いであって欲しいと願いながら。

 しかしユズは、何も言わずにうなずいた。


「お父様が……、その……、なさったみたい。」


 思い余っての行動だったのだろう。でも違う道はなかったのだろうか。もし僕の家族だったらどうなのだろう。

 テレビの中のできごとと思っていたけれど、身近な問題なのだという現実を、ユズが教えてくれた。


「クロちゃんに必ずお迎えが来ると言っていたということは、シェリーは自分の家族がこの世にいないことを理解していたんじゃないかなって思うのよ。」


 そう言うと、ユズは夏の空を仰いだ。



*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*



 翼を持つ私の友は、氷の彫刻にでもなったかのように、少しも動かなかった。


「シェリーさんに、そんな過去があったんですね。」


 さすがの鳶も、それを言うのがやっとだった。


「ユズの話では、外を知らないシェリーはよく窓から景色を眺めていたらしい。シェリーのお父様は、そんな彼女の夢を叶えてやりたくて放したんじゃないかと、私は考えたんだ。」


 私は、ふたりの顔を交互に見た。


「家族のかたち。これもその一つだ。人間の世界の悲しい営みなのだ。」


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