花の香るあそこまで

田辺すみ

前編

 いつ来たのだったろうか。

 窓から見える外の様子は、暗く雨にけぶって定かではない。ときおり雲を映すのか、ひゅうひゅうと瞬くものは水面のようなので、この喫茶店は川か湖を見下ろす高台に建っているのだろう。かぶりを返せば、アンティーク調の店内は暖かく明るい。ちらほらいる他の客に混じって窓際の席に腰かけている私は、なぜここへ来たのか思い出せないでいた。


 いつも通り夜勤からアパートに戻ったまでは覚えている。超過勤務のうえ先輩の愚痴と上司の癇癪を散々聞かされ、短い仮眠を取ることだけ考えてやっと部屋へ辿り着こうとした矢先、廊下で隣りに住むオクムラ君に鉢合わせしてしまった。陰気な前髪が適当に会釈する。私より若そうだが、ほとんど外に出てこず、仕事をしている様子もなく、よく薄い壁を伝ってコンピューター・ゲームの音がしてくる。きっと親が金持ちで放任なんだろう、と浅ましく思う。「こんにちは」とだけ返して部屋に滑り込んだ。ひきっぱなしの布団へ横になると、機械油と汗のにおいが悪い夢を引き寄せるようで、けれど眠気に逆らえない。こんな生活いつまで続くのだろうか。蒸発した父親の借金と、故郷の母親の薬代、町工場で働けるようになったはいいが、ノルマは厳しい。疲れて、焦るばかりで、何の希望も無い。


 そんなどうにもならない不安で眠いのに寝付けず、また起き出してコンビニに行ったはずだが、その途中でこの喫茶店を見つけたのだったろうか。しかし天気は良かったはずだ。もうすぐアパート脇に立っている桃の木の蕾も開くだろうな、という陽気だった。まあいい、たまには喫茶店でゆっくりコーヒーでも飲むのも悪くないかもしれない。しかしおかしなことに、一人の店員も見つけることができなかった。他の客たちは皆、静かに手元の飲み物や軽食を摂っているようだった。


 手持ち無沙汰でいるのも座り心地が悪い。水はセルフサービスらしいので、立ち上がってピッチャーの置いてあるコーナーまで向かおうとしたが、最後のピッチャーは目の前で持ち去られてしまった。むっとしてその男性のあとを目で追うと、彼のテーブルには既に幾つものピッチャーが空になっていた。男性は席に戻ると、グラスに水を注ぎ、猛然と飲み出した。


 半分呆気に取られて見ていると、向かい合って座っていた連れらしい男性が、私の視線に気付いて苦笑した。

「許してやってくれないか。俺達『燃えちまった』もんだから、喉がかわくんだ」

 その男性は対照的に、オリーブをツマミに舐めるようにグラスをあおっていたが、カーキ色のジャケットにも濡れて黒ずんだ染みが浮いていた。


 諦めて踵を返し、自分の席に戻ろうとすると、橙色のライトを鈍く散らす、場違いのように美しいドレスの女性と目が合った。蜜色の肌にくっきりとした目鼻立ち、宝石類に彩られた豪奢なアクセサリーと、蛇のように幾重にも身体に巻きつく煌びやかなドレス。思わず見惚れて足を留めた私に、女性はにっこりと微笑んだ。

「じろじろとすみません。素敵なドレスですね」

「有り難うございます。故郷の伝統的なウェディング・ドレスなんです」

 ウェディング・ドレスで喫茶店に来るものだろうか。心中傾げた小首が見えるわけもなかろうが、女性はまたうっそりと口角を上げた。

「逃げてきたんです。家の決めた結婚が嫌で」

 テーブルの上の茶器に視線を戻す。金箔の施されたグラスから香気を漂わせる紅茶と、お茶受けのドライ・フルーツはあんずのようだった。

「一生婚家から出られないなど耐えられません」

 二人で学校帰りよくお喋りをしたあんずの木陰で、あの子は待っていてくれると言った。祝宴の夜陰に紛れて走った。あの子の手を取ることができた時、とても幸福だった。けれど家人と追っ手に捕まるのは、時間の問題だった。

「彼女の身分なら無下には扱われないでしょう。私は、最後に会えただけで報われました」

 願わくば、私の故郷の女性たちが、これからもみんな安全に自由に生きることができますように。


「君、すまなかったな、気付かなくて。今新しい水を汲んでくる」

 萎れる寸前の薔薇のようにあでやかに微笑む女性に、私は何と言ったらいいか分らなかった。立ち尽くしていると、先程の男性が声を掛けてきたので、反射的に「有り難うございます」と振り向いてしまう。やはりカーキ色のジャケットを着た体格の良いその男性は、気さくに手を振ってくれたが、その色白の首から半顔には、火傷の跡が刻まれていた。

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