第12話

「父上、何故先程から母上の私室前を彷徨いておられるのです。もしや、また母上のお怒りを買ったのですか? 少しは学習して頂きたいものですね」


 いつもより遅くに帰宅したアークが自宅で目にしたのは、母の部屋前で何やら挙動不審な父の姿だった。

 既にナイトウェアに着替えており、何か籠を手にして部屋へ入るでもなくノックするでもなく、ただ悪戯に行ったり来たりしている。


 数週間前に、母が家出をした。


 良妻賢母、アークにとって理想の体現者だった母だが、母も人間だったのだ。

 そう、理想など所詮はまやかし、現実は都合が良いだけの人などいない。


 母にだって母の人生があり、人間らしい欲求もあるものだ。

 今までが自分たち子どもの為に尽くし過ぎてくれていたと、母からの手紙を読んで痛感した。


 父が気付かなかったとしても、一番近くに居た自分たち子どもが気付いて行動すればよかったのだ。母が無理をして笑っていると。


 用意周到に自立の手筈を整えて家出をした母は、やはり賢母だと思った。

 子どもに迷惑をかけぬよう、己の身は己でなんとかしようと準備万端で第二の人生を謳歌されるのだと、そう思ったのに――


 何故か、母は再び父と共に我が家へと戻ってくれた。


 父の謝罪を受け入れたのだろうか?

 そも、父は謝罪をしたのか?

 帰宅した時にラタムと2人してそれとなく伺ってみたが、詳細は父母共に笑って誤魔化されてしまった。


 しかし、母が戻ってから、父の様子がおかしい。

 いや、以前の方がおかしかったのかもしれない。

 最近の父は、まるで思春期の少年の如く、もどかしくも拙い行動で母への愛を表している。


 想いは表に出さなければ、秘めたままでは伝わらない。

 抑えても溢れ出る愛情とは、結局抑えられていないから溢れて表に見えているのだ。


 母の愛情に胡坐をかいて安心しきり、愛を分かり易く伝える努力を怠った父。

 どうやら一途に母だけを想っていたのは事実らしい(父と長い付き合いの執事に確認済みである) 

 安心しきって胡坐をかいた父が、母を連れ戻す事に成功してからは大きく変化した。変化したのだが……


 冷たいアークの声音に、キュラス伯爵は一瞬肩を揺らしてアークの方を振り向いた。

 母の部屋へ、どう声をかけるか迷う事に集中しすぎて、アークの存在には声をかけるまで気付かなかったらしい。


「アークか、今日は遅かったのだな。その、なんだ、フランの好きなワインを取り寄せていたんだが、やっと届いてな。

 いや、最近はフランもメルバ夫人との事業で忙しくしているから、遅くまで私室で仕事をしているようだ。

 なに、寝酒に楽しもうと誘おうか、今夜もまだ寝室へ来ないで仕事をしているのなら邪魔だてするのもどうか、とな」


 言い訳がましく話す父の様子から、子どもには見られたくなかったのだろうと分かる。母の関心を惹こうとあれこれ策を練っているのも分かる。怠慢な愛(愛と呼べたのか? 愛情と献身の搾取だったのかもしれない)からの脱却を図ろうとしているのも分かる。

 分かるのだが、もう少ししっかりしてくれ! と叱咤しそうになる気持ちをアークはぐっと堪えた。


 今までの父は伯爵家の当主らしく、自信に満ちた態度を家でも崩さず母に対して尊大だった。

 母はといえば、そんな父を上手く立てて何かあれば淑やかに微笑み、父の言う通りに物事を進めてきた。


 しかし、子どもが大きくなり、手に職を持った母は強かった。

 いや、元々強い人だったのか、強くならざるを得なかったのか。


 とにかく、母は、父の言葉ではなく、自分の言葉で人生を動かし始めたのだ。

 これまでなんでも淑やかに頷いてくれていた母の変化に、父はどうしたらよいものかと絶賛悪戦苦闘中の様子。


 アークは、溜息一つついて口を開く。


「もう随分遅い時間です、母上もそろそろ休んだ方が良いのでは? おやすみの挨拶に留めて、次の約束とするのも良しかと」


 言いながら、まだ迷っている父の隣をすり抜けて、母の私室をノックする。

 一呼吸置いて、室内から応じる声がした。


「母上、アークです。今戻りました。失礼します」


 ゆっくりドアを開けると、眼鏡をかけた母が就寝前の姿で書類をめくっていた。

 アークが入室するのを見て、優しく目を細めながら書き物机に書類を置いた。


「あらあら、今夜は随分と帰宅が遅くなったのね。ふふふ、やっぱり王宮の近衛隊専用宿舎に居てくれても良いのよ? その方が身体が楽でしょうし、今まではそうしてたまの休みに帰宅してくれていたでしょう?」


「母上、私が戻りたくてしているのです。

 今夜は少し仕事が長引いてしまいましたが。

 それよりも、父上が忠犬のように入室せず『待て』をしておられました。私はもう休みますので、これで失礼します。おやすみなさい、母上」


「あらあら、ふふふ。ありがとう、アーク。あなたは本当に優しい子ね」


 嬉しそうに瞳を細めて眼鏡を外すと、フランはゆっくり立ち上がった。

 退出しようとするアークと入れ違いに、フランの私室へと入るキュラス伯爵を手招きして、その手にした籠を受け取りサイドテーブルへと置く。

 キュラス伯爵が気遣わし気に優しく妻へ語り掛け、フランも目元に幸せそうな皺を刻みながら応える。


 仲睦まじく談笑する父母を見やって、アークはそっと部屋の扉を閉めた。


 

 全く、父上も仕事に関しては尊敬出来る所もあるのだが……母上の事となるとこうも鈍くなるのか。

 いや、確かに、父と付き合いの長い執事からは、若かりし頃の父母の様子を多少は耳にしている。それはそれは見ているこちらが恥ずかしくなるような惚れこみようだったと。

 アークにとっては、幼い頃から見ている父の様子との違い様に、半信半疑だった。それが、今はどうだ?


 母が家出から戻った日に、アークは近衛隊の宿舎を出て、当分の間自宅住まいをすると決めた。

 折角戻ってくれた母へ、父が再びやらかしてしまわないかと危惧したからだ。

 ラタムは学院の寮が遠い為、在学中は勉学に励むようにと言い含めて説得した。本当なら、ラタムも自宅に戻って暫くは母を労わりたかったようだったが。

 しかし、思いの外、父は努力を重ねているようだ。

 長い間『言わずとも分かってくれているだろう』とサボっていた事は、すぐには出来ない。

 だが、少しずつでも確実に、両親の間に暖かく穏やかな愛情の息吹が吹き返していると感じられた。


 しかしどうにも解せぬ。何故、父はああも母へ連れない態度をとれたものか。それ程に愛していたのならば、何故、ああも放置していたのか。いくら安心しているからといって、愛は義務ではない。義務ではないから愛なのではないか。

 アークには、まだ分からない。

 ため息一つ零して、父の薄情な愛情を考える事を止めた。


 母の私室から離れ、自室へ向かいながら思う。

 それにしても、今の父は不甲斐無い。

 想っている事を受け入れてくれた相手へ伝えるだけなのに、それはそんなに難しい事なのだろうか?

 一度は互いを自分の最も深い部分まで受け入れて晒したのだ。夫婦なのだから。それが、何故、ああして再び初心な付き合い始めのようになってしまったのか。


 まだ、燃え上がるような愛を感じた事も受け入れた事も無いアークには、分からない事だった。

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