第3話 老人と引きこもり
とどまるところを知らない想像を巡らせていた武明は、ふいに我に返った瞬間があった。その瞬間というのは、夢と現実の狭間を感じた時で、夢を見ている時に感じることはないが、目が覚めている時に急に感じることがあった。
――起きていても夢を見るんだろうか?
その夢は、実際の世界の中で、ふいに感じる矛盾が悟らせてくれる。その時に感じるのは、
――起きている時に見る夢は、現実世界の中では、堂々巡りを繰り返している――
と感じることだ。
寝て見る夢というのは、時間的な感覚はマヒしているが、起きている時に見る夢というのは、意識した時間にピッタリと嵌っている。つまりは、急に時間を飛び越えることはない。ただ、夢に飛び込む時は時間を飛び越えているようで、普段自分が想像している範疇にある時は、それが夢なのか、妄想なのか、分からなくなっている。
しかし、何度か妄想が堂々巡りを繰り返しているのを感じることがあるが、そんな時は妄想ではなく、夢を見ている時ではないかと思うようになった。
今回の井戸への思いは、妄想ではなく夢を見ているようだ。夢の中で何度か我に返ったように感じ、その都度、孤独を感じる自分にもう一人の自分が語りかけているのを感じていたからだ。
そのことを感じるようになったのは、引き篭もりになってからしばらくしてからのことだった。
一度引き篭もってしまうと、表に出ていくことができない。それは表に出るのが怖いからではなく、妄想なのか夢なのかが分かっていない時に現実世界に飛び出すと、引き篭もった自分を、自分の力で抜け出すことができなくなるのではないかと恐れるからだ。
引き篭もってしまう最初の意識は、意地から始まっていた。このままでは世の中に適応できない自分と、目の前で繰り広げられようとしている夢の正体を知らずに表に出ることは、一度閉ざしてしまった自分の気持ちを開放することを嫌う。あまりにも当たり前のことしか言わないまわりは、それを勝ち誇ったようにいう。成長を意識しないそんな連中からの言葉に対し、どう言えばこちらの思いが通じるのか分からない。態度で示すと、引き篭もるしかなくなってしまうのだ。
だが、引き篭もってしまうと、自由な発想はとどまるところを知らない。
当たり前のことを当たり前にしか言わない連中を見下すくらいの気持ちになってくる。そうなると、自分を卑下する必要など何もない。だから、一度引き篭もってしまうと、まわりが見ているほどの孤独感はなく、自由な発想から、まわりに対しての優越感すら生まれてくるのだ。
武明は引き篭もってからしばらくは寂しいなどという感覚は忘れていた。まわりから無視されて次第に孤立していくわけではなく、自分からまわりを遠ざけているのだから、寂しいという感覚はない。それは自分を一度リセットして、
「一からやり直す」
というわけではなく、
「ゼロからの出発」
だと考えれば、大きなプラス思考だと思っている。
一からだと、やり直すことになるのだが、ゼロからだと、出発になるのだ。制限のある一とは違い、ゼロは無限の可能性を秘めている。一度すべてをぶっ壊して、新たな世界を構築するという考えが、引き篭もっている時に自分の中で一つの結論として浮かんできたものだった。
「自分と共鳴する人とでなければ付き合わない。そういう意味では、親であっても、その選択肢の中にある」
と言っていた武明だった。
さすがに今まで生きてきた人生をすべてぶち壊して、ゼロからの出発を試みるのは無理だった。しかし、限りなくゼロに近づけることはできる。武明にそんな発想をもたらしたのは、隣の家の庭先の老人だった。
――あの老人を見ていると、どうしても寂しそうには見えないんだ――
と感じていた。
息子夫婦がいる間も、いなくなってから綾乃が付き添うようになってからも、そして、綾乃の姿が見えなくなってからも、老人の雰囲気はまったく変わらない。
――老人には、まわりの誰も見えていないのではないだろうか?
と思うほどで、何をどう悟れば、あのような雰囲気の変わらない人間になることができるのだろう?
頭の中で発想が飽和状態になった時、武明は急に我に返った。
――そうか、急に我に返ることがあるが、そんな時は頭の中が飽和状態になった時なんだ――
と、いまさらながら当たり前のことを思い出したようで、思わず苦笑いをしてしまいそうになった。
「どうしたんですか?」
それに気づいた風香は、武明に声を掛けたが、
「なんでもない」
と、少しつっけんどんに言い返すと、今度は風香が苦笑いをした。
そんな雰囲気の中、風香の視線が入り口に向いたのに気づき、武明も反射的に入り口の方を振り返った。
武明がその人物を確認すると同時に、後ろから風香の
「いらっしゃいませ」
という声が聞こえた。入り口に立っていたのは見覚えのある顔だったが、それが隣の杉下老人であることになぜかすぐに気づかなかった。
杉下老人が現れたことは、武明には衝撃的だったが、なぜかビックリしたという感覚ではなかった。老人がこの店に現れたということよりも、いつもは上から見下ろす形で見ている相手を、座っているところからなので、ほんの少しではあるが見上げて見ることに違和感があったのだ。
その違和感がそのまま衝撃的なイメージに繋がった。縁側にいる時と表情はまったく変わらないが、客を迎える側の風香の表情には、薄気味悪さを感じている素振りはまったくない。むしろ人懐っこさすら感じさせるほどで、
――初対面ではないのだろうか?
と感じさせるほどだった。
杉下老人は新聞受けから新聞を取って、一番奥のテーブルに座った。その日は他に客もいなかったので、いろいろ自分勝手な妄想ができると思い、実際に井戸の話から、勝手に膨らませた妄想を抱いていたのは事実だった。
普段なら、そんな妄想の妨げになるような他人の来店を快く思わないはずの武明だったのだが、その時は邪魔をされたという意識はなかった。どちらかというと老人の出現は、自分の中では歓迎すべきものだったようだ。それだけ老人は存在しているだけで、どこにいても武明の妄想のタネになるようであった。
風香が水を持っていくと、
「コーヒー」
とたった一言言っただけだった。
他の客なら別に意識はしないが、杉下老人の一言は、さらに何か他の一言を誘発しそうで、おかしな感覚になっていた。
「杉下さん。マスターを呼びましょうか?」
と風香がいうと、
「ああ、そうしてくれるかな?」
と、風香を見上げてそう言った。その時の表情は、今まで知っている杉下老人とはまるで別人で、その顔には人懐っこさが溢れていた。しかし、人懐っこさが溢れていても、その表情の根底にあるのは、いつも縁側で見せている表情だった。それだけ武明にとっての杉下老人のイメージは、少々のことで変わることはないようだった。
風香は、杉下老人に一瞥して、踵を返してカウンターの奥に引き下がった。そして、かわりにマスターが表に出てきて、杉下老人のところにやってきた。
マスターを送り出した風香は、またカウンターの武明の正面にやってきて、荒いものを始めた。少しして思い出したようにマスターに、
「マスター、私お買い物に行ってこようかと思うんですが」
時計はちょうど午前九時を指していた。
近くのスーパーは午前九時から営業をしているので、まるで待っていたかのような風香の言葉だった。
「そうだね。じゃあ、今のうちに行ってきてもらおうか」
と言って、風香に目配せをした。風香もニコリと笑顔で頷いて、武明を見た。
「須藤さん、もしよろしければ、ご一緒しませんか?」
武明はすでにこの店では常連になっていて、風香の買い物の手伝いには何度か行ったことがあったので、違和感はなかったが、杉下老人が来ているのに表に出るのは少し遠慮したかったが、せっかくの風香の誘いでは断わる気にはなれなかった。
「じゃあ、須藤君。お願いするよ」
と、マスターからも言われてしまっては、すでに大勢は決していた。
「風香ちゃん、それじゃあ、一緒に行こう」
と言って、武明は席を立った。
表はすでに日は高いところまで昇っていて、朝の時間は過ぎてしまった気がした。
ただ、影に入ると少し寒い。やはり朝は朝なのだ。
風香にしたがって表に出ると、風香が話し始めた。
「さっきのお客さん、杉下さんというんだけどね、あの方はマスターと以前から知り合いのようなの」
「そうなんだね。風香ちゃんがすぐにマスターを呼びに言って、マスターがすぐに飛び出してきたのを見た時にそう思ったよ。でもね、不思議な感覚でもあるんだ。マスターは杉下さんと呼ばれるその人の顔を見ても、懐かしそうな表情や、人懐っこさも感じられなかった。まるで事務的な雰囲気しか感じなかったのは、なぜなんだろうね」
武明は、杉下老人が自分の隣に住んでいることや、老人のことを知っていることすら黙っていようと思った。本当は最初、老人を知っているということをすぐに口に出そうと思った。思わなくても衝動的に口から出てきてもよさそうだったのにそれがないということは、最初から知っていることを隠さなければならない何かを感じていたからに違いなかった。
「それはきっと、杉下さんの雰囲気にあるんじゃないかな? あの人に対しては社交辞令や懐かしさ、そして人懐っこいという概念はないのよ。私が思うに、あの人の中に、孤立はあっても、孤独というイメージがないために、余計な感情や人との付き合いに必要な態度など、ないといってもいいわ。私も最初はとっつきにくくて苦手だったんだけど、今では一番気楽にお相手ができる人の一人になったのよ」
「そういう人って意外と多いのかも知れないね。僕は前から孤立と孤独の違いについていろいろ考えたことがあったので、風香ちゃんの話も分かる気がするんだ」
風香の顔を見ていると、さっきの井戸の話を思い出した。自分が井戸の中に入り込んだところまでは意識という記憶があるのに、それ以降の記憶はない。やはり夢を見ていて、忘れてしまった夢の中の一つになるんだろうか。
「杉下さんという人は、私がこのお店でアルバイトをする前の常連さんだったらしいの。でも三年前くらいから急に来なくなって、マスターは心配していたらしいんですが、最近また来るようになったらしいの。どうやら、同居していた息子さん夫婦が出て行かれてから、またここに来るようになったということだわ」
確かに息子夫婦がいなくなってから、朝の時間、老人が縁側に姿を見せることはなかったが、それは綾乃と一緒にいるからだと思っていた。
「杉下さんというのは、いつもこのお店には一人で来られるの?」
と、ふと頭の中に綾乃の顔が浮かんできた。
「いいえ、一度女性の方と一緒に来られたわ。実に気が利く女性で、杉下さんをしっかりフォローしていたわ」
「物静かで清楚な感じの女性なんだね?」
「ええ、でもここでは絶えず彼女が喋っていたわ。杉下さんが何かを言おうとしても、それを遮って自分から口を開くようなそんな感じ」
武明が知っている綾乃とは雰囲気が違っているようだ。
――ということは、綾乃とは別の女性と一緒に来ているのかな?
と思った。
しかし、一緒に来たのが一度だけと言うのはどういうことだろうか?
一度は一緒に来たということは、一見ではない店でのことなので、知られたくない相手ではないはずだ。武明には、それでもその女性が、綾乃以外には考えられない気がしていた。
「ところで、その女性は風香ちゃんにはどんな感じに思えたの? 杉下さんに対してというのかな?」
「最初は、お孫さんかと思ったんですよ。でも、お孫さんにしては、年齢が近い気がしていましたし、娘だとすれば、今度はかなり年が離れているでしょう? まさか、愛人という風にも見えなかったし、愛人だったら、簡単に人前に見せないと思うし、一度見せたのなら、それ以降も一緒に来ていそうな気がしたのよ」
その話を聞いて、それは今自分が感じたことだと思うと、今度は逆の発想が浮かんできていた。
「でも、愛人だとして、一度顔見せしておいて、まわりが愛人だという目で見ていると判断したから、もう連れてこなくなったのかも知れないですよ」
「私もそれは考えたわ。でも、杉下さんは、それからも一人でちょくちょくこの店に来るようになったんだけど、どうも寂しそうには見えないのに、前に比べて小さく見えるような感じがしたの。最初は、それがどうしてそんな風に感じるのか分からなかったわ。でも、次第に分かってきたの」
「どういう風に?」
「杉下さんは、小さく見えるようになったわけではなく、遠くに見えている感覚なのよね。テーブルの位置は変わらないので、遠くに見えているとは思えない。だから、最初に小さく感じてしまったんだと思ったわ」
「女性と一緒にいる時は、遠くに感じられた?」
「ええ、その女性と一緒に来た時からそんな感じがしていたの。だから私、杉下さんとはほとんどお話したことはないの。マスターはいろいろお話を聞いているようなんだけどね」
「じゃあ、杉下さんのことはマスターに聞いた方がよさそうだね。風香ちゃんは、杉下さんのことをマスターに訊ねてみたことはあったの?」
「いいえ、ないわ。私が聞いても、何も教えてくれないような気がしたの」
風香はそういうと、少し寂しそうな表情になった。
風香がそう思うのなら、武明は自分が聞いても同じなのかも知れないと思ったが、とりあえずは聞いてみようと思った。
「ただいま」
風香が扉を開けて中に入ると、すでに杉下老人は帰っていて、客は誰もいなかった。カウンター越しにグラスを拭いているマスターを見ると、マスターはバーテンダーをしていても似合うように思えたのだ。
「おかえり」
マスターの返事が返ってくると、それを聞きながら風香は買ってきたものを奥にしまいに行ったようだ。
武明は最初に来た時のいつもの指定席であるカウンターの一番奥に座り、いつの間にか荒いものの手を休めてコーヒーを入れてくれようとしているマスターの姿が目に入った。
「風香ちゃんのボディガード、ありがとう。新しいコーヒーを淹れるので、少し待ってくださいね」
と、マスターはニコニコしながら、手際よくサイフォンを扱っていた。
この店のコーヒーは、コーヒー専門店にも負けない味を出している。店内にはコーヒーの香ばしい香りが溢れていて、表がどんなに寒い時でも、コーヒーの香りを嗅げば、暖かさはすぐに訪れるのだった。
「はい、どうぞ」
すでに用意は万端だったのか、すぐにコーヒーを持ってきてくれた。新しく淹れなおしたようで、表から帰ってきた時に感じた安心感を、再度感じることができた。
エプロンを引っ掛けて、奥から出てきた風香が、
「マスター、須藤さんは杉下さんのことが聞きたいらしいの。杉下さん、須藤さんのお隣に住んでいるらしいのよ」
――やっぱり風香ちゃんは、エプロン姿がよく似合う――
と感じていた矢先に、いきなりそんなことを口走った風香にビックリした。
さっきは、聞いても教えてくれないので、私は聞かないと言っていたばかりではないか。その言葉にも戸惑ってしまった武明だった。
するとマスターは、少しだけ表情を変えた。
今まで戎様を思わせる笑顔だったのが、無表情に変わった。最初から無表情であれば何も感じないのだろうが、ドキッとされられるような雰囲気に、一瞬後ずさりしてしまいそうだった。
どうしてドキッとしたのかというのはすぐには分からなかったが、分かってみると、当たり前のことだった。
――何を考えているのか分からない――
この思いが不気味さを醸し出し、ドキッとさせられたのだ。
だが、マスターは口を閉ざすことはなかった。
「杉下さんは、私の師匠なんですよ」
いきなり結論めいた言葉から入ったのは意外だった。普段話をしていても、どちらかというと理路整然とした話し方をする人なので、いきなり結論から言うというのは、
――他のどこから話したとしても、結局は同じなのかも知れないな――
と思わせた。
「師匠? それは何の師匠なんですか?」
というと、マスターは少ししたり顔になって、
「私は、これでもバーテンダーの資格を持っているんですが、杉下さんは、私が若い頃、バリバリの現役で、よく教えてもらいました」
やはり、マスターのいで立ちや立ち振る舞いは、バーテンダーの資格を持っているだけのことはあるというものだ。
「そうだったんですね。でも今の杉下さんからは、なかなか想像もできませんが」
と言うと、
「須藤君は、杉下さんのことをよく知っているようだけど、あの人は内面をなかなか見せない人なので、実際に関わってみないと分からないところの多い人なんですよ」
少し棘を感じる言葉だったが、それを皮肉っぽく言わないのも、マスターの特徴ではないだろうか。
「どこか秘密っぽさを感じさせる人だとは思っていましたけど、まさかバリバリのバーテンダーだったなんて、意外でしたね」
というと、マスターはさらにニヤッと笑うと、
「あの人は、寂しい人なんだけど、その寂しさを表に出せないところが性格的にきついところなのかも知れないですね」
「寂しそうには見えますよ」
「そうですか? 寂しいというのは、漠然と寂しく感じる時と、それまで自分のまわりにいた人が去った時に感じる寂しさとがあるんですが、あの人には漠然とした寂しさは感じられないんです。私は少なくとも感じたことはなかったですね。一度、自分のそばにいた大切な人に去られた時のあの人の落胆を知っているだけに、余計にそんな風に思うのかも知れません」
「そばにいた大切な人?」
「ええ、それは杉下さんの奥さんです。奥さんはまだ四十歳代半ばで亡くなられたんですけど、病気と分かってからの杉下さんはバーテンダーからも引退して、奥さんのために献身的に尽くしましたよ。息子さんも、それなりに応対はしていたようなんですが、さすがに杉下さんのようには行きません。まだまだ学生だったので、杉下さんが奥さんの面倒は自分が診ると言ったんでしょうね。奥さんが亡くなってからしばらくは、杉下さんは精根尽き果てて、抜け殻のようになっていましたよ」
それを聞いて少し考え込んでいると、マスターは続けた。
「今と変わらないと思っているでしょう? いえいえ、全然違いますよ。今は整然としているけど、あの時の落胆は今にも後追い自殺してしまうんじゃないかって、まわりの皆心配するほどでしたからね」
「息子さん夫婦に対してはどうなんですか? 自分の関心の外のような気がして仕方がないんですが」
「それはその通りでしょうね。奥さんと杉下さんの間のことは誰にも分からない。そして息子さん夫婦のことは、いくら父親だといっても杉下さんには分からない。そのことをしっかりと理解しているんじゃないですかね」
「ということは、今の杉下さんは、奥さんを亡くしてからの延長にいないように思えるんですけど」
「それもいえるかも知れません。杉下さんは奥さんが亡くなってから、しばらくは本当に抜け殻でした。それから少しずつ元気を取り戻していったんですが、その時、バーテンダー協会の別の仲間が悪気はなかったと思うんですが、杉下さんを慰めようとして、スナックやキャバクラなどに連れていったようなんです。最初の頃は、ただついていってだけだったようなんですが、途中からのめりこんでしまうようになったようで、結構風俗などいろいろ通い詰めたりしたようです。人から聞いた話、そんな杉下さんと、キャバクラの女性が仲良くなったりならなかったりということでした」
「杉下さんが風俗に? にわかに信じられる話ではないですね」
「それはそうでしょうね。でも、だからと言って、杉下さんは自分を見失うようなことはなかったようですよ」
「風俗通いをしていてもですか?」
「ええ、そうですね。風俗通いをしていたからと言って、自分を見失う人ばかりだというのは偏見ではないでしょうか? 風俗に対しても、通っている人に対してもですね」
「確かにそうかも知れませんが、杉下さんを見ていると、風俗通いの影響であんな風になったのではないかと思えてくるからですね」
「それは違うと思います。杉下さんは風俗に通って女の子とお話をすることが好きだというところから始まったようです。実際に杉下さんは、EDだった時期があったくらいですからね」
「今は治っているんですか?」
「ええ、治っているようですね。精神的な部分が発端で、軽症だったんでしょう」
「それはよかった。奥さんが亡くなったショックもあったのかも知れませんね」
「だから、杉下さんが風俗に頻繁に通うのも、治療の一環の意味もあったんですよ。本当はこんなこと、他人に話してはいけないとも思っていますが、杉下さんは須藤君になら話してもいいと言っていたんですよ」
「えっ?」
武明はビックリして、目をカッと見開いてマスターを見た。
この言葉は、武明を屈辱の底に叩き落すものだったが、話の流れからそこまで屈辱を感じる必要もないことに気が付いた。
それを見て、マスターはまたしてもしたり顔になり、にんまりとしていたが、このことでどうしてマスターがしたり顔になるのか、理解に苦しんだ。
「実は、須藤君は気づいていないと思っているのかも知れないけど、杉下さんは君が二回のベランダから毎日見ていることに気づいていたんだよ」
何となくそんな気もしていたが、あらためて言われるとビックリしてしまう。武明がどんな目で見ていたのかを鑑みると、杉下老人も自分のことを曝け出してでも、もう一度自分を見てほしいと思ったのではないだろうか。
「そうですか、僕が見ていたのを知っていたんですね?」
「ええ、あなたは上から見ているので、全体を見渡すことができるんでしょうけど、その分遠く感じられているはずですよね。でも、向こうのように下から見上げる時は、比較的近くに感じられるものなんですよ。それが見ている方と見られている方との感覚の違いに微妙に関係してくるんでしょうね」
確かに下から見上げるよりも上から見下ろす方が、遠くに感じられる。それは、
――高所恐怖症――
と言われるように、元来高いところを怖いものだという意識が本能として身についているからに違いない。
そういえば子供の頃に冗談で、
「高所恐怖症の鳥なんているんだろうか?」
と、友達と口論したことがあった。
友達は、
「いるんじゃないか? 鳥だって空を飛びながら怖いと思っているやつもいるかも知れないぞ」
と言っていたが、
「それじゃあ、鳥としての機能を果たせないじゃないか。鳥としては失格だよ。神様がそんなものを創るはずはない」
と、武明は言い返した。
本当は半分くらい、友達の意見もありではないかと思っていたが、先に意見を言われてしまったことで、反対意見に回るしかなかった。意見が同じなら、話がそこで終わってしまうからだ。武明はまわりを敵に回してでも、話を続けたかった。
なぜそんなにこだわったのか、その時はもちろん分かるはずもないが、ひょっとすると、今のような話を将来においてしないとも限らないという予感めいたものがあったからなのかも知れない。
それに、老人がこちらが見ていたことをいつから知っていたのかということも気になる。自分の屈辱的とも思える過去をまったくの他人に話してもいいと思うくらいなので、かなり意識していることは確かだろう。
最近気が付いたので、その分まだ驚きが残っているのだとすれば、少しは分かる気もするが、この店に入ってきてから武明に気づいた時、もっとビックリしてもいいのではないだろうか。
ただ、老人に見られたという意識は一度もなかったのが気になるところだ。偶然、目が合ったということだろうか? いや、少なくとも武明には目が合ったという意識はない。もし目が合っていたのだとすると、反射的に隠れようとするはずだ。そんな意識も記憶の中にはない。やはり、武明の意識しないところで、老人の方が意識していたというだけのことなのだろうか?
杉下老人が風俗に通っていたというのは意外だった。
だが、それは今の老人から見ているからそう思うのだろうが、奥さんが亡くなってから、ずっと時系列で老人のことを見ていれば分かることなのかも知れない。
――杉下老人がまさかEDだったなんて――
奥さんを亡くしたショックがそれほど大きかったのだろうか?
ただ、奥さんを亡くしたショックが大きかったのだとすれば、風俗に通うというのは合点がいかない。老人が風俗に対して自分が立ち直るために必要なものだと意識していたということなのか。
武明は、大学生の頃に初めて先輩から連れて行ってもらったのが最初だったが、その時は「筆おろし」をしてもらった。恥ずかしいという思いはあったが、決して屈辱感はなかった。むしろ、彼女たちの存在が必要不可欠なものであることを実感したのであって、軽蔑の目を向けたことはなかった。
だが、これが他人だと思うと、まったく違った目線を向けることになった。自分にだけは必要であるように思わせるのは、何とか自分だけに正当性を認めたいと思う感情であって、
――すべてを言い訳というオブラートに包んで、自己を守るという観念がベールとなって、そのまわりを包んでいるかのようだ――
と、感じさせたのだ。
――何かが入れ替わっているかのようだな――
今まで風俗に対して偏見を持っていたのは事実だった。しかし、この話を聞いてから武明は、風俗に通ってみた。自分が引きこもりであるという自覚がある中で、別に世の中を呪っているという思いもなく、なぜ自分が引きこもりになったのか、その理由も今の自分の中では曖昧だった。
世の中に失望したり恨みを持っている人が引きこもりから立ち直るのは、這い上がるだけの気力を持てばできることなのかも知れない。恨みを持つだけの気力を逆に向ければ、抜けることができるのではないかと思うのは、武明の勝手な思い込みに過ぎないのだろうか。
武明は、自覚はあっても、曖昧な意識しかない。気力があるのかと言われると、今の自分はなるようにしかならない。流されているだけだと思っているので、気力という意味ではないのだろうと思っている。実際に流されるだけの毎日もまんざらではなく、誰からも文句が出ることのない人生は、ものぐさと言われればそれまでなのだろうが、悪くないと思っている。
引きこもっている間、テレビを見たりゲームをしたり、一人でできるおとも結構あった。別に人と関わらなくても生きていける。もし、お金がなくなれば、適当にアルバイトをして食いつなげばいい。別に贅沢をしたいと思っているわけではないので、自分の居場所になるスペースさえあれば、それで満足だった。最低限の生活をするだけの能力は、まだまだ残っていると思っていた。
それだけに、引きこもっていることに不安はない。
「将来はないぞ」
と言われたとしても、
「どんな未来を、あなたは将来と呼ぶんですか?」
と言ってやりたいものだ。
きっと相手は何も答えられないだろう。それでも何かを言おうとしているとすれば、武明にはその時の会話を垣間見ることができるような気がしていた。
「どんな将来って、誰にだってやりたいことがあるだろう? 達成させるための目的を立てて、そこに向かって邁進するということなんじゃないか?」
言葉は違っても似たような言い方になるに違いない。
そんな話を聞くと、思わず吹き出してしまうかも知れない。ありきたりなセリフは歯が浮いてくるようで、聞いていて情けなく感じる。相手に情けなさを感じると、思わず吹き出してしまいたくなるものなのだろう。
「なんか、当たり前のことを言われても、別に何も感じないんですが。私だって、そんなことは分かっているつもりですよ。それを真剣に語られると、思わず吹き出してしまうというものです」
「分かっているなら、どうして、その思いを追求しようと思わないんですか?」
「追及? それはその思いに賛同できて初めて感じることでしょう? 私は賛同できません。いや、賛同という次元ではないんですよ。何しろ最初から他人事のようにしか思えませんからね」
としか答えられない。
普通であれば、説得する方も相手の口から、
――他人事――
などと言われると、そこで引いてしまうだろうが、中には熱血を感じている人は、さらに言葉を重ねようとするだろう。
「もっと自分の人生を大切にしないと」
という話になってくるだろう。
「自分の人生って何なんですか?」
この質問をすると、返ってくる答えは分かっているような気がしている。その答えが自分にとってのボーダーになることが分かっているので、さっさとその言葉を引き出したい気がしていた。
最初は、何と答えていいか考えるかも知れないが、最後には、この言葉に限りなく近い答えを返してくることだろう。
「親からもらった人生だよ」
――そら来た――
この言葉を待っていた。
一番自分が嫌いな言葉。元々引きこもりになり、一人きりの人生を選んでいる相手に、親という言葉はある意味では禁句だった。引きこもっている人間にだって、親を意識しないわけではない。相手はそこに付け込むつもりなのかも知れないが、すでに引き込んだ時点で、親への意識は他の人とは違うものになっている。普通に説得しようなどというのは、発想としては浅はかなものだと言ってもいいだろう。
「そうなんですよね。しょせんは人からもらった人生なんでしょう? あなたの言っていることは、矛盾していると思いませんか? 皆自分の人生を大切にしているのは、親からもらった人生だからなんですか? バカバカしいですよ」
ここまでいうと、まずそれ以上の言葉を返してくる人はなかなかいないだろう。
人によっては引きこもりから立ち直った人もたくさんいる。どうして立ち直れたのか、武明には分からないが、引きこもりではなくなったことを立ち直ったというのは、何かが違うと思う反面、それ以外に表現できないのも事実で、それはそれで別に構わないと思っていた。
「引きこもりって世の中の人はいうけど、そんなに悪いものなのなんだろうか?」
というと、
「それはよくはないだろうね。私が思うに、人生を立ち止まって見つめ直すわけでもなく、ただ漠然と時間だけを浪費している。それが悪いと思うんだ」
「確かに、そう考えると、その時間を後になって後悔しないかと言われると、後悔する可能性は高いでしょうね。後悔というのは、する時にならないと分からない。過ぎてしまった時間を取り戻すことはできないのだから、これ以上のやるせない気持ちはないと確かに感じますね」
「そこまで分かっているのなら、どうして引きこもってしまうんですか?」
「先が見えないからですよ。皆さんは先が見えているんですか?」
「先が見えている人なんて、いるはずはないと思いますよ。予知能力でもない限り、先は見えません。先が見えないから面白いという人もいますけど、それは何か言い訳がましく聞こえてくるんですよね」
「それは私も同感ですよね。確固とした目的を持っていて、それに対しての計画もしっかりできている。そんな人がいう言葉なんだって思いますけど、そんな人が一度でも、そして少しでも道から外れてしまったら、どうなるんでしょうね?」
「それこそ、その人それぞれなんじゃないでしょうか? 思い悩んで、そこから新たな道を見つける人もいる。逆に挫折して立ち直れず、引きこもってしまう人もいる。絵に描いたような転落人生を歩む人だっているでしょうね」
「そうでしょう? だから、人生に目標を持つのって、すごいリスクを背負っているような気がするんですよ。さっき、引きこもっていた時間を後悔するんじゃないかって言われましたよね? でも、目標から外れてしまって、引きこもってしまったり転落人生を歩むことになる人は、どんな後悔をするんでしょうね。僕には想像もつきません。考えただけで身体が震えてきて、止まらなくなりそうなんですよ」
自分が言っていることは、生きていく上で身も蓋もないことだということは分かっているつもりだ。しかし、自分も引きこもっているだけの自覚を持っている。それが自分に対しての自信になっていると言えば矛盾しているようだが、それ以外に表現する方法を知らない。武明は今までにこんな会話をした経験はないが、想像の中で時々会話をしていた。いわゆるシミュレーションとでもいうべきであろうが、誰かと話をしても、そうは内容は変わらない気がしていた。
ここまでは想像だったが、今は妄想もしていた。それは、喫茶店でマスタから聞いた杉下老人の話の中で風俗通いの話が出たからだった。
引きこもる前に、人生経験という程度の意味で先輩から連れていってもらった風俗。今でもその時のことは覚えているが、細かいところは実は記憶が曖昧だ。それだけ緊張していたということなのだろうが、今から思えば緊張というよりも、ワクワクした気持ちが空回りしていて、それを自分の中で照れ隠ししていることで、記憶が曖昧になったのだろう。それは自分だけに言えることではなく、他の人にも言えること。風俗以外でも、どこか後ろめたい気持ちを抱いていることに対して、照れ隠しをしたくなるというのは人間の本能のようなものなのかも知れない。ただ、そのことを意識している人は、そんなにはいないだろう。
武明は、引きこもってしまったことで自分の欲望を抑えてきたというのを、今更ながらに感じた。引きこもりを自分の欲望からだと思っていたのは、実は引きこもるための口実として考えていた時で、実際に引きこもってしまうと、欲望を持っていないということに気づいていなかったのだ。
引きこもり自体が満足に繋がると思わなければ、引きこもりを続けていくことはできない。なぜなら、引きこもっている間に我に返ってしまうと、鬱状態に陥ってしまうことは分かっていることだったからだ。
――引きこもっている時に鬱状態に陥ってしまうと、二重の苦しみを味わうような気がする――
と感じたからだ。
ということは、
――引きこもりを苦しみと感じている証拠ではないか?
と感じてしまった。
引きこもりを苦しみと感じないからこそ引きこもれるのであって、苦しみと感じた時点で、引きこもりから抜けられないことが確定してしまったようで、それ以上自分を苦しめることを躊躇ってしまう。
――引きこもりが永遠に続くものではないという考えがあるから、引きこもることができるのだ――
この考えは、引きこもった最初から持っていたわけではない。引きこもってしまってからしばらくしてから感じたことだ。そのために何かきっかけがあったような気がしたが、それが何だったのか覚えていない。引きこもりというのは、永遠であれば、自分は引きこもりに支配されて、最終的には自分ではいられなくなることを分かっているような気がしている。何が怖いと言って、自分が自分でいられなくなることが、一番怖いと思っていたのだろう。引きこもりにはそんな危険性が孕んでいた。
だが、引きこもっておらず、他の人とのコミュニケーションを密にしている人が、
「自分が自分ではなくなってしまう」
ということはないという保証はどこにもない。
引きこもってしまってからの武明は、テレビやゲームばかりをしていた時期もあったが、途中からは本を読むことを覚えた。時々表に出て行くこともあったが、その時毎回のように立ち寄ったのは本屋だった。雑誌を買うこともあれば文庫本を買うこともあった。時には手に持ちきれないだけの本を買い込んで帰ることもあったくらいで、読書に熱中した時期があった。
もちろん、人との会話がない分、本を読むことで自分の欲求を満たしていた。人間というのは、人と会話をすることが大きな欲求であるということを、引きこもってから初めて感じた。
――欲求って何なんだろう?
欲を満たすことであることは読んで字のごとしである。
――欲――
食欲、性欲、支配欲……、世の中にはいろいろな欲が存在する。
そのうち、自分に存在している欲が何なのか考えてみる時間があったが、どれが強いのかと言われると、ピンとこなかった。
お腹は確かに減るのだが、腹いっぱいに食べると、今度は飽和状態が襲ってきて、この飽和状態が、本当は一番嫌だったりする。下手をすると、鬱状態に陥る可能性を潜んでいるような、どこかやるせなさのようなものを感じていた。
支配欲など、最初からあるわけではない。支配欲というと、会社の上司だったり、官僚や政治家のような権力を持った人というイメージが頭にあった。
しかし、本を読み漁るようになってから、支配欲の愚かさのようなものばかりが目立ってきた。
特に歴史の本などを読んでいると、独裁者と呼ばれる人が長続きしないこと。そして末路の悲惨さは皆共通していることから考えると、とても支配欲など持つ気にはなれなかった。
「ヒトラー、スターリン……」
もっとたくさんいるのだが、名前を挙げればキリがない。
そこまで考えてくると、一番自分の中にあるかも知れないと思っているのは、性欲だった。
性欲は女性との愛情を裏付けるものだと考えれば、人と関わることを嫌っている自分にはないような気がしてくるのだが、何も愛情がそのまま性欲に繋がるわけではない。
逆に、
――性欲があるから、愛情が生まれる――
と考えると、何も自分の欲を満たすだけの性欲には、人との関わりを感じなければそれでいいのではないかと思えてきた。
そういう意味では、今の引きこもりになった自分に、風俗というのはピッタリではないかと思えていた。
ただ、風俗に通うにはお金がいる。今の自分ではそれだけのお金を捻出することはできない。いくら親の残してくれたものがあるとはいえ、風俗に通い詰めていれば、いずれなくなってしまうことは、いくら武明にでも分かるというものだった。
しかも、性欲を求めて風俗に通うと、そこで違った感情が生まれてきて、通い詰めなければいけない精神状態になってしまうことを恐れてもいた。今までに感じたことのないほどの恐怖心が、武明の中で沸々と漲ってくるのではないかと思うと、少し怖い気がした。欲に溺れるというのは、そういうことなのだろう。
マスターが風俗に対して語り始めた。
「風俗というのは、あくまでも疑似恋愛なので、相手の女性に惚れてはいけないというのは、須藤君にも分かるよね」
「ええ、好きになってしまっても、相手はこちらを好きになることはないでしょう。もし好きになっても、苦しむだけだということを分かっているので、好きにならないようにしていると思います」
「そう、皆が皆そうではないと思うんだけど、相手は男のように欲だけで相手を見ているわけではない。そこにはもっと切羽詰まったものがあるから、男性のように猪突猛進というわけにはいかない」
「はい、もちろん分かっています。皆分かっていることじゃないんですか?」
「僕の場合はある程度割り切っているつもりなので、相手の女性に惚れるということはないけど、どちらかが好きになってしまうと、そこから先は抜けることのできない苦しみが待っているような気がするんだ。遊びだと思って割り切れるかどうかが、風俗通いの基本じゃないかって思うんだ」
「マスターはどうして、風俗の女性を好きにならないってそんなにハッキリと言い切れるんですか?」
というと、マスターは少し考えてから、
「俺の場合は、すべてを時間とお金に置き換えて考えるくせがついてしまってね。特に風俗に行くというのは、自分の中で、『お金で時間を買う』という意識を裏付けているような気がしているんだ。そういう意味で風俗通いがやめられない。他の人のように欲望が抑えられないとか、相手の女性を好きになってしまったなどということではないんだよ」
と答えてくれた。
マスターの言葉に信憑性が感じられた。
武明も、自分がマスターと同じ立場であれば、同じことを口にしただろうと思ったからだ。
――マスターも孤独ということを知っている人なのかM知れないな――
と感じた。
何でも自分の考えで割り切ってしまおうという人にとって、まわりの人は邪魔だった。集団の中に入れば、どうしても集団のルールに則って、守らなければいけない。しかし、自分の考えで割り切っている人というのは、集団のルールというものが鬱陶しくて仕方がない。守らなければいけないとは分かっているが、守ることで自分の信念を崩さなければいけないと思うと、大きなジレンマに襲われてしまう。
小学校、中学校、高校時代というのは、大人からの押し付けだ。何も分からない子供を世間一般の常識に縛ってしまい、狭い世界の中に押し込んでいる。武明は高校時代にはそんな風に感じていた。その思いをじっと胸に収めていたといってもいいだろう。
「大人になったら、自分の考え通りにするんだ」
と思っていた時期もあったが、実際にそんなことができるはずもなく、結局会社を辞めてしまう羽目になり、引きこもってしまうことになった。
今が一人で自由だという認識もない。
親が死んで少しの間は途方に暮れていたが、落ち着いてくると、自分が自由であることに気づくと、不安とは別に手に入れた自由を楽しみたいとも思うようになったのは無理もないことだろう。
さすがに風俗に通うという選択肢はなかったが、この間、偶然見てしまった中学時代の同級生を思い出していた。
その男は、中学時代、誰もが羨むほどにモテモテだった。スポーツは何でもこなし、勉強もそれなりにできた。さすがに万能というほどではなかったが、学年中の女の子から注目の的だったのだ。
そんな彼は、学生時代とは違って、完全に別人だった。
「よく気がついたものだ」
完全に見違えてしまったその男は、寒い日ではあったが、安物のジャンパーに手を突っ込んで、前のめりになり、見えているのは足元だけだと言わんばかりのいで立ちに、経ってしまった年月の長さを感じさせられた気がした。
真下ばかりを見ているのかと思いきや、時々頭を上げて、まわりをキョロキョロと見ている。明らかに挙動不審だった。
武明は彼がどこに行くのかを後ろからついて行ったが、彼は夜のネオン街に消えていった。
そこは武明が今まで入り込んだことのない場所で、そこがどういうところなのか、ウワサでは知っていたが、実際に見るのは初めてだった。ネオンサインが煌びやかで、そのくせ、通りはその通りに面した店は、いかにも貧相に感じられた。
「これがウワサの風俗街」
そう思って、男を見ていると、引き込みの男性にフラフラと連れ込まれて行った。
別にその店が目的の店ではなかっただろう。目的の店など最初からなかったのかも知れない。フラフラ歩いていて、最初に近寄ってきた男によって、その日の店が決まる。ただそれだけだったに違いない。
武明はそんな様子を見ながら、彼が消えていった後の街を見た。一人の男が連れ込まれただけで、何も変わっていない。
「殺されていたとしても、分からないだろうな」
と、物騒な発想までしてしまうほどだった。
武明もフラフラと吸い込まれるように歩いていく。
言い訳がましいかも知れないが、元々風俗に立ち寄る気などなかった。
――中学時代の同級生のあまりの変わりように茫然としている間に、いつの間にか起こったことだ――
という言い訳をしようと思えばできなくもないが、そんな言い訳はしたくはなかった。
別に風俗街に立ち寄ったことを後悔するわけでも、引き込みの男性に連れ込まれたことも、その場の雰囲気だった。
最初は、
――最後には、何もなかったことにしてしまえば、それでいいんだ――
と思いながら、武明は連れ込まれるまま、店に入った。
受付で、ボーイのような男が、
「ご指名は?」
と言いながら、女の子の写真を見せてくれた。
別に好みを選ぶ必要もないと思っていたのでお任せにして、待合室で待つことにした。他に客は誰もおらず、それは武明にとってありがたいことであった。きっと目のやり場に困ったはずだからだ。
すぐに、
「用意ができました」
と言って、さっきのボーイが待合室に現れた。十分ほどの時間だったと思うが、それが長いのか短いのか分からなかったが、武明にはちょうどいい時間に感じられた。
――あれだけボーっとしていたのに、今のこの胸の高鳴りはなんなんだ?
と感じていた。
ただの性欲を満たすだけの場所に来ただけのことなのに、どうして胸が高鳴るのか、自分でもよく分からなかった。
相手をしてくれる女の子と対面を果たすと、自分でも信じられないことが起こった。何とニッコリと笑顔になっているではないか。
その笑顔は今までに感じたことのないものだった。
――笑顔というのは、相手の木を引くために、意識してするものなんだ――
としか思っていなかったが、その時は相手の顔を見たとたん、無意識に笑顔になっていたのだ。
部屋に通されると、思ったよりも狭かった。
――これじゃあ、自分の部屋の方が広いじゃないか――
と思ったほどだった。
そう感じると、さっきの笑顔になった気持ちが急に冷めてきた。なぜならその時に感じたのが、
――やはり、やるだけの場所なんだ――
と感じたからだった。
しかし、そんな狭い部屋でも女の子は狭い場所で一生懸命に動いている。いろいろ用意をすることもあるのだろうが、まずは、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して入れてくれた。
「はい、どうぞ」
ただの冷えたお茶というだけなのに、ホッとした気分になった。
――ここに来てから少ししか経っていないのに、これだけの気持ちの変化はどういうことなんだ?
いいこともあれば、冷めてしまうようなこともある。
しかし、何もないよりも明らかに楽しいというものだ。
武明には正直性欲は抑えているものだった。初めての風俗に心躍らないわけはない。女の子の献身的な態度にも好感が持てた。
しかし、実際に果ててしまうと、思っていたとおりの虚脱感から、罪悪感のようなものがよみがえってきた。
「よみがえってきた」
というのは、武明は何かがあった時、いつも何かがよみがえってくるという意識を持っていたからだ。それがどんな感覚なのか、その時によって違っている。しかし、
「よみがえってきた」
という感覚は、ずっと持ち続けたような気がする。
だから今度も脱力感を感じた瞬間から、何かがよみがえってくるということを意識していたのだった。
だが、その思いは後悔ではない。
「行くんじゃなかった」
という思いを持っているわけではない。
確かに、使ったお金に比べれば、本当に満足できたのかということは言えないかも知れない。武明にとって何かを失うということは、それに対しての代償があることを前提としていた。
だから逆も言える。
「何かを得るということは、その代償に何かを失うということだ」
という考えであった。
使ったお金が返ってくることはないが、それに見合うことは必ずあると思っている。それでなければ詐欺と言ってもいいだろう。
武明は、今回の風俗で使ったお金も同じだと思った。
最初は、フラッと何を考えていたのか分からないうちに、引き込みの男性に連れ込まれたのだ。
――このままなら後悔する――
と思いながらも、その場の雰囲気に身を任せてしまった。
きっと興味があったからに違いないが、実際に待合室で待っている間に心地よい緊張が溢れてきた。
正直、
「店に入ってから出てくるまでに一番心地よかった時間はいつか?」
と聞かれると、
「待合室にいた時間だ」
と答えるだろう。
それまで期待しながら、その裏に潜む後悔も覚悟していた自分が、待合室で待たされている間に後悔は期待に打ち消されていたようだ。
「風俗というのは、性欲を満たすところ」
というのは分かっていた。
それまで武明は彼女がいたこともあり、セックスも経験があった。しかし、決まった相手と過ごす時間の中でのセックスと、今ため込んでいるかも知れない性欲とでは違うものに思えてならなかった。
武明はそれ以降、風俗に出掛けたことはなかったが、たまに出かけてみたいと思うこともあった。だが、それよりも、今は老人を庭から見ている方に興味を覚えていた。これは性欲に勝る何かがあるからに違いないのだが、それが何なのか、武明にもハッキリと分かっていなかった。
武明が自分の経験を思い出していると、マスターも少し言葉を発せずにいろいろ考えているようだった。
「杉下さんはEDで悩んでいる時期もあったので、余計に性欲というよりも、疑似であっても恋愛に興味を示していたんでしょうね。でも、彼はこちらの心配をよそに、彼の方から好きになることはなかったようですね。馴染みの女の子もいたようですが、結構フリーで出かけて、なるべくいろいろな女の子の話を聞きたいと言っていましたからね」
「なるほど、杉下さんらしいというところでしょうか?」
「男というのは、口では性欲よりも楽しく話をしに行っていると言い訳がましいことを言いたいようなんだけど、杉下老人はそんなことはなかったですね。それが女性にも伝わるのか、風俗以外の女性からモテるようになったようなんですよ」
「モテると言って、どこでですか?」
「この店には、結構一人で来られる女性客もいるので、杉下さんはそんな女性の中で人気があるんです」
「杉下さんは、そんなに何度もここに来ているんですか?」
常連のはずの自分が一度も会ったことがなかったのは、少し不思議だった。しかし、その理由もすぐに分かった。
「須藤さんは、朝が多いでしょう? 杉下さんは、夜が多いんです。うちの店は、夜になると、スナックのようなこともやっているので、その時間帯に来られるんですよ」
「そうなんですね」
この店が夜はスナックになるのは知っていた。しかし、喫茶店として利用している店がスナックになったとしても、それは武明の意識の外のことだった。それこそまるで他人事のようだった。
「マスターは夜も?」
「ええ、毎日というわけではないんですが、時々入っています。元々、スナックでやっている時間に最初、入ってこられたんですよ、杉下さんはですね。でも、最近はほとんど喫茶の時間が多いですね。日が暮れてから、一時間くらいの時間がほとんどです」
杉下老人の家で、夜に電気が消えている時があったが、なるほど、ここに来ていたということなのだろう。
「夜の時間帯は、昼の探知タイムからの女の子が入ってくれることが多かったのですが、そんな女の子から杉下さんは人気がありました」
「どうしてですか?」
「杉下さんはああ見えても博学で、特に雑学関係には結構暗しいらしく、女の子との話題には事欠かなかったです。そういう意味では、スナックの時間帯よりも、杉下さんと女の子の会話の方が盛り上がっていたりしたくらいですからね」
「杉下さんは、会話術にも長けていたんですね」
「ええ、見た目無口に見えますが、ひとたび口を開くと、話題は次から次ですよ。孤独を知っている人は、会話を欠かさないという意識があるんでしょうね」
今の話で二つのことが分かった。
――杉下という老人は、孤独を知っているだけに、人に気を遣って、会話を欠かさないように心がけるような人だということ。そして、話題に事欠かないようになるには、それだけ自分の好きなことに集中できるということではないだろうか――
後者は完全に想像だが、雑学が得意だということは、人との会話で相手に気を遣わせないようにするためではあるが、好きだと思っていないと、なかなか覚えているのも難しいことだ。一度興味を持つと、その奥深さに魅了されてしまうということであろうか。
孤独を抱えている人は、少なからず誰かに対して妬みであったり、時として恨みを持っているものだと思っていたが、杉下老人も例外ではないと思っている。それなのに、人に気を遣う面も持っているということは、二重人格性を持っているということだろうか?
そう考えると、孤独を抱えている人の多くは、二重人格性を持っているのではないかという考えに至ったが、飛躍しすぎであろうか。
武明は自分を顧みてみた。
――俺は、人に妬みのようなものは感じないが、恨みに近いものを感じているように思う。しかし、人に気を遣っているという意識は一切ない。だが、二重人格性は自覚しているので、もう一つの自分の正体が今もって分かっていないことにもどかしさを感じている――
と思っていた。
しかし、自分の好きになったことには必死になって一生懸命になったという記憶はある。ただ最近は、一生懸命になれるものが見つかっていない。だから引き込んでいるのだろうが、だからといって、一生懸命になれるものがないことで焦っている感覚もなかった。
――不安が漠然としているので、それが一生懸命になれるものがないことへの焦りの代わりなのかも知れない――
と考えたこともあったが、すぐにその思いは忘却の彼方に消えていった。
不安というものは、漠然としているせいか、すぐに慣れてきた。しかし、慣れてくることで、永遠に忘れ去ることはできないものであった。
不安に対して、その原因について考えたことはすぐに忘れてしまうのに、不安を感じたという感覚そのものは、決して消えることはないのだ。
武明は絶えず自分のことばかり考えていた。それは自分中心に考えているということであり、まわりを意識していないわけではない。そのことを分かっていなかったということが、自分の中に孤独を残してしまった原因だと、最近になって分かってきたのだ。
自分のことを考えるということは決して悪いことではない。
子供の頃から、
「自分のことだけではなく、まわりのこともちゃんと考えなさい」
と言われて育ってきたことから、自分のことを考えることに対して、ついつい、
「悪いことなんだ」
と考えるようになってしまったようだ。
しかし、
「何事も自分が満足できないことを、他人が満足できるはずはない」
という考えを持っていたはずなのに、どうしても、子供の頃に言われた思いが頭をもたげ、
「自分のことばかり考えていると、結局は孤立してしまうのだ」
ということを、途中のプロセスを考えずに決めつけてしまったことが、自分蔑視の考え方に結びついてしまい、人から何かを言われるたびに、自虐的な考えが生まれてくることで、次第に孤立してしまうのだと思うようになっていた。
「杉下さんは、確信犯的なことは嫌いな人だったな」
と、マスターは話した。
ここでいう確信犯というのはどういうことなのか? 少し考えてみる必要があるような気がした。
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