第32話 太刀の奉納
大広間。朝廷の使者をもてなす際に使われる場所である。両側には幕閣一同大紋素襖の出で立ちで座し、朝廷の使者を待つ。その使者をまず最初にもてなすのが『高家』の大事な儀礼であった。
素襖のなりをした乗元はあたりを見回す。老中松平定信を筆頭として、上座には一橋家の家宰の姿もある。流石に将軍の父がこの場に赴くを良しとしなかったのであろう。
『蘭癖高家』がどのようななりで、慣れもせぬ儀式を取りまとめるか。一世一代の見ものであった。
触れが飛ぶ。朝廷の使者を向かいいれる合図である。
奥の襖が開き、饗応役が先頭をつとめて広間へと足を踏み入れる。その饗応役は当然、高家たる一色左近衛中将統秀である。
下げていた頭をゆっくりとあげる乗元。いつもの珍異な格好はしていまい。とはいえ、零式に則った作法も装束もあるはずもない。この短期間で揃えることは不可能なはずだ。そんな笑みを浮かべながら、顔をあげる。
なっ......
声ならぬ声が漏れる。乗元だけではない。万座の幕閣たちがため息を漏らしていた。
長直垂の正装に烏帽子を整え、紋は足利二つ引。深緑色の衣装はまるで水墨画より抜け出たような色合いである。髪は総髪なれど丁寧に髷に整え、その黒い色はどこまでも深い。
ゆっくりと畳を擦りながら進む統秀。その所作はあくまでも上品であり、また一切の人為も感じられない。ゆっくりと向きをかえ、畳の上に座し深く一礼する。
このような役柄は本来、少々老いたもののほうが威厳が出るものである。
若い、そして眉目秀麗な統秀がその所作を行うとまるで神々しき動きにも見えた。
乗元はほぞを噛む。なぜ短期間にこのような準備ができるのか。朝廷の太刀の奉納など、この江戸の世においても絶えて洗礼はないはずである。
そのような乗元の感情をよそに、少しの時間をおいて公家の一団がゆっくりと到来する。
皆、束帯にて儀礼にかなった順に畳の上に座していく。
太刀を両手に掲げそのまま使者の横に片膝で座る公家。使者の公家が笏を一度拝んだ後に、口上を申し上げる。
「この度、一橋家の祖霊舎に奉納奉らんがため京都より参りし所存。麿が名は近衛家より仰せつかりし使者一柳中納言晴久と申し上げる」
それに、ゆっくりと礼をする統秀。
「遠き都よりかようなる東国まで、公卿のお方のご足労誠に恐悦至極。我が名をこにまずは申し上げる」
一同の視線が統秀に集中する。
ゆっくりと、統秀は名乗りを上げる。
「われは一色左近衛中将統秀。本日の有職故実の饗応役をつとめまする――」
統秀の声が広間に響き渡る。それはまるで、笛の音に似た――
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