第34話 『無抜』の極意

「この不手際いかように処断されるおつもりか?!」

 廊下を行く定信と乗元。定信は長直垂の装いのため、歩みは遅いがそれにいきり立った乗元が追いすがる格好である。

「この殿中で刀を抜くとは――」

 乗元の怒号にようやく定信は振り返る。はあとため息を一つ。そして手にしていた扇子を胸に構える。

「高山主膳どの、一色中将に感謝すべきぞ」

 突然意味の分からない言葉に動きが止まる乗元。感謝とは一体。

「貴殿が一色中将の咎を断罪した時、彼はずっと無言であった。もし、反論すれば貴殿に恥をかかせることに相成ったからであろう」

「恥......恥とは一体」

 またため息をつく定信。

「刀が落ちたときの一色中将の動きを覚えておるか」

 乗元は記憶の糸をたぐる。そう統秀はくるりと向きを変え、太刀を拾い上げると二度それを天井に掲げ、そしてゆっくりと鞘に――

「あの作法こそ、殿中において抜かれた刀を『無抜』する方法なのだ」

 『無抜』......聞き慣れぬ言葉に乗元は視線を泳がす。

「平穏な場にて刀を抜くは、謀反の現れ。それが故に東照大権現様は殿中での抜刀を禁止された。これは古代の宮廷においても同様である。唯一の例外が『無抜』であり、それは平安の御代より伝わりし、作法である。なにかの過ちや勢いで刀が抜けた際に、その剣呑な雰囲気とともに刀を鞘に戻す極意。この儀式によって抜刀はお咎めなしとする作法である」

「そんな作法があったなどとは......」

「貴殿が知らぬのも無理はない。これを知ったるは親藩においても古式に通じたもの、もしくは朝廷のよっぽどの公家しかそのことを知っておらぬはずだ」

「なぜ、そのことをあの一色めは説明せなんだか!」

 ふむ、と定信は頷く。

「それが貴殿の恥になるからよ。『無抜』を知らぬのに、したり顔でその罪をならそうとした貴殿の行い。もし説明すればあの場で恥をかくは貴殿であったろう。幸い使者殿も『無抜』の作法を見てホッとしておられたようだ。この件は何もお咎めなし、粛々と儀式は相進んだと記録される。それで皆丸くおさまるのであろうからな」

 どん、と大きな音で床を踏み鳴らす乗元。

 普段軽蔑していた、そして敵である『蘭癖』めに情けをかけられた恥辱。そして、学問が得意であると自負していた自分が知らなかったことがある事実。

 これ以上の恥辱はない、と乗元は真っ赤な顔をして廊下を足早に駆けていく。

 その背中を見つめながら、定信は一言つぶやく。

『そろそろ、決断せねばなるまいな』と。

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