第6話 夕暮れの白河藩上屋敷

 江戸の夕暮れは、早い。秋が近づくこの折には、夕方からあっという間に夜があたりを包み込む。

 市井は賑わいを見せる時間であるが、ここ武家屋敷が多く立ち並ぶこの北八丁堀は嘘のように静かである。路地を行き交う人の影もまばらである。

 その一角に白河藩上屋敷はあった。

 そもそも松平定信は欧州の生まれではない。田安家に生まれた彼は、この江戸こそが一番馴染みのある土地である。とはいえ、白河松平氏に養子に入った以上個人の嗜好を公にすることは許されない。上屋敷とはいえ、あくまでも江戸のすみかである。必要以上にくつろぐことは、定信にとってはばかられることである。

 奥の一室。

 極めて親しいもののみが面会する際に使用される、定信の私室。

 流石に夕餉のあとということもあり、羽織を外し上座に座る定信。それでも姿勢の整いは見事なものである。

 一方下座に正座する――定信以上に肩肘張ったままで、裃もきちんと羽織っている。月代もきれいなもので、若いそのギラギラした目はじっと定信を凝視していた。

「――一色どののご所業、目に余るものあり――」

まるで、弾劾するように激しい口調で彼は訴える。

「江戸市中をあのような伴天連もかくの如き風体で闊歩する上、さらには町人と結託して風俗を見出しているとの噂も」

 扇子を手に、何度も畳を叩きながら熱弁する。

 一方定信はじっとその言葉を聞いていたが、あえて表情は変えないように意識していた。

「――商人共と結託し、なにやらあやしい企てをしているとの噂も。なれば田沼以上の乾物でありましょうぞ!」

 流石に定信は鼻白む。

 確かに、定信は前の老中田沼意次には遺恨がある。

 田沼を誅してやろうと思ったこともあった。

 自分を田安家から奥州の辺境へと追いやった、張本人。そして、幕政を弛緩させた施政者としての責任。

 しかし、それはもう昔のことである。

 田沼はそれに応じた報いを受け、一族も零落した。

 なにより、老中になってみると彼のやっている政策自体は決して誤りではないことが実感できたのである。おびただしい帳簿を見るにつけ、彼の経済政策は継続すべきとの決断を下した定信である。

 しかし、目の前の人間はそうではないらしい。

 私怨、というやつか。人間である以上それを排除するのは難しいことであるが、眼の前の人間はそれだけで行動しているようにも思えた。

 名前は高山主膳乗元、目付の役にある旗本。二千石を有する名門の家の大身の身である。しかし、田沼時代は融通の効かなさから冷遇され冷や飯を食わされていた一人でもある。

 眼光は鋭く、そして語気は激しい。

 彼は憎んでいた。

 田沼と同じぐらいに強く、『蘭癖高家』一色統秀の存在を―― 

 

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